君は君であって 終章











その少年の誕生は、驚きと喜びに満ち溢れたものだった。









とある病院の一室にて。
生まれて間もない小さな命が、父親に抱かれて優しく揺られている。
眠る気配は無く、しかし泣き出す気配も無い。
ゆっくりと我が子を慈しむ彼の姿を、はベッドの上から穏やかな気持ちで見守っていた。

「・・・こんなことが、あるんだなぁ」

ポツリと、妓夫太郎が呟く。
いざ生まれてくる直前まで、万一子どもに痣があったらと不安がっていた面影は何処にも無い。
実際にしみひとつ無く誕生した我が子を抱いて、彼は今別の驚きに心を動かされ続けているのだ。

こんなことが、在り得るものだろうかと。
出産直後に初めて対面を果たしたも、次に恐る恐る病室に通された妓夫太郎もまた、この子には喜びと共に不思議な驚きを覚えずにはいられなかった。
二人の思いは、叔父となった幸太郎の反応で確信へと変わる。待望の瞬間に緊張しながら両腕を差し出した幸太郎の、初めて甥っ子の顔を認めた瞬間の涙。信じられないと見開かれた目。例えようも無いほどの、喜び。
その瞬間をもって謝花家長男の名前は決まり、と妓夫太郎は顔を見合わせ頷き合ったのだった。






「やっと会えて、嬉しいね」
「おぉ」






理屈では無かった。

ただ、生まれたばかりのその姿を見て、あの子だと―――三人の心が強くそう告げたのだ。






「よろしくなぁ―――春男」







* * *






「はるにーちゃ!!」

幼稚園の一室に、甲高い声が響く。
一人黙々と画用紙にクレヨンで絵を描いていた園児―――春男が、顔を上げた。
美しい白い髪を二つ結びにした幼子が、瓜二つの母親に抱かれてこちらに手を振っている。
叔母と従妹の思わぬ登場に、春男の黒く大きな瞳が驚きに見開かれた。

「祭ちゃん!梅ちゃん!」
「春男、迎えに来たわよー」

ここはキメツ学園の系列で新設された幼稚園だ。
理事長からの指名により高等部で教鞭を執っていた悲鳴嶼が園長を務めるこの園は大変に評判が良く、春男は昨年よりここへ通っている。
迎えのピーク時は少し過ぎ園児も疎らにしか残っていない教室で、エプロンをかけていた教員が保護者の登場に気付かない筈は無く。

「あっ・・・こんにちは」

梅の顔を見るなり、新任の教諭―――竈門竹雄は、貼り付けた様な笑顔で挨拶をした。
恐らく無自覚であろう分かり易いこの態度には、梅が容赦の無い睨みを返す。

「相変わらずねアンタ・・・露骨に期待外れな顔すんじゃないわよ、それでも職員なわけ?竈門センセイ?」
「いえっ!!そんなことは・・・!!」

竹雄は未だ妓夫太郎に強く憧れる少年の心を捨てておらず、幼稚園教諭となった今も稀に妓夫太郎が春男を迎えに来た日には瞳を輝かせるものだから困ってしまう。
尤も妓夫太郎が子ども達の人気を集める才能も健在のため、園児たちと竹雄の小競り合いが起きて先輩教諭が叱りに飛んで来るまでがお決まりの流れであるのだけれど。
まさしくその先輩教諭たる不死川玄弥が今日も素早く現れ、竹雄を巻き込む形で梅へと頭を下げた。
玄弥にしてみれば、梅とその夫である立花夫妻・春男の両親である謝花夫妻は全員が学園の先輩に当たる特殊な家庭だ。
特別扱いはしない信条であっても、やはりどこか失礼の無い様にと気を張ってしまうことも多い。

「すいません、何分新人なもので・・・指導しときます」
「別に良いけど。お兄ちゃんが格好いいのは事実だし」
「はぁ・・・ソウデスカ」

こちらも相変わらずの様である。玄弥の口調が若干棒読みになった。

さて、春男は迎えに来たと言われ大人しく帰り支度を整えることが出来る子どもだった。
描いた絵をしまい、帽子を被り、静かに歩み寄って梅を見上げる。
叔母と従妹に会えたことは嬉しいが、この迎えがイレギュラーであることを賢い春男は悟っていた。

「梅ちゃん、お父さんとお母さんは?」
「ちょっと大事なご用。夕方には帰って来るから、うちで遊んで待ってなさい」
「・・・はぁい」

梅に抱かれた小さな祭が、にーちゃ、と声を上げる。
放せば園内を駆け回ってしまうお転婆娘なことをわかっている手前、家に帰るまでは解放されないであろう従妹を見上げて春男は優しく笑った。
両親の大切な用事とは何だろうと、幼い少年が思いを巡らせたその時である。

