「つまり佐切は自己分析の材料として、を中心とした随筆文を書くことを決めた。それに伴い、私と典坐も彼女の観察対象になる。そういうことだね」

流石だった。遠方のお役目から戻ったばかりで間違い無く疲れている筈の先生は、混乱と動揺でしどろもどろになる私の稚拙な状況報告を、一度で聞き取り正しく要約した。

佐切の新たな試み。その題材に自分が選ばれたことが分不相応に思えて仕方がなく、今朝の私は目の下に無駄に迫力のある隈を拵えている始末だ。私の異変を察知する素早さも、出迎えの面々に角を立てず自然な流れでふたりの時間を作る立回りの上手さも、何もかも完璧な私の救世主は何度か頷いた末、普段通り飄々とした様子で腕を組んだ。

「良いんじゃないか。完成したら是非見てみたい」
「見・・・!って、良いんですか?というか、止めた方が絶対に良くないですか?私は自分で言うのもあれですけど、中心人物に据えられるには致命的に欠陥だらけと言いますか・・・」

佐切は私と、私を中心とした日々を書き留めたいと言った。勿論邪魔にならないよう陰ながら、四六時中追い回そうとは考えていないと慌てて付け足しつつも、私の生活には欠かせないふたりの推しも観察対象にしたい為、個々に了承を得なければと気にしていた。典坐はその場で快諾していたが、きっと先生にも直接申し込みに来るだろう。その前に考え直して貰う方向で相談がしたかったというのに、先生もすんなりと乗り気なものだから私は肩を落とすしか無い。

「私なんかに貴重な時間を割いたりして・・・佐切をがっかりさせちゃいますよ、きっと」
「君は鍛錬には前向きだが、平時は時々驚くほど後ろ向きだな」
「だって・・・」

私はただのオタクだ。推しや好きな世界観を外から眺め、昂る感情や捗る妄想で楽しく生きるちっぽけな存在でしかないのに。あんなにも真っ直ぐな決意表明を向けられて、完全に足がすくんでしまった。表舞台も、スポットライトも、私にはあまりに不釣り合いだ。

「私は、佐切が君を選んだ理由もわかる気がするよ」

先生の声は静かで優しい。自信の無さに荒れる私の内側へ、鎮静剤の様にそっと響く。

は良い意味で風変わりだ。独自の価値観を持ち、影響力もあり、好いたことは堂々隠さない。自由で型に嵌らず、我々にしてみれば新鮮な気付きが多々ある存在だよ。佐切も大方、そんなことを口にしたのではないか」
「・・・それは、そうですけど」

新たな驚きと気付きを与えてくれる人。年下の姉弟子の敬意に満ちた声が脳裏を過ぎる。

「でも、どんな顔でいれば良いのか・・・」
「それほど構える必要も無いだろう。自分に正直な普段通りのでいれば良い」

自分に正直な、私。
大恩ある先生にすら、酷い嘘をついているのに。
胸の内側から黒い染みがじわりと浮き出るような、嫌な音がした。

「・・・先生はすごい」

私の拙い説明から、途轍もない理解力で簡単に状況を整理してしまう。頭の回転が早いだけじゃなく人格も完璧だから、優しい言葉で頼りない教え子のフォローも万全にこなしてくれる。

私の推しは、こんなにも素敵なひとだ。
だからこそ、こんな自分が嫌になる。

「私は、先生っていうすごい人に運良く拾って貰えただけの、ただの凡人なのに」
「・・・
「佐切からあんなに真っ直ぐ慕って貰えるだけの価値も器も、私なんかにあるとはとても思えなくて・・・難しく考えることないって、気楽に構えようって思えば思うほど、私じゃ期待に応えられないって答えにしか、辿り着けなくて」

頭の天辺から爪先まで、どす黒い自嘲の念が埋め尽くす。弁えろ。身の程を知れ。先生がいなければ何も始まりすらしなかった凡人が、佐切の苦悩に一石を投じられる筈が無いだろうと。

