来たるべき変調




こんな筈ではなかった。

「っふざけんのも大概にしろよなぁ・・・!」
「謝花くんこそ・・・!何考えてるの・・・!」

普段と変わらない穏やかな休日を三人で過ごしていたつもりが、何故こんなにも険悪な雰囲気になってしまったのか。
戸惑いのあまり梅ですら狼狽えることしか出来ない空気の中、二人は互いの主張を手に一歩も引かず睨み合っている。

「ピアノを弾く手なんだよ?!それにもし、喧嘩して何かあったら・・・!」
「んなこと関係無ぇんだよなぁ!!」

妓夫太郎が一際大きく声を張り上げると、正面に立つの肩が目に見えて跳ねた。
余裕が無い為か距離を詰めた妓夫太郎の視線は、今日に限っては彼女に対しても容赦が無い。
これには流石に黙っていられず梅が声を上げた。

「お兄ちゃん!」

やり過ぎだと妹に咎められ、妓夫太郎は強く下唇を噛む。は深く俯き、表情が読めない。

「お前っ・・・お前に、もし、」

お前にもしも何かあったなら。
しかしその言葉は最後まで続かない。

震える肩をそのままに顔を上げたの頬に光る大粒の涙、そして至近距離で悲しみを訴える彼女の瞳は、妓夫太郎の時を完全に止めてしまう程の威力を伴った。

「―――っ謝花くんに何かあったら、私どうしたら良いかわかんないよ!!」




* * *




一睡も出来なかった月曜は辛い。
練習室に一人、妓夫太郎は重苦しい溜息を吐き切り頭を抱えた。

当たり前の様に学内で二人でいる時間が増え、そこに休日梅が加わることで更に長く隣にいることが日常となってから随分と経つ。決定的なことは何も起きず、二人の関係性も何ひとつ変わらず。ただ嬉しそうなの隣にいられる現状に満足しきっていた最中、昨日の騒動は起きた。

三人揃って出かけ、とある大きな駅で降りた瞬間に彼女の肩にかけたバッグが対向の男の抱えた三脚と接触し、危うく転倒するところを寸前で踏み止まった。そこまでは際どくも許容範囲だったものを、相手の男が明確な悪意と苛立ちを持っての背を押した瞬間、妓夫太郎の血管は見事に切れた。
男を引きずり下ろし振り上げた拳を彼女が懸命に止める意味が理解出来ず、梅が助けを求めた先の駅員達により強引に引き離されるまで男と妓夫太郎、そしての争いは続いた。男が彼女を突き飛ばしたという目撃者が多数だったことに加え、が身を挺して妓夫太郎に男を殴らせなかった為咎めは男一人が負うこととなったが、そこから雰囲気は坂道を転がり落ちるかの如く悪化し決裂へと至る。
何故止めた、何故大事な手を危険に晒したと、相容れる事無き口論は熱を上げやがての涙と共に鎮火したが、同時に走り去る彼女を止められなかった為関係修復には至らなかった。

これまでもの涙は見た事がある。
しかし、これ程まで明確な決裂によりはっきりと“泣かせた”ことはどう考えても初めての失態であり、自己嫌悪と苛立ちに寝返りを打っている間に朝が来た。
幸か不幸か講義の無い月曜に重い身体を引きずる様に登校したまでは良いものの、何処にいるかと普段であれば当然の様に来る筈の連絡が無い。
こちらから連絡をするべきか、何が最善か。熟考を重ねた末、妓夫太郎は勢い良く練習室の窓を開け放った。
そもそも講義の無い日にが構内にいるかも不明瞭な中賭けでしか無いが、いつか練習を約束しなかった日にこの手を使い会えた前例がある。何でも良い。まだ間に合うのならこれが最善と信じ、妓夫太郎はピアノの前に座った。




* * *




正直なところどれも気の入った演奏とは呼べず、何曲消化したかも定かではない。
しかしエルガーのニムロッドが中盤に差し掛かった瞬間、扉は外から開いた。
瞬間走った緊張に気付かぬふりをして手を止めない妓夫太郎へ向かい、控えめな足音は一歩一歩近付いて来る。
すぐ斜め後ろで立ち止まる気配はどう考えても彼女のものだ。それを実感した途端に妓夫太郎の手は止まった。

