寄せては返す波の音が、遠く聞こえる。潮風も感じないほど奥深い洞窟の中で膝を抱え、私は唖然と目を見開くことしか出来ない。腕立て伏せを繰り返す典坐の背中に、ヌルガイがちょこんと座り込んでいた。

「えええそんなことも出来るの君たち」

何のご褒美ですか?推しカプの絡みは何だって嬉しいけれども、まさか大人と小さな子どもじゃなきゃ成立しないだろう筋トレ光景を目にするだなんて、普通思わないでしょう。信じられない。信じられないけど、今目の前で確かに天国が完成している。

「流石に厳しいかと思ったんすけど、意外にいけますね!ヌルガイさん、軽いっすから」
「全然グラグラしないんだ、やっぱ典坐はすごいなぁ!」

典坐の言う通りヌルガイの体重が物理的に飛び抜けて軽いのと、彼女自身のバランス感覚の良さ、そして典坐の鍛え抜かれた全身の筋肉が目の前の奇跡を可能にしてるんだろうけれど、そんな細かい計算は秒でどうでも良くなった。

「筋肉は信用出来ないってある囚人が言ってたけどそんなことは無いね。典坐の筋肉は全てを解決するよ」
「・・・これは褒められてるんっすかね?どう思います?ヌルガイさん」
「言ってることはわかんねぇけど、多分褒めてる」

興奮すればする程あらゆるネタが混沌と湧き踊るのはオタクの性だ。ごめんよ二人とも。でも、怪訝な顔で意思疎通している姿がまた堪らない。

「それにしても眼福が過ぎる・・・この眺めだけで生きていけそうだからずっと続けて貰える?」
「ずっと?!自分そこまで強靭じゃねぇっすよ?!」
「へへ、がんばれ典坐!」
「っす!・・・ってヌルガイさんもさん派っすか?そりゃあないっすよー」
「っあははは!」

キャッキャとはしゃぐヌルガイが、苦笑しながらも期待に応えようと頼もしい典坐が、心底眩しい。私は細く長い溜息を吐き切り、改めて膝を抱え直した。

どうしてこんなに笑顔が似合うんだろう。
どうしてこんなに幸せな眺めが、私の夢の中だけなんだろう。

「本当に、ずっと見ていたいよ」
「その為に、君は努力しているのだろう」

声になるかならないかの瀬戸際、微かな囁きを拾ってくれるひとがいる。私の先生。隣に胡坐を組み、暫し無言で二人の戯れを眺めたあと、示し合わせたかのように顔を見合わせた。

の願いはいつか実を結ぶよ。これでも、そういう見極めは得意だからね」
「ふふっ!見極め・・・!でも、ありがとうございます」

私の願いが、いつか実を結ぶだなんて。例え夢の中でも、先生に紡いで貰えれば本当に心強い。隣合って座っているだけなのに、身体中がぽかぽかと温まっていくような優しい感覚に、思わず苦笑が込み上げる。
先生がお役目で家を空け、今日で二日目の夜だ。例え夢の中でも、会えて嬉しい。

「私が淋しがってるから、会いに来てくれたんですか」
「おや。留守中は賑やかに過ごせるようにしたつもりだったが」

数日家を空けるにあたり、先生は私と典坐に留守を任せると共に、同門の仲間たちの泊まり込みを自ら計画してくれた。佐切、仙汰、付知が選ばれ、主不在の間は五人で夕餉を囲み、眠る間際まで和やかな談笑が途切れない。私も楽しいひと時を過ごさせて貰っている。ただ、それはそれとして、やはり先生のいない家は普段と違う。

「そりゃあね、賑やかですよ。でも、淋しいものは淋しいです」
「そうか。すまないな」
「いいえ、お勤めお疲れ様です」

本物の先生が帰ってくるまであと一日だ。夢の中にまで来てくれたのだから、淋しくとも恨み言なんて言える筈も無い。私は普段通りの先生の横顔と、そして彼の胸元へと目を向けた。

