「別嬪さんと飲む酒ほど美味いもんは無いよね、いやほんとに」
対面に掛ける兄弟子は、大層ご機嫌な様子で勢い良く猪口を煽った。見事な赤ら顔は酒に呑まれている証だ。
「・・・十禾さん、さっきから同じこと三回は言ってる」
「えー?そんなこと無いって」
「、酔っ払いはまともに相手をしなくて良い」
「始めたばかりでしょ、酔ってませぇん」
十禾さんが酔っ払うあまり時間感覚を無くした訳じゃなく、実際に始まってからそれ程経過していない。だからこそこの酔い加減が信じ難く、私は頬を引き攣らせた。
夕刻、先生と並んで遣いから戻る道中、店の前で暇そうに佇む十禾さんと目が合ってしまったのが運の尽きだったらしい。ふたりしてあの手この手で言いくるめられ、気付けばこの布陣で酒の席に着くことになってしまった。もう一人の同居人が待っているからと断ろうとしたのに、この酔っ払い―――もとい、兄弟子は適当な様でいて抜かりなく。『典坐は殊現のご指名で今日は祭事のお伴だよね。お偉いさんの接待も込みなんだから帰りは遅いんじゃない?』と。絶対聞き流していると踏んでいた家内行事を突き付けられては、成す術が無かった。
「そういや、観察される生活は慣れた?帳面中文字でぎちぎちだよ。佐切ちゃん、ちゃんにすっかりお熱だから」
「・・・え。中身見たんですか?」
私の可愛い姉弟子は有言実行だ。宣言通り随筆文を書き始めたのを見守り、早数月。当事者の私や先生にもまだ明かされていないものを、十禾さんが見せて貰えるとは到底思えないのだけれど。
「いんや?覗きこもうとしたら叱られちった。何があっても十禾殿には見せません、だって。ちょっと傷付くよねぇ」
「日頃の行いだな・・・ 」
ですよね。というか覗きは駄目でしょ。私は半目でだらしのない兄弟子を睨みつつ、質問には答えようと咳払いをひとつ、背筋を伸ばす。
色々悩んだ。必要以上に後ろ向きにもなった。でも、先生に諭して貰えて前へと進めた。
「まぁ、恥ずかしいですけど。可愛い佐切の役に立てるなら、いくらでもって決めたんで」
「いよっ山田の阿国、惚れちゃうね」
「あー・・・遠慮します」
「つれないなぁ」
既に呂律が怪しい様子に若干引いた。
私は基本的に山田家の皆が好きだし、殊現に対して苦い意識があるのは、私の狙いとは決して相容れることの無い彼の信念を知っているからこそだ。十禾さんに関しては少し違う。顔を合わせれば大抵酒気帯び、助平、適当、不真面目、ぐうだら。そして、どこか得体の知れない仄暗さがある。はっきりとした理由も無しに失礼だと思いつつも―――包み隠さず言うならば、わたしはこのひとを密かに恐れていた。
そのような物思いに耽る不意をつき、びりびりと引き攣れた感覚が右腕に走った。何をした訳でもない、単なる強めの筋肉痛だ。悲鳴も出ない、顔も顰めない。ただ、隣に掛ける先生には筒抜けてしまう。
「・・・大丈夫かい」
「すみません、平気です」
僅かな小声は最大限私を気遣ってくれて、私は嬉しさの滲み出る様な苦笑を返す。昨晩、先生からは止められたにも関わらず無理な筋トレに挑戦しようとしたのは私。結果、右側だけでギブアップという間抜けな結果に撃沈したのも私。この痛みは、貧弱だった私の筋肉が多少成長しているとしても、一足飛びにはいかない戒めとして受け入れるしか無い。
「うえぇ。片手で腕立ては女の子にはきつ過ぎでしょ。ちゃんもよくやるよね」
瞬間、そうなんですよと笑いそうになった頬の緩みが、ぞわりとした感覚と共に引っ込む。無謀とも言える筋トレは先生の監督の元、道場ではなく家に帰ってから挑んだもの。目の前にいる兄弟子が詳細を知る筈は無い。強烈な違和感は先生にも共通するものだったようで、私たちは眉を寄せて押し黙った。
「二人とも渋い顔しちゃって。別に君らの家を覗きなんてしてないよお。見たまんまを口にしてるだけ」
「見たまんまって・・・私の腕を?」