「やぁ俺の可愛い天使!じぃじも来たよ!」
「げ・・・車で待っててって言ったのに」

妙に明るい声が梅の背後から響き、同時に彼女の表情がこれでもかと言わんばかりに引き攣る。
じぃじと自称してはいるが凄まじく若い男が、にこやかに手を振っていた。
新たな保護者の登場に玄弥が礼儀正しく頭を下げ、竹雄もそこに倣う。

「こんにちは、碓氷さん」
「こんにちは」
「やぁこんにちは、いつも俺の天使が世話になってるねぇ」

春男を天使と呼ぶこの男、碓氷は妓夫太郎と梅の親代わりの男である。
厳密に言うなら血縁関係は無いのだが、彼らの子どもであれば自分はじぃじであると豪語して今に至るのだった。
挨拶もそこそこに、春男を呼び寄せ屈んで頬擦りをする彼を見下ろしていた竹雄が呆然と呟く。

「・・・相変わらず、まったくお年をとりませんね」

非常に正直な感想だった。
竹雄がそれこそ中学生の頃から知っている、妓夫太郎達の保護者たる碓氷は当初より年をとっていないのではないかと思う程若々しい。
しかし、園児を預かる教諭としては余計な失言だ。玄弥が目の端を吊り上げ脇を小突く。

「・・・竈門先生」
「いやいや先生、険しい顔をしないでおくれよ。そう言って貰えると俺も嬉しいんだ。あっ・・・でも若く見えるなら、じぃじじゃなくお父さんでも通用するかな?」

深過ぎる漆黒の瞳が、素晴らしい閃きを得たとばかりに輝いた。そんな悪戯な表情もまた若々しい。玄弥は気圧される様に、父でも通用するかという問いに頷いて見せた。

「・・・問題なく通るでしょうね」
「だって!どうする俺の天使!俺がお父さんになってしまおうか?」
「ちょっと、アンタねぇ・・・」

調子に乗るんじゃないと怒鳴ろうとした梅の言葉は、発されることは無かった。

「だめ」

それより先に、春男がはっきりと拒絶をしたためである。
愛らしい双眸で真っ直ぐに碓氷を見据え、小さな少年は精一杯の否を主張する。

「お母さんといちばん仲良くできるのは、お父さん。じぃじはだめ」

これには一瞬、場が静まり返った。
この子の両親たる二人がおしどり夫婦であることは有名な話であるが、春男の理解力はある意味園児の域を超えているのではないかと、大人達は一様に言葉を無くす。
しかし春男は聡明であると同時に、非常に優しい子どもだった。
真っ向から否定してしまった碓氷の手を握り、彼なりの気持ちを懸命に述べる。

「・・・じぃじはじぃじが良い」
「そうかそうかぁ!じゃあ俺は、じぃじとしての役割を全うするよ!」

碓氷の立ち直りは早く、その長身で素早く春男を抱き上げ一回転した。
父と呼ばせる作戦は失敗に終わったが、それでもこの男は初孫たる春男を天使と呼ぶことをやめない。
このままではおもちゃコーナーで春男の好きなシリーズを棚ごと買い占めかねないと、梅は表情を険しくして帰宅を促した。

「はいはい、じぃじの役割は運転手よ。さっさと全うして」
「勿論だけど辛辣だなぁお嬢ちゃん。姫は優しい女性に育っておくれよ」

春男を抱きかかえたまま、碓氷はその形の良い笑顔を祭にも向けた。
姫と呼ばれ、まさに梅をそのまま小さくした様な幼子は、母親の血筋かあまり碓氷には懐かない。
きゅっとその眉間に皺がより、その目元が険しくなった。

「・・・じーじ、めっ!」
「はぁー怒られてしまったけど可愛いなぁ・・・」

まさしく幼い梅に叱られている様な心持ちで、碓氷は堪らなく幸せそうな顔を見せたのだった。





* * *




「・・・ってことがあったわ。碓氷の奴、盛大に振られててちょっと笑えた」

立花家のリビングにて、梅が幼稚園での顛末を幸太郎に聞かせていた。
遊び疲れたのかひっくり返って眠る祭の傍で、春男が熱心に絵を描き続けている。
従妹の祭の遊び相手も、一人で静かに待つことも出来るだなんて、いつものことながら少々手が掛からなさ過ぎる甥の姿に二人して苦笑が漏れた。

「フォローまでしちゃうあたり、春男は優しいけど」
「ふふ、それもこの子の沢山ある良いところのひとつですね」

特別な縁もあり、幸太郎が春男を見守る視線は特別に優しいものだ。
その隣で愛娘が穏やかな寝息を立てているのだから、この光景の尊さは彼にとって計り知れないものだろう。
夕暮れの温かなひとときに梅もまた小さく笑みを漏らしたその時、玄関の鍵が開く音がした。