「私は推しの活躍を、陰から見てる側なんです。皆優しいから、こんな平凡な私を受け入れてくれますけど・・・本当は、山田家の輪に入るのも烏滸がましいような、場違いなような、そんな気がずっとしてて」

推しは推しだ。元気の源。活力の根源。でも、同じ舞台に立つことはどこか躊躇してしまう。だってそれが私だから。主役じゃない、その他大勢のひとり。

来たるお役目の筋書きを書き換えるべく山田浅ェ門になる、その為ならどんな苦難も耐えられる。この世界の片隅で汗水に塗れ、推し達の暮らしを遠くから眺められたら、それだけで良かったのに。

「先生に散々迷惑かけて強引に弟子入りした癖に、何言ってるんだかって話ですよね。でも本当に鍛錬以外は、一歩引いて皆を眺めてるだけで私は十分満足で・・・真ん中に立つなんて、全然柄じゃなくて。もう、どうしたら良いかわからなくて昨日は殆ど眠れなくて」

佐切が真剣に考え抜いた手段である随筆。その主人公を名乗れる筈が無いと、名乗って良い筈が無いと、頭の中で何人もの私が叫び続けている。

「あはは、馬鹿ですよね」

乾いた笑いは、本当の私のものか、頭の中の私のものか。

「・・・君を連れて行きたい場所がある」
「え?」

逃げ場無く呻りを上げる耳鳴りが、止んだ。
突然の提案は雁字搦めの自己嫌悪を断ち切って、けれど先生は何てことはないかの様な顔をして私に微笑みかけている。

「話の続きはその時でも構わないだろうか」
「あ・・・勿論・・・!」

花泉風月の、風。強く優しい風が、私に正常な呼吸を齎してくれる。先生は、やっぱりすごいひと。鳥はただ、憧れるばかりで精一杯だ。ゆったりと歩き出した先生の背中を、私は小走りで追った。



* * *



山田家の豊かな財は、死者の供養にも惜しみなく使われている。斬首した罪人の慰霊塔がその最たる例と言え、同門達は各々定期的に参拝しているのだと入門当初教わり、私も必ず先生と典坐について歩く様にしていた。
挨拶用の手土産と仏花を購入した時点で察せられた行き先は、しかし懇意の寺院とは別の寺だった。
住職さんと話す先生の様子からは、もう随分と長く此処に通っている様な印象を受ける。私は後ろから頭を下げ、挨拶を終えた先生に連れられ墓地の奥へと足を進めた。

まるで荒れた様子の無い、小さく綺麗なお墓だった。

「少し、日が空いてしまったな。すまない」

花を手向け手を合わせた後、墓前に語りかける先生の声は柔らかい。大切なひとであることは間違いなかった。

「・・・先生にご縁のある方が、眠っているんですね」
「ああ。君を紹介したく、ここに連れてきた」

他に墓参りの気配は無く、木々のそよぐ音に満ちる乾いた空気の中、先生は私を一歩前へと連れ出した。

「彼女は。典坐に続いて引き取った、私の弟子だよ」
「よろしくお願いします」
「此処に眠るのは鉄心という。私がかつて指導した弟弟子だ」
「鉄心さん」

名前を復唱し、そして私は故人が弟弟子という現実に思いを馳せる。先生の人生は、私が“知る”より遥かに色々なことがあって当然だけれど。若い命を既に見送っていたんだと思うと、ちくりと胸が傷んだ。

「ご病気、ですか」
「いや」

この時ほど、自分の軽率さを悔やんだことは無いだろう。

「―――罪人として、私が最期を見届けた」

私を構成する何もかもが、一瞬で凍り付いた。

罪人の最期を見届ける、山田家に関わる者としてその言葉が何を意味するかわからない筈がない。息が出来ない。だって、このひとは弟弟子だって。あんなに柔らかく語りかけるほど、先生にとって大事なひとの筈で。なのに、先生が命を終わらせただなんて、どうして。
様々な疑問は一切声にならなかった。迂闊な自分への憤りで、視界が振れる。