ひとつの弔い鈴。現実の先生の胸には、音が視覚の妨げになることから付いていない筈の物。どんなに現実感のある穏やかな時間も夢だと裏付けてくれる、残酷で必要な目印。

「・・・目が覚めるまで、もう少しだけ隣にいてくれますか」
「勿論、君が望む通りに」

典坐の腕立てに合わせ、チリンと鈴の音が転がる。ふたりの楽しげな笑い声に合わせて鳴るそれが、一層夢と現実の境目を曖昧にした。



* * *



「つまり、提案に従った方が圧倒的に得な状況であるにも関わらず、頑として拒絶する時に使用するのが・・・」
「だが断る!」
「逆に、こちらに不利益を被る悪条件の提案を、敢えて飲む時に使用するのが・・・」
「だから気に入った!・・・で合ってるっすか?さん」

帳面に眼鏡がくっつきそうな程顔を近付けた仙汰と、テンポ良く合いの手を入れる典坐の目が、同時にこちらを向いた。二人とも正解をほぼ確信しているに違いない。私だって二人の喜ぶ顔が見たいよ。でもね。

「・・・大体合ってる、かな。あくまで一つの解釈だけど」

曖昧なことしか言ってあげられなくてごめんね。でも、少なくとも典坐や仙汰の曇りなき眼は、相手を如何に徹底的に打ち負かすかを考えることに情熱を燃やす奇妙な漫画家とは相容れない。私は敬意を持ってこの台詞の主を“闘争心むき出しの悪い顔”と称するけど、二人の導き出した答えはキラキラした正義感に溢れたもので、多分・・・大体合ってる、以上の肯定はしちゃあいけない、そんな気がする。

「えええ?仙汰くんの分析力を持ってしてもそんな感じっすか?さんの語録はなかなか難しいっすね・・・」
「すみません、僕の理解不足で・・・」
「私の語録ではないし仙汰が謝る理由は無いかな!二人とも歩み寄りがめちゃくちゃ嬉しいからありがとうだよ・・・!」

むしろ私の奇行を分析して、更には寄り添ってくれようという優しさの塊よ。正解か不正解かなんて二の次三の次で良い。他作品のネタまで理解してくれようとは、私は何と心優しい兄弟子達に恵まれたのだろう。

「正直、私もこれで正解って自信持ってる訳じゃないんだけどさ、ひとつの台詞への解釈は無限だから!好きな単語で日常を楽しく彩れるのがオタクの良いところ!」
「よくわかんねーっすけど、さんが楽しそうなんで、自分はそれで良いっす」
「僕も同じくです。好きなことを熱弁されるさんの姿勢は勉強にもなりますし」
「ふたりとも律儀だね。の言語は半分異国語くらいの認識で丁度良いのに」

うん、全くもってその通りだね。食後の柿を頬張る付知のばっさりとした物言いにも慣れたもので、私はにこにこと上機嫌なままお茶のおかわりを淹れた。
突発的な集団生活が始まり三日目の夜だ。こうして普段と違った面々で暮らす時間も新鮮だったけれど、明日の朝には先生が帰ってくることはどうしたって嬉しい。

「では、私もひとつ質問を」
「お。何でもどうぞ、佐切」

正座にぴしりと背筋を伸ばしたまま、控えめな挙手。実に彼女らしい一挙一動に、私は頬の弛みが止まらない。私が知るより少し風貌が幼い佐切は、女の子と女性の境界線に佇む様な、綺麗と可愛いの両取りなのだ。勿論、島での佐切も可愛いことは知っているけれど。この一線を越えたら美人まっしぐらな一歩手前、貴重な美少女時代を一緒に過ごせて、私は満足ですとも。

「改めてお聞きしたことが無かったので・・・『推し』とは、どういった定義を指すのでしょうか。さんにとって、士遠殿と典坐殿が該当するのは、理解しているのですが」
「ずばり元気の源」

佐切らしい真面目な問い掛けだったけど、即答だった。溜める意味も焦らす理由も無い。私の推しは典坐、先生。そして、今はまだ何も知らずに山で暮らす小さな少女。三人目の存在にそっと蓋をしても、その質問は私に笑顔をくれるだけの力を持っていた。

「そこに居てくれるだけで気力が湧いてくる、元気を貰える、そういう存在。典坐はね、私の太陽」

五人で円を囲む並びは、私、典坐、仙汰、付知、佐切。私の隣に陣取る兄弟子が、照れくさそうに頭を掻いた。

「面と向かって言われると流石に照れますけど・・・光栄っす!」
「典くんも慣れたね。最初の頃は動揺し過ぎてしょっ中壁に頭ぶつけてたのに」
「確かに・・・お見事な軌道でした」
「ちょ、付知さんも佐切さんも!それは忘れて欲しいっす!」

