子ダヌキのワルツ



土曜の空が一段と明るい。

晴れやかな面持ちで楽譜の入ったバッグを肩掛け、駅へと向かうの足取りは大変に軽かった。
休日の音大は授業が無い分、練習室を長く使うことが出来る。金曜夕方の練習が今一歩時間が足りず良いところで終わってしまったことで、目線は合わせず明日は暇かと聞かれた時の嬉しさといったら。どうしたって浮足立ってしまう程の気持ちは、一晩経った今に至るまで一切衰える気配が無い。
まさに羽が生えたような心地で駅前広場に差し掛かった時のことだった。着信音と共にディスプレイに出た彼の名に、条件反射の様に素早く端末を耳へと当てる。向こう側から咳込む音が聞こえた瞬間、の足はぴたりと硬直した。

「えっ、謝花くん・・・だっ、大丈夫・・・?!」
「・・・何とかなぁ」
「何とかって声じゃないよ・・・!!」

掠れた声と、合間には堪え切れない咳が漏れている。どう考えても風邪だ。
鼻唄でも歌い出しかねなかった心地から一変、は眉を顰めてスマホを握り締めた。辛いのは今日会えなくなったことではない。彼の苦しそうな声を聞くと、気持ちは同調する様に不安を呼び心臓が早鐘を打ってしまう。

「・・・悪ぃなぁ」
「謝花くんは何も悪くないよ・・・練習は、元気になった後いつだって出来るんだから」

謝らないで欲しい。こんな時まで、優しさを見せる必要は無い筈だ。堪らない思いに目を伏せる。
苦しい中あえて電話をくれたことが嬉しいやら、気を遣わせたことが申し訳無いやら、胸の中で色の違う感情が酷く複雑に絡まり合う。

「今日のことは全然気にしなくて大丈夫だから。謝花くんは自分のことだけ考えて、ゆっくり休んでね。喉辛いのに、わざわざ電話くれて本当にありがとう・・・お大事に」
「・・・おぉ」

なかなか電話が切れないし、切られない。
ぐっと強く目を瞑って、の方から通話を終了させた。
数拍の空白、そして深い溜息。
身体に響くであろう辛そうな咳が、耳に残る。

「・・・謝花くん」

とうに通話の切れた端末ごと両手を合わせ、彼女はその場で祈る様に目を閉じる。
一刻も早く、少しでも彼が楽になりますように。

遂にその腕を背後から掴まれるまで、が刺す様な視線に気付くことは無かった。




* * *




楽し気に笑う声がふたつ重なりあっている。

彼にとってはどちらも等しく大切な声だが、この二重奏は一度失われてもう戻らない。今はそれぞれに存在してはいるが、交差することの無い音だ。幸せな光景だが、これは夢だと自嘲の笑みを浮かべた瞬間、妓夫太郎の意識は浮上した。

ピアノの音が、聞こえる。
未だ覚醒し切らない意識の中、妓夫太郎はぼんやりと天井を見遣る。
昨晩遅くから、急に調子を悪くしてこの始末だ。土曜の誘いを酷く嬉しそうにしていたのことを思うと、どうしたって不甲斐なさと罪悪感に苛まれてしまう。時計を見遣り、病院と薬局から戻って二時間近く寝ていたことを確認し小さく咳込んだ。

「・・・」

ショパンのワルツ第六番だ。僅かな聞こえ方からして防音の練習部屋より奏でられていることは間違いないが、体調が優れないせいで大きな違和感に気付くまでに時間がかかってしまった。

ひとつ。妓夫太郎より先にピアノを始めた梅は、とっくの昔に上手く弾けないことに癇癪を起こし音楽をやめている。
ふたつ。まさしくこの曲、別名子犬のワルツで、妹はピアノに挫折した。懐かしくなったとしても、気まぐれに弾ける筈が無い。
みっつ。このピアノの音色を、妓夫太郎はよく知っている。

俄かには信じ難い様な気持ちは、怠さを押してでも彼に現実を確かめさせようとした。
自室を出る。音が近付く。
頼りない足取りで前へ進む。更に確信が深まる。

「っあはは!子ダヌキのワルツ!」
「それを言うなら子犬だけど・・・ふふ。まぁいっか」

扉の前まで来て漏れた楽し気な声に、電流が走ったかの様に妓夫太郎の足がその場へ縫い付けられた。
二度とこの目で見ることは無いだろう。そう信じて疑わなかった光景が、ガラス窓の向こうに再現されている。
がピアノを奏で、横から覗き込む梅が楽し気に笑っていた。あまりのことに理解が追い付かないまま、その手がハンドルにかかる。音が瞬間零れ出ると共に、演奏がぴたりと止んだ。

