願いを紡ぐ五線譜



曰く、梅の友人『恋雪』の婚約者は、将来彼女の家の道場を継ぐべく単身武者修行中の身なのだとか。
長期休暇を利用し、少々遠方の地まで恋しいひとに会いに行くという恋雪に付き添う形で、梅が旅行へ発ったのが半年以上前のことらしい。

一方、件の婚約者のロードワークルートは幸太郎の住まうアパートのすぐ裏手を通っており。
日の出と共に一階の窓を開け放ち植物の世話に勤しむ幸太郎と、同じく明け方の走りを日課とする彼―――名を『狛治』というらしい―――が会釈の挨拶を経て少々のことなら話せる間柄になるには、それほど時間がかからなかったとのことだ。

「恋バナは新鮮な内に沢山聞きたいじゃない。噂の相手の顔も見てみたかったし。恋雪がデートしてる間くらい、アタシひとりでも時間潰せると思ったんだもん」

温かなミルクティーを啜り、梅はまるで悪びれる様子もなくそう呟いた。

「けど、実際来てみたら想像より十倍田舎でしょ。アタシも流石にひとりで乗り切れる自信無くなっちゃって・・・お人よしの恋雪は彼氏来てるのにアタシを置いて行かないし、このままじゃデートのおじゃま虫になっちゃうってところで」
「偶然私が通りがかって、梅殿の案内を引き受けたのがはじまりですかね・・・」

唖然と瞬きばかりを繰り返すを横目に、妓夫太郎は眉間の皺を寄せながら腕を組んだ。

あれから一晩が経ち、梅と幸太郎を含めた四人で宿泊先のロビーにてテーブルを囲んでいる。
隣り合う梅と幸太郎の並びだけでも色々と衝撃が強いものだが、何とも出来過ぎた始まり方があったものだ。否、それを言い出したなら発表会の舞台上でを見つけた己も大概だと妓夫太郎は内心で溜息を吐いた。

尤も、こうして前世の繋がり云々を俯瞰出来るのは長年に及ぶ慣れがそうさせるのであって。昨日の今日でに同じ余裕を求めるのはどう考えても酷というものだ。
妓夫太郎は表面上不愛想を貫きながらも、気を抜けば目を回しそうになっている妻を水面下で案じ続けた。
梅と幸太郎もにとって前の人生から繋がりの深い人間だ。片方にいたっては昨日まで何も知らないまま双子の兄と認識していたのだから、取り乱さないだけは十分に上手く立ち回れている。

「梅殿とは勿論何度か面識もありましたし、そのご友人が狛治殿の婚約者とはご縁だなぁと」
「なんでお茶できる店ひとつ駅前にないのよって文句言いたかったけど、まぁ隠れ家に連れて行ってくれたから良しとしたわ」
「梅殿、隠れ家ではなく普通の喫茶処ですよ。確かに都会の様に横文字看板ではないですが・・・」
「まぁそこで、近所の子たちに懐かれたり、おじいちゃんおばあちゃんに新聞のクロスワードの手伝いさせられたり、なんだかワイワイしてる時間が割と楽しかったから。また次の機会も恋雪についてくからってことで、連絡先交換したの」

重ね重ね出来過ぎている。しかしながら、テンポ良く語られたその光景が容易に想像出来てしまう。
小さな喫茶処で、街中と知り合いであろう幸太郎が居合わせた客から声をかけられることも。正面に掛けた梅がうずうずとしながら、その輪に溶け込んでいく様も。
まるで、あの頃本当に外へ出られていたなら実現したであろう風景の再現の様な気さえする。
隣で話を聞くもまた、同じことを今考えているのではないかと。理由も無く通じ合った心地に、妓夫太郎は宙を仰いだ。
事情を知る者が自分ひとりでなくなったことは、思いのほか心強い。

「本来なら、その時点で二人には話した方が良いのではと思ったのですが・・・」
「アタシが止めたの。お兄ちゃんと子ダヌキの驚いた顔、見たかったから」
「そうこうしている間に時が過ぎ、今回のコンサートの打診に繋がったという次第です」