「素行が悪く道場一の乱暴者だったが、どこか憎めない奴でね。兄弟弟子としてそれなりに良好な関係を築いていたつもりだったが、ある日窮屈な生活に耐えかね、山田家を去った。身寄りも無くやがて食うに困り、押し入り強盗で人を殺め、そして・・・再会したのが刑場だった」

その声は涙に詰まるでもなく、怒りに震えるでもなく、平坦なまま事実を語る。先生の顔なんてまともに見られない。知らなかった。こんな壮絶な過去を抱えていただなんて、まるで感じさせない穏やかさに甘えて。私は今日まで、先生が此処へ密かに通っていたことにすら気付かなかった。

「私がもっと指導に熱心だったなら。彼の可能性を真剣に説き、引き止められていたなら。今でも、もしもを考えない日は無いよ」

穏やかな声に、ほんの僅かに香る切なさ。感情の起伏が、その程度で済む筈が無い。お役目として斬首する罪人がかつての教え子だと知って、どんなに絶望したことか。どんなに心を抉られたことか。

不意に頭を過ぎったのは、島で待ち受ける正史。典坐を喪った後、牡丹と対峙した先生の激情だった。彼を置いて撤退することしか出来なかった自分自身を許せないと、命尽きても仇討を成し遂げると、悔しさと怒りに歪む表情。

教え子の死に自分を責めるのが、二度目だっただなんて。それを痛感した途端、私は自分自身の制御を完全に失った。駄目だ。駄目だ。今先生の前でそんな姿を見せたら駄目だ。頭ではわかっているのに、身体が言うことを聞かない。視界は急速に輪郭がぼやけ、熱いものが込み上げ、やがて決壊した。ぼたぼたと無様に零れ落ちるものは、いくら拭っても、歯を食いしばっても、止まってはくれない。

「・・・すまない。きっと君を泣かせてしまうだろうとわかっていたが、もう少しだけ聞いて欲しい」

そっと私の肩に置かれた手も、気遣わしげな声も、私に向けられるものは何もかも優しい。鉄心さんの墓前で悔いることで辛い思いをしているのは、先生の方なのに。

「当時道場にいた者には、彼の去り際の台詞として『俺は俺の好きなようにやる』と、そう伝わっているだろうと思うが・・・実際は少し違う。門の前で最後まで見送ったのは、私だけだったから」

私も良く知る道場正門の光景が浮かんだ。今よりも、きっと典坐が入門するよりも更に前。そこで道場を去ろうという教え子を見送る、少し若い先生の姿。そして姿かたちのわからない、鉄心さん。道場のひと達は知らない、先生だけに残された別れの言葉。

「『あんたに期待して貰える程の価値も器も、俺には無い。俺なんかよりもっと良い弟子を見つけろよ、先生』」

一言一句、頭に焼き付いて離れないのだろう。鉄心さんの言葉を再現する先生の声に、知らない男のひとの声が重なって聞こえたような気がした。

同時に私は、とんでもないことに気付く。
私、さっき先生の前で何て言った?


《佐切からあんなに真っ直ぐ慕って貰えるだけの価値も器も、私なんかにあるとはとても思えなくて》


価値も、器も、自分には無い。
自信の無さから発したその言葉が、先生にとってどれ程辛い記憶を掘り起こしたのか。何てことを口にしてしまったんだろう。私は今になり漸く、失態の重大さを思い知る。

「そんなことは無いと、何故その場で強く言ってやれなかったのか。価値など、器などと己を勝手に卑下してくれるな。お前は、お前が考えているよりずっと・・・尊い存在だと、何故伝えてやれなかったのか」

