突然だけど、私は生まれ育った世界で所謂スポーツ観戦をしたことが無い。プロスポーツもそう、部活もそう、何かの勝負事を見守った経験が殆ど無い。ホームがどうとかアウェーはどうとか、興味が無いので早く帰宅して漫画を読みたいと即決する学生だった。
そんな私は今、心底痛感している。アウェーは厳しい。周囲の群衆は皆相手の味方で、私はこの竹刀一本で孤軍奮闘の危機だ。そりゃあそうか。ここは山田の分道場、相手はこの道場期待の女性、威鈴なのだから。何となく敵対視しがちな本道場から突然やって来た平たい女なんて、叩き潰す娯楽の的としては最高の食材でしょうとも。一方的に調理されるつもりは、毛頭無いけど。私への野次八割、威鈴への応援二割の不快な騒音を脳内から締め出し、細く長く息を吐き出した。
身長百六十センチ。この世界に移るまでは小柄とは呼べないと思っていたところ、二メーターの女性を相手にすると流石に己の小ささを実感する。この局面で小さいは褒め言葉なんかじゃあ無い。単純に、貧弱という危機感を煽るだけの枷だ。その上威鈴は剣圧が信じられない程重い。まともに打ち合えば二撃三撃でこちらの竹刀が弾かれかねない。丸太でも振り回しているのかと見紛う程の重撃を紙一重で躱し、薄皮が切られそうな風圧に冷汗をかき、また躱す。
冷静に考えろ。条件が悪いから何だ。活路は必ずある筈だ。彼女は大柄で豪剣の持ち主、その分どうしたって剣速は落ちる。兄である源嗣と同じだ。目の前に構える彼女の姿に、飛び抜けて巨漢の兄弟子の姿を重ね、一層注意深く間合いを詰めた。足を狙うと見せかけ、相手が振り被ったその隙をつき、横を抜けて背後を取る。絶対の体格差は速さで埋める、これしか手は無い。そうして私が漸く編み出した勝ち筋、しかし、それは。
「威鈴!後ろだ!」
「はいっ!!」
呆気なく、粉砕された。
私が横を抜けるより早く察知して助言を飛ばすとか、反則じゃないの。間一髪で飛び退き距離を置いてから、私は忌々しく奥歯を噛み締める。
声の主は確認するまでもない。私を今日ここまで連れて来た張本人、珠現だ。私と同じ本道場の者でありながら、特別待遇の扱いで最前列の観戦を決め込んでいる。成程、私が知るより数年前の今の時点で、こうして本道場分道場分け隔てなく、山田家全てを愛する最良の男だった訳だ。残念ながら全部恨み言にしかならないから、口には出さないけど。
「っるあああああ!!!!」
威鈴の剣速が、上がった―――考える間が稼げず、咄嗟に正面から受け止めた一撃が、想定より遥かに重い。竹刀を手放さず踏ん張った自分を褒めてやりたい。桁違いの圧は雷に打たれた様な衝撃を伴った。掌の皮を微妙に持っていかれた嫌な感覚があり、危機感が強過ぎて痛みはひとまず棚上げに出来ているが、威鈴の優勢に道場内は一層湧き立ち、普段なら簡単に締め出せる筈の雑音に足を取られてしまう。始めから決して楽観視していた訳じゃないけれど、源嗣と同じとはもう考えられない。瞬間的な爆発力だけで言えば、彼女は兄を凌駕する程の伸びしろを秘めている。明確な劣勢に荒ぶる鼓動がどくどくと耳元で脈打った。どうする。どうする。
「頑張れ!さん!」
それはまるで、閃光の様にすべての闇を切り裂いた。
邪魔でしかなかった野次も、殊現以外分道場生で占められた人波も掻き分け、私の元に真っ直ぐ届く。
ああ、来てくれたんだ。私の太陽、そして、心強い味方。一声の助太刀はあまりに大きな後押しだった。呼吸が戻り、震えが止まり、視界が冴える。
今、最高に整っている、そう感じるのは虚勢じゃない。普段からいくら集中しても稀にしか掴めない氣が、今はっきりと視えていた。
「」
野次も雑踏も、戻った雑音は悉く意味を成さない。私の耳は今、必要な音だけを正しく拾える状態にあった。きっと典坐の隣にいるであろう先生の静かな声が、私を前へと的確に導いてくれる。