何と切り出すべきか。ほぼ無意識に空けた椅子の右側、定位置にが迷いなく座ったことで二人は漸く普段の呼吸を取り戻す。触れそうで触れないお互いの肩が、じわりと熱をもった気がした。

「助けて貰ったのに、ごめんなさい」
「・・・俺も、脅かし過ぎた」

恐る恐る目を合わせた先のは、気まずそうな顔をしていたが昨日の様な憤りは感じられず。
ただ、腫れた様な目元に薄い隈を見つけた瞬間に妓夫太郎はチクリとした痛みを覚える。



『あの時言いかけたこと、最後まで言った方が良いと思う』

『お兄ちゃんも子ダヌキも何を怖がってるのか知らないけど、そういうの見ててなんかモヤモヤするのよね』



脳裏に響いたのは、妹の声だった。

「悪ぃが、先に言っとく」
「え・・・?」

譲れることならいくらでも譲る。
妥協の許せることならいくらでも折れる。

「俺は同じことがありゃあ迷わず割って入るし、相手が抵抗すんなら再起不能になるまでぶちのめすぞ」

しかし、これだけは曲げない。曲げることなど、出来る筈が無い。
一晩考え抜いた末の決断だった。

「俺の手だろうが腕だろうが、最悪を防げんなら喜んで潰す。その道を進む自覚が無ぇって軽蔑されても良い。顔も見たくねぇならそれでも良い。お前にどう思われようが、俺の考えは変わらねぇし変えるつもりも無ぇからなぁ」

もう二度とを喪えない。
決して繰り返さない為に妓夫太郎はこうして今を生きている。
故にこれはどうあっても譲れない。例え、それにより彼女の心が離れようとも。

何も知らないに一切の説明は出来ない。
しかし半ば死に物狂いでこの道を志したことも、何も知らぬ顔をして心地の良い曖昧な関係を続けたことも、全ては彼女を守る為の手段のひとつだっただけのことだと初心を取り戻した今ならば、言える。

「―――お前にもしも何かあった時、どうすりゃ良いかわかんねぇのは俺の方なんだよなぁ」




* * *




空白の時間がどれほど続いたのか。
沈黙を破ったのは、か細く鼻を啜る音だった。
弾かれた様に隣を見遣る妓夫太郎の目に映ったのは、奇しくも傷が癒えていない昨日の再現だった。

「・・・け、いべつなんて、しないよ」
「・・・おい」
「顔も見たくないなんて・・・そんな、こと、っあるはずない」
「おい、泣くなよなぁ」

不思議と綺麗な涙は胸に詰まる。
拭っても拭い切れぬ涙と戦う様に言葉を紡ぐ姿が痛々しく、何とか落ち着かせようとする妓夫太郎の制止に応じることの無いは酷く頑なだった。

「ごめん、なさ・・・ごめんなさい、謝花くん」
「もう謝んなって、」
「嘘つきで、っごめんなさい!」

嘘つき。
その単語にギクリと身を硬くする妓夫太郎の胸中など知る由も無く、は堰を切った様にしゃくり上げながら言葉を紡ぎ続けた。

「私、謝花くんみたいに、っ優しくない・・・!」
「あぁ?」
「謝花くんに何かあったら怖い、でもっ、謝花くんに何かあったとき、一緒にいられなくなるのがもっと怖い・・・!」

不意に、強く頭を殴られた様な錯覚を覚える。

「私は・・・軽蔑されても良い、なんて、絶対言えない・・・謝花くんに、顔も、っ見たくないなんて言われたら・・・っ、本当にどうしたら良いかわかんないよ!!」

耳鳴りがする。
同時に、彼女の声は雑音の悉くを跳ね除け耳に飛び込んで来る。

「あ、私っ・・・傍にいたいの!!私何でもするからっ、一緒にいられる、なら何でも・・・だからお願い、危ないこと、っしないで欲しい・・・」

の声は最後になるにつれどんどん萎み消え入った。
しかし、それでも妓夫太郎の耳は一言一句を拾ってしまう。

「ごめんなさいっ・・・私、自分のことばっかりで、本当に、ごめ、」

横から強く引き寄せられ、それ以上の声がの中から掻き消えた。
窓の外の音が途端に賑やかさを取り戻した練習室の中、バランスを崩した細い手が鍵盤を掠め、一度だけ音を鳴らす。

何も言葉を発さない二つの影は、互いに困惑したまま暫く動かなかった。


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