素行の悪い乱暴者、その裏側に抱えた自己否定。先生を凄いひとだと認めているからこそ、自分では期待に応えられないと遠ざかった彼の気持ちが、わかってしまう様な気がして。そんな鉄心さんを見送ったことで、どうにも出来ない運命の巡り合わせに悔やんだ先生の気持ちも、今直接流れ込んでくるかの様に痛みを発する。

「最大の過ちを犯した後になり漸く、私は後輩指導に力を入れるようになった。二度と繰り返さぬよう、可能性を摘み取ってしまわぬよう。そして・・・自嘲に傷付いた心を今度こそ見過ごすまいと、努めてきたつもりだ」

先生はいつだって、私を肯定してくれる。自信を持てない分だけ、先生が私を私以上に認めてくれる。その理由が、やっと繋がった。

「君を泣かせてしまったことは幾重にも詫びよう。だが、今日此処へ連れて来たことの意味だけは汲んでくれないだろうか」

栓が壊れた様に溢れ続ける感情の波が呻りを上げて、私はとうとう立っていることも儘ならずその場に屈み込んだ。しゃくり上げ、鼻を啜り、とてもまともな会話なんて出来そうもない。それでも先生は同じように屈み込み私の背を優しく撫でてくれるものだから、堰き止めるものも無いまま堪らなくなる。

「私の利己的な感情と思ってくれて構わない。ただ、が時折酷く卑屈になる様子は胸が痛む。過剰な自己否定は時に凶刃にもなり得ることを、私は知っている」

辛いのは先生の方。苦しんでいるのは先生の方なのに。どうして、そこまで私を気遣おうとするの。

「いらぬ世話を承知で言うが、このままではいつか君の心が押し潰されてしまうよ」

温かくて、誠実で、自分より他人を優先するひと。そんなひとだと理解していながら、私は先生の保護下に自分を捻じ込んだ。立場を上手に守って貰えるように。願いを叶え易くする為に。何て自分本位で、浅ましい考えだろう。

「私・・・っ先生からそこまで大切にして貰えるような人間じゃ、ないです」
「・・・私の言いたいことは、伝わらなかったかな」
「違っ・・・でも、本当に、私は・・・鉄心さんと、全然違うんです」

喉に閊える声は掠れて、咽びながらの発声は聞き取りにくい事この上無い。それでも、私は懺悔せずにはいられなかった。

「私、まだ先生に、隠してることがあります」

未来を知ってる。山田家を襲う災厄を、何とかしたい。曖昧な情報だけで匿われ、指導して貰い、力を付けてはいるけれど。

本当は別の世界から来たこと、この世界は本を通して知ったこと。根本的なことは都合よく隠したまま、私は先生に寄生しているようなものだ。

「危険があって言えないんじゃない・・・自分のために、言わないことを、選んでます。私に都合が良いように、私を優先して、隠してます」

ここは本の中の世界。私は外の世界で魅了された読者。それを口にすれば、どんなひとだって困惑して距離を置くに決まっている。優しい先生から拒絶されることが怖くて、未来を書き換えたいという願いから遠退くことが嫌で。私は、大事なことに蓋をしている。

「鉄心さんは、道を見失ったかもしれないですけど・・・去り際に本音を残せるくらい、先生に対して、正直なひとだったんでしょう。私は違います・・・自分の好きなことに、正直なだけ・・・大事なことは狡く隠してる。私の本性は、酷い、酷い、嘘吐きです」

他の誰にも見せなかった自嘲を、鉄心さんは先生にだけ明かして道場を去った。それが私と彼の決定的な違いだ。この期に及んで自分を曝け出す勇気も無い、梯子を外されてでも自力で何とかしようと藻掻く術も持たない。都合の良い嘘で塗り固めた、卑怯な私。

