或る変化






両手に握った欅の切り出しに、見事な鳥の姿が彫られている。
時間をかけて細部まで眺めた珠世は、感嘆の息とともに心からの賞賛を告げた。

「・・・とても素敵」

嘘の無い評価だ。長年生きたことで自然と鍛えられた目にも、この彫刻は紛うことなき“美”として映った。
そんな珠世の姿を正面に見据え、長年の友たるの表情が得意げに緩む。隣に座り込む彫刻の造り手を小突くことも当然忘れない。

「良かったね。妓夫太郎の作品、褒められてる」
「この状況で正面から貶せる奴はそういねぇんだよなぁ」
「あんたが想像してるより遥かに付き合い長いんだから、お世辞か本音かくらいはわかるよ。堂々と胸張りな」
「彼女の言う通りよ。素晴らしい作品を見せてくれてありがとう」

珠世は丁寧に木彫りを返し、改めて正面に座る三人に微笑みかける。
七年前、同じ山小屋で初めて顔を合わせた兄妹は見事な大人へと成長を遂げた。奇妙な程に痩せ細っていた翳りは遠い昔の話。生死に関わる外傷と荒みきった内臓を造り変えられた夜を経て、如何にから愛され守り育てられたのか。その証たる二人の成長ぶりに、珠世は美しく眦を下げた。

「見違えたわ、二人ともすっかり大人になって。お兄さんは彫刻師、妹さんは麓で噂の“深山の姫“ね」
「なに、しっかり情報収集済みって訳ね」

麓町では実によく彼女らの様子を窺い知ることが出来た。
古の女鬼は二人して金銭に困ることの無い財と人脈を有していたが、どうやらこの兄妹はそこに頼りきることを良しとしなかったらしい。
兄は凄腕の彫刻師、妹は絶世の美女。兄が遠方から足を運ぶほどの上客を捌く傍ら、求婚者達から妹への貢物が絶えない生活はどれほど裕福かと思いきや、深い山奥での慎ましい小屋暮らしだと言う。
日中は滅多に人里へは降りず、しかし夜の闇と共に気まぐれに現れる兄妹はどちらも人目を引く存在感を放っており、町で彼らを知らない者はいない。そして二人は必ず、或る女の傍を離れない。どちらにとっても等しく母とも師とも恋人とも取れる、不思議な魅力を携えた女だと麓町の人間はこぞって噂をしていた。
七年を経た三人の姿は確かに極めて近い距離感で成り立っており、珠世は優しげな笑みを崩すことなく梅に目を向ける。

「道中、肩を落としている殿方とすれ違ったわ。姫君のお眼鏡に叶うには、なかなか道が険しそうね」
「別に。難しいことを言ってるつもりは無いけどね」

何しろどの様な男であっても首を縦に振らないという絶世の美女は、まるで瑣末なことの様に二本の指を立てた。

「まず、お兄ちゃんより格好良い殿方。次に、お師匠より素敵なひと。この二つさえ乗り越えてくれれば喜んで嫁いであげるのに」
「ふふ。それは厳しいわね」

簡単なことの様に口ずさみながら、誰も現れる筈が無いという確信じみた響きがした。珠世がそれを察しながら微笑むと、梅の隣でが大きく溜息を吐きながら肩を竦めて見せる。

「良さそうなひともたまにいるんだけどねぇ。何しろ第一の壁が高いのなんのって」
「・・・問題の条件は二つ目なんだよなぁ」

二人して譲り合う問題ではなく、これは梅が外に嫁ぐ意思の無い表れだ。珠世の見ている目の前で、通称深山の姫は幼子の様に強くに抱き着く。

「良いのっ!!アタシはずーっとここで暮らすわ、それがアタシの幸せよ!ねっ、お兄ちゃん!」
「梅が言うならそうなんじゃねぇかぁ」
「まったく。いくつになっても困った子たちだよ」

左腕に梅を抱き留め、満更でも無い顔をして眉を下げる女鬼からは満ち足りた匂いがした。ついでと言わんばかりに伸ばした右手で頭を撫でられた妓夫太郎はと言えば、眉間に皺を寄せながらもその場を動かないのだけれど。

「いくつになっても餓鬼扱いに困ってるのはこっちなんだよなぁ」
「んん?生意気言うのはどの口だろうね?」
「へーへー、悪かったなぁ」

面白くなさそうに妓夫太郎が呻く。その光景の小さな違和感に、珠世は密かに目を瞬いた。
見た目の年齢で言うならば、とうに親子や姉弟と呼べる時期は過ぎ去っているだろうに、はどうも頑なに妓夫太郎を子ども扱いしたがっている様に見えたのだった。




* * *




小さな包みを小屋に忘れたことに気付いたのは、夜半の暗闇に紛れて山を下りる最中のことだった。珠世は来た道を引き返し始めて早々、足を止める。鬼の耳が遠く離れた二人の会話を拾った為だ。

