絡んだ誓い





女は長きに渡り常闇を彷徨い続けていた。

自由も無く血に塗れ続ける果て無き年月、正常な感覚が壊死していく傍ら、細胞だけが永久に再生を繰り返す日々。虚しい円環に心が擦り減っていく感覚は、果たして生きていると言えるものだっただろうか。
或る剣士との対峙を機に支配と呪から解かれ、同じ境遇となった女鬼と逃亡の運命を共にし、更に長く時が経過した頃。女は放浪の道中、花街の一角にて或る光景に目を奪われ足を止めた。

薄汚れた人間の子ども。夜の寒さに凍えつつも、背に負った妹を懸命にあやし続ける兄の痩せ細った姿。宵の喧騒の中、まるで周囲から空間ごと切り取られたかの様に、その兄妹は真っ直ぐ女の視界に飛び込んできた。

『泣くなよなぁ、梅。ほら、綺麗な灯籠だ。お前、見たがってたじゃねぇか』

華やかな夜の街において、貧しさに汚れた兄妹は目立つ。宵の共を物色する男たちは露骨に顔を顰め、店の人間が心無く子ども達を追い払おうとするまでに時間はかからなかった。大きな手が容赦無く痩せ細った体躯を二人纏めて張り倒そうとする直前。背後からの衝撃によろめいた男は、今まさに排除しようとした対象を一瞬で見失ったのだった。

二人の子どもを抱え路地裏に飛び込んだのは、女にとってほぼ無意識の行為だった。ただ、害させてはならないと。この人間の子ども達は、守らなくてはいけないと。理由もわからぬ強い衝動に突き動かされた結果だったが、軽過ぎる兄妹は渾身の力を振り絞り女の手を逃れた。
何が起きたのか理解は追い付いていないだろう。しかし痩せこけた少年は妹を背後に隠す様立ちはだかり、警戒心を露わに女を睨み上げた。説明のつかない瞬間移動に涙も止まり目を丸くする妹、そんな妹を守ろうと懸命な兄。情を売りながら愛とは程遠い街で、途方も無い絆を体現した様な幼い兄妹。あまりに尊い命を前に自らの血管が大きく脈打つ音を、女ははっきりと感じ取った。

『危害は加えないよ』
『どうだかなぁ・・・!』

優しい声を心掛けたところで、女は鬼だ。突如現れた得体の知れない相手に少年が構えることは道理である。むしろ正しい警戒心に女が苦笑を溢したその時だった。

『・・・もっかい!』
『あっ、梅!!』
『もっかい、さっきのみせて!』

兄の気苦労などまるで介さぬ幼い妹は、大変に愛らしい顔をしていた。興奮しきった丸い目で追従を振り切り飛び付いてきた温もり。背後から焦り一色の顔で足踏を繰り返す少年。両者を見比べる度熱くなる胸の内に、女は思わず頬を綻ばせる。
次の瞬間には妹を兄の隣まで送り返し、自らは元の位置に戻ることを忘れなかった。呆気に取られた兄妹はまったく同じ表情をしており、ますますもって愛らしさに拍車が掛かってしまう。

『お兄ちゃんに心配かけちゃいけないよ』
『・・・』
『なかなか勇気がある。二人共ね』

暗い路地裏は表通りの煌びやかな灯によってぼんやりと光を得ていた。にも関わらず、女は途轍もなく明るい場所に立っている様な錯覚に襲われる。目の前の子どもたちと言葉を交わす度、その姿を交互に見遣る度、刻一刻とその答えは女の中に浮上した。

瞼の裏に感じる熱さは、陽光が禁忌になって以来忘れていた“眩しさ”であると。心臓が早鐘を打ち血が全身を駆ける目まぐるしさは、虚ろなままでは実感出来る筈も無かった“生きる喜び”だと。取り戻すには遅過ぎた“人間らしさ”によって、女は何とも言えない苦さと甘さに包み込まれた。何しろ、人間であった遠い昔ですらろくに経験の無かった思いだ。手探りながらも離れ難い。

『ここらは子どもだけじゃ危ないよ。妹を守る為にも、きちんと嗅ぎ分けな』
『うめ!』

真っ当な忠告に対し、少年が肩を強張らせた次の瞬間だった。兄の元に送り返した妹が、喜々として名乗りを挙げながら女の元に舞い戻る。今度は兄も焦りはあれど、声を荒げる様子が無かった。

