上半身を無くした蓮の身体は丹田から見事に切り裂かれ、再生する気配が無い。

―――終わった。

達成感なのか疲労感なのか判別のつかない思いに足元がふらつきそうになるその時、決着をつけた姉弟子の身がぐらりと大きく揺れ、高い足場を完全に踏み外す。

「佐切!」

集中力を切らし誰もが間に合わない中、一が八か典坐が飛び降りようと構えを深めた直後。小柄な忍が落下する佐切の下へ影の如く滑り込み、その身を容易く抱き留めた。

佐切も意識はある様だ。顔を見合わせ、そのままの体勢で固い握手を交わす。画眉丸の表情はこちらからは見え辛いものの、互いの健闘を讃えるふたりの氣は穏やかなもので。私たちは頼りない足場の上で、それぞれが安堵のもと脱力した。

「・・・か、勝てたんだよな?」
「そうっすよ、自分たちの勝利っす!」
「そっか・・・そうだよな・・・!やったんだな・・・!」

懐疑的だったヌルガイが、典坐の言葉を得て勝利の実感を深めていく。二人の言う通り、私たちは勝った。漸く、命懸けの御役目は終わりを告げたのだ。

!センセイも!良かったなぁ・・・!」

本当なら力いっぱいに抱き締めて、生き残れた喜びを全身で分かち合いたいのに。今の私はヌルガイの眩しい笑顔を前にして尚、気持ちを明るく持っていくことさえ難しい。

「・・・うん」
?」

千年をかけて最愛を取り戻そうとしたひとりの女性の想いを、私たちは粉々に打ち砕いてしまった。その途方もない罪悪感が胸を締め付け、一筋の涙が零れ落ちる。
何も知らない典坐やヌルガイには伝わる筈も無い。敢えて苦しめる必要も無い。恐らくは桂花から真相を聞いていた杠と仙汰も、私たちを思うからこそ師弟関係以上のことを伏せたのだろう。

「あ・・・ごめん、ホッとしたのかなぁ」

オロオロと惑うヌルガイに心配をかけたくない。なのに何度拭っても涙は止まらず、上手く笑って見せることすら出来ない。己の非力さを悔やんだその時、背後から腕を引かれ私の身は反転する。
先生は私の涙を隠してくれた。ヌルガイと典坐に背をむける形で先生の腕に抱かれてしまえば、誰にもこの情けない顔を見られずに済む。

「・・・よく頑張ったね」

温かな抱擁。私の頭を撫でる手の優しさ。讃える声の柔らかさ。先生が与えてくれるひとつひとつが、私の心を守ってくれる。

「忘れずにいよう。君も、私も」

私と先生にしかわからないだろう、その言葉が最大限の寄り添いを約束してくれる。蓮の想いと願いを知りながら道を貫いたことへの重荷を、共に背負うと。誰かの愛を砕いた痛みは薄まらない。それでも、ひとりじゃないと思えるだけで心持ちは遥かに違う。

「・・・はい」

ごめんなさい。蓮に対する罪の意識を唯一許される腕の中で、私は深く呼吸を繰り返した。

そこから数分だったのか、数秒だったのか、時間感覚は曖昧だ。ただ、背後から典坐とヌルガイが息を飲む音を耳が拾うと同時に。私の氣もまた、この船へ新たに乗り込んできたひとつの気配を感じ取る。

「・・・先生、さん」
「えっ・・・何であいつこっちにいるんだ・・・!」

船の後方。もう半分ほど沈む甲板の縁を越えて、浮遊する雲に倒れ込むような形でやってきたひと。

「衛善さん・・・!」

整理のつかない心の惑いを一時棚上げ出来る程に、予期せぬ出来事だった。強引に涙を拭い、四人で甲板へと降り立つ。時に浸水した箇所へ踏み込み飛沫を散らしながら、私たちは急ぎそのひとの元へ駆けつけた。

迎えを得て役目を終えたのか半透明の雲がゆっくりと消失し、衛善さんをそっと降ろす。正面からは変わりなく見えようともその背からは夥しい量の枝葉が伸び、極彩色の花を咲かせていた。思わずこちらの息が詰まる壮絶さをその身に纏いながらも、私たちを見渡す隻眼は落ち着いている。