本当に。私は思わず感慨深く何度も頷いてしまう。普通突然現れた女に推しだの何だの詰め寄られたら拒絶反応を起こしても不思議じゃないところ、そこは先生が実に上手く調整して馴染ませてくれた。比較的穏便に同居も同門も推し活も受け入れてくれた典坐だけど、確かに慣れない頃の戸惑いっぷりも可愛かった。勿論、遠慮無く話せるようになった今が嬉しいのも本当だけど。

「では、士遠さんは」
「先生はねぇ・・・」

当然の流れで仙汰の問いに答えようとしたその時、言葉が上手く形にならず固まり、私はがっくりと項垂れる。

「・・・選べない」
「え?」
「典坐はね、間違いなく太陽一択なの。でも先生は何て言うか、私があまりに恩恵を受けすぎててひとつに絞れないっていうか・・・」

イメージカラーとかイメージシンボルとか、当然ひとりにつきひとつと思っていた頃が、私にもありました。でも先生という稀有な仏の様なひとを前に、私の価値観は呆気なく瓦解した。関われば関わるほど、選べない。お世話になればなるほど、絞れない。先生から連想される尊くて美しいものが多過ぎて、今私は完全に迷子状態だ。

「詩人ぽく言うなら、月みたいに優しく導いてくれるけど、花みたいにずっと眺めていたいまったりした引力もあるし、私の悩み全部吹き飛ばしてくれる風みたいな強さだったり、もはや私が生きていくには欠かせない泉のようなひとだからさ・・・!」
「熱烈ですね・・・」
「ぽい、じゃなくて実際詩人っすよ。さん引出しすげー持ってますから」
「それオタク的にはすごい誉め言葉」

延々と語る私に対して素直に感心してくれる佐切、フォローを入れてくれる典坐。一番新入りだけど最年長を良い事にお姉さんぶらせてくれる、皆優しくて平和な円環だ。さらさらと帳面に何かを書き付けるなり、仙汰が出来栄えを見せてくれた。綺麗な文字で綴られた、馴染みのある四字熟語。いや、よく見ると少し違う。

さんから見た士遠さんは、花鳥風月ならぬ、花泉風月、ですかね」
「おおー!さすが仙汰・・・!」
「いえいえ、お恥ずかしい」

造語も大変スマート。思わず拍手する私に対して、仙汰は謙遜して汗を拭く。そんな帳面を横から覗き込み、付知が丸々とした黒い瞳で字面をじっと捉え、そして感心した様に小さくふぅんと呟いた。

「確かに。シオさんは鳥っぽくは無いかもね。鳥みたいにシオさんの周りでピーピー言ってるのはどっちかっていうとの方だし」

全員の頭の上に黒い点が三つ並んだ。デフォルメされた先生の回りを飛び回る鳥、その頭は私の顔に挿げ変わっている。先生。先生。鳥の鳴き声の筈が人語を話しているのだけれど、滑稽な図が我ながらしっくりき過ぎて戸惑ってしまう。成程、花鳥風月の鳥単体なら確かに私で合っているのかも。

「・・・発想が斬新過ぎない?」
「え、駄目?」
「褒めてんの。グレイト」
「はいはい、すごいって意味ね」

半分異国語なんて言いながら、つれない顔でも都度翻訳してくれるのだから、付知も優しい。
私は本当に人の縁に恵まれているなぁなんて、温かい気持ちが込み上げる。その時だった。隣に座る佐切の、微かな溜息を私の耳が拾う。

さんの毎日は、元気の源であるお二人に囲まれているからこそ、輝いているのですね」

小さな笑顔。寂しさと困惑が微かに織り交ざる、口元だけの笑み。
ああ、そうか。私は今更ながらに自分の考え不足を痛感する。この子はずっと、それこそもっと幼い頃からずっと。自分の立場に悩み、進むべき道に迷い、暗闇の中を模索し続けてきたんだ。今もそう。現山田家当主の娘、人斬り浅の娘と石を投げられ、侍として刀を握れば女が何をしていると嘲笑に晒され、四面楚歌の心地なのではないか。
“知っていた”のに、まるで的外れな回答を出してしまった自分が恥ずかしい。佐切は推しの意味を知りたかった訳じゃない。少しでも前を向くための方法を探していたんだ。