『うめ!うめよ!』
『そう、梅。可愛い名前だね』

妹という事実は間違っていないが、呼ばれ方を訂正したいのだろう。兄に甘えつつも自己主張が強く、実に可愛い少女だ。女は抗えぬ引力に従うかの様に小さな身体を優しく抱き留めた。
ずっと眺めていたい。もっとこの兄妹について様々なことを知りたい。しかし強く芽生えた思いは、永久に叶わないものだと女は悟っていた。

限られた時を生きる素晴らしさは二度と戻らない。陽光に嫌われた身では釣り合う筈も無い、尊く光輝くふたつの命。忌むべき異物は関わるべきではない。頭では理解出来る筈が、身体が言う事を聞かない。

うずうずと光る青い瞳を見下ろし、女は期待に応えるべく妹を抱えたまま兄の元へと素早く移動した。興奮と満足に愛らしい歓声を上げる少女を降ろし、今度はすぐさま距離を開けることをしなかった為に傍で固まる少年を見下ろす。必要以上に刺激しない様、穏やかにそっと囁きかけた。

『あんたの名前は?』

ああ、青い瞳が何て美しい子だろう。
女はすっかりこの子ども達に夢中になった。




* * *




「俺らには、そんなに話し辛ぇことかぁ?」

唐突にかけられた声に遅れること数拍、目を丸くしては振り返った。

山小屋のすぐ裏手に、ひとつの井戸がある。桶を抱えて戸を出てからどれ程時間が経過しただろうか。日没直後の未だ薄暗かった景色は、すっかり夜の色を深めている。
下手な言い訳は無意味だと察し肩を竦めて見せれば、半目で溜息を吐いた妓夫太郎が空の桶を浚い水汲みを買って出る。手早い助けにが礼を発するより早く、彼は口火を切った。

「この前の客が来てから、ずっと上の空じゃねぇか」
「なに。気にしてくれるんだ」
「まぁなぁ」

珠世の訪問から数日が過ぎたが、答えは出ない。
否、出せないと言う方が正しいだろうか。

「妓夫太郎は優しいね。小さい頃からずっとそう」
「・・・うるせ」

子供扱いを強引に続けるには適さなくなった大きな身体、それでも変わることの無い青い瞳の美しさ。
いつの頃からか向けられる様になった熱意から目を背ける度に、胸の奥底の疼きをひた隠しに生きてきた。何十年経っても、蓋をしておくつもりでいた分不相応な望み。
井戸に向かう妓夫太郎に対し、背と背を預け合う様な形では夜空を見上げた。瞬間硬くなった大きな背中は、抵抗無くその甘えを受け入れてくれる。堪らなく幸福で、堪らなくもどかしい。心に痞えた友の声を思い返し、は短く夜風を吸い込んだ。

「あんた達は私の初恋だよ」
「その話なら何遍も聞いてるんだよなぁ」
「大切に眺めて、大事に見守れるなら、それだけで良かった。あんた達人間の幸せに、鬼の私は直接関わるべきじゃない。そんなの、最初からわかってた筈なのにねぇ」

びくりと、妓夫太郎の背が瞬間揺れた。

「馬鹿だよねぇ。悔いの無い様に、なんて言葉に今更揺さぶられるなんてさ」

馬鹿げた望みだ。最初からわかっていた筈の差異だ。人間という尊さの前では、鬼の身はあまりに霞む。
今だけだとわかっていながら、こうして隠すべきことも隠しきれない。いずれ普通の幸福を掴んで欲しいと願いながらも、心の何処かで掴んだ手を離したがらないのは自分の方ではないか。
恥じ入る様な自嘲を溢し、は俯いた。

「陽にも当たれない、ろくに老けも眠りもしない。こんな歪んだ私が、これから先もあんたの一番で居続けられる筈が無いのにねぇ」
「・・・聞き捨てならねぇなぁ」

だん、と強い音を立てて水の汲まれた桶が地面に置かれた。
背の支えが外れると共に、正面に回り込んだ大きな手が細い手首を掴む。鬼の力ならば難なく振り払える筈のそれが、どうしたって解けない手枷の様に思えて仕方がない。
青い瞳は、強いもどかしさを宿してを真っ直ぐに見下ろしていた。