「・・・仙汰を責めてくれるな。単身運ぶよう命じたのは私だ」
「何故・・・」

花化に臆すること無く肩を支える先生の問いに対し、衛善さんが浮かべた笑みは優しくて。

「私の時間は、残り僅かだ」

その言葉は、声色に反し鋭く私たちの心に突き刺さるものだった。
残りの時間を悟ったからこその穏やかさ。未だ自我を保っていることが奇跡のような花化の進行度合い。すべてがパズルのピースのように噛み合って尚、心がその受け入れを拒否する。そんな私の葛藤を見通したように、衛善さんの視線が私たちから逸れた。

「殊現も、もうじき力尽きるだろう・・・奇妙なことだが、この身に巣食う花がそう告げている」
「っ・・・!」

極限を越えて残り火も同然だった氣を燃やし尽くし、殊現は徐福の遺体を斬った。私が共有した蓮の背景を飲み込んだ上で、その役割を引き受けてくれた。手遅れであることは痛い程理解出来ていた。そして今この時になり、私はこのひとが一人で此処へ渡った本当の意味へ辿り着く。

「共に役目を終える為、此処へ来た」

殊現にとって衛善さんは、敬愛する特別な兄弟子で。衛善さんにとっても、殊現はずっと気に掛けて来た特別な弟弟子で。ふたりの関係性を頭では理解しながらも、殊現の死期を悟り寄り添おうとする衛善さんの決断を、私はどうしても受け入れられない。

「嫌です・・・」

「折角、生き残ったのに・・・本土も守れたのに・・・」

わかってる。花化は一目瞭然に深刻化して、衛善さんは自我を保つ裏側で想像を絶する苦痛と戦っている。それでもここまで積み上げた時間や絆が、この兄弟子を終わりへと後押しする勇気を阻む。

「どうにか、他の道を探せませんか」

先生の声は苦しく掠れたものだった。

はずっと、貴方を救えなかったことを悔いていました。今になって再び取り上げることは・・・とても・・・」

そうだ。私は、二度目の喪失を恐れているんだと。喉元が締め付けられるような思いに俯くと同時に、堰を切ったようにヌルガイが前のめりに声を上げた。

「そ・・・そうだよっ・・・!もう誰も死んでほしくないって、も、センセイも、皆頑張ってきたんだよ・・・!」
「少しでも花化を遅らせることが出来れば、まだ何か良い方法見つかるかもしれないっすよ・・・!」

蓮という最大の障壁を乗り越えた今だからこそ、どんなことをしてでも仲間の命を繋ぎたい。その思いで熱くなる私たちを見据え、衛善さんがそっと微笑んだ。

「お前たちは思い違いをしている」

静かな声だった。それでも直接心に語りかけるように、その言葉が染みていく。

「確かに命に勝るものは無いだろう。だが・・・納得のいく散り様を選ぶこともまた、時には救いになり得る」

必ずしも延命だけが救いではない、と。全員生存の意義を覆され愕然とする私に向けて、衛善さんが言葉を続ける。

「・・・教えてくれ、。私は本来、どういった死を遂げる筈だった」

全身に緊張が走る。正史での死様。それを今、本人から直接問われることの重さは言葉にし難いものだった。眉を寄せ身を硬くする私が助けを求め視線を送る先、先生が戸惑いながらもひとつの頷きを返してくれる。吐く息が震えた。

「・・・上陸して、すぐ・・・空腹の陸郎太が、暴れて・・・木に、叩きつけられ・・・て」
「浜でお前が駆け付けた時だな・・・撲殺か、圧殺か。死体は皆の眼前に晒されたか」

上陸間もないまさかの悲劇。私がまず回避させたかった別れ。脳裏に浮かぶのはこの上無く残虐な遺体だった。だというのに衛善さんは冷静に元の運命を聞き入れ、私に続きを促す。
死体は先発組の誰の目にも入らなかった。但し、その死地は追加上陸の面々が降り立った浜と同じ。敬愛するひとの死に打ちのめされた殊現の慟哭が頭を掠め、私は唇を噛み締めた。

「先発組は誰も・・・でも、後から上陸した殊現が見つけて・・・酷く、動揺して・・・」

殊現がこの島の生物を悉く死滅させると誓ったきっかけ。それはこのひとの尊厳を蹂躙した遺体に他ならなかった。
そこまで思い至ったところで、私は顔を上げる。衛善さんの隻眼は殆どの視力を手放しながらも、穏やかなまま私を見つめていた。

