再生と約束の物語



電車を乗り継ぎ約一時間の距離に、そこはあった。
菜の花が咲く斜面を降り切った先の砂浜は、見事に開けていて人の気配も無い。
空は青く、春の空気は程良く暖かく心地が良い。

「・・・っ海ーっ!!キレーイ!!!」

キラキラと輝く水面はとても魅惑的で、見ているだけでは我慢がならなかった様だ。膝丈のワンピースの裾を揺らし、梅が目を輝かせて走り出す。

「あっ・・・梅殿待って下さい、濡れますよ?」
「裸足ならヘーキ!先生も早くーっ!!」
「ちょ、待って下さい梅殿ー!」

彼女の放り出したサンダルを慌てて回収して引き留めるも、今の梅には届く筈もなく。幸太郎もまた、覚悟を決めたように裸足になり裾を捲り上げて後を追った。

広いビニールシートの上で、と妓夫太郎は並んで二人の背中を見守る。冷たいと言いながらはしゃぐ梅の声はとても楽し気で、思わずこちらの頬も緩んでしまう。遅れて到着した幸太郎は、早くも梅から海水をかけられ狼狽えている様だ。

「・・・立花の奴、転んで服濡らしそうだなぁ」
「ふふ。バスタオルと着替えは準備してあるよ」
「はっ・・・信用無ぇなぁ」
「まぁ、お兄ちゃんだからねぇ」

今日のは春物の白い帽子を被っており、広めなつばの下から悪戯っぽく目が輝いている。いちいち可愛いと感じてしまうのも考えものだ。しかし、妓夫太郎自身ではどうにもならない。何とも言えない顔で堪えた様子を、喉が渇いたと誤解したらしいは手際よく荷物から出したお茶を差し出す。訂正するのも面倒なので、妓夫太郎は大人しくそれを受け取り一口飲んだ。

「名誉のために言うと、私の前では頼れるお兄ちゃんだよ」
「あぁ・・・?」
「二人の前だからじゃないかなぁ。文化祭までは、泣いたり転んだりするの見たことなかったよ。まぁ、体育は元々苦手だったけど」

話は幸太郎のことへと戻る。
妓夫太郎からすれば、貰い泣きや何かと鈍い動きは普段通りの幸太郎であるが、現在の妹であるの目線から見た兄の姿は若干違う。とても頼れる兄だった。妹のを守ろうと、しっかり者であろうと努めているような、そんな兄だった。

「私のこと、必死で守ってくれてた。沢山支えてくれた、最高に良いお兄ちゃんだよ」
「・・・そうか」
「うん。梅ちゃんの前で色々無防備になっちゃうお兄ちゃんも私は好きだけどね」

ひたすらに妹を支えようと良き兄であろうとする幸太郎も、二人の前で昔に戻ったように少し気の抜ける幸太郎も、にとっては大好きな兄に変わりない。

未だの口から紡がれる“お兄ちゃん”の単語には慣れないが、同じ兄として妹の為に尽くそうとする気持ちは妓夫太郎にも理解出来る。空白の十五年はどうしたって埋まらないが、の傍にいたのが幸太郎で良かった。妓夫太郎は内心でそう実感し、僅かに口元を緩めた。

「それにしても、晴れて良かったね」
「おぉ・・・三月の割には暖けぇしなぁ」
「合格祝いは春の海に行きたいって言われた時は、寒かったり雨だったらどうしようって思ったけど・・・本当に良かったぁ。梅ちゃんが勉強頑張ってたの、神様見ててくれたんだねぇ、きっと」

今日こうしてここへ来たのは、梅の希望だった。
合格祝いに好きな所へ連れて行くというからの思い切った褒美に対し、春の海を見たいと梅が答えたのだ。の言う通り、折角出て来たのだから天候に恵まれて良かったとは思う。

しかし、神様の下りはどうだろう。正直、神とやらがいるのであれば、妓夫太郎は言ってやりたい恨み言が山の様にある。けれどそれを口にしたところで、きっとはこう言うのだ。でも、今は一緒にいられている、と。彼女の柔らかな本質が眩しく、妓夫太郎はそっと隣へと目を向ける。丁度こちらを向いたと目が合った。

「妓夫太郎くん、改めて合格おめでとう」
「おぉ。お前も、この前はお疲れさん」
「ありがと。来てくれて嬉しかった」

年に一度の演舞祭に妓夫太郎と梅が招待を受けたのは、ほんの数日前のことだ。これまで何度も画面越しに見て来たの演技を、初めて兄妹は直接目の当たりにした。わかってはいたことでもの凄さを痛感し、圧倒された一日だった。思い返すだけで落ち着かなくなる気がして、妓夫太郎は隣のへと腕を伸ばす。今日は帽子越しだが、その頭に手を置き軽く撫でた。