「あ。帰って来た」

梅がそう呟くよりも早く、子どもの耳は待ちかねた音を拾っていたらしく。春男は既に玄関へと駆け出していた。
靴を脱ぐより先に広げられた母の両腕に、小さな少年は躊躇なく飛び込む。

「おかえりなさい!」
「ただいま!お迎え行けなくてごめんね・・・!」

母の柔らかな匂いと優しい温度が、春男は大好きだ。
惜しみない愛情に包まれて、ふわふわとした夢の中で遊んでいる様な心地でいられる。母の腕の中は春男の大切な居場所だ。

「良い子にしてたかぁ?」
「ん!してた!」
「そうか、偉いなぁ」

次いで頭を撫でてくれる父の手も、春男は大好きだ。
この声に褒められるためなら何でも頑張ろうと思えるほどに、春男にとっては特別自慢の父だ。

そうして謝花家が三人玄関で寄り添っている光景を覗き込み、梅が間延びした声を上げた。

「お帰りなさーい」
「二人ともお帰りなさい、上がって下さい」
「ありがとう梅ちゃん、お兄ちゃんも」
「迷惑かけたなぁ」

今や親戚同士となった四人で声をかけ合う姿も、昔から変わらないことのひとつだ。
妓夫太郎との間に春男が。その二年後、幸太郎と梅の間には祭が誕生し、近所に住まう二組の家庭は互いに助け合いながら賑やかな毎日を過ごしている。

今日は突如として幼稚園の迎えを頼まれた梅であったが、礼や謝罪は不要とばかりに軽く手を振って見せた。彼女も今や逞しきひとりの母である。

「別に平気よ。春男がいると祭も喜ぶから大助かり」
「祭ちゃんと遊ぶの、楽しい」
「そっかそっか・・・あっ、祭ちゃんは寝ちゃってるのね、静かにしなきゃ」
「大丈夫よ、ぐっすりだからそう簡単には起きないわ」

春男と祭は仲の良い兄妹の様にすくすくと育っている。
兄と妹という関係性にはそれぞれ縁があるのかもしれず、親となった四人は懐かしくも眩しい思いでこの二人の成長を日々見守り続けていた。

「土産。時間はかけてねぇから適当で悪ぃけどなぁ」
「おや、アイスがこんなに。すみませんね、逆に気を遣わせてしまって・・・」

リビングへと上がるなり、妓夫太郎が持っていた箱を幸太郎へと差し出した。付け加えるならば、駅前にある梅の好きな店のアイスだ。
柔らかく微笑んでいる幸太郎に箱を預けるなり、彼はこちらを興味深そうに見上げる春男の傍へ屈み込む。
何かの手伝いをさせて貰えると察したのだろう。背筋を伸ばしてワクワクと目を輝かせる様子に思わず頬が緩んでしまうのは、父だけでなく叔父にも同じことが言えた。

「春男。冷凍庫にしまう手伝い、出来るかぁ?」
「うん!」
「ふふ。では一緒にしまいましょうね」

喜々として返事をする春男を挟んで男性陣がキッチンへと消える背を見送り、と梅は可笑しそうに笑った顔を見合わせた。
祭は未だぐっすりと夢の中だ。ゆっくりして行って欲しいとに席を勧めた梅が、そう言えばと目を瞬く。

「それで?別にお迎えは全然手間じゃなかったけど、今日は何があったの?」
「・・・えっと」

は一瞬言い淀み、そして普段通りの柔らかな笑みを浮かべて見せた。
さて、何から話すべきか。

「随分昔の忘れ物を、二人で回収したの」

どういうことかと梅が怪訝な顔をすると同時に、叔父の手を引いて春男が駆け戻って来た。
の隣を陣取り手伝いの報告をする春男の声と、祭の寝言の両方を聞き取ろうとする幸太郎は忙しく、そんな夫の姿に梅が可笑しそうに笑っている。

最後に戻って来た妓夫太郎は、一歩引いた位置で不意に立ち止まった。
普段通りの光景の筈が、遠い夏の記憶を取り戻したばかりの為か妙に沁みる。

温かな団欒は、いつか夢見た以上の幸福を象っていた。

「お父さん、こっち!」

春男が空いている逆隣の席を指し示し、早く早くと手招きをしている。
息子の隣で微笑むと目が合い、十二年前の彼女に告げた言葉を改めて噛み締めた。






『俺は間違いなく幸せだ。十二年前も、今もなぁ』



その表現に誤りは無かったが、不足な点も否めない。



―――途方も無く幸せだ。昔も今も、これからも。



妓夫太郎は緩く口端を上げて、家族のもとへと一歩を踏み出した。






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