「・・・もうわかるだろう、。お前が変えた事象により、私も殊現も既に救済を得ている」
「・・・衛善、さん」
「上陸早々の死では、皆の顔をもう一度見ることも叶わなかった。不名誉な散り様を残すだけでなく、殊現の心に傷を負わせることもまた、私の望むところではない」

その言葉が、ここまでに生じた変化のすべてを讃えてくれる。五体満足で私が守り切れたなら違っただろう不手際じゃなく。腕を一本失おうとも、花に侵されようとも、生きてもう一度皆と再会できたことを喜び。そして殊現の目に無惨な亡骸を晒さずに済んだことを安堵してくれる。言葉を無くす私の腰元へ、その視線が落ちた。

「長年苦楽を共にしたその刀も、お前に引き継ぐことが出来た。無念の死へ向かう筈だった私にしてみれば、充分過ぎる程の救いだ」

思わず指先で触れずにはいられない、大切な刀。本来の世界戦では、陸郎太の怪力を前に粉々に砕け散った名刀。小竜景光、写し。衛善さんにとって紛れも無い愛刀だ。
満足のいく救出劇には程遠い。それでも兄弟子の言葉が、私の軌跡に新しい意味をくれる。そして同時に、私から最後の足掻きをそっと奪っていく。

「・・・殊現の傍まで運んで貰えるか」

蓮との決戦を前に、衛善さんの名を聞いて尚移乗を拒否した殊現と同じ。このひともまた、己の信念を譲らない厳格なひとであると。私は、わかっていた筈の現実を思い知らされる。

「あいつは私が連れて行く。これが私の為すべきことだ」
「・・・衛善さん」

残された片手を上げる、それだけのことも酷く苦しそうな様子に思わず身を乗り出してしまう、情けない顔をした私に。衛善さんは、そっと頭を撫でるという優しさを届けてくれた。

「許せ。私の選んだ終焉の形だ」

厳しい現実と固い決意を告げる声は、こんなにも柔らかく情に溢れている。
山田家の先頭に立つひと。誰もが認める序列首位。そのひとが選んだ決断を、私はとうとう受け入れてしまった。

痛みを伴う苦しさが胸から込み上げ、瞬く間に涙となって溢れ出す。強引に何度も拭う私に、衛善さんは穏やかな苦笑を浮かべてくれて。不意に思い至ったように、左手を私の頭から己の腰元へと移す。
彼が今何をしようとしているのかがわかる。だからこそ私は、涙と鼻水で酷い顔のままそれを止めた。名も無き刀はもう私の元へ帰ることは望まない筈だ。

「最後、まで・・・お供させてください。きっと、この刀も・・・衛善さんのお傍を望んでいます」
「・・・お前も変わらんな」

衛善さんがそう言って笑ってくれる。穏やかに耳へ染み入るその声を、きっとこの刀達も今聞いている筈だと。辛い決断を、彼の尊厳のもと受け入れている筈だと。私は涙を拭いながら必死に自分へとそう言い聞かせた。

船がぐらりと揺れた。水没が深まり、いよいよその時が近いことを告げている。

「・・・急ごう。船がもう持たない」
「先生と典坐で、衛善さんをお願いします。ヌルガイも、後ろから背中押してあげて・・・私、先に行きます」

ぐらつく足場を懸命に駆ける。巌鉄斎と威鈴によって割られた竜骨の、谷のような深まりを抜けて。そして辿り着く、徐福の遺体が守られていただろう跡地。

「珠現・・・」

そこで大の字に仰向けになる兄弟子の瞳は、虚ろに濁ったものだった。すぐ傍に膝をつきそっと揺らすことすら躊躇ってしまう程、脆く崩れてしまいそうな惨状だ。
臆するな。唯一の償いとして、二人を再会させるのではなかったのか。私は必死に自分自身の勇気を引きずり出す。

「珠現、起きて」

氣はほんの微弱ながら、感じられる。まだ、生きている。生きている筈だ。一向に反応を示さない虚ろな眼差しを見ているだけで、再び強く視界が滲む。
負けるな。怯むな。自分を叱咤しながら、更にその身を揺り起こす。

