雨上がりの小さな事故



外の景色は、建物に入る前後で大きく一変していた。

巨大なバケツをひっくり返した様な地面の濡れ具合、たくさんの水たまり、湿っていながらも清々しい独特な空気。
外へ出たと妓夫太郎は、想定外の光景に唖然と立ち尽くした。

「すごい量降ったんだね・・・全然気が付かなかった」

天気予報は一日晴れ模様だった筈だ。
今日予約を取った練習室が地下だったこともあり、まさかこんなにも雨が降っていたとは想像もしなかったと、は目を丸くして空を見上げている。
大雨に見舞われ濡れきった地面とは裏腹に、晴れ渡った空には既に雨雲の名残は無い。突発的な悪天候は長続きしなかったのだろう。

「・・・まぁ、止んだ後で助かったけどなぁ」
「ほんとだね」

流石に今日は傘の用意が無い上、強過ぎる雨は時に傘が役立たない場合もある。何にしても練習している間の出来事で良かったと呟く妓夫太郎を見上げ、彼女はにこやかに笑った。

「謝花くんの普段の行いが良いから助かったんだよ、きっと」
「・・・訳わかんねぇこと言ってっと置いてくぞぉ」
「あっ、待って待って」

並んで歩くことが常となったのは、いつの頃からだろうか。最初は連弾の約束をした練習室の中だけだった筈が、講義や食事の席で並ぶことが増え。練習後の帰り道に最寄り駅まで並んで歩くことは、雨の中傘を分け合う必要があろうが無かろうが日常と化した。

二人の関係が決して噂通りのものではないことは、最早当人同士しか正しく認識出来ていないほどに周知のものとなっている。当然そうなのだろうと、誰も本人たちに確認をしない。故に、二人とも否定をしない。

「雨上がりに晴れると、水たまりも綺麗に見えちゃうよねぇ」
「・・・そうかぁ?」
「うん。雨上がりがシャッターチャンスって聞いたことあるよ。ほら、水面に景色が反射するから」

門を抜けて駅まで向かう道すがら、大きな水たまりを指して彼女が告げた。成程、確かにキラキラと光る水面は逆さの鏡となりそうではあるが、特別美しい景色も無い道路にあっては意味が無いだろうに。
それでもは、普段通り上機嫌だ。少なくとも妓夫太郎は、ここ最近楽しそうでない彼女を見た記憶が無い。うっかりと立ち聞いてしまった、あの日の固い声を除いては。
不意に隣を見遣ったタイミングで目が合ったは、まるで妓夫太郎の視線を待っていたかの様に楽し気に口端を上げた。

「さて、私が今弾きたいのは、」
「ラヴェル」
「・・・ですが、中でも、」
「水の戯れ」
「うっ・・・駄目だ降参、謝花くん出題途中なのに勘が良すぎない?」

間髪容れず言い当てられた曲名に、ドビュッシーの水の反映だったかもしれないのに、と彼女は難しい顔をしたが、何も難しいことは無い。

昨晩、電話の向こうに聞こえたピアノが耳に残っていただけのことだ。

「お前、昨日の夜自分の部屋で何流してたか、忘れてねぇかぁ?」
「・・・あっ・・・そっか!」

数秒の間を置いての表情が綻ぶ瞬間を目の端に留め、妓夫太郎は内心眩しい思いを飲み込む様に視線を強引に引きはがす。日々隣からの引力が強まっている様な感覚は、困ったものだ。そんな胸中など露知らず、彼女は種明かしに対して小さく肩を揺らして笑った。

「ふふっ、謝花くんエスパーかと思っちゃったよ。電話した時聞こえてたんだねぇ」

週末に電話することもまた、最近増えた二人の関わりのひとつだ。話すことと言えば次に弾きたい曲や課題のこと、大学にいる時と何ら変わらないありふれた内容でしかない。
けれど、2コールも鳴らさず応答してしまう程にがその着信を心待ちにしていることも、土日の夜九時を過ぎると妓夫太郎が携帯を手に外へ出ることも、新しく定着しつつある日常のひとつだ。

「あっ。もしかしてうるさかった?私いつもあれくらいの音量で流すのが癖で・・・」
「そうは言ってねぇだろうが、普通だろ」

彼女の部屋は大抵ピアノの曲が背景に流れている。水の戯れもまたそこから拾った曲名だったが、特別うるさいと感じたことなど無い。
妓夫太郎の否定を受け、途端に不安げに揺れたの表情が、気が抜けた様に緩んだ。