「っ謝花くん・・・!!」
「お兄ちゃん!起きたの?」

夢でも幻覚でも無い。目の前にいるのはに違いなく、妹が彼女の隣にいることも間違いない。気を抜けば目が回りそうになる混乱の波を堪え、彼はハンドルを支えに当然の疑問を口にした。

「・・・どういう、状況だぁ?」
「お邪魔してます・・・じゃなくて!ごめんね、私のせいで起こしちゃったんだね・・・!うう、謝花くん具合悪いのに睡眠の邪魔しちゃうなんてほんと私何してるんだろ・・・!」

焦りと後悔から早口に捲し立てる彼女の答えは、どうも妓夫太郎の疑問とは論点がずれている。最大限に眉を下げて頭を抱えるを横目に、梅があっけらかんとした様子で肩をすくめて見せた。

「大丈夫よ。この部屋しっかり防音だから、お兄ちゃんの部屋からは少ししか聞こえないわ」
「いやいや梅ちゃん、それでも起こしちゃった訳だし・・・」

これである。妓夫太郎の疑問はまさしく、目の前の二人が何故親し気に会話を交わせているのか。これに尽きる。

「・・・お前ら、いつの間に・・・」
「隣の駅前で、お兄ちゃんと電話してるところをアタシが見つけたの。やたら通る声で謝花くん謝花くんってうるさくて」
「うぅっ・・・面目ない」

練習に行けないことを電話で詫びたあの時、まさか彼女の傍に梅がいただなんて考えつく筈も無い。

「お兄ちゃんが大学から帰るのが遅いのも、土日の夜にスマホ持って外に行くのも、こいつが絡んでるんでしょ?」

次いで厳しく指摘された事実に、後ろめたいことは無くともドキリとしてしまうのは二人に共通して言えることであったが、お互いそこには気付かぬふりをする。梅は腕を組んだ仁王立ちの姿勢を崩さず、恐縮しきりのを見遣りふんと鼻を鳴らした。

「とっちめてやると思ったんだけど、よくよく話を聞いたらお兄ちゃんが凄いってことを割とわかってる奴じゃない。パフェ奢ってくれたし、お兄ちゃんのこと心配だって言うから、連れて来ちゃった」

連れて来ちゃった、ではない。
しかし急激に変わった流れは、落ち着いて考えればそう悪くない話の筈だ。気難しい梅が初対面にしてを気に入ったのだから、これは奇跡とも呼べる。
ただ、唐突に動いた話の中で自身が取り残された様な感覚に、健康とは言えない妓夫太郎の頭が付いて行かないだけのことで。
脱力したかの様に前屈みによろめく彼の姿に、が悲鳴に近い声を上げた。

「ああっ、謝花くんひとまず部屋に戻ろう?私もう邪魔したりしないから!」
「えー?!子ダヌキのワルツ最後まで聞きたい!」
「ごめんね梅ちゃん、また今度・・・!」

子ダヌキとはまさか、のあだ名ではないだろうか。
ぼんやりとした意識の中、妓夫太郎が気にしたのはそんな事であった。




* * *




次に妓夫太郎が目を覚ましたのは、更に一時間以上経過した頃のことだった。
ゆっくりと意識が覚醒し始めた途端、目を開けるより先に思わず苦笑が溢れそうになる。
額には貼った覚えの無い冷感シートがあり、すぐ傍には明らかな人の気配がある。加えて土曜の午後は、梅がアルバイトに出る時間帯だ。わかってはいたことでも、目を開けると同時に心配一色な黒い瞳と視線が絡まった瞬間、妓夫太郎は若干困った様な表情を浮かべることとなった。

「大丈夫?」
「おぉ・・・」
「起きれる?少し水飲もうか」

喉の調子は変わりないが、怠さは軽減している様な気がする。
身体を起こす際、は素早く背に手を添え、準備していたらしい水を差し出した。妓夫太郎が飲んでいる間に掛け布団を整え、寝汗の具合まで窺う至れり尽くせりぶりである。ただでさえ自室に彼女がいるという異様な事態だと言うのに、この世話焼き加減は心臓に悪い。妓夫太郎は溜息混じりに頭を掻いた。

「俺も世話かけといて言えたことじゃねぇかもしれねぇが・・・妹が、迷惑かけたなぁ」
「迷惑だなんて、全然だよ」

妹が彼女と打ち解けてくれたことは、妓夫太郎にしてみれば悪くないことでも、にしてみればわからない。強引に詰め寄ったであろう梅にパフェまで奢ったとのことだが、貴重な練習時間を潰させただけだったのではないかと、彼は眉を顰めた。しかし、それを受けたの表情は普段通り柔らかい。