「お前がすげぇ奴だってのは前からわかってたつもりだったが・・・今回は次元が違ぇな」
「・・・ありがとう。妓夫太郎くんに褒めて貰えるのが、一番嬉しい」

はそう言って、はにかんだ様に笑う。
妓夫太郎に認めて貰えることは、昔から原動力に直結しているのだ。そうして心底嬉しそうに目を細めることにすら、妓夫太郎が瞬間息を止められていることには、気付いていない。

「あー・・・がモテるって、梅が妬いてたなぁ」
「え?」
「あいつ・・・制服貸して貰った奴と一緒にいた・・・」
「あぁ、素山くんと恋雪ちゃんだ」

若干苦しい話題の逸らし方だったが、事実だった。
あの日、同じく関係者席にいた者は誰もがに対し好意的であったが、中でも目を引いたのが狛治と恋雪だった。狛治の方は純粋にの気迫に対する感心だったが、三年目の付き合いと元々彼が武術の道を志すことを知らなければ、その視線は熱心なファンにしか見えない。更にはその隣にいた恋雪がに対し特別熱い視線を向けていたことが、彼女が純粋に可憐なことと相まって梅の警戒心を強めていたことを、直接見ていた妓夫太郎は良く知っている。

「特に女の方がすげぇ熱心にお前を見てたから、あれは四月から揉める気がすんだよなぁ・・・」
「ふふ。恋雪ちゃんは喧嘩するタイプじゃないよ。でも、出来るなら妓夫太郎くん達にもあの二人とは仲良くして欲しいなって思ってる」

穏やかに微笑みながらも、はそこで一度言葉を切った。まずかっただろうかと、妓夫太郎は瞬間身を固くする。

「話したよね、素山くんと恋雪ちゃんには本当にお世話になったの」
「・・・まぁな」
「前世の話も信じてくれて、沢山励まして貰ったよ。本当に二人とも良い人だし、私もお兄ちゃんもこれからも仲良くしたいし・・・」
「わかった、わかった・・・世話になったのもあるからなぁ、努力する」
「うん・・・!そうしてくれると本当に嬉しい・・・!」

話も事前に聞いていたし、あの日狛治に世話になったことも事実だ。の頼みなら尚更、妓夫太郎としては断る理由が無い。
聞くところによるとと三年連続で同じクラスだという狛治だが、二つ年下の婚約者を誰より大切にしていると言う。あまり煩いタイプには見えないので、に付き添い無難に付き合うくらいは出来そうだ。
そんなことを妓夫太郎が考えていた時のことだ。

「・・・あっ・・・!」

が声を上げ、その腰を上げかける。梅がバランスを崩し、浅瀬で転びかけていた。妓夫太郎も思わず立ち上がりかけたが、幸太郎がその腕を掴む。
おっとっと、とベタな声が聞こえそうな素振りで数秒の間二人してグラついて、結果的には転ばずに済んだ様だ。心配したこちら側のことなど露知らず、梅は今の出来事にすら可笑しそうに声を上げて再度駆け出す。
これには二人して、同時に胸を撫で下ろしてしまった。

「危ねぇな、おい・・・」
「お兄ちゃん、ナイスキャッチ・・・良かった、共倒れになるところだったね」
「梅も大分はしゃいでやがるなぁ・・・」

転んでびしょ濡れになるのは幸太郎だけでは済まない可能性の浮上に、妓夫太郎は若干眉を顰め。そして次の瞬間、不意に空を見上げてぽつりと呟いた。

「ま、来たかった場所でこの天気なら・・・そりゃあ、そうか」

その言葉に、二人の間の空気が凪いだ。

自然と考えてしまうのは、再会して以降語り合ったことのひとつ、二人が鬼であった頃の話だ。
鬼は陽光に弱く、まともに浴びればその身が灼けて滅びてしまう程だと言う。その過去を思い出したからこそ、梅は太陽の下で駆け回れることを喜んでいるのだろう。妓夫太郎はそうした意味で口にした言葉だったが、は違うことを考えてしまう。