「衛善さんが来てくれたよ。ねえ、珠現」

その時だった。頭上の足場がメキメキと崩れ落ちる音に、私は身を硬くした。あの時とは違う。燃え盛る柱でも、命を脅かす決定的な重量でも無い。ただ、今にも崩れそうな殊現に受け止め切れるとは到底思えない。私は咄嗟に兄弟子の身を庇うように覆い被さった―――次の瞬間守ろうとした張本人から、とんでもない腕力で押し退けられるとも知らずに。

何が起きたのか理解まで数秒を要した。覆い被さった私を腕一本で跳ね除け、自分は仰向けのまま木屑と端材だらけの有様で。もう口もまともに利けないのに、それでもまだ本能的に私という妹弟子を守ろうとする。
どうして。珠現という奴は、どうして。

「どうしてこんな時までっ・・・!」

這い戻り込み上げる激情をぶつけるところを、寸前で飲み込む。駄目だ。こんな時だからこそ、伝えるべきことは他にある筈なのだ。
その身に被った木屑を払う。良かった、この衝撃で受けた損傷は少ない。拳を固く握りしめ、短く息を吐き出して。私は、兄弟子との最後の時間を笑顔で締め括ろうと努めた。

「・・・ありがとう。珠現のお陰で、威鈴も清丸も生き残ったよ。あの二人はこれからも・・・殊現の志を継いで、きっと強くなるよ」

死の運命が見えた二人は、それぞれに傷を負いながらも無事に隣の船へと移った。今頃はきっと付知と仙汰の治療を受けているだろう。自らの手で可愛い弟子達を逃した誇らしげな背中が、忘れられない。

「・・・私にとっても、殊現は大切な兄弟子だったよ」

この島での衝突が避けられないと構えるあまり、ずっと壁を用意していたのは私の方なのに。当の本人はよりによって私に、本道場と分道場の壁をぶち破る期待を寄せていただなんて。
お互いに言わなければ決してわからない思いを抱えていたという事実が、何だか可笑しくて。でもそのすれ違い方も、私たちらしいと思えてしまう。

「ありがとね・・・本当にありがとう、殊現」

謝罪は受け入れて貰えなかったけれど、せめて感謝の気持ちは伝えたい。
勝手な思い込みの可能性は十分にあった。それでもその瞬間、珠現の口元が僅かに緩んだように見えた。

三人に抱えられた衛善さんが到着する。今にも崩壊しそうな舞台の上、私たちは精一杯に二人を傍へと近付けた。変わらず仰向けに横たわったまま、人間らしさをすっかり手放した殊現を前にしても、衛善さんはまるで怯む様子を見せなかった。

「よくぞここまで、大役を成し遂げた」

虚ろに反応を示さない弟弟子へ向けた、その言葉は労いであると同時に慈しみに満ち溢れ。

「私はお前を誇りに思うよ、珠現」

私たちは確かに見た。暗く淀んでいた珠現の瞳に光が戻り、半分焼け落ちたその表情が深い喜びで綻ぶ瞬間を。

「ああ・・・衛善殿」

吐息の様な声は眩い幸福に溶けて。敬愛するひとからの誉という特別な勲章に、侍としてもひとりの人間としても、心の底から満ち足りたような表情を浮かべ―――そして殊現は、純粋な喜びをその顔に写し取ったまま、最後の息を吐き切った。
時をまったく同じくして、衛善さんもまた眠るように動かなくなる。お互いにお互いの優しい表情を認め合いながら、衛善さんと殊現は同時に旅立った。衛善さんの背から伸びる花々が彼の終わりと共に深く生い茂り、ゆっくりと二人の姿を覆い隠していく。

私たちはただ、崩れ落ちそうな嘆きを支え合いながら二人の終焉を見届けるしかなくて。涙で目の前の景色がぶれる。うまく息を吸えないほどに胸が苦しい。
でも、念願の再会に殊現が幸せそうに笑ってくれたことも、衛善さんが最後まで頼もしい優しさを手放さなかったことも、しっかりと瞼の裏に焼き付いている。

命は助けられなかったけれど。心は、救えただろうか。延命だけが救済の道ではないという衛善さんの言葉に縋ることは、許されるだろうか。

―――その刹那。
私は大きな船の揺れと共に、爆発的に膨れ上がろうとする氣の余波を感じ取り瞠目する。

ずくりと重く脈動する氣の圧、その桁が違う。これまで感じたことの無い規模の脅威がすぐそこまで迫る。咄嗟に先生を仰ぎ見ると、顔色を無くし私を見下ろす表情と同時に交差して。
瞬きひとつにも満たない時間で、私たちは互いに何をすべきかを悟った。