驚いたなんてものではなかったが、結果としての内に眠る記憶を呼び起こす鍵となったのだから。表向きの表情はどうあれ感謝すべきである。
そんな頃合いで幸太郎が表情を曇らせた。

「すみません、妓夫太郎殿。大事な妹さんを、サプライズとはいえ今回一人旅でここまで来させてしまいました」
「ちょっと。アタシももう大人なんだから、別に先生が謝ることじゃないでしょ。ちゃんと駅まで迎えに来てくれたし」
「いいえ梅殿、心配なものですよ。家族なのですから」

学業以外はてんで抜けた部分も多いが、人から好かれ、他者への尊重を欠かさない。
幸太郎の変わることの無い誠実さが梅との縁が強め、妹はもう一度この男に惹かれたのかもしれず。

「・・・まぁ、無事なら良いけどなぁ」

妓夫太郎は溜息交じりに組んだ足を入れ替えた。幸太郎が人格的にまるで問題無い点はさて置き、兄として若干の抵抗はどうしたってあるものだ。

そんな折、カチャリとカップの音が響く。とうに冷めた紅茶に口を付け、が意を決した様に口を開く気配がした。

「あの・・・梅ちゃんがピアノを突然再開したのって、もしかして」
「・・・私が原因です」

恐縮一色といった顔色で幸太郎が頭を下げながら片手を上げた。その発想は無かったと妓夫太郎は目を丸くする。

「妹夫婦がピアニストですが、私はどうも昔から運動だけでなく音楽方面にも縁が無く・・・一生のうちに、せめて猫ふんじゃったくらいは弾けたら良いなと」
「けど、プロのふたりに頼むのは気が引けるって言うから。だったら、アタシが教えてあげるってことになったの」

一生かけて選ぶには難易度の低い曲であるが、何とも言えず幸太郎らしい選曲とも思えた。自分こそブランクを抱えながらも、梅が躍起になってピアノを再開した理由も頷ける。
アタシが先生になってあげる、と胸を張る梅。それに対し弱腰な苦笑で応える幸太郎の姿が、目に浮かぶようだった。

「人に教えるにはまず自分から、でしょ。ついでに、昔のムカつく曲も乗り越えてやろうってね」
「・・・そっか。そう、だったんだ」

の声からは様々な感情が読み取れた。気の抜ける様な安堵。いまひとつ心と頭が同調しきれない戸惑い。そして、一秒一秒を噛み締めてしまう今という尊さ。どれも、今の妓夫太郎には痛い程よく理解出来た。

「・・・子ダヌキは、アタシと先生が仲良くするの、反対なの?」
「えっ?」

事情をわかっている妓夫太郎と違い、梅が正直な胸の内を口にする。
形の良い眉をぐっと寄せる妹の表情は、不安の色に染まっていた。サプライズなのだから当然驚かす気でいただろう。しかし想定とは違うの反応を受け、梅は迷い子の様な顔をしていた。すべては、を心から好いているからこそだ。

「昨日も、演奏の後突然いなくなったり・・・今日だって目パンパンに腫れてるじゃない。元気、無いし・・・そんなに、嫌だったの・・・?」
「そんなことないよ・・・!」

弾かれたようにが声を上げる。ほんの一瞬妓夫太郎と目を合わせ、しかし手助けは求めず自分の言葉を選び始めた。

「えっと、昨日はちょっと、具合の悪い子を外に連れ出してただけで・・・目が腫れてるのは、なんか少し疲れちゃって、本当にそれだけで・・・」

嘘ではないが本当のことも言えない苦悩。それらに足を取られながらも、が出来る限りの本音を伝えようと一生懸命になっていることが伝わる。

「大切なお兄ちゃんと、大好きな梅ちゃんが仲良くしてくれるだなんて・・・大歓迎に決まってるよ」

その横顔は、大きな感慨に満ちたもので。妓夫太郎は思わず、僅かに頬を緩めてしまう。
かつての友人は今や大切な兄として。赤子の頃から可愛がってきた少女は今や義理の妹として。枠組みが変わろうとも、の中でふたりとも大切なことは揺らがない。そんな胸中溢れる妻の横顔が、すぐ傍にあった。

