一瞬の出来事だった。
乗り込んだ総力で蓮の全身を削り、私の花の氣で誘発を繰り返し、小さな歩みでも確実に彼女を追い詰めた局面で佐切の刀が丹田を深く貫いた、その直後。
背筋を正した美しい合掌の所作で、不意に注意を引き付けられる。燃え盛る炎の轟音も、全員の乱れた息遣いも、何もかもが静寂に満たされる。次の瞬間には皆散り散りに弾き飛ばされ、誰もが地に伏していた。何が起きたのか理解が追いつかないながら、極めてギリギリのところで気絶を耐え切った意識の中思うこと―――次元が違う。仙汰と杠の協力で編み出された鎧を纏っていなければ即死していた、その確信すらある。
先読みとして見えていた展開とはいえ、こんな無茶苦茶な制圧劇を展開されては、全員が手当を受ける為に隣の船へ戻ることなど、望めないのではないか。典坐は。ヌルガイは。先生は―――考えるだけで狂ってしまいそうな動揺と激情に目の前が白くなるところを引き戻すのは、皮肉にも身を蝕む強烈な苦痛だった。
内臓を直接殴打されたような想像を絶する不快感と息苦しさ、全身のあらゆる筋組織に刃を通されたと錯覚する程深刻な痛み。気力ひとつで起き上がれるものじゃないと芯から理解しながらも、私の脳は絶えず命令を発し続けている。起きろ。戦え。責務を全うしろ。もう誰も喪わせるな、と。
はっと我に返ると同時に、私の頭のすぐ傍に佇む気配を察知する。冷ややかにこちらを見下ろす蔑みの視線は、仲間の物じゃない。
床に伏したまま焦りに目を剥き、右手に辛うじて握ったままだった刀の感触を確かめた次の瞬間、私の身体は宙に磔にされるが如く浮かび上がり荒々しく固定される。
六本腕の観音像と同じ姿。ひとの温度を感じさせない五つの瞳が、私を至近距離で睨み付けていた。その手の一本が私の頬に咲く花へ触れる。花弁をなぞるように美しい指先が躍ったかと思えば、別の手が素早く私の首を締め上げた。
「あ、がっ・・・」
「忌まわしい虫だった。漸く叩き潰せる」
容赦の無い戒めが私の呼吸を断つ。惜しみない憎悪は途轍もない圧に満ちて、苦しさにもがくあまり私の手から大事な太刀が抜け落ちる。酸素を求め堪らずその手を掴み返した刹那、蓮の瞳が値踏みをするかの様に細められた。
「だが、奇しくもお前は私と同じ土の陰」
苦痛や消耗を上回る不吉な予感が全身の肌を粟立たせる。
「氣の補給に制限は無いが、条件を同じくする個体はより馴染み易い」
私を見据える複数の瞳が、にたりと弧を描く。
「私たちの再出発に相応しい朝だ。供物として貰い受けよう」
供物。氣の補給。無惨な末路を想起させるには十分過ぎる単語だった。相手は食物連鎖の頂点のような捕食者、今の私はただの傷付いた獲物でしか無い。
―――それでも、死ねない。
私は蓮の手を掴む掌に意識を集中させた。
「・・・何をしている」
「今あんたが言ったんでしょ・・・条件が同じなら馴染みも良いって」
私の体内には生まれ持った花の氣がある。千年修行を重ねた本物とは格が違くとも身体の構造自体は近い。つまりその人間離れした“食事方法”は、私もやろうと思えば出来るということだ。
土属性の陰。自分の属性を初めて理解した日に覚えたのは、朱槿の相克という運命じみた使命感だったけれど。今掌を通して感じる熱さを得る為のものでもあったのだと、己の強運を噛み締める。
「成程ね。確かに、取り込める」
追い詰められて尚噛み付こうとする私に対して、蓮は呆気に取られたような表情を浮かべた。しかし次の瞬間、私は猛烈な圧で全身を締め上げられることになる。
「愚かな」
「っ・・・く、うっ、あぁっ・・・!」
「お前が私の氣を喰ったところで微々たるもの」
私が一の力で吸えば蓮は十の力で吸い返してくる。抗えない絶対的な力量差、氣と命を根こそぎ奪い取られていく致命的な悪寒に見舞われる中、私は自分の頬から咲く花がガサガサと音を立て面積を広げていく感覚に瞠目した。
花化の進行は、しかし同時に私の命を繋ぐ補助の役割を担っているとでも言うのだろうか。蓮から大事なものを奪われる傍から、花が大きく開く分だけ必要な供給を受けているのを直に感じる。
無感情で白黒反転した瞳の、私の神様の姿が脳裏に過ぎった。
「小癪な真似を。瞬く間に搾り尽くしてくれる」
しかし相手は桂花の上に立つ者だ。この補助供給も近い内底をつくだろうことは容易に察せる。乾いた音を立て花の表面が朽ち、それでも尚足掻こうと全身の力を振り絞り抵抗を続けた、その時。
蓮に吸われ続ける氣の流れが、止まった。その口元から細い血の一筋が零れ、私の首を締める手が緩まる。
「っぐ・・・あ・・・!」
彼女の丹田目掛けて、二本の刀が突き刺さっていた。その内一本は、私が落としてしまった大切な太刀だ。
「・・・言った筈だ」
二本の刀を低い重心で握るのは、私が心を預けているひと。
「を害すことは、私が許さん」