「君の戦術の根幹を忘れるな」
体格にも剣術にも恵まれた訳じゃない、平凡な私が最大限に全てを活かす方法。如何なる時も冷静に、ひとつの型に拘ることなく臨機応変な目を。力量に圧倒的な差異があるならば、相手の得手にぶつかるのではなく利用する。先生の教えを繰り返し、私は落ち着いたまま間合いを詰めた。押されているとは、もう感じない。鬼気迫る一刀を、私は敢えて飛び掛かりながら受け、威鈴が竹刀に込めた勢いそのままに後方へ放り出された。宙を舞う間も正しい構えは決して解かない。敵から視線は逸らさない。
「勝ち筋を見極めろ、」
「っはい・・・!!」
目で見るな、氣で視ろ。三次元の常識を手放すと同時に足から壁へ辿り着き、私は居合の構えを深めた。踏み込めるなら床も壁も同じこと。勢い良く飛ばされた分だけ、脚をバネに斬り返せる。想定外の方向から戻ってこようとする私の一手に、明確に動揺した威鈴の氣が乱れた。
其処だ。
全力で壁を蹴り、渾身の力で振り抜く。威鈴の手から抜け落ちた竹刀が、音を立てて床に転がった。
着地は綺麗には決まらなかったが、正しい構えは根性で解かずに降りたから足腰は傷めていない。及第点の筈だ。勝負ありの判定に対し、拍手も無いけど静寂も無い。ただただ動揺に騒めく雑踏が耳に触れ、視界が正常に戻り、そして私は深く長く息を吐き出した。
今の感覚が『氣を練る』に近い・・・様な気がする。心を落ち着け、目じゃなく氣で捉え、強化したい箇所に氣を集中させる。今回で言うなら蹴り出した脚と振り抜いた竹刀の二極化。ただ、不意打ちでそこ以外を突かれたら弱い気がする・・・多分。
色々と曖昧なのは自分自身、一連の流れが偶然の産物だと自覚があるからだけれど、それでも、大きな一歩だ。あの島で私の役割を果たす為の第一歩。漸くここでスタートライン。氣を使い熟す必要条件、中道であること。知識だけあっても実践するのは難しいなんてものじゃない。まだまだ、此処から。
そうして自力で気合いを入れ直す私の元へ、近付いてくる力強い足音があった。私が今日、土壇場で一時的に覚醒出来たのは、紛れもなく二人が駆け付けてくれたお陰だ。興奮と安心、何故か両立する明るい思いに、私はへらりと気の抜けた笑みを浮かべてしまう。
「すげー格好良かったっすよさん!何すかあの壁蹴る技!」
「へへ、ありがと・・・って言いたいところだけど。実際、偶然決まっただけなんだよねぇ」
「改良の余地はまだまだあるな」
「はい、先生」
自覚もあった曖昧さが、先生のお墨付きで一層強くなる。でも、何か新しいことが出来たとき。先生は決まって、反省点を挙げつつも褒めてくれるのだ。今回も例外じゃないらしく朗らかに笑いかけて貰い、尻尾があったらぶんぶん振り回したい気持ちで一杯になった。
「とはいえ、初の試みであの威力なら大したものだ。目の覚める様な鮮やかさだったよ」
「キタ・・・!!目が覚める、いただきましたァ!!」
「・・・さんて、先生の冗談への食い付きはほんと誰にも負けないっすね」
「当然。そこが私の長所だから」
どうも典坐は先生の冗談と波長が合わないらしいが、そこも含めて二人とも推しなので、全部私が拾うということで宜しいか。いつもの調子で親指を上げたその時、不意に先生が顎に手を当てて考える姿勢を取った。
「・・・」
「はい」
「そこが長所、ではなく。そこも長所、と訂正しようか。自惚れは良くないが、過小評価も宜しくない」
あらゆる言葉が頭の中から一斉に離散した。
結果を出す為に指導は厳しく。ただ、素は非常に優しい。甘時々辛、な匙加減が堪らなく絶妙で、私は毎度情緒を揺さぶられてばかりいる。私の推し、恐るべし。ギュッとする心臓に思わず手を当てた。