「これからも、お兄ちゃんと仲良くしてくれると嬉しいな。勿論、私とも」
「・・・そんなの当たり前じゃない。おバカな子ダヌキ」

ぷいと瞬間そっぽを向きつつも、ちらりと横目での表情を確認した梅が笑う。その場の空気が、緩やかに解けた。

「昨日の演奏、とても良かったです。遠いところを、駆け付けてくれてありがとうございました、

兄に対するの返答が一拍遅れる。その間は、かつての友へ馳せる思いだったのかもしれず。

「・・・ありがとう」

それらを今日までの月日に溶かし込む様にして、が優しく微笑む。テーブルの下で、そっと夫婦の手が触れ合った。
四人でテーブルを囲むことも、事情を知る者と知らない者が半々の比率になることも。昨日までは考えもしなかったが、今こうして目の前にある現実なのだ。妓夫太郎とは顔を見合わせ、互いだけにわかるような意図を交わし合った。

「でも本当に、来れて良かった。お兄ちゃんには滅多に会えないから」
「それなのですが・・・実は、四月以降少し状況が変わるのですよ」
「え?」

小首を傾げるに対し、幸太郎が優し気に笑いかける。

「教授からの依頼で、新年度から月に数日そちらのキャンパスへ助手として同行が決まりまして」
「え?ほんと?」
「自由な時間も少し取れそうですし、これまでよりは会える機会も増えるかと」

このタイミングで定期的に会える間柄になるとは、なんと引き合う力の強いことか。妓夫太郎は半ば感心した様に短く息を吐き出した。

「学院の宿泊施設も近いのですよ。確か、二人のお住まいから駅ふたつほどの距離だったような」
「・・・うちから、駅ふたつ隣?」

視界の端で、梅がぎくりと肩を強張らせた。
駅ふたつ。それは、記憶違いでなければ妹の引っ越し先と同じ距離である。

「・・・梅ぇ」
「な、なによ」
「え?な、何か問題が・・・?」
「あー・・・お兄ちゃん、あとで話そう」

まったく、用意周到なことだ。
の苦笑がその場を治め、団欒は続く。
これからはいつでも、いつまでも。



* * *



月日がゆるやかに歩を進め、桜が新緑へと姿を変えた休日の昼下がりのことだ。
ピアノの横で楽譜を整理していたが着信音に顔を上げ、離れたテーブルに座した端末へと手を伸ばす。

「あ、梅ちゃんから。夕方くらいにお兄ちゃんつれて来るって」
「おぉ。そうかぁ」

梅は宣言通りあの後すぐに居を移した。こちらも予定通り、幸太郎が定期的に使う学院宿泊施設のすぐ近くに、である。

「わ。見て。可愛いオムライス」

ケチャップで描かれた音符の乗ったオムライスと、それを上手く背景にした梅の自撮り画像がの端末に表示されていた。共に映る幸太郎の顔は半分見切れている。

「・・・」
「なんだか・・・前のふたりを知ってるから、微笑ましいような、不思議な気分」

梅と幸太郎はあくまで友人同士である。今も、昔も。
ただ、何かが始まる前に終わった以前に比べれば、これから先どうなるかは彼ら次第、なのだろうけれど。
少々面白くない顔で画面を覗くしかない妓夫太郎の隣で、が不意に溜息と共に遠い目をした。

「・・・妓夫太郎くんは、こういう驚きとか感慨深い気持ちを、ずっと一人で抱えてたんだね」
「まぁなぁ。前の記憶なんてもんは、持ち越さねぇのが普通だろうからなぁ」

春の日差しが射し込む練習部屋は、もうすっかりがいて当然の空間となった。
いつぞやに贈った熊のぬいぐるみ、積み重なった楽譜、二人で掛ければ手狭だが一人で使うには広く感じてしまう椅子。何もかも、一人で奮闘していた頃とは違って見える。
これまでの軌跡が詰まった部屋を隅から眺め、隣には事情を全て理解した本人がいてくれる。一体、どんな可能性の上に成り立った景色なのだろう。