「梅ちゃん、謝花くんのこと大好きなんだね。大学で不当に単位貰えなかったり、無理なこと押し付けられてるんじゃないかって心配してた」
「・・・」
「私が謝花くんのピアノに惚れ込んで、連弾の練習を頼み込んでるって話をしたら、生意気だって怒りながらちょっと嬉しそうで・・・アタシのお兄ちゃんは凄いんだからって、色々聞かせてくれたよ」

見当違いではあるが、梅にそうした心配をかけていたとは思いもせず。
また、二人が知らぬところで自分の話をしていたことも妙に気恥ずかしく、妓夫太郎は居心地悪そうに目を逸らした。

「謝花くんのことを話してる時の梅ちゃん、目がキラキラしてて最高に可愛くて・・・ずっとお話聞いてたいなって思ったし、もう、パフェでもケーキでも、何でも奢ってあげたくなっちゃったよ」

梅のことを可愛いと呼ぶの目は、いつぞや恋人と勘違いをして綺麗な子と呼んだ時とはまるで温度が違う。

夢に見た懐かしい光景。
仲睦まじく笑い合う大切なふたりが、先ほど練習部屋で見た光景と被った。
またひとつ、考えもしなかった方向から新たな芽が出た様な感覚に、妓夫太郎は思わず小さく俯いてしまう。

「・・・お前が言ってた、礼ってやつなぁ」
「あっ・・・うん。何か決まった?何でも聞くよ」
「もう、叶ってるんだよなぁ」
「え?」

不思議そうな顔をして彼女が小首を傾げる。当然そうだろう。妓夫太郎は僅かに口元を緩めた。

「妹と会う気はあるかって、言うつもりだったんだけどなぁ・・・知らねぇ間にすっかり懐いてるじゃねぇかよ、参った」

相当に気難しい梅が初対面のに心を許したことは、記憶は無くとも何かの名残がそうさせた可能性を期待させる。記憶を持つのは自分だけと割り切っていたものだが、今日の顛末は意外であると同時に小さな嬉しさを伴った。
そうして小さく息を吐く彼を前にしたの目が、不意に丸くなる。

「お願いごとが・・・家族に会わせてくれること?」

その呟きが、あまりに呆然とした響きをしていたものだから。吸い寄せられる様に視線が交差した刹那、彼女の瞳が大きく揺れる瞬間を、妓夫太郎は目の当たりにすることとなった。
まるで想定外の驚き、誤魔化しきれない動揺、そして。

「・・・謝花くんへのお礼がしたかったのに。これじゃあ、嬉しいのは私の方だよ・・・」

途方もない、喜び。
それらを噛み締め頬を緩めるの表情に、心臓の奥を鷲掴みにされた様な心地がする。
もう一度傍にいられるのなら何でも良かった筈が、少しずつ何かが変わり始めている気さえした。

「これからも、梅ちゃんとも仲良くさせて貰って、良い?」

彼女は変わらず、嬉しそうな笑みを象りそう告げる。これ以上有難い申し出は無い。

「逆にこっちからも頼みてぇが・・・妙なあだ名が嫌ならはっきり言えよなぁ」
「ふふ。嫌じゃないよ。むしろ哺乳類、いや生き物でホッとしたくらいだし」
「なんだそれ・・・ハードル低過ぎねぇかぁ?」

やはり子ダヌキはあだ名の認識で合っていたらしい。生き物なら良しという彼女の判断基準もどうかと思うが、梅にしては随分と愛ある名付け方とも呼べる。
普通の会話が出来る程度の体力回復を喜ばしく思ったのだろう、がますます優し気に笑った。

「謝花くん、何か食べられそう?アイスとゼリーはたくさん買ってきてあるし、お粥くらいなら作っても良いって、梅ちゃんから許可貰ってるんだけど・・・」
「・・・迷惑じゃなけりゃあ、一通り食う」
「ふふ。食欲あるのは良いね!すぐ戻るから任せてね!」

立ち上がった彼女が、足取りも軽く部屋を後にする。子犬のワルツの鼻唄が少しずつ遠ざかっていく様子に、妓夫太郎は小さな笑みを漏らしてベッドに沈み込んだ。

身体が熱い。
夢かと疑ってしまうほどに、願った以上の幸福に押し寄せられて消化が追い付かない。

「・・・」

これ以上余計な欲を出すなと、妓夫太郎は自分自身を強く戒めた。


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