「気持ち良さそうに寝てる。よっぽど珠世に貰った着物が嬉しかったんだねぇ」
「ったく。大分はしゃいでたからなぁ」

贈られた艶やかな着物を大層喜んだ梅は、客を帰した途端に眠気に負けてしまったらしい。
穏やかな寝息、声を顰める二人。耳が拾った音からは、十分過ぎるほど優しい光景が伝わって来る様だった。

「寝顔はいつまで経っても子どものままだね。何年眺め続けても飽きないよ、本当に」

珠世が知る限り、直接聞いたことが無い程に優しく慈愛に満ちた声がした。何年経とうとも、姿がどう変わろうとも、彼女の兄妹にかける愛情は変わらない。その証であり、言い聞かせるかの様な囁きの末、不意に静寂が訪れる。

「なぁ、師匠」
「何?」

何故だろう。妓夫太郎がに対し距離を詰める様が、はっきりと脳裏に浮かぶ。

「何で師匠は、俺たちを―――」

火鉢の細やかな爆ぜる音で、瞬間湿度を増した空気感が変わる。珠世はそれを、見えない距離ながら固唾を飲んで見守った。

「・・・いや、何でも無ぇ」

僅かな衣擦れ、吐息にも似た微笑み。苦い表情で言葉を引き下げた妓夫太郎の髪を、が優しく撫でたのだろう。酷く、胸が痛んだ。

「お客さんが来て妓夫太郎も疲れただろうけど、もう少しだけ頑張って起きててくれる?」
「出掛けんのか」
「珠世の忘れ物を届けて来る。ちょっとの間だけ、梅のこと見ててやって。私もすぐ戻るから心配いらないよ」

当然、珠世が様子を窺っていることには気付いていたのだろう。ほんの数秒後に姿を見せた女鬼は、小屋に置き忘れた包みを迷い無く差し出した。

「普通に戻ってくりゃあ良いのに」
「・・・ありがとう」

暖かな小屋から冷え切った山中に出てきたの表情は、温度差によって強張っている様に見えた。鬼ならば、何のことは無い筈の高低差。それでも珠世は今、彼女に言葉をかけず帰ることは出来なかった。

「・・・。貴女、大丈夫?」

言われた言葉を飲み込む、それすら数秒の時間をかけた末、はへらりと苦笑を浮かべる。

「私は珠世に心配ばかりかけてるね。けど、例え五十年後に同じことを聞かれたって、私は大丈夫って答えるよ」

パチ、と遠い火鉢の音が聞こえる。
当然こちらの会話は聞こえていないであろう人間の青年、妹の寝顔を見守りながら待ち人の帰りを待つその背中。
脳裏に浮かんだ光景との苦笑が合わさって、言葉では表現しきれない切なさが湧き上がる。
七年の月日が三人の均衡を美しいものへと引き上げたが、二人はこの先老いるばかりだ。

「命の祝福の仕方はひとつじゃないさ。人間のまま、限りある命を平穏に生きることがどれ程素晴らしいか・・・あんたも私も、痛いほどよく分かってる筈だよね」

珠世の内心を理解しているかの様には告げる。その淋しげな笑みは、やはり珠世の知るどの友の顔とも一致しないものだ。
何もかも虚な生をやり過ごしていた彼女が、初めて見つけたであろう光。得ると同時に喪失が約束された幸せを自ら選んだ友に対し、珠世が言えることなど限られている。

「それなら私は、貴女の選択すべてを祝福するわ」

しかし、黙ってなどいられる筈が無かった。
珠世は目を丸くする長年の友の手を握る。

二人が巣立つまで共に暮らすのだと。無事世帯を持った後も生涯鬼は近付けさせないと告げた七年前のは、今の状況を果たして予想していただろうか。
巣立つどころか離れる気配すら無い兄妹。均衡が崩れようとする刹那、妓夫太郎の目に宿る燻る様な熱い炎。

「人生は何が起こるかわからない。それも限りなく素敵なことだって、貴女も知っている筈よね」

否、きっと違う筈だ。人生は思った通りには進まない。儘ならぬこともあれば、思いがけぬ変化もきっとある。
去し夜の彼女の決意は美しいものであったが、何もかも蓋をして二人を守ることに徹する必要は、果たしてあるのだろうか。珠世は今それを問う。

「貴女が二人の人生を見届けることを決めていると、わかっているわ。でも、どうか悔いの無い時間を過ごして頂戴。貴女が選ぶ道の全てを、私は必ず肯定して祝福するわ」
「・・・何を、言って、」
「私もね、鬼である前に女なのよ」

七年振りにその空気感に触れた珠世ですら気付いたことを、毎日共に過ごす自身が気付かぬ筈は無い。
そして、頑なに彼を子ども扱いする彼女の痛ましさに気付けぬほど、付き合いも浅くは無い。

「長いお友達を取り巻く恋の気配には、それなりに敏感でいるつもりよ」

その一言に、彼女は言葉を失う。やはり時が経てば変化は起きるのだ。
あの子達は私の初恋だと、以前のであれば難無く口にしたであろう台詞は、いつまで経っても出て来ることは無かった。




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