不完全な組曲





「・・・うそ」

ドアノブに手をかけたまま掠れた声で呆然と呟くは、どこからどう見ても頼りない。
インターホンが鳴ってからモニター越しにもドア越しにも相手を確認せず、チェーンも無しにすんなりと扉を開き、服装は当然寝間着だ。あまりの不用心さに頭痛を覚えてしまい、妓夫太郎は眉を顰めて頭を掻いた。

「言いてぇことは、色々あるけどなぁ」

正直改善させたい点が山積みだが、それらを全て棚上げ出来る程に彼女が今具合が悪いことを知っている。加えて、その目が明らかに泣き腫らしたものであることが、妓夫太郎に苛立ちより大きな動揺を強いた。
目尻に浮かぶ涙の理由は高熱の為か、それとも今日の予定をキャンセルにしてしまった為か。どちらにせよ堪らない気持ちになり、妓夫太郎は溜息交じりにの頭に手を置いた。

「・・・泣くなよなぁ」
「うっ・・・あ、うん・・・ごめん」

彼女は慌てて、鼻を啜りながら目尻を乱暴に擦った。




* * *




「えー?!子ダヌキ今日来れないの?!」

時間は少々遡る。不満一色な妹の声に、妓夫太郎は困り果てた溜息を吐いた。
梅が子ダヌキと呼ぶ彼女と距離を詰める速度は目を見張るものがあり、妓夫太郎が風邪から回復する前には花火大会に行く約束を取り付けていた。
妹が無理を言ったのではないかと確認したところ、そんな心配は一切無く楽しみだとは笑っていて。三人一緒に行けるのかと期待を込めた面持ちで問われてしまったものだから、流されるまま頷き今日に至る。
当日になり、入れ違いに体調を崩したから謝罪の電話が掛かって来た瞬間、頭のどこかでやはりと苦い思いがしたものだ。

「具合が悪ぃんだと」
「あ・・・お兄ちゃんの風邪」
「・・・多分なぁ」

ピークだった土日を含め、完全復活まで度々通ってくれた彼女に風邪が移ると考えなかった訳ではなかった。同居家族の梅が元気なあたり、には災難を押し付けてしまい申し訳無さが募る。
つい今しがたの電話越し、涙声で何度も謝罪の言葉を口にする彼女に対し、謝りたいのはこちらの方だと幾度感じたことか知れない。

「梅に謝っといてくれって言ってたぞぉ」
「そんなことより、子ダヌキ一人で大丈夫なの?お兄ちゃんの風邪貰ったなら熱と喉が腫れて結構大変な筈だけど」
「・・・あぁ?一人だぁ?」

梅は本心からを案じている様であったが、妙な違和感を感じ妓夫太郎は小首を傾げた。会話がどうも噛み合わない気がする。

「そりゃあ誰もいないでしょ。一人暮らしなんだから」
「・・・」
「・・・えっ?嘘でしょ、何で知らないの?」

逆に問いたい、何故梅が知っているのか。妓夫太郎は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。




* * *




結論として梅は部屋番号を含めたマンションの住所だけでなく、彼女の家族構成や音大進学を機に一人暮らしに至った経緯まで把握しており、女子同士のコミュニケーション能力の高さに妓夫太郎は衝撃を受けた。
付き合いの浅い梅があっさりと引き出した情報すら妓夫太郎はについて何も知らない。知らずとも、音楽で強く繋がった関係に満足していた結果かもしれず。
毎日行動を共にし週末電話までしておきながら、一体今まで何を話していたのかと逆に梅から問われた際、改めて回想するとほぼ音楽のことしか話していなかった事実に辿り着く。
無論、彼女が楽し気に楽曲について語るのを止める気が無い為である。妹は表面上を音楽バカと称したが、同時に感心している様でもあった。
兎にも角にも、放っておくべきではないと妹から強引に背中を押され、話は冒頭へと繋がる。