「良かった。うるさいからもう電話しないって言われたらどうしようかと・・・」
「・・・」

心底ホッとした様な顔で、何を言い出すかと思えば。
慣れない戸惑いに妓夫太郎が眉間の皺を深めた、その時だった。

正面から近付いてくる自転車の影を、妓夫太郎の目が捉えた。歩道で速度を落とすでもなく、更には視線がハンドル付近に固定したスマホへ向いている。
ほんの僅かの距離まで近付いて尚速度を落とさない対向者と彼女の間へ、咄嗟に身体を捻じ込んだことは、ほぼ無意識の反応だった。水たまりへ突っ込んだことで靴が濡れたのだろう。間の抜けた呻き声をあげた自転車の男は、しかしギリギリの距離で接触しそうになった二人には何の詫びも無く走り去ってしまう。
これには妓夫太郎が苛立ちを込めた舌打ちと共に走り去った後を睨み付けた。

「ふざけんなよなぁ・・・どこ見て走って、」

言葉が、そこで途切れた。
どんな状況にあるかを、今更ながらに自覚したためだ。

彼女がピアノ奏者として羨ましいと言ってくれた長い腕で、妓夫太郎はその華奢な身体を正面から抱き寄せる様にして立っていた。無論、咄嗟に自転車の接触から庇おうとした事故の様なものであるが、とんでもない状況には変わりない。との距離感は普段から近い。肩が触れ合う距離はいつものこと、しかしそれは横並びの時に限る。

ぎこちない機械的な鈍さで腕を離すと同時に、恐る恐る視線を下へ向けたことを、妓夫太郎は激しく後悔した。耳まで赤く染め上げたの潤んだ瞳と、完全に目が合ってしまったためだ。不可抗力とはいえひとまず詫びるべきかと妓夫太郎が息を飲んだ、次の瞬間。

「あのっ・・・ありがとう、庇ってくれて」

身体は硬直したまま、頬は赤く目は若干潤んだまま。しかし言うべきことを迷わず口にしたのはの方だった。
逆に中途半端な位置で上げた腕すら戻せずにいる妓夫太郎をよそに、彼女の視線が下がり、その目が大きく見開かれる。

「・・・あっ、大変!足元凄いことになっちゃってる・・・!」

彼女の慌てた声をきっかけに、金縛りが解けたかの様に二人の身体は普段の距離感を取り戻した。
覗きこまれた足元を見下ろし、妓夫太郎はじっとりとした不快感に今更気付く。水たまりを盛大に跳ねた自転車から壁になったのだから当然だが、靴を含め足元はなかなかに見事な濡れ具合に仕上がっていた。
の眉がこれでもかと言わんばかりに下がる光景を目の当たりにし、妓夫太郎は参ったなと頭を掻く。

参った。足元の話ではない、にこんな顔をさせてしまったことだ。

「ごめんなさい、私を庇ったせいで・・・」
「お前が謝んなよなぁ。どう考えても悪ぃのはあの野郎だろうが」
「でも・・・」
「大したこと無ぇから気にすんな。行くぞぉ」

不快ではあるがこの際大したことでは無い。彼女が轢かれたり水の被害に遭うよりは、ずっとマシだ。
そうして先を歩き始めた妓夫太郎の服の裾を、の手が遠慮がちに掴んだ。

「・・・お礼」
「あぁ?」

先ほどまでの頬の紅潮こそ治まっているが、の表情は真剣一色で。

「お礼、させて欲しい」
「気にすんなって言ってんだろ、いらねぇ」

まずい、と妓夫太郎は本能的に危険信号を察知し顔を引き攣らせる。

「ううん、謝花くんにはいつも本当にお世話になってるんだもん、今回は絶対に何かお礼したい」

彼女は基本的に穏やかな性分であるが、こうと決めたことは譲らない。
特にこうした時の決断は決して揺らがないことを、妓夫太郎は既に知ってしまっている。

「謝花くんの欲しいものとか、したいこと、考えて教えてくれないかな」
「・・・」
「考えつかなかったら私が自分で考えるから」

特別はいらない。今以上、望むことなど無い。
心の奥底に燻る欲に強引に蓋をして、妓夫太郎は唇を噛んだ。

何とか回避しなくては。何とか納得させなくては。
懸命に頭を働かせるものの、上手い言葉が一向に出てこない。

「お願い」
「・・・」

黒い瞳に射抜かれて悟ったのは敗北だった。
無理だ、抗えない。
妓夫太郎は根負けしたかの様に溜息を吐き、掠れた声を絞り出した。

「考える時間くらい、寄越せよなぁ」
「・・・!うん!もちろん!」

勘弁してくれ。

そう思いつつも、心底嬉しそうに笑うを前にしてはまるで無力な自身を痛感した。


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