「うっ・・・」
「・・・ん?!もしかして、これが『突然の死!』ってやつで合ってますかさん?!」
「大分わかるようになって来たじゃんか典坐・・・それはそれとして尊くて心臓が持たない」
「ちょ、さんその手・・・!」
私の手が離れると同時に、赤く不自然に汚れた稽古着の胸元。
「あ」
大変グロテスクな有様となった掌の惨状が、忘却の彼方から現実に戻ってきた。
「えええ見てるだけで痛いっす・・・!!大丈夫なんすか・・・?!」
「まったく・・・これは相当痛いだろうに」
「へへ。二人が来てくれたから嬉しくてつい、忘れてました」
中途半端に皮がずる剥けた、非常に嫌な状態の掌。背筋がぞっとする代物だろうに、先生の盲目は上向いた患部を真っすぐ見下ろしていた。
「お目汚しをすみません。褒めて貰ったそばから減点ですね、これは」
「そうでもないさ、周りを見ると良い」
はて、周りとは。私はその時になり、こちらを囲む群衆の視線が、嫌悪から畏れへ色を変えていたことに気付いたのだった。道場一の剛剣使いを破った勲章なのだから、もう少し素直な感心的な反応があっても良いのだけれど。ほんの出来心で印籠のようにずる剥けた手を掲げるだけで、十戒の如く出口までの道が開けた。誰だ、今『ひっ』て変な悲鳴飲み込んだ奴は。やめなさいと静かに諭され、私は大人しく手を引っ込めた。
「さて、早く戻り手当しよう。、手以外に痛めた箇所は無いか」
「大丈夫、元気です!」
「その手で元気なんっすか?すげー、自分も見習わねーと・・・」
肩を借して貰えたらそれは憧れのシチュエーションではあるけれども、オタク的な下心より今は堂々とこの場を後にしたい気持ちが遥かに勝った。
本道場と分道場。特にこちらからは何もしていないのに、所属だけで露骨に威嚇するのは如何なものか。同じ山田家の人間として、あなた達が慕う『殊現様』だって良い顔はしないんじゃあないですかね。一切の恨み言は飲み込んだ。この手を通して一目置いてくれたなら、怖がられたって何だって良い。先生と典坐にまで理不尽な嫌味をぶつけずにいてくれるなら、それで構わない。そうして出入り口を抜けた、その時。
私は可憐な啜り泣きを耳にして、思わず足を止める。扉を出てすぐの木陰だった。涙で肩を震わせる威鈴はこちらに背を向けて私に気付いていない、向かいに立つのは殊現だ。
「さんは入門から一年の女性だ。威鈴、そうした意味では確かに君が圧倒的に有利の筈だった」
泣いている女の子に対してそんな追い打ちある・・・?今日ここに私を連れてきた下りもなかなかに強引だったことも手伝い、思わず目を剥く私の肩を、先生がそっと掴んで引き止めた。
「だが、彼女は士遠殿の直弟子でもある。本道場の兄弟子達から日々鞭撃たれながらも力量の差を埋めようと、昼夜問わず血の滲む様な鍛錬を続けているに違いない」
殊現の身体はこちらを向いてはいるけれど、私たちのことは一切目に入っていない。悔しさに涙する妹弟子だけを見ている。それがわかった途端、私は何とも言えない気まずさに苛まれた。
「強い志で鍛え続ければ、きっと追いつけるさ」
「でも・・・私は身体が重過ぎて、あんなに冴えた剣技はとても」
「戦い方はひとつではないだろう」
殊現の言葉が震えて聞こえ、目を見張る私たちの前で彼は涙を一筋流した。まごうこと無き、同門への激励が臨界を越えた熱い涙だ。それは間違いない。
「思いの強さは時に理すら曲げる。さんにはさんの、威鈴には威鈴だけの戦い方がある。更なる鍛錬で最良の道を見出すと、俺は信じるよ」
「・・・はい!!必ず!!」
殊現がどういう人間であるか。それはこの一年で私も理解していた筈が、麗しい兄妹弟子の絆を素直に受け止められない私自身に、嫌な影が差した。