迷う暇も示し合わせる時間も無い。でも、相手の思いがわかる。私がヌルガイを渾身の力で突き飛ばし、その軌道上へと先生が典坐を押し込む。

「典坐、飛べ!!」

典坐は疑問を覚えるよりも早く先生の指示に従い、足に溜めた加速でヌルガイを抱き船の外へと飛び出した。戸惑いながら空中でこちらを振り返る二人を見て思う―――良かった。

次いで、素早く抜いた刀の違和感に私は目を見開いた。
圧倒的に短い。否、半分砕かれたのだと。ここまで私を率いてくれた鋭い刀が眩い光を放ち破壊されていく光景に息を呑むと同時に、腰から下に奇妙な熱さを感じた―――次の瞬間には、私は両足を消し飛ばされ地に伏すことになる。

しかし自分の下半身が無くなったことも、衛善さんから託された太刀が折れたことすら、今目の前に突き付けられた絶望とは比べものにならない。

先生の胸に、大きな穴が空いている。


最愛の復活を阻まれた蓮の恨みが、今地獄の底から花開いた。



* * *




「私の悲願は・・・完全に潰えた」


「私自身も限界・・・終わってしまった、すべて・・・」


「お前達からも奪ってやる・・・!悉く、終わらせてやる・・・!」


呪いの言葉を遠くに拾いながら、私は辛うじて残る掌の感覚を確かめた。
自分の血の海に横たわるだなんて惨状が本当にあるんだ、なんて。重篤な欠損を負いながらすぐには死なないという人体の猶予を私はどこか他人事に捉えつつも、突き動かされるように腕の力だけで地を這い進む。
先生も傾いた甲板に伏していた。まだ息はあるように見える。でも、きっと長くはもたない。胸に空いた大きな穴は、生きる為に必要な臓器を明らかに複数潰すものだった。

足が無くても、残りの時間がどれだけ少なくても。一ミリでも、近くへ行きたい。

「・・・せん、せ」

微かな声を拾い、先生の頭が微かに動く。私はまたひとつ、肘を前へと進めた。

蓮の氣が膨れ上がったあの時。全員は助からないことを理解したのは、本能的な勘としか呼べない。
私と先生はどんな時も互いの命を守り合おうと固く誓っていた。生きることを諦めないと何度も確かめ合っていた。それでも逃れられない殺意を感じ、全員は生き残れないと悟ったその瞬間、互いに選んだのは典坐とヌルガイを船外へ逃がすことだった。

氣を通しはっきりとわかる。佐切によって丹田を完全破壊された蓮もまた、これが最後の悪あがきだ。今船に残る私たち以上を害す力は残っていないだろう。竜骨を砕かれた船も航行不能となり、積荷は海へと沈み本土も守られる。一歩及ばず逃がしてやれなかった佐切と画眉丸に罪の意識を感じながらも、私は先生の元へと決死の力で這う。



『納得のいく散り様を選ぶこともまた、時には救いになり得る』



衛善さんの言葉が今になって再度沁みる。大切な仲間たちや守るべき場所を救い、その上で愛するひとと共に終われるのなら。それは、きっと良い幕引きと呼べるのではないだろうか。

頬から咲いた花が、遂に氣を使い果たし塵のように朽ちていくのを感じた。私の中に花の氣が内蔵されていようとも、丹田ごと下半身を消し飛ばされれば再生も機能しないだろう。完全に詰みだ。そしてそれは、私が一番守りたかった筈のひとも同じ。

ズルと音を立てながら、先生もまた私の方へと這って来るのを感じる。互いに少しずつ、近付いている。最期の時まで共に在りたい。その願いが叶う有難さを噛み締めながらも、やはり一番大切なひとの死が迫る現実は途方も無い心の痛みを齎した。

