惑血鬼と廻天鬼





「私さ、雪の日が苦手だった」

静寂で覆われた夜に、決して大きくはないの声がよく響いた。

「あの夜を思い出すから。心臓が凍る様な思いも、何とかしなきゃって焦りも、忘れたことなんて無い」

白い息に溶けた言葉の真摯さは、疑い様の無いものだ。大層可愛がっていた人間の子ども達、その命の灯が消えかかる現実を突き付けられた絶望。どれ程月日が経とうとも忘れられぬ悪夢は、今も尚彼女の奥底に根を這っているのだろう。
珠世は友の語りに黙って耳を傾けていたが、不意にその口許から漏れる息が柔らかく変化した。

「けど、不思議だね。最近は割と穏やかな気分でこの白い景色を眺められるようになった。痛いくらいの静けさで、滅入ることも少なくなった」

麓町の外れに建った平屋は珠世が購入したもので、ほんの気持ち程度の縁側は女二人が隣り合い座る分には十分過ぎるものだ。
音も無く雪が降り頻る今宵、女鬼は互いに顔を見合わせた末に肩を竦め緩く笑い合う。

二人の容姿が同年代に見えていたのは、何年も昔の話だ。

「これも、老化の影響かねぇ」
「さあ、どうかしら」

何年経とうとも若い珠世の隣、ほんの僅か髪に白が混じり始めたは可笑しそうに肩を揺らし笑った。今の彼女は一見すれば珠世より一世代上の面持ちをしている。擬態ではなく、は明確に老いていた。

「鬼もいずれは老いて朽ちるもんなんだねぇ。ま、普通に生きてりゃ気の遠くなる先の話なんだろうけどさ」
「そうね。この身にもいつか自然な終わりが訪れるだなんて、考えもしなかったわ」

終焉を待ち望む様な口調で珠世が微笑んだ。

二人の内だけが老化することには、当然理由がある。
『廻天の加護』が細胞の活性化ではなく細胞操作の血鬼術であると気付いたのは、が人間の妓夫太郎と連れ合いになると決めた翌年のことだった。
始祖の男からは鬼の再生力を上回る能力を買われ、回復のみを命じられていた為に本人ですら長年誤認していた事実であったが、意図的な細胞劣化を促せる可能性を見出して以降の人生は変わり始めた。

果たして鬼に老化の概念はあるか。
未知の領域に臆せず珠世の協力のもと細胞劣化の実験と研究を繰り返すことで、二人の女鬼はひとつの確信を得た。
寿命自体は人間と大幅に違えども、鬼もいずれは老いて朽ち果てる時が訪れる。
血鬼術で細胞操作が出来るにとって、それは愛する者と共に老いることが出来るという光明に他ならなかった。

逃れ者同士の絆は、珠世に友への全面協力を即決させた。
たちの住まう山からほど近い場所に居を構え、研究と並行して有事の際は彼女たちを匿える環境を整えた。
急激な老化は即ち鬼として衰えることを意味する。人間の兄妹を守るという去りし日の友の決意を、珠世は喜んで共に背負うと決めた。
時間を置かずの血と細胞を詳細に調べ、不調や問題が無いかを確認する。日々急速に老化を促し続ける友の身を案じながらも、望んだ道を進む彼女の傍にいられることは珠世の温かな日常となり、もう随分と長い年月が経過した。
今宵もまた、と共に現れた人間の兄妹は奥の間で眠りに就いている。誰にも嫁がぬ選択をした梅を含め、揃って老いることを叶えた三人は幸福な家族だ。

「で、どう。薬は形になりそう?」
「未だ確証は無いわね。でも、貴女のお陰で研究は確実に進んでいるわ」

研究題材は鬼の老化だった。
自ら進んで終焉へと早回しを続けるは、臨床成果は全て珠世の好きに使えば良いと告げた。
細かい間隔で採取した血と細胞を元に、珠世は今人工的な老化薬の精製に着手している。が血鬼術を使い続けられなくなった時の保険として始めたことであり、すぐさま結果の出る挑戦では無かったが、珠世の熱意は遠くない未来の明るさを感じさせた。

「あんたの研究だから、使い道に口出しする気は一切無いけどさ」

二人の目が合う。
白い息が、細く漏れ出す。

「いつかこの薬が完成して、あんたがあの男に一泡吹かせる日が来たりしてね」

瞬間、世界が一層静まり帰る様な気配がした。

考えもしなかった言葉に目を丸くする珠世に対し、は小さく口端を上げている。
沈黙がどれ程続いたのか、時間感覚を曖昧にする雪景色へ視線を戻し、珠世が苦笑を溢した。

老いも衰えも、確かに始祖の男が忌嫌うであろう要素しかない。
しかし今、共に呪いから外れた古の女鬼達は揃って自然な滅びに喜びを感じているのだ。
自由な意思、支配下から外れることの尊さを実感する。

「もしそんな日が来るとしたら、それはの功績ね」
「どう考えてもあんたの力でしょうが」

呆れた様に半目で肩を竦めるとも、付き合い自体は長くともここ十数年で随分と距離が縮まった。自身の気持ちと向き合い人間の伴侶を得た彼女は、より一層柔らかく美しく歳を重ねている様に見えた。