「師匠が先のことを考えて、連れが俺じゃ不安になるってんなら、まだわかる」
「・・・妓夫太郎」
「けどなぁ。師匠が人間じゃねぇことを理由に俺の方が怯むって考えてんなら、大間違いなんだよなぁ」

怒りと呼ぶには優し過ぎる訴え。そして、蕩けそうな熱情。
こうなることが分かっていて、堪え性も無く吐露したのではないのか。自己嫌悪で押し潰されそうだ。
しかし、鬼の彼女を繋ぎ止める人間の手はまるで揺らがない。

「鬼だから何だ。寿命が何だ。師匠じゃねぇなら、俺達にとっちゃ何の意味も無ぇんだ」

永遠には共に生きられない。それを承知の上で飛び込んでしまいたくなる熱意が、ひとつひとつの言葉となりの頭上に降り注ぐ。戸惑う彼女に向けて強く眉を顰めた末に、妓夫太郎が空いた手を差し出した。

「・・・信じてくれるんじゃねぇのかよ」

小指を立てたその光景に、は目を見開いた。




* * *




『最初の夜、危ねぇことは嗅ぎ分けろって、そう言ったよなぁ』
『言ったよ』
『だったら教えろよ。嗅ぎ分け方ってやつをよぉ』
『良いよ』

簡潔な返答は間を空けずに齎される。少年は眉を顰めて両腕を組んだ。
夜の訪れと共に現れる女と交流が始まり早数月、両者の距離感は縮まりつつある。

『・・・返事がいちいち軽いんだよなぁ。変な奴』
『迷う理由も渋る理由も無いからだよ』

可笑しそうに薄く笑う女は、これまで兄妹が接してきた大人たちとは明確に違った。美醜の価値基準に囚われず、兄と妹を公平に包み込む。嘲りも蔑みもせず、時に揶揄い時に寄り添ってくれる女を、少年は日々戸惑った様に見つめるばかりだった。

『あんた達の安全に繋がるなら、私の知識は全部妓夫太郎にあげる。賢いあんたなら、必要なことを必要な分だけ活かしてくれるだろ』
『・・・俺なんかを、信じるのかよ』
『勿論』
『何で。何でそんなに、簡単に』

少年の知る人間は、漏れなく自己を信じ他人を信じない。己の利すること以外は、決して手を出さない。
他人の子どもを見返り無しに助けるなど、普通の人間ならば在り得ない話だ。
信じたいが易々とは信じられない。妹ほど素直には女に懐けない少年は小さな拳を固め下唇を噛んだ。
そんな様を覗き込み、小首を傾げた女が微笑む。

『どうしても理由が欲しいなら、私があんた達のことを好きになったから』
『す・・・はぁ?!』
『ただの“好き”じゃないよ。なんと、長く生きて初めての“好き”さ』

女の言う長く生きたという意味を、少年は正しく知らない。しかし、何の躊躇いも無しに正面から温かな言葉を贈られた少年は、大いに狼狽え顔中を真っ赤に染めた。女の表情は愉しげで、それでいて疑い様の無い慈愛に満ちている。すらりとした小指が、少年に向けて差し出された。

『約束。全部信じるし、全部教える。それから、全部守るよ』

指を絡める仕草を知らぬ少年が同じ様に小指を差し出すまでに相当な時間を要したが、女はそれを穏やかに微笑んだまま見守った。




* * *




震えながら絡めた小指は、当時とは比べ物にならない程大きい。小さく病的に痩せこけていた少年は、今や立派な彫刻師だ。
見下ろしていた筈がいつしか見上げる様になり、息子や弟の様に思っていた筈の存在がいつの間にか心の一部になっていた。
人生は何が起こるかわからないという友の言葉を思い起こし、は込み上げる熱を強引に飲み込み顔を上げる。

「・・・全部、信じる」
「おぉ」
「全部、守るよ。私、絶対にあんた達のこと、」
「師匠」

必ず守る。最後には貫き通すことの叶わぬその誓いを、妓夫太郎は遮った。

「信じてくれるだけで十分なんだよなぁ」

絡んだ小指が引かれ、身体全部を優しく包み込まれる。
途方も無い温かさに、月が何重にもぶれて見えた。




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