「うん。相手のねぇ、一番良いところもまずいところも、俺にはわかるの」
心の底から戸惑った。酔って頭を揺らしていた兄弟子の目から、瞬間光が落ちる。
「負傷は何をしてそうなったのか。どの頃合いで、どこにどう力を入れるのが正攻法か。一番脆い部分はどこか。物の原理、ってやつ?俺にはぜーんぶ、見えちゃうんだなぁ」
まるでぶれることの無い口調と口元だけの笑みからは、嘘を言っているようには見えない。だが、事実だとすればどういう理屈なのか頭が追い付かず、私は一層困惑する。もし私たちと同じように氣を知りそれを利用していたとして、そこまで多くのことを見通せるものだろうか。
殊現たちと同じく追加組であり、同時に島から唯一生還した先発組を兼ねる唯一の浅ェ門。海を囲む化け物を一刀両断する、人間離れした恐ろしさの片鱗が、今目の前で妖しく手招きしている。不気味な感覚に小さく喉が鳴る、その時だった。
十禾さんの表情が、酷く酔った時の道化顔へと急転換した。
「だから俺と懇ろになった子は、みーんな極楽へご案内ってわけ。人生変わるくらい、俺が的確に可愛がってあげちゃうから」
「は?」
思わず目が点になる。正攻法やら脆いやら、そういう下衆な話だったの?真剣に怯えた時間を返して欲しい。品性とは真逆の方向に笑い転げる兄弟子に対し心底そう感じながら、私は冷めた目で眉間に皺を寄せる。
「げへへ、ちゃんも一度どう?歓迎するけど」
「・・・」
ありえない。ひくりと頬を引き攣らせた私は、しかし次の瞬間隣に目を向け固まることになる。音もなくゆらりと立ち上がった先生から、紛れも無い殺気が迸っていた。
「うそうそ、冗談だってば。ちゃんお願いだから士遠を止めて」
「せ、先生、座りましょう。酔っ払いのことは相手にしなくて良いんでしょう?本気になんてしませんから」
「・・・君がそれで構わないのなら」
焦って追い縋れば、先生は憤りと普段の穏やかさを綯交ぜにしたような顔で腰を降ろす。
不快と軽蔑で荒んだ胸中に、温かな陽が射し込んだ。先生が私の為に怒ってくれた。それだけでこんなにも嬉しい。
「士遠とちゃんはあれだね、男女が揃って・・・なんか、ばーんと、あれがさぁ、うん・・・」
「十禾さん・・・お酒弱すぎてびっくりなんですけど。何でそれで毎日呑もうと思えるんですか。怖い」
「毎日は呑んでなーいよぉ」
「考えるだけ時間の無駄だな。、構わず食べてしまいなさい」
「はい、先生」
十禾さんの同席はともかくとして、先生と外食なんて頻繁には無いことだ。典坐は今頃慣れない接待で苦労してないかな、頑張ってるのかな。そんなことを話題にしつつ私は焼き魚に箸を伸ばす。右腕がぴきぴきと痛んだ。
* * *
「十禾さん、十禾さん」
「・・・あんれ?ちゃん?」
「そろそろ起きてください。今、先生がお支払いに行ってくれてますから」
酒を煽り陽気に喋っては潰れ、起きたと思えばまた飲んで。十禾さんはそればかりを最後まで繰り返した。私も先生も滅多に飲まないけれどそこそこお酒には強いので、ここまで酔える十禾さんは逆に感心の域ですらある。
「えー俺も払わなきゃ」
「席に着く前から先生にお財布ごと預けてたでしょ」
「そっかそっか、そりゃあ良かった」
適当が服を着て歩いているような性分の半面、こういう場面では迷惑をかけない様しっかり準備をしている。良い大人が酔い潰れるのを見越してお財布ごと預けてしまうのもどうかと思うけれど、まぁ、十禾さんなので仕方が無い。
先生の戻りを待ち侘びる私と、名残惜しむ様に空の酒瓶を覗く十禾さんの間に、生温い空気が漂った。
「ちゃん」
「はい?」
「俺ね、君のこと最初、お化けだと思ってた」
思いもよらない方向からの不意打ちに、瞬きをひとつ。
「・・・足、ありますけど」
「うん、知ってる。だから、士遠が足のあるお化けに憑かれちゃったのかなって」