「・・・あの時、本当に命懸けで助けてくれたんだね」

二度目の人生では何度も妓夫太郎に助けて貰っただが、暴れ馬に襲われかけた日のことは特別はっきりと記憶している。

暗闇の視界の中、不安と動揺で身が竦んだ瞬間、彼はを抱き寄せ馬の進路上から飛び退いてくれた。
その際に聞いた絶叫は、陽光に灼かれた激痛から生まれたものだったのだろう。一月に及び姿を見せなかったことを考えれば、どれほど重傷だったのかが窺えてしまう。
彼はのために、一歩間違えればその身を滅ぼしかねない陽光の下に身を晒したのだ。未だに残る罪悪感に目を伏せたの手に、妓夫太郎の手が重なった。

「今更言うなよなぁ。あの時は、勝手に身体が動いたんだからよぉ」

お互い、あの頃は一度目の人生の記憶が無かった。ただ夢の中でのみ繋がり、その相手がお互いだということにも気付いてはいなかった。
しかしそれでも尚、あの日の妓夫太郎は何を犠牲にしてもは失えないと強く感じたのだ。理由は無い、ただ身体が勝手に動いた。を失うことを、魂が拒絶した。
結果的にの命は救われ、妓夫太郎もまた一月程度で回復したのだから、もうそれで済んだ話だ。

「お前が轢かれなくて良かった、それで良いだろうが」
「・・・ありがとう」

お互いの手が触れあって、絡み合う指先が優しく温かい。太陽の下で並んで息が出来る、今はとても満たされているのだからそれで良い。
ようやくが納得した様に微笑んでくれたことに、妓夫太郎はひっそりと安堵の息をついた。

「碓氷さんのことは、大丈夫そう?」
「今の所はなぁ・・・」

陽光の話題が出たので、話がこの路線に行くこともまたわかっていたことだった。
碓氷について、妓夫太郎とのみが共通認識として持っている情報がある。

「記憶はあるし、基本的に胡散臭ぇ奴ではあるが、特別こっちを害する気配は無ぇしなぁ」

碓氷がに、青い彼岸花を探させていたこと。そして妓夫太郎が鬼であった頃、鬼の始祖たる男から、同じ花を探す様命令を受けていたこと。何の為の花だったのか。独裁者たる男からは終ぞ理由を聞かされることの無い命令だった。
また、は人間であった頃、陽光に当たれないのは碓氷本人ではないかと推理したことがある。そして、鬼は陽光に当たることが出来ない。

以上のことから、碓氷が鬼であった可能性に辿り着けない二人ではなかった。

「お前は鬼だったのか、に何をさせようとしてたのか、なんて問い質したところで、はぐらかされて終わりだろうしなぁ」
「良いんじゃないかなと思うよ。私たちが色々勝手に推理してるだけの話だし・・・本当に鬼だったとしても、妓夫太郎くん達と同じで、今は人間なんだし」

妓夫太郎が、碓氷と童磨の繋がりに確信が持てれば、話は違っただろう。しかしどうあってもその線は繋がらず、二人はお互いの中だけでその話を留めることを決めた。

何を言ったところで、碓氷は正直には答えないだろう。当時は何か良からぬことを考えていたとしても、碓氷が今人間である以上、この世では悪影響を及ぼさない筈だ。
万一に備えて警戒は怠らないとした妓夫太郎を気遣い、が小さく笑いかける。

「今も昔も、沢山お世話になってるのは変わりないもの。私、碓氷さんとは出来れば良い関係でいたい」
「俺は正直、関係絶って欲しいんだがなぁ」
「ふふ、意地悪言わないで?」

何かと世話になっている、確かにそれはそうだろう。しかし、あの胡散臭い笑顔がに近付くことを阻止しなくてはいけないという気持ちは、最早前の世から引き継いだものなのだから仕方が無い。平穏を望むには悪いが、こればかりは断固として折れないことを妓夫太郎は内心で決めた。
それにしても、今のこの世は縁の偏りが過ぎるのではないだろうか。

「どうなってんだかなぁ。お前らは別だけどよぉ、何でこう前から関わりある奴らが鬱陶しく集まってるんだか・・・」
「んー・・・今でもびっくり。まさか竈門くんと宇髄先生が、鬼狩りの人だったなんて」

炭治郎と達は、あれから一度正直な身の上を開示し合っている。

お互いに前世の記憶を持った者同士だったことにも驚き、更には炭治郎が妓夫太郎の首を斬ったというのだから、と幸太郎は瞬間気が遠くなりそうになったものだ。炭治郎の方は思うところがあったらしく、と妓夫太郎の前世の繋がりには納得しつつも、生来の生真面目な性格から、当時のどうしようも無かった状況を語ってくれた。
にしてみれば鬼殺隊とはあまり良い印象の無かった組織であったが、別の視点から見れば必要な組織だったとも言える。妓夫太郎と梅も、見ず知らずの鬼に助けて貰わねば命を落としていたところだったと聞くし、これはお互いにどうしようもない状況だったのだ。
は複雑な思いを覚えつつも、正直に全てを話してくれた炭治郎に感謝をした。