「こんな私なんかに・・・っ先生の、大事なお話を、打ち明けて貰える程の・・・意味なんて・・・」

この世界を知っているつもりでいた。勝手に知った気で救おうとして、勝手に書き換えようと意気込んで。でも、実際は先生の心の傷も知らずに抉って、逆に気を遣わせて。

それでも私は、この物語の行く末を諦められない。典坐を助けたい。山田家の皆を助けたい。ヌルガイを見捨てられない。罪人も皆死なせたくない。願望が膨らむ度、どんどん自分を嫌いになる。私こそ、いっそ花になってしまえれば、どんなに―――



ぺち。そんな柔らかい音を立てて先生の両手が俯く私の顔を挟み、真横を向かせた。これまでで一番遠慮が無く、それでもまだ痛くはない力加減の方向転換。話が始まって以降まともに見られなかった先生の顔は、こんな時でも普段の穏やかさを失わない。

「前にも言ったな。君は謎多き存在ではあるが、信に値すると感じ引き取ったと。今でもその考えに変わりは無いよ」
「・・・せん、せ」
「生きていれば、明かせぬ秘密のひとつやふたつ、誰しも抱えているものだ」

泣きじゃくって熱を持った頬に、先生の手の冷たさが心地良い。子どもみたいに鼻水を垂らす私に、先生は柔らかな苦笑をくれる。こんな自分勝手な私に、無償の赦しをくれる。

「君に全てを明かさぬよう枷をかけたのは私だ。が何を秘めていたとしても、私に対し負い目を感じる必要は無いんだよ」

ずっと、ずっと、後ろめたく感じていたこと。言えない。貴方は本の世界のひとだなんて、正直に言えない。嘘をついて、ごめんなさい。未来が見えるなんて曖昧な情報だけで先生を利用して、ごめんなさい。山田家の内側に入り、調子の良い顔で振る舞いながら心の奥底にずっと根付いていた罪悪感。それを隠そうと必死に押さえつけていた私の手を剥がすのではなく、先生は優しく手を重ねてくれた。

秘密は、秘密のまま持っていて構わないと。共に鍵をかけながら、中身は見ないから安心して良いと、語りかけてくれる。こんなに都合の良い展開が、あるの?私は本当に、先生にここまでして貰える人間なの?

、人間常に前向きでいられないのは道理だが、自分なんかと己を卑下するのは止めにしよう。周りを温かく照らす力を持っているのに、己のことを貶めてばかりでは・・・君自身に対して、あまりに惨い」

先生が私を肯定してくれるのは、鉄心さんへの後悔があるから。それはわかっていても、私は耳に優しい表現があまりに眩しくて、聞き返してしまう。

「周りを、照らす・・・?」
「ああ。君の明るさとひたむきな姿に、幾度も力を貰っている。きっとそれは私だけではないだろう。佐切もそれを感じ取ったからこそ、観察対象に君を選んだのだと思うよ。皆それぞれ形は違えど、から活力を得ている。君はもう少し、自分の影響力を自覚した方が良いな」

先生も、佐切も、皆も。強固な絡まりをひとつひとつ順番に解くように、先生の声が私の心を軽くしていく。

「君の本当の願いはまだ道半ばなのだろうが・・・それでも、あの日と出会えて良かったと、私はそう感じている。君も同じように思ってくれていたなら嬉しいのだが」
「・・・勿論、ですっ・・・私の人生で、一番の・・・奇跡、です」
「ありがとう。では、君の奇跡に見合う師で在れるよう、これからも精進しなくては」

時に優しく、時に飄々と、そして時に切実に語り掛けるように、先生の言葉がひとつひとつ私に染みて、どす黒い内側からの滲みを覆い隠してくれる。出会いを奇跡と呼べるのも、今を尊く感じているのも、私だけで良い筈なのに。先生の方からそんな嬉しい言葉を貰ってしまったら、ますます都合の良い方向へ流されてしまう。