十禾さんは愉快そうに口端を上げながら、真っ直ぐに私を見ていた。
「君があまりにも、この世の者っぽくなかったから」
悪寒が全身を駆け抜けた。咄嗟には、酔っ払いの戯言と切り捨てることが出来ない。私がこの世界にとって異物であることは、私自身が一番良く知っている。
「・・・私は、十禾さんの言う『物の原理』に反してるってことですか」
「いや?ちゃんと人間の形に見えるよ。けどなーんか、明らかに浮いてるって言うかさぁ。奇妙な子だなあって。ま、俺も大概変な奴だけど」
空の酒瓶を弄ぶ兄弟子の目はニタニタと笑みを象ってはいるものの、奥底の本心が暗く澱んでまるで読めない。好奇的な視線を受け止め覚えるのはやはり恐怖だ。何を言いたいのか、何が狙いなのか、何を求められているのか一切読めず、不安ばかりが込み上げる最中、私たちを取り巻く空気が突如として、呆気なく飲み屋の喧騒に溶け込む。
十禾さんが私に向ける笑みは、単純に酔った時のそれに戻っていた。
「でも最近漸く、うちに馴染んできた気がして。だからお近付きに一献、お誘いしたってわけ」
心臓の鼓動が脳に響く程煩い。血管という血管が身体の中で荒れるのを堪え切り、私は秘かに安堵の息を吐いた。助かった。一体何を追及されたのかも曖昧な中、心の底からそう感じる。
「・・・十禾さんなら、相手がお化けでも女性なら普通に口説きにいくのかと思ってました」
「言うねぇ。ま、俺は女でも男でも行けそうなら行っちゃうけど」
大丈夫。落ち着いて。私は一秒でも早く自分の呼吸を取り戻すべく、普段通りの調子を装った。
「浮いてた私が馴染めてきたなら、それは推しのお陰です」
「うふふ、出た出た、ちゃんの推し語り」
「オタクは身も心も推しに生かされてるようなもんですから」
「身も心もかぁ、そりゃあ熱いねぇ」
私が先生のお陰で壁を乗り越えられたのは本当のことなので、可笑しそうにケラケラ笑われるのは本意ではないけれど。ひとまずこの空気を平らに均せるのなら何でも良い。私はいつも通り推しへの熱意を口にした。
十禾さんが浮かべた意味ありげな笑みに、この後過去一翻弄されることも知らずに。
「でもさぁ。それって、惚れた腫れたの類じゃないの?」
言われたことの意味を咀嚼するのに、時間がかかる。惚れた、腫れた、とは。十禾さんの目が先ほどの不気味さと違い、単純に興味関心を浮かべているからこそ、私は盛大に動揺し狼狽えた。
「いや、いやいやいや、違いますよ」
「えぇ?ほんとお?」
「あっ・・・当たり前じゃないですか」
「じゃあちゃんは、士遠がそこらの町娘と所帯持っても平気なんだ」
『推し』の話をしているのに、自然な流れで先生個人の話に置き換えられる。しかし全てが気にならなくなるほど、その質問は私の頭の中からあらゆる色を消し飛ばした。
「・・・え」
「そういうことでしょ?君は弟子だけどただの居候。誰かが士遠の奥方になったら生活は激変するだろうけど、その時はすんなり祝福するってことだよね。若手連中は兎も角、俺や士遠なんかはいつ嫁さん貰ってもなーんも不思議じゃないお年頃なわけよ。考えたこと無かった?」
先生が、妻を娶ったら。
先のことを知る者として、それは有り得ないと冷静に突っぱねる私と、実は描かれていないだけで本土に誰か特別なひとがいるのではと不安に駆られる私が二極化した。毎日共に暮らしていて、今そのような存在がいないことは、何となくわかる。ただ、確かに言われて見れば、先生はいつそうなってもまるで不思議ではない成人男性だ。
「・・・」
推しは、推しだ。元気の源、気力の泉。オタクそれぞれの価値観によるのだろうけれど、少なくとも私は、推しと恋愛対象は別物だと認識している。その筈だ。
ただ、唐突に示唆された可能性を思い描くと、胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちに苛まれる。