「こっちもお前と関わりあるガキだったとは驚きだ・・・相変わらず、お節介でうるせぇしなぁ」
「あ。また言ってる。竈門くんにもあの日、お世話になったんだよね?」
「・・・まぁ、パンが美味ぇのは認める」

妓夫太郎は炭治郎とはそりが合わず、こうして何かと顔を顰めてしまう。しかしその度が困ったような顔をすることもわかっている手前、仕方無しに苦い顔でそう告げた。炭治郎の焼くパンは、確かに美味しい。

「ガキはともかくとして、だ。糞忌々しい柱までいるとは・・・四月早々に切れそうな予感しかしねぇんだが」
「宇髄先生かぁ・・・でも、先生は記憶あるかわからないし、ちゃんと様子は見ようね?」

もう一人の鬼殺隊士であり、柱と呼ばれる実力者が、の担任の宇髄だと言う。しかし彼らは未だ宇髄とは直接会ったことが無く、も探りの入れ様の無い話題にお手上げ状態だ。
何しろ妓夫太郎と梅は文化祭のアーカイブ配信で表彰式での宇髄の姿を見て以来、彼を蛇蝎の如く嫌っているのだ。彼が因縁の鬼殺隊士であることに加え、を米俵のように片腕で抱き上げ、この顔は俺が仕上げたアートだとカメラに向かって言い放ったことが気に入らなかったらしい。
直接会ってもいない内から喧嘩腰になる気満々の妓夫太郎に対し、は困ったように眉を寄せる。

「ったく、あのペイントに動いた俺たちの気持ち返せよなぁ・・・」
「でも、すごい芸術だったでしょ?宇髄先生、美術部の顧問だし」
「そういう問題じゃねぇんだよなぁ」

不意に、妓夫太郎の手がの頬に触れる。若干不機嫌そうなその青い瞳に射抜かれ、は目を瞬いた。

「・・・お前の顔にあの野郎が触れた。それだけで気に入らねぇって言ってんだ」

あの日、同じ様に宇髄もまたの顔に触れた。芸術家がキャンバスに色をのせる様に、その目は真剣ではあったが淡々としていた。
今目の前に感じる熱など、一切無かったというのに。
は思わず、苦笑を零してしまう。

「・・・ありがと」
「あぁ?」
「やきもち。嬉しいよ」
「うっせ・・・」

嬉しい。
妓夫太郎が感じてくれる気持ちであれば、例え嫉妬でも嬉しい。
は本心からそう呟き、自分から妓夫太郎との距離を詰めた。隣合って手を重ねていた距離感が、更に腕同士が触れ合うものへと変わる。自然との頭が妓夫太郎の肩へと傾き、お返しに彼の腕が彼女の腰へと回った。

人気の無い春の海は、とても美しかった。
梅と幸太郎のはしゃぐ声が、遠くに聞こえる。静かな波の音が心地良い。

「・・・春男も、どこかにいるかもしれねぇなぁ」

鬼のお兄ちゃん、と愛らしい声を上げる幼い姿が、見えた様な気がする。波間を見つめたまま、二人して表情を緩めた。これだけ何かと縁が重なっているのだ。あの愛らしい子にも、いつか会えるかもしれない。

「そうだね・・・会いたいなぁ。お兄ちゃんも、梅ちゃんも、きっと喜ぶよね」
「おぉ」

お互いに触れ合った部分が温かい。
すっかり安心しきって身を任せるの腰を抱き、妓夫太郎は不意に陽の眩しさに目を細めた。

波の音と共に遠くから聞こえてくる妹の笑い声、幸太郎の慌てるような声、すぐ隣にはがいる。
あの頃、狭く濁った場所から何とかして三人で逃れようとしたことを思い出す。
そして今、海を目の前にして思う。世界は大きく、様々な可能性が目の前に広がっている。

