鏡は全てを映し出す





梅の指がの部屋のインターホンを無駄に鳴らし続けた数秒後、またしても確認無しに扉が開く気配を感じ妓夫太郎は眉を顰めた。
病人ではなくなった彼女に対し、今日こそは言うべきことを言ってやると眉間の皺を深めた次の瞬間。

「もう。何してんのよぉ、ノロマの子ダヌキ」
「ご・・・ごめんなさい・・・!」

内側から開いたドア、その向こう側。
どうにもバランスの悪い恰好で現れたを前にして兄妹は瞬間真顔になった末、梅だけが堪え切れなくなったかの様に噴き出した。

「・・・っぷ、あはははは!!なぁにその頭!」
「うぅっ・・・!」

いつぞや淋しそうに部屋の片隅に掛けられていた、淡い水色の浴衣を纏いはその場に佇んでいた。
しかしながらその首から上はまとめ髪とは言い難い有様になっており、飛び出し放題の毛先が目の前でひとつぴょんと増えたことにより梅の笑いのツボを更に刺激する。
腹を抱えて大笑いする梅を前に赤面した彼女は、両手で顔を覆って呻いた後ひとつの決断をした。

「や、やっぱり今から美容院行ってくる!二人はここで待ってて!」
「・・・まぁ、待てよなぁ」

横を抜けようとしたの腕を、妓夫太郎が掴んだ。
未だ大笑いしている妹は桃色の浴衣に後れ毛一つ残さずきっちり纏め上げ、片やは髪型だけが様にならずあまりの羞恥で涙目になっている。
彼女たちと違い普段着の妓夫太郎にはわざわざ外見に拘る重要性が理解しかねるところではあるが、この状況では致し方ない。

「・・・自分じゃ出来ねぇんだな?」
「・・・はい」
「そのまま下ろす選択肢は無ぇんだな?」
「・・・はい」

すっかり肩を落としたは、問答を重ねる毎にどんどん小さくなっていく。
正直見ていられないと、妓夫太郎は笑い転げている妹を小突いた。

「・・・梅ぇ」
「ふふふっ・・・もう、あーお腹痛い。ほんとにしょうがない子ダヌキねぇ」

しょうがない。そう言いつつも、妹もまた自力で髪型を仕上げた訳ではないことを彼女は知らない。
さてどうするつもりかと成り行きを見守る妓夫太郎の隣で、梅は得意げな笑みと共に腕を組んで見せた。

「アタシの素敵なスタイリスト、今日だけ特別に貸してあげる」





* * *




何故こんなことになったのか。

長引いた風邪が完治し、漸く週明けから大学に行けると鼻唄交じりに洗濯物を取り込んでいた最中、復活したなら手持ち花火に付き合えと梅から妓夫太郎の電話越しに迫られたのは昨日のことだった。
当然浴衣を着て準備しておくようにと言い渡され、無駄に早起きをしてワクワクと準備をしていたまでは良かったものの、髪型のことまで頭が回らなかった点はうっかりしていたとしか言いようが無く。約束の三十分前から始めた悪あがきは見事玉砕した。
しかし、まさかこんなことになるだなんて。

スタンドミラーの前に座らされ、家主とは思えぬ置いてきぼりをくらった様な表情ではおずおずと顔を上げる。
鏡を通して背後に確認出来るのは大学の同級生であり、連弾のパートナーであり、この下心を封じるべき相手であるというだけで肩書きは手一杯にも関わらず、更にこんな特技を隠し持っていただなんて。
梅が大層誇らしげなことも大いに納得出来るが、これは完璧過ぎて反則では無いのか。
ごくりと唾を飲むの髪が解かれると共に、鏡越しの二人の視線が絡まった。

「・・・希望は」
「えっ?!い、いやいやもう何でも」
「ちょっとアンタアタシのお兄ちゃんの手借りるのに適当で済ませるワケ?!お兄ちゃん、アタシとお揃いにして。子ダヌキ、なんか可愛い髪飾り出して」