「ま。士遠が妻帯者になったところで、ちゃんにはまだ典坐がいるから淋しくないか」
まだ、なんて言わないで欲しい。代替じゃない。先生も典坐も、ヌルガイを含めれば三人とも、私にとっては等しく大事で、大好きで、尊い存在だ。
「『推し』が他にもいて、良かったねぇ」
そういうことじゃないのに、反論はひとつも声にならない。
近い将来、先生がもし誰かを娶ったら。その想像は、私からあらゆる思考を取り上げるだけの力を持っていた。
その時だ。
「いっ・・・てえええ」
十禾さんが後方からの鋭い手刀を受け、頭を抱えて机に沈み込む。
「ひとの人生を勝手に決めるな、酔っ払いめ」
支払いを終えた先生が戻って来ていたことに、私は今まで気付きもしなかった。
* * *
あれだけ酔った十禾さんは、信じ難いことにこのまま妓楼で夜を明かすのだと私たちに別れを告げた。大通りから程近く、色街の大門へ吸い込まれると同時に姿が人波に紛れ、如何に彼が遊郭の常連かを物語る。
酔っ払い相手に翻弄され続け、どっと疲れる夜だった。私たちは賑やかな通りから徐々に遠ざかり、ゆっくりとした歩調で家を目指す。
「まったく。散々な目に遭ったな」
「・・・」
「?」
「あ・・・本当ですね、大変な、目。ふふ」
いけない、ぼんやりし過ぎて反応が遅れた。私は慌てて調子を合わせ頬骨を上げたが、無理は呆気なく看破されてしまう。往来はほぼ私たちしかいなく、半歩先を行く先生の足が止まった。
「一応断っておくが、十禾の言っていたような予定は無いよ」
やはり、大事なところはしっかり聞かれていた様子で。それすら気付けない程動揺していたのかと思い返す度、自分が情けなくなる。提灯に照らされた先生の顔は、気遣わしげな優しさで満ちていた。
「君や典坐を放り出したりはしない、心配しなくて良い」
「あっ・・・いや、あの」
「私自身、まだまだ研鑽が足りぬ身だからね。今優先すべきは剣技を磨くこと。縁談よりも大事なことが山積みだ」
私は知っている。先生が、その言葉の通りの人格者であること。恐らく私が知る未来で島に行く時点では、その様な相手はいないのではないかとも思う。
でもそれは、あくまで可能性の話だ。
「・・・先生」
「何だい」
正史では閉ざされてしまう典坐の可能性を、未来に繋ぎたい。それは私の変わることの無い第一目標だけれど、今は先生を前にして強く思う。先生のようなひとにこそ、無限の可能性がある筈だ。
「も、もし、予定が変わったら。その時典坐はともかく、女の居候が災いの種になるようだったら、はっきり言っていただきたいというか、あの・・・上手く言えないんですけど、その・・・」
先生に心から感謝している。一生かけても返しきれないほどの恩を感じている。優しくて、温かくて、私を全部認めて導いてくれるひと。ある日素敵な女性が現れたって、不思議なことなんてひとつも無い。島に行くまでも、勿論無事帰還してからも、先生には笑顔でいっぱいの人生を謳歌して欲しい。
「・・・先生の幸せは、私の幸せです。拾っていただけたことには本当に感謝してますけど、先生を縛りたい訳じゃなくて・・・先生の幸せの邪魔には、なりたくないんです」
そして私は、万一にも道を妨げる石ころになってはいけないとも思う。
どんなに淋しくても、どんなに切なくても、私は先生の幸せを祈れる人間でありたい。せめてそれくらいは出来ないと、ここまでして貰った弟子として失格だ。
もしも私の知る未来にずれが生じても、それが先生の幸せなら喜んで離れよう。これからはそういう可能性も覚悟の上で生きるべきだ。大事なことに気付かせてくれた点だけは、十禾さんに感謝しておくことにする。
「・・・君にも同じことを言う羽目になるとはな」
声の調子が変わった。はっと顔を上げれば、苦い表情で宙を睨む先生がいて。出過ぎたことを言ったかと、叱られるかと、私は両肩に力を入れる。