「時間はかかったが・・・また、こんな幸せを見つけられるとはなぁ」

幸せだ。
あの日祭の夜に夢見た優しい世界が、少し姿を変えて今ここにある。

「もっともっと、幸せになろう」

肩口から聞こえて来たの声は、穏やかな喜びに満ちた音がする。白い帽子の下を覗き込むと、柔らかく微笑む黒い瞳と目が合った。

「私、欲張りだから。妓夫太郎くんと一緒に、これから先もまだまだ沢山幸せになりたい」
「・・・あぁ」

思わずそっと空いた方の手を伸ばし、滑らかな頬に触れる。その柔らかな感触を心地良く感じているのは妓夫太郎の筈が、もまたその手を逃すまいと小さく頬を寄せてくるものだから困ってしまう。
不意に、の手が頬に当たる妓夫太郎の手を包んだ。そっと指先に触れ、改めて気付いたかの様に深爪に目を丸くする。

「あぁ、それなぁ。もう癖になってんだ・・・あれ以来、ずっとなぁ」

あれ以来、ずっと。
鬼であった頃、を傷付けない様にと短くして以来、ずっと。
を失ってからも、生まれ変わって記憶を失ってからも、ずっと。
その意味をゆっくりと噛み締める様にが俯き、そして緩く微笑んだ。

「・・・それは、」
「―――いくらでも自惚れろよなぁ」

それは、私のためだと自惚れても良いか。
何度目かの台詞を遮られ、は驚きに目を見開き顔を上げる。
鼻先が触れ合いそうな距離で、妓夫太郎はを優しく見つめていた。
いくらでも自惚れろ。以前は言えなかったことも、今なら迷わず口に出来る。

「これから先、俺の全部はお前の為に使う。そう決めてるからなぁ」

至近距離で囁かれた真っ直ぐな言葉に、の大きな瞳がゆっくりと瞬く。
その刹那、少し強めの風が吹いた。
春の風の悪戯で、の白い帽子がふわりと浮き上がる。

「あっ・・・」

慌てた様にの視線が泳いだその先へ、妓夫太郎の手が伸びる。

「っと・・・」
「ありがとう・・・」

帽子は素早く掴まえられて、風に流されはしなかった。
つい今しがたの胸の高鳴りを誤魔化すように礼を口にしたの顔に、影が差す。
小さな音を立てて、額に柔らかな感触が降ってきた。
目を見開くの乱れた前髪を、妓夫太郎の手が優しく混ぜる。

「これなぁ、お前に似合っちゃいるが・・・顔が近付け辛ぇんだよなぁ」

そう言いながら優しく返された帽子を胸に抱き、は頬を赤く染めて俯いた。期待してしまう。そんなことを言われてしまったら、もうこの帽子は被れない。

「ずるい・・・そんな事言われたら、もう妓夫太郎くんの前で帽子被れないよ」

そうして胸に抱いた帽子を強く握るの表情が、どうにも心臓に良くない。
どちらが狡いのだろう。妓夫太郎は堪らない思いに僅か眉を顰め、その細い手首を掴んだ。

「・・・都合良く受け取るからなぁ」
「良いよ。全部、良いように受け止めて」

照れたようにはにかみながらも、彼女のその瞳は期待に輝いている。もう随分と昔から、妓夫太郎はこの目に弱い。

「妓夫太郎くんとずっと一緒にいるために、私は生まれてきたんだから」

真っ直ぐ過ぎるその言葉は、迷うことなく大きな愛をくれる。を愛していることは間違いない筈が、いつだって彼女はそれを上回るような勢いで妓夫太郎を包み込んでしまう。
他の誰でもない、に愛されていることこそが、妓夫太郎の人生で一番の幸福だ。

「・・・
「なぁに?」

正直な所、一生敵わない気がしている。
しかし、負け通しは性に合わない。

「今度も、次も、その次も。ずっと俺の傍にいてくれ」
「・・・妓夫太郎、くん」

その頬に触れて、その熱さに触れて思う。
ずっと、こうしていたい。

「一生じゃ足りねぇんだよ。わかれよなぁ、ばぁか」

一生では敵わなくとも、その先ならば。否、それはただの強がりだろう。
一生では終わらせたくない、ずっと傍にいたい。これから先、何度でもの傍で生きていきたい。
の瞳が大きく見開かれ、その言葉の意味を理解した途端に柔らかく細められる。
ああ、この表情が堪らなく好きだ。

「うん・・・ずっと、ずっとね、約束」
「あぁ、約束だ」

青空の下、溶け込むように二人の影が重なった。
決して離れないことを誓い合い、指先同士が絡む。
お互いに途方も無い思いを込めた口付けの刹那、薄く開けた目が同時に合ったことで笑い合う。

春の風と波の音に祝福されて、二人は優しく抱き締め合った。



 Top