水を防いで火が付いた



大学の敷地内には、小規模なグラウンドがあった。
音楽の道を志す学生達の中で運動に力を入れる者は圧倒的に少ないが、気分転換や健康の為に身体を動かすことを望む層は一定数存在する。催しの際は野外ステージの立つ、決して広過ぎることの無い運動場。そのトラック上を走るジョギングの一団の中に、はいた。
規則も強制力も無く、ただただその日に身体を動かしたい有志で集まり、各々のペースで好きな時間に走り好きな時間に抜ける。求められるものは運動に適した格好とタオルのみ、初めてでも実に参加し易い集まりの筈だった。

「・・・珍しい」

今日何度目か知れない呟きは、どう考えても自身に向けられている。何とも言えない気持ちには奥歯を噛み締め、若干走るスピードを上げた。
どの呟きにも悪意は恐らく無い、それはわかっている。わかっているのだけれど。

「一人なんだ」
「謝花と何かあったのかな」

何も無いってば。
内心の呟きは声にならなかった。

が今一人でこの場にいること。学内ではほぼセットで見られている妓夫太郎の姿が隣に無いこと。それらを結び付けた憶測の声は悪意も無ければ大した音量でも無いにも関わらず、気にかかって仕方が無い。
無心、無心、と念仏の様に唱えたところで役に立つ筈も無く、彼女は少々スピードを落としてコーナーを曲がった。
偶然同じタイミングで後続のランナーが速度を上げたため、追い抜かされた際に僅か相手の肘が腕を掠める。
は思わず目を見張った。

否応なく思い出すのは雨上がりの帰り道、よそ見運転の自転車から庇って貰った時のこと。
ほんの一瞬の間に距離が近付き、あの長い腕に正面から抱かれて守られた。
平日は毎日の様に肩の触れる距離で隣り合って座っているというのに。

ああして向き合った時の近さが、頬の熱さが、彼の匂いが、動揺に揺れる青い瞳と目が合った際の鼓動の高鳴りが、ふとした瞬間に込み上げて堪らない気持ちになる。

あれから二人の距離感は変わっていない。講義や食事を並んで済ませ、互いのレッスン以外の時間は練習室を共同で使い、最寄り駅まで一緒に帰り土日の夜は電話をする。
ひとつひとつ積み上げられた習慣は傍から見てどうであれ、当人にとっては嬉しい日常に他ならない。

彼女にとって妓夫太郎は音楽の神が遣わしたとしか言い様の無い完璧な連弾パートナーであり、音楽の相談が出来る頼れる存在であり、まるで長年の付き合いがあるかの様な―――。

「・・・」

の足がゆっくりと止まった。
考えない様にしようと思えば思う程に頭の中は妓夫太郎のことで埋め尽くされていく。“お礼”と称して半ば強引に取り付けた約束は未だ果たされていない。考える時間とやらに期限を設けなかったのは、いつまでも自分のことで悩んで欲しいという下心がそうさせたことかもしれず。何を考えているのかと、彼女は溜息交じりにトラックを抜けた。

この悶々とした気持ちを何とか消化すべく走りに来た筈が、まるで逆効果ではないか。
二人の関係は何も変わっていない、何も不都合は無い。
ただこれまでと違ってきたことは、この下心がこれまで積み上げてきた大切な何かを壊してしまったらと思うと、無性に怖くなってしまうことだ。
いつぞやの、奇妙な既視感を口にすることで貴重な連弾パートナーを困らせたくないという気持ちとはまるで別物だった。
彼の妹を恋人と見間違えた誤解を解かれた時に覚えた仄かな熱が、時間を置く毎に温度を上げて、今まさに火を噴きそうになっているような心地だ。何かが溢れ出したその時、もし拒絶されたらと思うと目の前が真っ暗になる。
最早音楽とは関係の無い部分で彼との繋がりを失うことを恐れている。まったくもって自分本位な考えだ。重苦しく渦を巻くどうしようもない思いに、溜息は折り重なっていくばかり。隅に置いた荷物とタオルを抱え、がグラウンドを後にしようとした、その時だった。

風に乗って耳に届いたピアノの音に、思わず足が止まる。
屋外で練習をする者、窓を開けて音を奏でる者。
沢山の音楽が溢れる環境下で、彼女の耳は正確にその音色を拾い上げた。

バッハの、G線上のアリア。
沁み入る様な静かな旋律は、それでも特別な存在感を放ち居場所を主張する。
見えない糸に導かれる様には歩き出し、小走りを経てやがてしっかりとした足取りで駆け出した。

グラウンドに面した練習棟、二階で窓の開いたひとつの部屋。確信が強まると同時に早まる心音、呼応する様に引き上げられていく速度。今日はお互いに時間が合いそうになく、珍しく練習の約束をしなかった。また明日かな、と手を振り別れてから二時間足らず。練習室の予約表を確認することもせず、走り込んだ勢いのまま彼女は扉を開けた。

一拍の間を置いて、音が止む。
こちらを見遣る妓夫太郎は突然の来訪者に驚くことも、演奏を中断させられたことに嫌な顔もしなかった。
全開になっている窓から、風が吹き込む。

「・・・んだよ、もう良いのかぁ?」
「謝花くんのピアノが・・・聞こえたから・・・」

乱れた息を整えながら感じるのは、ひとりの時にあれほど感じていた悶々とした気持ちの消失だった。
レッスンは早く終わったのか、何故窓を開けて演奏をしていたのか。
余計な疑問はすべて彼方へ消えて無くなり、残ったのは至って単純な思いでしかない。

「G線上のアリア、一緒に弾きたくて、つい・・・」

隣にいたい。

「あっ・・・でも・・・」
「あぁ?」

二、三歩近付いた途端、は我に返ったかの様に立ち止まった。怪訝そうな顔をする妓夫太郎に何と説明しようか、何度か口を開閉した末細い声が零れ落ちる。

「・・・私今、汗臭い」

着替えを持っていることも、更衣室があることも、全て忘れて夢中でここまで走って来てしまった。おまけに運動着であることも今更の様に意識してしまって大変に気恥ずかしい。
直立のまま縮こまる彼女を唖然と見つめていた妓夫太郎の肩が、不意にはっきりと揺れた。
逸らした口元を手で押さえ、しかし封じきれなかった声が漏れている。彼がくつくつと喉を鳴らしている光景は、に新たな心音の変速を齎した。眉間に皺を寄せた難しい表情は形を潜め、今妓夫太郎は明確に肩を揺らして笑っている。

「・・・あ、あの、謝花くん?」
「っく・・・はぁ。あぁ腹痛ぇ、笑かすなよなぁ」

本当に可笑しかったのだろう。彼は目元を擦る素振りまで見せた上で深く息を吐き出し、長椅子に掛ける位置をずらす。
右側半分が開けられると同時に、目が合った。
未だ笑いの名残に若干緩んだ彼の表情は、酷く優しい。

「しょうもねぇことを気にしてんじゃねぇよ、ばぁか」

心臓の熱さはを幸せで包むと同時に、臆病さにも火をつけた。

時折感じる懐かしさに似た既視感が、気のせいではなく本物なら良かった。本当に以前から彼と知り合えていたら、一切の不安も無く心を通わせられる存在でいられたら、どんなに良かっただろう。
失えない。気持ちがすれ違ってこの関係を壊してしまうくらいなら、今のままで良い。

胸の内にはっきりと生じて溢れ出ようとする二文字に、は懸命に蓋をして笑う。
最後の足掻きにタオルで汗を拭く間に、妓夫太郎が練習室の窓を閉めた。


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