「先生・・・ごめん、なさい」
「・・・私の方こそ・・・最後まで守れず、すまない」

命の残り火はほんの僅か。それでもまだ互いに言葉を交わせる。鉛の様に重い頭を持ち上げた先、地に伏しながらも私を見ている血塗れの先生の姿に覚えたのは、哀しさと愛おしさが半分ずつ混ざり合った思いだった。
このひとと生きたかった。明るい未来で、ずっと先生の笑顔を見たかった。それでもこれが私たちの結末だと言うのなら。残された数分でも、数秒でも、このひとだけを瞳に映したまま果てたい。

「だが・・・君と共に終われるのなら、本望だよ」
「・・・私もです」

その時だ。海面から顔を出し泣き叫ぶ声を私たちの耳が拾う。

「うわあああっ!嫌だっ・・・嫌だ!嫌だ!!センセイ!何でだよ!何でっ・・・!」

落下する寸前に、私たちの決定的な欠損を見てしまったのだろう。大粒の涙を零す姿が目に浮かぶようだった。
泣かないで。大丈夫。大丈夫だよ、ヌルガイ。もうすぐ他の皆が引き上げてくれるから。典坐がいれば、大丈夫。

「っ・・・あ、あああああああっ!!」

天を衝く慟哭。それが私の太陽の声だと気付いた瞬間は、流石に堪えた。
ごめんね、典坐。いつだってその明るさに救われながら、最後にこんな悲しみで曇らせてしまうだなんて。

苦い罪の意識に抉られる思いは先生も同じだったのだろう。その表情が苦しげに歪んだ。外から波の音に紛れ聞こえて来る泣き声は愛おしい分辛くとも、確かにその命を守れた証でもある。私たちは既に限界を迎えながらも、最後に二つの命を逃せたことを讃え合うように、僅かな力を振り絞り手を伸ばし合った。

あと少し、もう少し。もどかしくもひと息には辿り着かないその隙間を埋め合い、私たちの指先が遂に触れた。
心が通い、触れ合って、そして齎される心地良い安堵感の海に沈んでいく心地だ。力が抜けそうになる私の手を、先生はもうひと押し進み出ることでしっかりと握ってくれた。
お互いにもう強い脈は感じられない。氣も消え行く一途を辿るばかり。それでも、指を深く絡めて繋がれた手を温かく感じる。

「・・・浄土や来世があるのなら・・・必ず、君を探しに行くよ」
「私も・・・探します・・・会えるまでの、時間も・・・ふたりなら、きっと、半分です」
「・・・そうだね」

一番大切なひとに、来世も自分を求めて貰えるだなんて。光栄で、誇らしくて、この上なく幸せなことだと、命の終着を感じながら噛み締める。
これ以上身体は動きそうもないけれど、先生と伸ばした手を繋ぎ合って、お互いに顔を見て旅立てるなら。それは間違いなく、私にとって良い終わり方である筈だと。そう納得する傍らで、心の隅に残ったひとかけらがあった。

こんなことなら、あの時―――

「・・・“褒美”はその時まで・・・持ち越しだな」

心を読まれたのかと思った。捨てきれなかった私の煩悩を、先生の方から口にしてくれるだなんて。こんな時だというのに、無性に可笑しくて堪らなくなる。

「・・・っはは」

同時に、心の底から嬉しく思う。叶わなかったと諦めるのではなく、次へ持ち越すと先生は言ってくれた。浄土でも、来世でも。私に次の約束を与えてくれる。心残りを励みに変えてくれる。いつだって、私を導いてくれる。

「・・・そう、ですね・・・ご褒美、楽しみに・・・はやく、会いに・・・」

言葉が半端に消え入る。声を出す、その力も私から剥がれ落ちていくのを感じる。あとは本当に、繋がれた手の感覚とこのひとを見つめたまま、最後の砂粒が落ちるのを待つだけのようだ。



静かで満ち足りた終焉を受け入れる直前、繋がった手によって意識を引き戻される。

「もう、少し・・・聞いてくれる、だけで良い・・・君に、伝えたい」

その口元から血を流しながらも、好きで好きで堪らない優しい笑みを浮かべて、先生が私を見ていた。

「・・・ずっと、この気持ちを・・・どう表現すべきか、考えていたが・・・相応しい言葉が・・・見つからなかった」

私はもう声も出せない。一ミリも身体を動かせない。なのに、止まりかけの心臓が熱くなる。

「だから・・・あの夜、が私にくれた言葉を・・・そのまま、借りるよ」

終わりを前にした私に、先生がくれた最後の贈り物。

「―――大好きだ」

心が息を吹き返す魔法の言葉。あの夜、勝手に夢と勘違いした一方的な告白を、先生は覚えていてくれて。まるで経験値の無い私が捻り出した子供じみた表現が、先生の声を介すことで完璧な愛の言葉に変わる。