「本当は、鬼を人間に戻す薬が出来れば一番良かったのだけれど」

珠世はを友として大切に思っている。
それ故、最善の手が判りながら叶えられない現実に目を伏せた。

「私には必要無いよ」
「でも、貴女の負担を減らせる筈だったわ」
「自力で老いて、あの子たちに追い付くことが出来る。それだけで十分さ」

人間と同じ速度で老いていく為には、日々途方もない細胞劣化を自らに促し続けなければならない。人間に戻すことさえ叶えば無用の負担を強いる結果に珠世は歯痒い思いを抱えていたが、生憎と奇跡はそう簡単に生まれない。
美しい眉を顰める友を横目に、はひらりと手を振って見せた。

「治すには消耗に悩まされてた血鬼術だけど、壊す分には割と簡単なんだよね。川の流れに逆らうか乗るかの違いかねぇ。とにかく、私にとってはそれほど負担じゃないんだよ」

上り一日下り一時。生きる上での真理を口にして、は笑う。

「まぁ、いつかあんたが本当に必要だと思った時、その薬が出来たら良いなとは思うけどね」
「・・・ありがとう」

友の成功を信じて疑わぬその目は、珠世の心に温かさと寒さを同時に齎した。
いつかのその時、は隣にいない。
淋しさに蓋をして、珠世は話の舵を切る。

「最近は、どう?」
「厄介な鬼が近付いて来る気配は今のところ無いね」
「そうじゃなくて」

僅か悪戯な笑みを浮かべ、珠世の方から一歩隣り合う距離を詰める。
彼女の耳元に、そっと囁いた。

「楽しい思い出は増えたのかしらって聞きたかったのよ」
「・・・」

老化は促せようとも、食生活や睡眠事情は変わらない。人間の兄妹が眠ってから朝が来るまでのひとときは、珠世に与えられた特別な時間だ。何しろは愛しの兄妹から、中でも夫にあたる彼から、強く大切に愛されている。
こうして詰めれば彼女が狼狽えるとわかり数年、少々強気に押せば渋々口を開くとわかり更に数年。今宵もまた消え入りそうな声で告げられた出来事は、誰に聞き取れずとも珠世だけが受け取れる。実に頬の緩む、愛と幸福の結晶だ。

「あら。ふふふ、それはとても素敵。変わらず愛されているのね」

やはり、女同士で交わす恋の話題は楽しい。
にこやかな笑みをそのままに珠世がさらさらと書き記した手元を、は見逃さなかった。

「・・・え、何余計なこと書き残してるのさ」
「何って、貴女のこと」
「ちょっと・・・ええ?何時の間にこんな・・・」

隠す気も無い一冊の書物は友の手に攫われ、頁を遡るごとに彼女の目が見開かれていく様は少々可笑しかった。
これまで渋々明かしていた気恥ずかしい話が事細かに綴られていた現実に、は眉間に皺を寄せ珠世へと本を突き返す。

「これは研究のまとめじゃなかった?」
「ええ。でも、広い意味では貴女の本よ」

右の頁に老化研究を、左の頁にの愛の軌跡を。
悪びれることもなく、珠世は大切にその本を胸元へ抱き寄せる。

「私の一番長いお友達が、初恋を叶えて幸せに人生を終えるまでのお話」

そう、これはの本であり、彼女がいなくなった後の珠世の為の本だ。

が無事に旅立った後何度も読み返して、私は何度でも貴女を思い返すの。読む度心が安らぐ様な、鬼でも道を切り拓けると勇気を貰える様な、幸せな一冊にしたいわ」

人間を相手に恋を知り、互いの気持ちを尊重した愛を知り、大切な家族に合わせて天寿を全うする道を選んだ女鬼の物語。
の壮大な人生に友として携われたことは、珠世にとってかけがえなき時間に他ならない。
例え見送る側の淋しさが先で待っていようとも、この本さえあれば彼女を感じられる。友の幸福な記憶に触れて、生きていくことが出来る。
そうして優しく微笑む珠世の横顔に、は何とも言えぬ顔をして額を掻いた。

「・・・そんなこと言われたら、残りの白紙も良いことで埋めさせなきゃって気になってくるんだけど」
「ええ、それが狙いだもの」
「まったく、良い友達だよ」

白い息を溜息代わりに、が縁側から立ち上がった。兄妹の寝顔を眺めに行くのだろう、確認せずともわかる為に珠世は黙って見送る。
そんな時だった。彼女が静かに立ち止まる。

「珠世」

友の後ろ姿は振り返らない。
しかし、何故かをとても近くに感じる。

「・・・ありがとね」

何に対しての礼かはわからない。足早に奥の間へ消えたを見送り、珠世は穏やかな笑みを溢した。

「こちらこそ、ありがとう」

今、生きていることを強く感じる。
冷え込む雪景色の中、珠世は温かな思いと共に本を大切に抱き寄せたのだった。

白紙は年月をかけて埋められていく。
古の女鬼が愛する友を見送るまでの、幸福に満ちた物語。




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