「同じ時代に、揃ってまた生まれてきただけでも奇跡だろうが」
「・・・うん」
「二人して記憶があるなんてのは、どう考えても奇跡中の奇跡ってやつなんだよなぁ」

指先で前髪を撫ぜれば、少々くすぐったそうに、それでいて嬉しそうにが微笑む。

「まさか、今になって叶うとは・・・思って無かったけどなぁ」

自然と瞼へ唇を寄せれば、数秒も空けずに精一杯の背伸びと共に頬へお返しが戻って来る。
最大の慈しみを込めた黒い瞳が、じっと妓夫太郎を見つめながら柔く細められた。

「遅くなっちゃったけど、もうひとりにさせないからね」
「これまでも、ひとりじゃなかったけどなぁ」
「ふふ、そういう意味じゃないよ」

がぐりぐりと頭を押し付けて来る、戯れのような抱擁。小さく笑いながらそれを受け止める最中、二人して黙るタイミングが重なった。
春からこの部屋に新しく加わったものがある。日付の入った、十年前の発表会を収めた集合写真。恐らくそれが目に留まったのだろうと、確認せずともわかるような気がした。
取り戻した記憶は二度と手放さないが、大事な日の写真だから飾りたいのだとは言った。この日に梅とが同じ発表会に出ていなければ、今は無かったかもしれないからと。

「ありがとう、妓夫太郎くん」
「何回言えば気が済むんだぁお前は」
「何回言っても足りないよ」
「ったく・・・」

は妓夫太郎の意を汲み、記憶が戻るまでのことに関し謝罪の言葉を口にしなくなり。代わりに、これまで以上に感謝を示すようになった。
日頃から些細なことでも口にする単語が一層増え、妓夫太郎の耳は日々からの『ありがとう』で埋め尽くされてばかりいる。
決して、悪い気のする話ではない。ただ、いつ如何なる時も肯定され続ける人生が、時折酷くくすぐったく思えてしまうだけのことだ。
腕の中で満ち足りた溜息を零す妻の、艶やかな髪に頬を擦り寄せる。ふと、先日の中庭での出来事が頭を過ぎった。

「実は楽しくなかったって話を立ち聞いた時、笑えねぇ可能性に気付いちまったんだよなぁ」
「え?」
「俺がなりふり構わずピアノと格闘してる間に、もし、お前が途中で音楽を投げ出してたらって話だ」

あの日はただ、他のことに気を取られ深く考えはしなかったのだろう。
妓夫太郎が舞台上にを見つけ、そこから血の滲む猛特訓に励んだことが奇跡と呼べるなら。本来楽しくも感じていなかった音楽を、が長きに渡り投げ出さず続けてくれたことも、同じく奇跡なのではないか。

「・・・そっか」

すれ違いは悲劇だろうが、十分あり得た未来ではなかろうか。そうして提示した嫌な可能性のひとつに、が妙に納得したような目をして顔を上げる。

「私も不思議だったの。どうして、全然楽しくないピアノを続けてたんだろうって。意地なのか、執着なのか。自分でもよくわからないけど、どんなに悩んでも辞めるってことは全然考えてなくて・・・」

目と目が合う。が己を黒い瞳に映したまま笑ってくれる。

「妓夫太郎くんともう一度出会う為に、すれ違わない為に、音楽の神様がピアノを続けなさいって言ってくれてたのかなぁって」
「・・・」
「なぁんて。適当なこと言っちゃダメだよね。妓夫太郎くんが私の為にどんなに頑張ってくれたか、もうちゃんとわかってるのに」

運命なんて言葉で表現するには、ふたりの関係性は長く複雑に絡まり過ぎているような気もする。
妓夫太郎は神とやらを信じない。しかし、がそう信じるならば喜んで従える。

「でも、妓夫太郎くんのお陰で、私は音楽を楽しいって思えるようになれたし・・・もっと言うなら、すぐ傍にあったキラキラしたものにようやく気付けて、夢中になれたよ」

音楽を楽しめなかったに、自分が革命を齎せたというなら。約束された出会いの為に、が長年ピアノを投げ出さず生きてきたというなら。もうそれ以上の説明は不要な程、光栄なことに違いない。
妓夫太郎が引き寄せられるよう顔を近付けたのは、ごく自然な流れの筈だった。しかし珍しいことに、の華奢な手が胸板を遠慮がちに押し返す。おやと目を瞬いた先、こちらを見上げるは微笑みながらも真剣な顔をしていた。

