君のすべてが





挿絵版
お世話になっております鳩ぽっぽさんより素敵な挿絵をいただきました!
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体育館横の女子更衣室はそれほど混雑せず、広々と使うことが出来た。
体操服から制服へ着替えながらつい先ほどのことを思い出し、は何も持たない手でラケットを持った気になり素振りをする。バドミントンはあまり経験は無かったものの、今日の授業はとても楽しかった。良い音を立ててラケットを振り抜いた時の爽快感はなかなかのもので、来週の同じ時間に二回目が予定されていることが早くも待ち遠しい。

さん」

丁度良いタイミングでかかった声に顔を上げ、は嬉しそうに笑う。隣のクラスとの合同体育は今日が初めてだったが、伸び伸びとバドミントンを楽しめたのは恐らくこの頼れるパートナーのお蔭なのだ。彼女は既に着替えを終えて、にこやかに佇んでいた。

「しのぶさん。お疲れ様、さっきはありがとう」

お互いにクラスが違うにも関わらず早くも名前で呼び合う仲なのは、薬学について話が通じるという嬉しい共通点からだった。

外部からの入学者であるしのぶは昨年の文化祭配信で薬学研究部の下りを見ており、と是非話がしたいと思っていたと開口一番に告げた。
同世代では兄以外になかなか語れない分野に特化した友人だ。は嬉しさに目を輝かせた。
その流れで今日の合同体育ではコンビを組むこととなった訳であるが、この大変に小柄な身体で彼女は素早く動き、即席ペアであるのアシストをしてくれた。体力と身のこなしでは一線を画すと組めば圧勝は確約された様なもので、今日の授業は予定よりも早く終わる運びとなった。
六限体育は夕礼無しで帰ることが出来る貴重な機会だ。強いペアがいると試合も捗って助かると誰もが口にして二人に感謝していた。

「いえいえ。さんとってもお上手だったのでこちらこそ助かりました。流石ですね」
「そうかなぁ。次もしのぶさんとペアだと心強いよ・・・」
「こちらこそ喜んで。来週もよろしくお願いします」

次週同じ時間の確約も取れ、は頼もしさに微笑み返した。高校に上がりクラスが増えたことで合同授業は何回かあるが、こうした機会は他のクラスとも交流が出来るから楽しい。

本当ならしのぶと同じクラスである彼とも会えるかと期待したものだが、生憎今日の授業は男女別であった。放課後になれば会えることはわかっていつつも、一分一秒を惜しんで顔を見たくなってしまうのは自身どうにもならない気持ちだ。早く男子の方も終わらないだろうか、そんなことをぼんやりと考えながら制服のボタンを留めた、その時。

「あ。そうそう、さん。この後少しだけ、お時間ありますか?」
「ん?良いけど、どうしたの?」

しのぶはとても楽し気に微笑み、ぱちんと両手を合わせて見せた。

「男子の柔道が少し面白いことになっている様なので。良かったら、見に行きませんか?」

まさに渡りに船。
そんな心境でが目を見開くことを、彼女はわかっていた様だった。


* * *



学内の武道場は放課後になれば剣道部と柔道部の稽古場となるが、男子体育の授業でも使われる場所だ。
まさに今日の合同体育で、女子はバドミントンを行った裏側では男子が柔道を行っていた。未だ騒ついている場内へ足を踏み入れ、としのぶは柔道着姿の男子たちの間を縫う様に前へと進む。

人だかりに囲われた円の中心では、一組のペアがお互いの道着を掴み合いピリピリとした空気を漂わせていた。まさに会いたいと思っていた彼の姿に、は目を丸くして足を止める。

「・・・妓夫太郎、くん」
「あっ・・・立花妹来てたんか。久しぶり。女子はバド終わったんだな」
「うん、久しぶり・・・」

丁度隣にいた男子が声を上げた。昨年、柊組で一緒だった彼は今は隣のクラスとなっている。小さく挨拶を返すなりすぐに目の前の二人に釘付けになるを見遣り、彼は解説役を買って出てくれた。