厳しい様子で少し前屈みになった先生は、しかし私と顔を近付けるなり、表情を和らげてくれた。
「私の人生を、勝手に決めないでくれるかな」
十禾さんに向けたものと、殆ど同じ台詞。でも比べ物にならない程、優しい声。
「これは独り言だが・・・私の三人目の弟子は、己の好いたものを堂々隠さない、大層明るい性分でね」
「先生?」
「独り言だよ」
「・・・はい」
口を挟むことを、やんわりと禁じられる。独り言として私を語る先生の表情が穏やかに見えるだなんて、自惚れてはいけない。私は懸命に口を引き結んだ。
「彼女と典坐が揃うと、家がずっと真昼の様に活気付いて、正直有難い。冗談への理解度も抜群だ。私がついつい多用してしまうところ、律儀に全て拾おうとしてくれる懸命さが、実に和む」
典坐の太陽の様な明るさには、遠く及ばないのに。同列に評価してくれる先生は優しい。冗談を逃さず拾うのは私が好きでしていることなのに、和むなんて可愛い言い方をされると、胸の奥がくすぐったい。
「理解が追いつかない時もあるが、彼女が陽気な声で力強く発する格言には感心させられることも多い。その発言者への敬意や好意が滲み出ていると言うか・・・嬉しそうに何かを讃える彼女の姿は、どうにも癖になってしまう程興味深い。やはり、周りを照らす才に長けているのだと思うよ」
先生からすれば、私が口走るネタは悉く意味不明な横文字でしか無い筈なのに。どうしてそんな風に理解を示してくれるんだろう。どうして律儀に寄り添おうとしてくれるんだろう。私を優しく照らしてくれるのは、先生の方なのに。
「日々厳しい鍛錬と向き合う姿からは、私も更に精進せねばと勇気付けられる。性別に甘んじることの無い姿勢や、はきはきとした返事に、こちらの背筋が伸びる思いがする。彼女は今や・・・日々の中で欠かせぬ存在と呼べるだろう」
心臓が熱い。毎日の中で欠かせないのは、先生の方。勇気をくれるのも、しゃんと背が伸びる思いを齎してくれるのも、全部全部先生なのに。
「引き取った義務感で縛られている訳じゃない。彼女の期待に応えたいという思いは、私の本心であり、願いそのものだ」
私の月であり、花であり、風であり泉。私の推し。一方的に憧れて、元気を貰えて、そこに存在してくれるだけで私は生かされる。先生は私にとって、そういうひとなのに。
こんなにも都合良く全肯定されてしまったら、大事な一線を踏み越えてしまいそうになる。
私は余所者だと遠慮して引いていた線とはまったくの別物。推しとそれ以上を隔てる、心の境界線。
「さて。以上の独り言から総括して、今の生活を投げ打ってでも嫁を貰うことが、果たして私の幸せと呼べるだろうか」
「・・・それ、は」
折角発言を許されたのに、ろくに答えが返せない。だって、先生にとって自然で素敵な未来よりも、私が典坐と同列に優先されるなんて。
そんなの、奇跡としか呼べない。光栄を飛び越えて、身の丈に合わない夢を見てしまう。
俯き口籠る私の反応を、またしても負の連鎖に陥ったと誤解したのだろうか。頭にそっと手を置かれ、私は目を見開く。
「自慢の弟子を邪険にしてまで得たいものなど、私の人生には何ひとつ無いよ」
提灯がぼんやりと照らす先生の柔らかな笑顔に、私は暫し息が止まり。
次に鳴った心臓の鼓動が、やけに大きく丁寧に体中を駆け巡った。
私の顔色が悪くないことを氣で悟り、先生が安堵した様に前を向く。
「さ、早く帰ろう。典坐も戻る頃合いだろう」
自慢の弟子。涙が出そうになる程嬉しくて、私には勿体無いくらい特別な表現。昨日までの私であれば、覚えるのは『推しから自慢と呼ばれた』という、度を越した興奮一色だった筈なのに。
今はこんなにもふわふわと足許が頼りなく、それでいて永遠に噛み締めていたい程、甘やかな心地がする。
「・・・はい、先生」
私の細胞が、ひとつずつ新しく生まれ変わっていく。右腕の痛みなどすっかり記憶の彼方へ消えて、私は先生の後を追った。