今にも気が動転しそうなこの状況で、まともな希望など纏まる筈も無い。
なるべく負担を掛けずに済むならば無難で構わないと告げようとした言葉を遮り、梅がこの場を仕切り始めた。
今日も変わらず美しい白髪は細かく編み込まれた上で綺麗に纏め上げられており、これも彼の手によるものかとドギマギすると共に、は慌ただしく両手を振って遠慮の意を示す。

「いや、そういうの持ってないから気にしないで。梅ちゃんとお揃いにして貰えるだけで信じられないくらい有難いし」
「はぁ?!飾り無しとかバッカじゃないの?!発表会の時とか一体どうしてたのよぉ!!」

思い通りにならないことへの喚きが、強烈な風圧の如く彼女を襲う。
斜めに固まったの肩を妓夫太郎が元に戻すと同時に、梅はふんと鼻を鳴らし顔を背けた。

「もう、手のかかる子ダヌキ!」
「ご、ごめんなさい・・・」
「しょうがないからアタシが用意してあげる!」
「本当にごめん・・・え?」

無いならば仕方が無い。彼女にすれば不要だった髪飾りはどうやら不可欠な物だった様で、唖然とするを置いて梅はぶちぶちと文句を言いながら立ち上がる。

「ちょ、梅ちゃん?!」
「お兄ちゃん、飾り付ける手前まで仕上げておいて。なんか買ってくるから。見つからなかったらうちに戻ってアタシの持ってくる」
「おぉ。気ぃつけて行けよなぁ」
「子ダヌキ、この貸しは大きいんだから覚えときなさいよ」

キッと険しい顔で振り返った梅の表情は、しかし一拍の間を置いて悪戯な笑みへと変化した。
あまりの愛らしさに、は制止しようとした言葉を完全に見失う。

「アタシの為だけに休みの日何日も使って貰うわよ、嫌とは言わせないんだからね!」

まるで遠慮の無い音を立て、マンションの扉が閉ざされた。
途端に静まり返る室内に二人取り残され言葉も無いを鏡越しに見遣り、妓夫太郎が苦笑を浮かべる。

「まぁ、また遊びに来いってことだろうなぁ。随分と気に入られたもんだ」
「・・・そんなの、仲良く出来て嬉しいのは私の方なのに」

梅を通した在り方やその関係性について、彼と彼女の間には決して埋まることの無い差異がある。
誰とも共有の叶わない奇跡に妓夫太郎が特別な思いを抱いているとは気付きもせず、は若干俯きながらも嬉しさに頬を緩めた。
梅は可愛い。誰がどう見てもそう思うであろう外見は勿論のこと、中身がそれ以上に可愛く思えて仕方がないほどに心の隙間に入り込んで来る何かがある。
そうして胸の奥底のくすぐったさに気を取られていたは、不意に髪を引かれる感覚に目を丸くした。

「っ、あ」

思わず、声が漏れてしまった。
櫛を手にした妓夫太郎が、びくりと手を止める姿が鏡に映る。

「あぁ?引っ掛けたかぁ?」
「いやっ・・・全然、大丈夫。ごめんなさい」

櫛を通された、それだけのことだ。
彼本人が心配する様なことは一切無く、あれだけ失敗を重ねた髪は十分に手で解されていた様で、改めて丁寧に通される櫛は一切の痛みや引っかかりも無く彼女の黒髪を梳かしていく。
自分でも毎朝髪は梳く、美容院に行けば当然美容師の手で髪は梳かれる。特別なことは何も無い。
何も無い筈が、こんなにも心臓が早鐘を打ってしまう。

「謝ってばっかだなぁ、今日のお前」
「・・・」
「まぁ気ぃ付けるつもりではいるが、痛かったら言えよなぁ」
「うん・・・」

むしろ痛いのは煩い心音の方だと焦りつつも、細心の注意を払って髪を梳かされる感覚は不思議と心地良い。
動揺と落ち着きという相反する筈のものが混ざり合い、戸惑いに揺れるの手が固くなった。

謝ってばかりだと口にされたことで、確かにその通りだと背を押された気さえする。

「あの、あのね、謝花くん」
「んだよ、軌道修正してぇなら早ぇ内に、」
「そうじゃなくて・・・ありがとう」

言うべきことは他にある筈だと、気恥ずかしさに俯きそうになる自身に喝を入れては顔を上げる。
鏡を通して目の合った妓夫太郎の手が瞬間止まったが、ゆっくりと視線を逸らされると共にその手も動き始めた。
細長い櫛の前後を入れ替え、髪が細かく編まれていく。先端に髪を割られる感覚がくすぐったかったが、跳ねそうになる肩を堪え切り彼女は懸命に口を開いた。