「すげぇんだよ。素山はもう誰がどう頑張っても勝てねぇんだけどさ、謝花の奴一歩も引かねぇの。ずっと膠着状態」

妓夫太郎と組み合っているのは、狛治だった。
も狛治がこの手のことに滅法強いことはよく知っている。彼は昔から武術を嗜んでおり、将来は恋雪の家の道場を継ぐことが決まっているのだ。柔道の授業では誰も彼に太刀打ち出来ない、それは当然その通りだろう。
しかし今、の恋人はその狛治に対し一歩も引かない姿勢を見せていると言う。

「ふふ。素山くんの構えと違って隙がありそうに見えますけど、謝花くんなかなか頑張りますね。どこに重心をかけて立ってるんでしょう。興味深いです。ねえ、さん?」

隙の無い構えで腰を落とす狛治と比べ、確かに妓夫太郎は普段通り気怠い様子で足元が若干危うい。しかし膠着状態が続いているということは、迂闊に手が出せないと両者共に張り詰めた空気を崩さずにいるためだ。
息を呑んで二人を見守るの耳には、最早友人たちの声はそう簡単には通らない。

「・・・もしもーし、さん?」
「駄目だこりゃ、聞こえてねぇわ。謝花と付き合ってるのってマジだったんだなぁ」

どちらかが半歩踏み込めば道着の握り合いに力が入り、また距離が空く。息苦しい程の緊張感に胸の前で両手を握りしめて、は妓夫太郎を見つめる。
周囲の騒めきが遠く、心臓の鼓動が煩い。
狛治を睨みつけ一歩も引かぬ姿勢を見せていた妓夫太郎が小さく息を吸うその瞬間を、は目を見開いたまま見届けた。

「っ・・・!!」

次の瞬間、彼の身体は綺麗な軌道で宙を舞った。



* * *



「やっぱ強ぇわ素山、何あの投げ技・・・」
「いや、謝花もよく食らい付いたよなぁ」

二人の組手に決着が着くのを待っていたかの様に、観戦していた他の生徒たちが次々とその場を後にする足音が聞こえる。皆口々に妓夫太郎の健闘を讃えてはいるが、狛治の勝利という結果は変わらない。
大の字に横になり天井を睨み上げたまま、妓夫太郎は悔しさに眉を顰めた。一体どれほどの時間お互いに牽制しあっていたのか、尋常ではない疲労感を感じる。

「大丈夫か」
「・・・放っとけよなぁ」

律儀に引き起こそうと差し出された手を一瞥し、妓夫太郎は顔ごと狛治から目を逸らした。

と四年連続でクラスが一緒だというこの男を、妓夫太郎は未だ良く知らない。文化祭のあの日、見ず知らずの妓夫太郎が構内に入れる様上着を貸し与えた男。と幸太郎が妓夫太郎と梅を探すにあたり、どうやらその婚約者と共に二人を支え励ました友人とは聞いている。幸太郎とも仲が良い様であるし、が仲良くして欲しいと言うのであれば無難な付き合いはするつもりでいた男である。

今日の授業で一緒になり、誰もが狛治とは組みたくないと苦笑を浮かべる中、偶然目が合ったのが妓夫太郎だった。組んでみるか、と静かな口調で問われた時に覚えたのは小さな闘争心だったことに間違いはない。
格下と思われていることへの憤りであったり、と同じ教室で長く過ごすことへの嫉妬もあったかもしれず。ともあれ実際に組み合った結果がこれだ、見事な投げ技で決着を着けられてしまった。完敗である。

「断っておくが、授業で本気を出したのは初めてだ。なかなかやるな、お前」
「うるせぇぞ、負けは負けだろうが」
「・・・違いない、か。とにかく良い勝負だった。ストレッチしておけよ」