夢か幻覚の如く唖然と妓夫太郎を見つめていたには、梅から住所を聞いたと説明することで漸く実物の信頼を得た。
散らかっているだの何だのと慌てふためく病人を宥め、実際には綺麗に片付いた部屋へ踏み込み彼女をベッドへ押しやるまでには数分を要してしまった。

部屋の隅に、淡い水色の浴衣が掛けてある。
体調がいつから優れなかったのかは不明だが、が直前まで何とか約束を果たそうとしていたことは伝わった。
明確に腫れた瞼、赤く染まった鼻周り。電話を切った後相当に泣いたであろう、涙の跡が色濃く残る顔を直視する度胸の内に棘が刺さる。
最早隠し通せないと悟ったのか、ベッドの上で上半身を起こしたまま黙って鼻を啜るに対し、妓夫太郎は近くのティッシュ箱を掴みそのまま押し付けた。

「・・・こんなことで泣く奴があるかよ」
「だって・・・すごく、楽しみに・・・してたから」

言葉を詰まらせながらティッシュ箱を抱えるは、発熱も影響している為かまるで子どもの様だ。
楽しみにしていたのにと小さく繰り返すその口元が、不意に固まる。
丸く見開かれた黒い瞳が、大きな戸惑いと共に妓夫太郎へと向けられた。

「・・・謝花くん、どうして今ここにいるの?」

何故、今、ここにいるのか。
その問いが意味することに気付けぬ筈が無い。
まさに今頃は予定通り、花火を盛り上げる祭が始まっている筈だ。

「安心しろぉ、梅は別の奴らと行ったからなぁ」

彼女の不参加に不満と心配顔をしていた梅は、しかし行かなければ子ダヌキが気に病むと独り言ちながら手頃な女友達に声をかけ家を出た。
成程、妹の判断は正しかったと言える。しかしの表情は安堵と納得には至らない。

「・・・謝花くん、は・・・」

今その追い打ちをするのか。
妓夫太郎は何とも言えない顔で頭を掻き、何度目か知れない溜息を吐く。
行ける筈が無い。梅が連れて行けとせがむなら話は別だったが、この状況であれば意味が無い。

「元はと言やぁ、俺の風邪移しちまった訳だしなぁ。大した役には立たねぇんじゃねぇかと思ったが・・・」

妹に強引に背を押されたというのは建前だ。
電話の向こうの涙声は、例え彼女が一人暮らしであることや住所を知らなかったとしても、何とか出来ないものかと妓夫太郎に焦らせるには十分過ぎるものだった。
直接目の当たりにしたの涙は、当然気分の良いものでは無い。しかし、放ってはおけないと強く思う。

「まぁ・・・一人でびーびー泣かせとくくらいなら、来て正解だったかもなぁ」

数秒空を彷徨った手のひらが躊躇いの末、揶揄う様に彼女の頬を掠める。
若干熱を持った滑らかな肌は、瞬間触れただけでもわかる程に涙の名残で湿っていた。
まったく仕方の無い奴だ。そんなことを小さく呟きながらも、彼が浮かべてしまう苦笑は優しい。少なくとも、にとっては誰よりも優しい。
震える口元で緩く下唇を噛み、は新たに引き出したティッシュを目元に押し当てた。

「もう・・・謝花くんが優しすぎて、私の涙腺ゆるゆるだよ」
「おい。ふざけんなよなぁ・・・俺のせいかぁ?」
「ちがっ・・・わないかもしれないけど、ちがう」
「まともに受け答え出来てねぇじゃねぇかよ・・・」

鼻を啜るは首を振った末、膝の上のティッシュ箱を布団ごと抱えたまま熱い溜息を零す。
視界の端に袖を通せなかった浴衣を映し、掠れた声が潰えた予定を繰り返した。

「花火、二人と一緒に見たかった・・・」
「んなもん、別に・・・」
「でも、謝花くんが来てくれたから・・・気持ち、楽になった」

ある程度、涙を零し尽くした為だろうか。
瞼は腫らしたままであったが、黒い瞳が穏やかに緩まる。
視線が絡むと同時に眉を下げた彼女に微笑まれ、妓夫太郎は今更ながら現状を実感し肩を強張らせた。