「・・・佐切も、推しのいる生活を考えたり、探してみるっていうのはどうかなあ?」
「え?」
「ちょっと見方を変えてみるだけでも、気分が変わるかも・・・なんて」

不出来な妹弟子でごめんね、佐切。何も知らない顔で素通りは出来ないけど、これくらいしか私には出来ることが無い。ひとつでも今の生活の中に、佐切だけの“好き”を見つけること。ほんの薄らでも、暗闇で迷う貴女の道しるべが見つかる様に願うこと。

「推しは身近なひとじゃなくても良いし、そもそも人間じゃなくても良いんだよ」
「猫や馬ということですか?」
「うん、それも選択肢のひとつだけど。私は無機物でも自然でも、何だって誰かの推しになり得ると思う」

いつか迷いの果てに中道を見つける貴女に、こんな問答は無用のものかもしれないけれど。少しでも暗い顔が減って欲しいと願ってしまうのは仕方のないことだ。だって佐切は、こんなにも一生懸命で、こんなにも素敵な、愛すべき年下の姉弟子なのだから。空の雲でも咲いている花でも、牛でも金魚でも何でも良い。誰か、ほんの少しでもこの子の暗い思いを連れ去って。

「だって、前向きな気力を貰える対象は、一人一人違って当たり前だし。何を大切に思うかだって、人それぞれ自由なんだから。好きなものは好き、良いものは良い、誰に何と言われようが推しは推しだもん。勿論、無理に今すぐ作ろうとするものじゃないけどね。長い人生のなかでいつか来る推しとの出会いがどんな感じか、想像するのも楽しいと思う」

私のまとまりの無い話を最後まで聞いて、長い睫毛を震わせて、佐切の瞳が丸くなる。最後にふわりと綻んだ眦に、私は思わずほっと息を吐く代わりに気の抜けた笑顔を返した。さて、佐切に向けての熱い語りは、意外にも男子たちにも有効だった様子で。

「じゃあ僕の推しは、大きい括りだと内臓だ」
「だよねぇ」

知ってる。解剖という苦手分野だとわかってはいても、付知の口元が綺麗な弧を描くと、つられてこっちもにんまりしちゃう。

「僕は・・・帳面と筆、かもしれません。その、調べものは得意なので」
「良いじゃん良いじゃん!」

絵描きを夢見ていたことは、仙汰の大切な秘密。でも、絵心が突き抜けていることを知らない門下生はいない。素知らぬ顔の下、心の中だけで猛プッシュした。

「えええ自分は・・・うーん、難しいっすね。沢山あって絞れないっす」
「あはは、典坐らしいや」

君は、いつか本当に守りたいひとと出会うよ。今は沢山の明るいことに目を向ける典坐を小突くと、少年ぽさが抜けてきた顔でがしがしと髪を掻きながらいつも通りの笑顔を見せてくれる。

「私も・・・今日のところは、保留です。すみません」
「謝ることなんてひとつも無いよ」

私は貴女の苦悩を知りながら、何も代わってあげられない。でも、こんな変わり者との会話で一瞬でも佐切が笑ってくれるなら。馬鹿馬鹿しく思われても、呆れられても、何だって構わない。

「何が自分にとってピンと来るか、慎重に色々悩んで迷いながらでも前に進めるのが、佐切の素敵なところなんだから」

佐切は良いところが沢山あるよ。胸を張って生きて行ける、貴女だけの強さがあるよ。それを精一杯伝えられたら、もしそれを前向きに受け止めてくれたら、私はそれだけで嬉しい。そうして無力ながら少々間の抜けた笑みで親指を上げたその刹那。佐切は優しく微笑むと、もう一段背筋を正した。

「・・・私の『推しがいる生活』については、保留ですが。今のお話をきっかけに、私自身を模索するため、ひとつ新しい挑戦を始めてみようかと思い至りました」
「お?何何?」