狛治は無理に妓夫太郎を起こすこともせず、彼なりのフォローを残して遠ざかって行く。乱れた息を整える様に再度深く息を吐いた次の瞬間、とある会話を耳が拾ってしまった。

「悪い、本気で行った。受け身は取れていたから怪我はしてないと思うが・・・」
「ううん、良いの。素山くんもお疲れ様」

らしい返しだと妓夫太郎は余計に眉間の皺を深めた。
集中を切らさずとも、が途中から来ていたことはわかっていたのだ。彼女の視線を痛い程に感じ、何とか活路を見出さなくてはと踏み込んだ結果こうなった。
否、何を言っても言い訳にしかならないだろう。に良い所を見せたいなどと欲が出たのだ。控えめな足音が近付いてくるのを感じ、妓夫太郎は観念した様にそちらへと顔を向ける。
静まり返ったその場には、もうと妓夫太郎しか残っていなかった。目が合うとは穏やかに微笑み、すぐ傍に腰を下ろしてくれる。

「お疲れ様」
「・・・格好悪いところ、見せちまったなぁ」
「そんなことないよ。素山くんを相手にここまで善戦出来たのって凄い。皆そう言ってるよ」

確かにそれはそうなのだろう。狛治は強いと、実際に組み合ってみて妓夫太郎も痛感した。
しかし負けは負けであるし、の前で情けない姿を晒したことも事実なのだ。そうして視線を逸らす妓夫太郎を見て、がそっと距離を詰める。

「・・・ごめん、皆は関係無かったね」

投げ出された妓夫太郎の手に、の手が優しく重なった。
つられる様に視線を上げると目が合い、彼女の笑顔が真っ直ぐ向けられていることを知る。寝転んでいるため当然だが、に見下ろされているという滅多に無い状況を意識した途端、妙に落ち着かない気分になった。

「私、妓夫太郎くんが真剣に頑張ってる姿見てるだけで、ドキドキした」

は柔らかく微笑んでそう告げた。妓夫太郎に甘えたい時、逆に甘やかす時、二人の時に見せてくれる表情だ。
突然の誉め言葉に目を丸くする妓夫太郎を見下ろし、彼女は照れた様に頬を染めて目を細めた。

「結果は関係ないの。すごく格好良かった。私にとっては、妓夫太郎くんが世界で一番格好良い」

妓夫太郎が情けない姿を晒したと自己嫌悪に陥る中、はそれを格好良いと言う。真剣な姿を見れただけでドキドキしたのだと、世界で一番だと告げる。
その言葉が嘘でないということは、彼女の表情と声が証明してくれた。こんなにも甘やかな目と声でが告げるその内容が、偽りな筈が無い。妓夫太郎はそれを、痛いほどに理解していた。

どれほどの劣等感も、惨めさも、に全てを肯定されることで薄まっていく。昔から変わらないその有難さに安堵の様な息を吐いたその時、は辺りを見回した。
誰も入ってくる気配が無いことを確認し、小さく悪戯な目を輝かせて更に一歩妓夫太郎の方へと寄る。

「格好良い姿見せてくれて、ありがとう」

愛らしい音を立てて、妓夫太郎の額に柔らかな感触が降ってきた。仕掛けてきたのはの方だと言うのに、頬を赤くしてこちらを見下ろすその様子が愛おしい。
慈しむように頬を撫でてくる小さな手をそっと掴み、妓夫太郎は思わず苦笑を浮かべながら彼女を見上げてしまう。

「お前、どんだけ俺を甘やかす気だよ」
「そうかな?思ったことを言ってるだけだけど」
「・・・ったく、お前って奴はよぉ」

どうしてこうも、想定を遥かに超えた愛情で包み込んでくれるのだろう。その温かさも、その眩しさも、一度知ってしまえばもう手放せないものだ。
そして改めて思うのだ。の傍にいられる今が、いかに恵まれているかということを。

「・・・ありがとうなぁ」

いかに、幸せかということを。

「・・・うん」

頬に触れている手のひらにそっと口付けると、くすぐったそうに笑うが愛おしい。
存分に甘やかされる中で自身が再構築されていく感覚に、妓夫太郎は小さく息をつきながら口元を緩めた。




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