大切にされてきた自覚があった。本土にいた頃から、島に来て以降も、一度別れて再会してからはより一層。丁寧に優しく心を包み込んで貰う中で、確かに思い返せば、この言葉を貰ったことは無かったのだと思い至る。
例え直接の愛を囁かれなくても、十分過ぎる程に満たされていたから。先生と思いが通じていることは、私自身がよくわかっていたから。

「君が大好きだ・・・の笑顔も、声も・・・君を形作る何もかもが・・・堪らなく、大好きだ」

でも今こうして、大好きなひとから大好きだと言って貰えることが、何にも替え難い大きな喜びを連れて来る。これまで知らなかった新しい気持ちを、最後の最後まで先生が私に教えてくれる。
もう動かない筈の指先が僅かに震え、歪ながら頬も綻ぶ。ああ、困ったな。もう涙を拭うことも出来ないのに、視界が潤んでぼやけていく。

「ありがとう・・・。君に出会えた私は・・・最高の、果報者だよ」

私も大好きです。先生が私の幸せそのものなんです。世界一の果報者は、私の方です。何度お礼を言っても足りないのは、私なんです。
今すぐそう叫び返したいのに、思いは声になってくれなくて。小さなもどかしさと、溢れんばかりの愛情を言葉で贈られた喜びと、誰より近くで先生と繋がり合う幸せが折り重なって。
私の口から、最後の吐息が零れ落ちた。



* * *




暗転した世界の中で、まだ私と先生の手が繋がっていることを感じる。心臓の鼓動は止まり、氣も沈黙し、私という人間の身体はもう機能していない筈が、不思議な感覚だ。

そんな中、視界の端に誰かの素足が映り込んだ。一歩一歩、私たちの元へとゆっくり近付き、そして繋がれた手を見下ろして。その傍に、何かを置いた。

動かない身体でよく観察出来ないながら、私はそれを綺麗だと感じる。まるで幾重にも重なる宝石が花の形を取ったような―――そこまで思い至ったことで、答えは蓮の花であると辿り着いた。

ふわりと花が形を崩し、花弁が一枚ずつ舞い広がっていく。キラキラと光り輝くそれが、散りゆく蓮の花だけではないと気付くまでに少し時間がかかった。
私のすぐ傍に折れた美しい太刀が転がっている。その刀身が花びらと共鳴し合うかのように、輝きを放っていた。

誰かの気配が遠ざかる。私の目では追うことが叶わない。しかしながら、私の傍で煌く刀には全てが映り込んでいた。
老齢の夫婦だ。寄り添い、手を取り合って遠ざかっていく。顔は見えない。でも、誰であるかははっきりとわかる。

―――ああ、漸く逢えたんだ、と。敵でありながら感服した夫婦愛の終着点に安堵した、次の瞬間。

「・・・え」

声が出る。朝の光に照らされる世界は明るい。目の前に転がるのは、砕けるどころか欠けひとつない名刀の写し。私は呆然としながらそれを手に取り、そして同時に自分の足が元通りになっている現実に瞠目した。
視線を移した先、遠くには惑う画眉丸と佐切の姿もある。

生きてる。蓮の花が散る中で皆奪われた命を返されたのだと、理屈が通らない奇跡を実感した、その時。

「・・・っせん」

私の一番大事なひとは、と。我に返ると同時に、私の身体は横からの衝撃と重みで激しく縺れ転がった。
咄嗟に鞘へ仕舞えたから良かったようなものの、抜き身の刀を手にした相手に抱き着くなんて危ない真似も、余裕と遠慮の無い力加減も、私の知る師からは程遠いのに。

「・・・

私を身体ごと甲板に押さえつけるのは、朝日を背負った逆光の中でも先生にしか見えない。大好きな匂い。霞色の氣。優しい温もり。胸に空いた致命的な穴はどこにも見当たらない。ああ、生きてる。先生も生きてる。