「看病に通ってくれたことも、お休み中のノートも」
「・・・お前にされたことをそのまま返しただけだろうが」

確かに元はと言えば彼から始まった風邪だった。
二人して同じように看病に通い、同じように講義の穴を埋め合った。

「今日のこともそう。花火大会は行けなかったけど、手持ち花火に誘って貰えて本当に嬉しくて・・・」
「・・・梅がお前を誘えってうるせぇから、」
「今、こうやってお世話になってることも」

しかし、妓夫太郎が何を理由に出したとしてもは感謝の言葉を引き下げない。
何とも言えない顔をした彼の編み込みの手が速まった。

「梅じゃねぇけどなぁ、お前今までどうしてたんだぁ?舞台にゃ定期的に上がってんだろ」
「えっと、必要な時は友達に頼んだり、美容院行ったり、あとは普通に下ろしたままだったり・・・。髪飾りは衣装とセットでほとんどレンタル」

少々気恥ずかしいことを告白するの表情は目が泳ぎ忙しない。
こうした時、目を逸らすタイミングも一緒なら目が合うタイミングまで揃ってしまうことは幸か不幸か。
内心ぎくりと身を固くする妓夫太郎の目を見たまま、彼女の頬が気の抜ける綻び方をした。

「謝花くんと梅ちゃんと一緒に浴衣でお出掛けなんて、舞い上がり過ぎて髪型自分じゃ可愛く出来ないこと、家出る直前までうっかりしてた。本当に謝花くんは私の救世主、ありがとう」
「・・・たかが公園の手持ち花火だろうが。大袈裟なんだよなぁ」

不意に彼の手が止まった。
あまり長くはないサイドを残そうと櫛の先端が髪を割り、両手が輪郭に沿って横髪を下ろす。

その際、彼の指先が彼女の頬に触れた。

確かに伝わってしまったであろう熱さは、どうあっても無かったことにはしてくれそうもない。
平常心と心の中で唱えることは逆効果だった様で、見るからに硬直したの様子に妓夫太郎も気まずそうに目を逸らした。

「・・・悪ぃ」
「う、ううん全然・・・!」

世話になっておきながら気を遣わせてどうすると、彼女は内心頭を抱えたい気持ちでいっぱいになる。
黙って手を動かす妓夫太郎に対し、何を言うべきか。手際の良さを褒めるべきか、梅の話題で繋ぐべきか。
ああでもないこうでもないと懸命に頭を働かせた時間は数秒か数分に及んだのか、それすら曖昧だった。
結果、が捻り出した話題とは。

「っ謝花くんは、次の曲何が弾きたい?」

結局のところ、二人を結ぶものへと帰結した。
明日から漸く日常へと戻るにあたり、確かに話し合うべきことに違いない。
しかし、これには妓夫太郎が怪訝そうに小首を傾げる。

「いつも通りお前が決めりゃ良いだろうが」
「私は謝花くんと一緒に弾けるなら何でも!」

普段は圧倒的に希望を出すことの多いが選曲を委ねるとは珍しい。
そうして自然と口に出た妓夫太郎の問いに対し、用意された回答は殊の外熱意がこめられたものだった。

「謝花くんの伴奏が、夢の中に出てくるくらい頭に残ってもう大変なんだよ。特にフォーレのドリーだけど、今色んな曲が私の頭の中では全部謝花くんの伴奏に書き換えられてるの・・・!」
「はぁ?」
「ベッドの上で主旋律の指が動いちゃうくらい、もう、一緒に弾きたくて、弾きたくて・・・!」

それは抑圧されたからこその思いだった。
看病中度々せがまれる演奏に対して彼の返答は一貫し、セカンドピアノに徹した音ばかりが届けられた。
隣に座りたくば早く治せ。
その意図は十分に伝わりも回復に努めたものだが、同時に途方も無い渇望を与えた。
音楽的な相性の良さ故か、それとも別の感情か。
今のにとって日常に戻ることの最優先事項は、彼との連弾だと言っても過言では無い。