「だから、君ももう少し、自分に優しく在ろう。価値や器なんて言葉では決して量れはしない、君だけの尊さがある。それをどうか、忘れないで欲しい」

先生の言葉は、鉄心さんへの後悔じゃなく私に向けられたものだって。優しい妄想に、甘えてしまいたくなる。

「輪に入ることが烏滸がましい、場違いだと言ったな。そんなことは断じてあり得ないよ。君は既に山田家の一員なのだから、共に歩むことは皆の望みだ」

私は、日陰から皆を眺めていられるだけで十分だったのに。内側に居場所があると先生からはっきり言われて嬉しいのは、心の何処かでそれを望んでいたから。真ん中は確かに怖い。それでも、舞台の端っこに身を乗り上げてしまうくらいには、皆の傍にいることを心地良く感じ始めていたから。私は良いよって遠慮じゃなく、私も一緒にって線を飛び越えたくなる程に、私自身が変わり始めていたから。

私はもう、この物語の登場人物を名乗って良いんだって。この時改めて、存在を許されたような気がした。

「・・・本当に、良いんですか。ただのオタクが、山田家の一員なんて贅沢な立場、受け入れたりして」
「それだ」

ふに。先生の親指が、私の両頬を優しく押し上げる。

「そこがどうも、引っ掛かっていた。君は時々その呼び名を、自分が一歩退くために使ってはいないか」

思わず、瞠目した。

「私が思うに・・・何かを推すこと、の言う『オタク』とは、蔑称ではなく、自らを誇る呼び名ではないのか。好きなことを楽し気に語る時の君は誰より目が輝いているし、そんな姿を見る度私は心が和むよ。侮蔑の意味を伴う呼称とは、とても思えない」

先生の考察は淀みなく、的確で、そして優しい。
私はただのオタクだから。その言葉を逃げる言い訳にしていた私がいる。本当は、そうじゃないのに。

「違ったかな」
「・・・いいえっ、違いません」

後ろ向きな呼び名なんかじゃない。大好きで大切なひと達と同じ空気を吸って生きられる、特別な喜びでいっぱいの、私の誇り。

「私は・・・推しの傍で好きを語ることが出来る・・・世界で一番幸せなオタクですっ・・・!」
「その調子だ。さあ、涙を拭こう」

先生の両手という補助が外れる。私はやっと、自力の笑顔を取り戻した。散々泣いてボロボロの酷い顔だろう。それでも先生は満足げに笑い頷いてくれるものだから、私の欠けた内側は急速に満たされていった。
差し出された綺麗な手拭は私に託されることもなく、先生の手によって丁寧に私の顔中の水分を拭い去っていく。

「痛くないかい?」
「・・・」
「さ、鼻をかんで」

甲斐甲斐しくお世話をされるがまま、今の私は宇宙で目を見開く猫の心地。

「・・・至れり尽くせり過ぎませんか」
「そうでもないさ。が元気になってくれないと、私が困るからね」

この局面で初めて、先生が少々険しい顔を見せた。

「教え子の涙というだけでなかなか堪える状況だというのに、渾身の冗談にも反応が薄い。さながら・・・弱り目に祟り目、と言ったところか」

落ち着いた心が緩む。込み上げたものは、とても温かくてくすぐったい。

「・・・っふふ、先生、もお・・・!」
「うん、君はそう来ないとな」

いかにも満足そうな顔で先生が微笑んだ。沢山泣いて、罪悪感を保留の形とはいえ赦され、新たに市民権を得たような心地で、目の前には笑顔の先生がいる。積もり積もった心の大掃除をした気分だ。

「鉄心、また来るよ・・・帰ろう、
「はい、先生」

まっさらな心で鉄心さんのお墓へ深く頭を下げて、思うこと。

これまでも、先生に典坐を喪わせちゃいけないと感じてた。でも、鉄心さんという大き過ぎる欠損を知った今、その思いはより強く固まった。

どんなことをしてでも、私が朱槿を止める。こんなにも優しく全てを受け止めてくれるひとに、あんな思いはもう二度とさせちゃいけない。私が、絶対にさせない。

長い一礼を終え、私は先に歩き始めた先生の後を追う。供えた花が風に優しく揺れた。