が寝起きし、一人で生活をしている部屋。
オーディオと沢山のディスクが詰まったラック。
開け放たれた隣の部屋に覗くピアノと楽譜の山。
何もかも彼女の物に囲まれた、優しい匂いのする空間。

練習で隣に座る距離感とも、大学で隣り合い歩く距離感とも違う。
少しずつ、確実に縮まっている何か。

「ありがとう・・・お見舞い、すごく嬉しい」
「・・・」
「風邪で心細くなってるのかなぁ・・・謝花くんの顔が見れて、ホッとした」

そして本人の言う様に体調も影響してのことだろうが、普段以上に好意的な笑みも、甘やかな声も、すべてが心臓に悪くて仕方が無い。
こちらを信頼しきった黒い瞳に対し、都合の良い解釈をしそうになる自身が嫌になる。

熱に浮かされた彼女を相手に、何を考えているのか。
妓夫太郎は懸命に内心で歯を食い縛り、おもむろにの額を手で覆った。

熱さは風邪による発熱、そうに決まっている。

「・・・ばぁか。良いから寝てろよなぁ」

多少強引でも構わない。前のめりに押し込むと、は大人しくぼすんとベッドへ横になった。
買って来た冷感シートを手早く額に貼り付け、妓夫太郎は自ら世話焼きのスイッチを入れることで雑念を追い払うことを決める。
眉間に皺を寄せたまま腕を組み、されるがままぼんやりとしている彼女の顔を覗き込んだ。

今成すべきは看病。何の為にここに来たのか。
そればかりを何度も頭に叩き込む。

「俺が世話になった時と似た様なもんは冷蔵庫に詰めてある」
「・・・」
「食欲あんなら適当に作ってやれねぇことも無ぇが・・・」
「謝花くん」

しかし、妓夫太郎は失念をしていた。
いくら彼が世話を焼こうとしたところで、が一番に求めるものは何か。

「・・・謝花くんの音が、聞きたい」

病人を放って、隣の部屋でピアノを弾けと言うのか。
またしても頭を抱えたくなる様な思いで、妓夫太郎は眉を顰めベッドの彼女を見下ろした。

「・・・お前なぁ」
「だめ、かな。この部屋防音だから、そこの扉くらいなら開けて弾いても大丈夫なんだけど・・・」

そういう問題では無い。
しかし、それでもは真剣な顔をして妓夫太郎に願う。

「私にとっては・・・だいすきな音が、薬よりも効くと思ったから」

―――駄目だ、敵わない。

苛立たしい様な、胸が熱くなる様な、苦い面持ちで妓夫太郎は立ち上がった。
どんな馬鹿げた状況であれ、こんなにも真っ直ぐ願われたことを跳ね除けられる筈が無い。

「フォーレのドリー、一択だ。文句は言うなよなぁ」

その楽曲名に彼女の目が丸くなったが、彼は構わず隣の部屋へと足を向ける。

「・・・謝花くん」

文句は勿論無いだろう。
しかし戸惑いの隠し切れない声を背後に感じ、妓夫太郎は立ち止まった。

ドリーは連弾の為に作られた組曲だ。一人で演奏出来る曲目では無い。
ベッドの上から唖然と見送る視線に対し、彼は振り返らずこう告げた。

「右側に座りてぇなら、せいぜい早く治すんだなぁ」
「・・・うん」




* * *




やがて隣の部屋から静かに響き始めたのは、セカンドピアノのみの第一曲、子守歌だった。
主旋律を欠いて伴奏に徹した組曲は、それでもが望んだ通りの優しい音を奏でている。
思わず指先が動きそうになる感覚に、彼女は熱い溜息を零した。

あえて隣を空けたまま弾くだなんて。
右側に座りたければ早く治せ、だなんて。

「・・・ずるいよ」

彼の隣を許されているのは自分だけだと、都合よく解釈してしまいそうになる。

は幸福な音に耳を傾けたまま、布団を抱き寄せ目を閉じた。



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