「だから、どうでも良い訳じゃなくて、何でも弾きたい。謝花くんの隣に座れるなら、私何でも・・・!」

何でも、何曲でも。
彼の隣にいられるならば、それだけで―――。

その刹那、鏡の中の自分の表情が目に入り、の口が閉ざされた。
自身ですら一歩引いてしまう、宝物を前にした子どもの様な顔。
流石にこれは、前のめりが過ぎるのではないだろうか。
恐る恐る上げた視線の先、当然待つのは若干困惑した様な青い瞳だ。
は見る見るうちに小さくなり、視線を落とした。

「ご、ごめんなさい・・・勝手に語っちゃって」
「・・・別に」

決して失えない大切な居場所を守る為、下心は封印することを決めている。
しかし鏡に映った自分の顔を見て、この気持ちを隠し切る自信が消失していく心細さを感じてしまった。




* * *





「・・・こんなもんか」

沈黙がどの程度続いたのかは定かでは無かった。
明確に大人しくなってしまったの髪を仕上げ、妓夫太郎が静かに完成を告げる。

「あっ・・・ありがとう」
「仕上げがまだだけどなぁ」

完成手前の形を前にしたは驚きと喜びに目を丸くしてはいるが、何処かぎこちない。
妓夫太郎は薄く溜息を吐き頭を掻いた。
確信は無いものの、この鏡が彼女に良くない作用を及ぼしていることが、分かってしまう自分がいる。
面倒ではあるが、仕方がない。

「こっち向け」
「え?」
「前のバランス見るからなぁ。早くしろ」
「あっ、そっか。お願いします」

大人しく鏡に背を向けたと向かい合う感覚は、普段と違う装いの為かどうにも落ち着かない。
前髪に櫛を軽く入れて流しつつ、極力彼女の目は見ないことを心掛けながら妓夫太郎は口を開いた。

「選曲の話だけどなぁ」
「え・・・?」
「突然言われてもなぁ、即決は難しい」
「あ・・・そうだよね、突然丸投げじゃ困るよね」

の声色が曇った。
違う、そんな声を聞きたかった訳ではない。
時計を見上げ、妓夫太郎は頭の片隅で妹が戻ってくるであろう時間を弾き出す。

「梅を待つ間、頭だけ合わせて良さそうなやつで決めれば良くねぇか」
「・・・」
「まぁさっきの口ぶりからすると、大体決まってる気もしなくもねぇが・・・」

妓夫太郎は、これ以上余計な欲を出さないことを決めている。
望んだ以上の現実を手にした今、何かひとつでも欲をかけば大事な何かを取り溢してしまう気がしてならない為だ。
十分過ぎる程満たされている、これ以上は何も欲しくはない。
日々自身にそう言い聞かせる頻度が増えていることもまた、否定出来ない現実だけれど。

しかし、が暗い顔をしていることは見逃せない。
これは一歩踏み込むこととは違う、余計なことを望むこととも違う。
課せられた責務の様なものだと懸命に頭に叩き込みながら、妓夫太郎は櫛の先端での前髪の延長線を輪郭沿いになぞる。

「・・・今から?」
「おぉ」
「学校じゃなくて今、合わせてくれるの?」
「だからそう言ってんだろうが」

言われたことを、漸く理解したのだろう。
邪魔な鏡が取っ払われ、自身では確認出来なくなった表情を緩め、その瞳が輝く。

「―――嬉しい。すごく嬉しい、ありがとう・・・!」

ああ、この笑顔が見たかった。

思わず妓夫太郎の眉が若干下がる。
余計なことは考える必要が無い、はこれで良い。
音楽に夢中な彼女の隣にいられるのなら、それだけで構わない。

「・・・病み上がりがはしゃぎ過ぎんなよなぁ」
「だって本当に嬉しくて・・・あっ、楽譜いくつか出すね!!」

こうしてはいられないと、は隣のピアノ部屋へと駆け出していく。
その背を追うべく、妓夫太郎は苦笑混じりに櫛をテーブルへと置いた。


BACK Top NEXT