これは風向きが良い方に変わったのではと、私は思わず身体を横に傾けてしまう。自分を模索する為の新しい挑戦だなんて、佐切らしい言い回しだけどちょっとわくわくする。

「私に新たな驚きと気付きを与えてくれる人、およびその方の周辺を題材とした、私の自由手記・・・随筆、という類のものでしょうか」
「ほおお。文豪佐切誕生の瞬間・・・!」
「いえっ、そんな大袈裟なことでは・・・!」

顔を若干赤らめて両手を振る素振りは可愛い以外の何物でも無い。それでも次の瞬間、気を引き締めて両手を膝につく佐切の表情は綺麗だった。

「私が興味惹かれる光景を、私自身の言葉でどのような形に残せるのか。私はどんな引出しを持っているのか。私の心は何に動き、何を示すのか。自分を見つめ直す為の材料にしたいと思いまして」
「え・・・凄い、何その壮大な計画」
「自分馬鹿なんで上手く言えないっすけど・・・なんか、すげー真面目で行動派なところ、佐切さんぽいっす」

驚くほど真面目なだけじゃない、きちんと整理された考え。外見こそ少女と女性の境界でも、中身はとっくに大人の側へと踏み込んでいた姉弟子の姿に、私は思わず感嘆の息をつく。
仙汰が眼鏡の奥の瞳を光らせたのは、丁度そんな時のことだった。

「成程・・・思いを形に残す。良い試みですね」

しみじみとした声。興奮と冷静の只中、強く寄り添う言葉。絵と文字は違うけれど、かつて絵描きを夢見た仙汰だからこそ示せた共感だった。しかし、それは本来開示されていない彼の心の中を如実に表したもの。仙汰は焦りと共に眼鏡を弄りながら悩み、迷い。そして、意を決した様に佐切に目を向ける。

「書き付け易い筆はいくつかお勧めがあるので、その・・・もし、興味があれば・・・」
「教えて下さい、是非」
「・・・はい、喜んで」

佐切の素早い食い付きに、その場の空気そのものが優しいものへと変化する。花が咲き綻んだ様な仙汰の笑顔が、私も心の底から嬉しい。

「ねえ、表題は?」

普段は周りに流されない付知の声すら、今日は友の新たな門出に少しだけ浮き足立って聞こえる。表題、そうか。先程の言い回しだと、誰かひとりを中心に据えた随筆の筈だ。
珠現だろうな。どうやら佐切の初恋らしいという、これまた一方的に知り得た情報を胸に、私は苦い感情を懸命に奥深くへと沈ませた。

「必要でしょ。僕も研究をまとめる時は綴りに必ず表題を付けてるよ」
「確かに、大事ですね」
「・・・実はもう決めてあります」

さてどうする。表題から何が連想されても一切顔には出さずに済むよう、昨日見た夢の話でも思い返す?それとも、明日先生をお迎えした時のイメトレ?でも佐切が一生懸命考えたことを聞き流すのはあまりに心が痛む。矢張り、根性で堪え切るか。

「―――花泉風月と鳥、です」

瞬間、耳がおかしくなったのかと錯覚する。瞬きを繰り返す間に、聞き間違いか幻聴か、とにかくそのまま受け入れない方向で調整しようという私に向けて、遂に佐切の視線がしっかり合わさる。

だって、これは佐切が自分を見つめ直す為の大事な挑戦だと言ってた。気付きを与えてくれる人だって。辛い境遇に思い悩む佐切が、少しでも意識を変える手段として選び取った、大切な随筆文。その中心に私なんかがいる筈が無い。お願い、せめて先生のことだと言って。そうして冷や汗をかきそうになる私と目を合わせたまま、佐切が照れた様に微笑んだ。

「・・・主軸は、鳥の方です」
「んなっ・・・何イィッ?!」
「ちょ、さん危ないっす!頭打ちますよぉ!」

盛大にひっくり返る私の頭めがけて、典坐の腕枕が素早く差し込まれた。くすくすと楽し気に笑う佐切たちの声に悪意は微塵も感じられない。嘘でしょう。私は思いがけない大役と自信の無さで、天井を見上げたまま目を回した。

だって、私は、そんな器の人間じゃないのに。

お願い、早く帰ってきて。私は私の救世主の顔を、強く思い浮かべたのだった。