「何が大事かって順番を付けるなら、私にとって一番は妓夫太郎くんだけど・・・音楽を辞めないで良かったって思うの。こんなに心の底から楽しいことを、大好きなひとと一緒に楽しめた私は、きっと誰よりも幸せだったと思うから」

何故だろう。
幸せだった。過去形で表現されることに、奇妙な違和感を覚える。

「私は十分素敵な思い出を貰えたし、もう何があっても妓夫太郎くんから離れない」

「だから妓夫太郎くんは、もう好きな道を選んで良いんだよ」

彼女の言わんとする意味を漸く理解し、妓夫太郎は瞠目する。
中学以降の時間すべてを懸けてピアノに打ち込んだのは、に一歩でも近付く為だ。しかし今は、離れないことを前提に自由を提示しようとしている。

「私のために沢山頑張ってくれて、本当にありがとう。今度は妓夫太郎くんの番。ピアノに拘らなくて良いんだよ。妓夫太郎くんが楽しいと思える道を、遠慮なく進んで欲しいの。どんなことでも応援するし、ずっと傍にいるから」

を追いたい。その願いが無ければ、間違いなく生涯縁の無かったであろうピアノという楽器。
ならば目的を達した今、これから先は何に縛られることもなく好きに道を選べるのだと、は言う。
実に彼女らしい考えだと思う。妓夫太郎がどんな突飛なことを言いだしたとて、は一切の難色を示すことなく賛同してくれるのだろう。

しかし、妓夫太郎は小さく首を横に振る。

「今に始まった話じゃねぇけどなぁ。お前は何つーか、俺に対する見方が偏り過ぎなんだよなぁ」
「偏り過ぎ?」
「・・・お前が思ってる程、一方的な話じゃねぇんだ」

無理を強いたくないという、の気持ちがわかる。
これまでの時間を今からでも取り戻して欲しいという、彼女の優しさがわかる。
けれど、どちらも少しずつ誤解が紛れていることも事実なのだ。

「ただでさえ遅れてるど素人からのスタートで、なりふり構わず必死だった。正直、を追う為以外に鍵盤に触る理由はねぇし、楽しむゆとりなんざ、考えたこともなかった」
「妓夫太郎くん・・・」
「けどなぁ」

この部屋に大きな存在感を放つグランドピアノに、何度打ちのめされたことか。何度歯を食いしばり悔しさに呻いたことか。

しかし、音大に入学してすぐの日。仏頂面を装い隣に掛けた、くるみ割り人形の行進曲。初めて音を合わせた、あの日。

の隣に座った最初の連弾で・・・それまでとは違う、聞いたことのねぇ音がした」

の黒い瞳が丸くなる。春の日差しに煌めく、何とも表現し難い優しい黒に、何度心を奪われてきたことだろう。

「柄じゃねぇけどなぁ。お前に会えた達成感だったのか、安心感だったのか。思うように鍵盤の音が鳴って、妙に気が楽になった気がしたんだよなぁ」

鍵盤を叩くことに、喜びなど欠片も感じたことは無かった。苦痛は全て義務だと無理矢理飲み込み、ただただもがくばかりの日々だった。
それがあの日、何か決定的に違う息吹を感じた様に、目の前の景色が変わった。険しく睨み付けてばかりだった敵にも等しい楽器が、突如として心強い味方に転じたような気さえした。
思い焦がれた存在が隣にいる。ただ、それだけのことで。