―――歓喜の実感が、突如降ってきた影によってプツリと途絶えた。
眼前には先生の顔。唇に柔らかな感触。私の思考は完全に白く停止する。

頭がまともに働かない。動けないのは緩く拘束されている為か、衝撃のあまり硬直している為か、それとも先生が私の相克の為か。ただ、待ち焦がれた瞬間が予告無しに訪れたのだと。脳が沸騰しそうな動揺の頂点で、ゆっくりと私の顔から影が遠ざかった。

言葉が出てこない。気恥ずかしいのか、嬉しいのか、それとも生きている実感が未だ足りていないのか。私を見下ろす先生も浅く呼吸を繰り返しながら、今という奇跡に戸惑っているように見えた。
不意に思い出すのは、この世界から一度切り離され戻ってからの先生との再会の場面だ。あの時も先生らしからぬ突撃によって勢いよく押し倒され、私も皆も完全に置いてきぼりになっていた。
このひとは、もしかすると本質的にはとても直情型なのかもしれない。ただ、立場や理性的な性格がそれとはかけ離れた人物像を象っているだけのこと。こんなに近くにいても、私はまだ先生のことを理解出来ていない。でも、これから先時間をかけて知っていくことは出来るのではないかと。
ぼんやりとそんな思考に陥る刹那。横から容赦なく顔に打ち寄せた波によって、私は盛大にむせ返る羽目となった。

「ぶっ・・・」
・・・!すまない、大事無いか・・・!」

船は沈没しかけて、甲板は今や半分以上水浸しだ。こんな中で転がっていれば顔から波に飲まれることも当然の出来事ながら、先生が慌てたように私を引き寄せたかと思えば、二人で起き上がれば良いものを今度は自分が下敷きになる形に落ち着いてしまう。

今にもまた打ち寄せてきそうな波を間近に感じながら、先生の上に乗り上げて寝転がる不思議。ただ、私を強く抱き締め離そうとしない腕の力と、海水のしょっぱさと、唇に残る柔らかな記憶が、今確かに二人して生きていることを実感させてくれる。私は大好きなひとの胸に顔を埋めながら、恍惚の溜息を零した。

「・・・今生に一片の悔い無しです」
「そう言わず、今は悔いを残してくれないか」

優しい声に導かれて顔を上げる。穏やかな笑顔が私を見上げている。私の影を被りながらも所々朝日に照らされるその表情が、幸福と希望に満たされていることがわかる。

「人生がまだ続くのなら・・・私は君の隣で、沢山の景色を“見たい”よ」
「っ・・・ふふ・・・はい、一緒に見ましょう」

冗談で笑い合える。もう一度、未来を夢見ることが出来る。私たちの道は、まだ続いていく。大き過ぎる多幸感で依然として頭がふわふわする私を上に乗せたまま、先生が器用に片肘で上半身を起こす。そして優しい手が私の頬に触れて、その笑みが甘やかな深みを増した。

「もう一度、私に褒美を与えてくれないか」

先生の逞しい胸板が絶妙な傾斜を生んで、浅い波が打ち寄せても今なら邪魔は入らない。命の危機は去り、もう我慢する必要は無くなった。濡れて密着した感覚が、このひとを愛おしく思う熱量を高めていく。
私は細く息を吸い―――そして怪訝に眉を顰めた。

「・・・私のご褒美ですってば」
「む。こちらの決着はまだついていなかったか」
「そうですよ、一生認めません。この件はおばあちゃんになったって私は譲りませんから」
「ならば私も、老人になるまで君と戦い続ける覚悟があるよ」

ぱちゃ、と遊ぶような波の音。太陽の光と水の反射でキラキラと輝く朝。二人してずぶ濡れのまま密着して、大真面目な顔で交わす口論。とてもじゃないけれど、死闘から奇跡の復活を遂げた直後とは思えない空気感。
私たちは数秒真顔で牽制しあった末に、同時に噴き出した。

「っふ、ふふっ・・・あはは」
「はは・・・」

一生、だなんて。随分と気の長い話すら宣戦布告出来る、今が嬉しい。じゃれ合うように額を寄せ合い、互いの柔らかな笑顔を至近距離で満喫して。
どちらともなく訪れた二度目のご褒美は、海水のしょっぱさと幸せな温かさが半々のものだった。

大好きも、ありがとうも、これからは何度だって伝えられる。私たちの戦いは、今漸く終わりを告げた。