「それって・・・」

の声が僅かに震える。

「妓夫太郎くんも、私に会ってから・・・音楽を楽しいって思ってくれたってこと?」
「・・・まぁ、そんなところだろうなぁ」

立ち聞いた話で、の音楽を楽しく変えられたのは己だと知り、どれだけ誉に感じたことか。
ただ思い返せば、自分も原点は同じだということに、今になり漸く気付く。

「俺も、俺の中の優先順位は曲げねぇし、何を置いても一番は決まり切ってるけどなぁ」

向かい合ったままのの手を引き、左に妓夫太郎、右に、互いの定位置に腰を降ろす。
随分と長い付き合いになった鍵盤のひとつを、妓夫太郎の長い指先が押し込んだ。

「俺にとっても、こいつは・・・もう、を追いかける為だけの手段じゃねぇらしい」

の傍に行きたいが為に始めた楽器は、妓夫太郎の人生から切り離せない存在へと昇華した。

「じゃあ、これからも、音楽・・・続けてくれるの?」
「・・・おぉ」

が隣の鍵盤を優しく鳴らす。心底満ち足りたような吐息とともに顔を上げた彼女の表情は、例えようもなく眩しかった。

「・・・嬉しい」
「・・・
「妓夫太郎くんに、これ以上我慢とか無理はして欲しくないって思ってた。だけど、もし・・・もしも、この先も音楽を選んでくれたら、どんなに良いかなって・・・」

がいて、隣に居ることを許されて。それだけで信じ難く完成形だと思っていたところに、の記憶が戻ってきて。そして、ピアノという楽器を当て嵌めることで、不思議とパズルのピースが綺麗に埋まったような充実感を齎す。

こんな形の未来が待っているだなんて、ピアノを始めた頃は考えもしなかった。妓夫太郎は困ったような小さな笑みを零す。

「すごく気の早い話だけど・・・いつか、おじいさんとおばあさんになっても、ふたりで楽しい音楽をずっと続けられるといいなぁ」
「・・・お前の音楽のはじまりってやつだなぁ」
「ふふ。それも知ってるんだったね」

肩を揺らして笑う、柔らかな笑顔が好きだ。

「ずっと平和で、健康で・・・幸せを沢山積み重ねながら、いくつになっても二人一緒に楽しいことをしたい」

明るい未来を夢見る、前向きな声が好きだ。

「今度は、叶うと良いなぁ」
「心配すんなよなぁ」

鍵盤の上で隣り合っていた手を、そっと重ねる。
容易く包み込めてしまう、小さな手。妓夫太郎の大きな手がピアニストとして羨ましいのだと言った、繊細な手。情感豊かな音を美しく奏でる、この世にただひとりの手。生涯をかけて守るべき、愛おしい手。

「お前のしたいことなら、何だって叶えてやる。その為に俺がいる」

どんな願いでも、どんな夢でも。同じ方向を向いた今なら、きっと。
何年でも何十年でも、の望む未来の為に。そして、妓夫太郎自身の為に。

「・・・俺としても、こいつと並走なら望むところだしなぁ」
「良かった、ありがとう」

こつんと頭を預けるように、の身体が預けられる。心得たように引き受け寄り添った数秒後、の手がゆっくりと動き出した。
ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ。キラキラ星変奏曲の冒頭。身体を傾けながら器用なことをすると笑いながら、妓夫太郎もまたゆっくりとしたテンポで伴奏に応える。

幼いの見た老夫婦は、どのように演奏をしていたのだろう。

「・・・私だけの夕星」

ポツリと囁かれた言葉の意味は、妓夫太郎には正しく理解出来なかった。

「何だぁ?」
「ううん」

は首を振る。身体を起こし、肩を竦めて悪戯に笑う。

「この曲をますます好きになっただけ」
「何だそりゃあ」
「ね、ちゃんと弾きたくなっちゃった。良いかな?」
「んな顔されて、断る理由がねぇだろうが」
「ふふ、ありがと」

が背筋を伸ばすと共に、スイッチが切り替わる。
いつでも始められるよう妓夫太郎が音楽の入りを待ち構えた、その時。

「よろしくお願いします」
「んだよ、改まって・・・」

練習用の録音でもあるまい。唐突な挨拶に怪訝な顔を返すと、返ってきたのはあまりに真っ直ぐ過ぎる瞳で。

「これから先も・・・ずっと、隣にいさせてね」

妓夫太郎は暫し、言葉を見失う。
それを心の底から渇望してここまで駆けてきたことを、はもう知っているだろうに。
鍵盤に構える前の左手を掴み引き寄せ、そっと指先に唇を寄せる。

「俺の台詞なんだよなぁ、ばぁか」

嬉しそうにが笑う。すぐさま唇めがけて飛んできたお返しを、妓夫太郎は慌てて抱き留めたのだった。


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