この絶望的な状況下で生きていてくれた。私や皆と同じく消耗は計り知れない中、駆け付けてくれた。安堵で視界が潤む私の眼前で、その二本の刃が蓮の腹を掻っ捌く様に外へと切り広げられる。
蓮の内にある丹田。それが先生の手によって切り裂かれたその瞬間、私と蓮は氣の道が繋がった状態にあった。
圧倒的な物量差で一方通行だった吸引が解け、更には丹田に相克の刃が通ったことで明確に揺らいだ蓮の軸。それは私たちの手と手が離れるまでの数秒間、事故の様な形で私に向かい逆流した。
私の中に流れ込む、土の陰の氣。そして脳裏を覆う歪な景色。
『―――か・・・い、で』
断片的にしか聞き取ることは叶わない。しかし狂おしい嘆きに埋め尽くされた声に、私の感情とは無関係に一滴の涙が零れ落ちる。
ゆっくりと目を見開く私の前で、蓮が憤りに唇を歪め素手で空を切った。相克で丹田を切り開かれながらも、内蔵する氣の物量差か、先生が疲弊し切っていた為か、惜しくも反撃の隙を残してしまう。
ぶわりと音を立てる突風は斬撃を纏う威力こそ無かったものの、満身創痍の私たちを撒くには十分過ぎるもので。立て直しに飛び退き姿を隠す蓮を追撃する余力は、最早残されてはいなかった。
膝から崩れ落ちて間もなく、優しい温かさに正面から包み込まれ視界が暗くなる。
「っ・・・、大事無いか・・・!」
私の大好きな匂いに、血の香りが混じっている。よく見れば先生こそ酷い裂傷をいくつも負い、大陸の装いを何箇所も赤黒く染めているのに。優しいこのひとは私の顔を両手で包みこみ、自分の方が苦しそうな表情で心から案じる言葉をくれる。
「一体何が・・・頬の花が大幅に・・・」
「危うく氣を喰われるところだったみたいで・・・桂花の補助で命拾いした名残、ですかね」
「っ・・・!」
これは単なる出力過多ではなく、私の命の危機に比例したものだと結びついたのだろう。先生の顔が白くなったかと思えば、強く奥歯を噛み締めるような後悔の念が色濃く浮かび上がる。
私の両頬を包む手が震えている。そしてそれを抑え込むように、先生の額が私の額と合わさった。正直に話せばきっとこんな顔をさせてしまうと、わかっていたのに。それでも今、私の為にこんなにも真摯になってくれるひとに対し誤魔化すことは出来なかった。
「すまない・・・遅くなって、本当にすまない」
「いいえ・・・先生が駆け付けてくれたお陰で、助かったんですよ。先生こそこんなに傷だらけなのに・・・ありがとうございます。無理させましたよね」
「当然だ。君を・・・を失っては、全て意味が無くなってしまうよ」
目を閉じて間近の距離で囁かれる言葉から、深い熱量を感じる。先生の誠実さが滲む、焦がれてやまない声。心身共に極限まで擦り減った今こそ、先生の発する何もかもがじんわりと染み渡っていくのがわかる。
ずっとこうしていられたらどんなに良いだろう―――私はその手に触れ返し、名残惜しむような溜息を吐いた末に瞼を押し上げた。先生も同じタイミングで顔を離す。浅ェ門としてお互いに今何をすべきかは、痛い程に理解出来ていた。
「立てるかい」
「勿論・・・まだ、戦います」
二人してほぼ限界を超えた消耗を背負いながら、手と手を取り合い立ち上がる。そして改めて目の当たりにする、炎を根本から強引に消し飛ばされ黒い焼け跡だけが残った船の様子は、酷く物悲しい寂寥感に包まれていた。
不自然な程音が聞こえない。他の皆は無事に隣へ移れたのかと視線を彷徨わせる中、同じ甲板の対角線上、遠くに白い装束を見つけた。
「佐切・・・」
歳下の姉弟子は、遠目にも酷い憔悴が窺えた。力無く座り込み、高い一点をぼんやりと見つめている。その先に何があるのか、何を目にしてあんなにも打ちのめされているのか。
自然と追った目線の先。“それ”が何なのか、脳が理解するまでに数秒を要した。息が止まる。心臓が凍り付く。だって、そんな筈無い。
「・・・うそ」
花に覆われ、花に貫かれ、花と一体と化した小さな忍―――画眉丸の変わり果てた姿に、ぴしりと音を立てて大事な何かにひびが入る。
読者でしかなかった私が、この世界に夢中になりのめり込んだ入り口。妻の存在によって生きる意味を見出した忍が、愛故の弱さと向き合いながら本当の強さを得ていく物語。
あれほど熱望していた結さんとの再会を待たず、彼がこんな形で旅立ってしまうだなんて。大事な核が欠損したような喪失感と、状況を受け入れきれない未熟さが雁字搦めになり、酸素を薄く感じてしまう。
その時だった。背後から確かな足音を拾い、私は弾かれたように振り返る。
今この瞬間、一人でも多くの仲間の無事を確認したい。画眉丸の脱落という欠損は替えが効くものではないと頭では理解しつつも、誰であれ新たな生存の喜びが無くては今を耐え切れないような気さえした。
なのに私は、一層闇深くへと突き落されることとなる。
左半身を黒く焼き焦がし、全身から禍々しい煙を上げて立つ兄弟子の姿がそこにあった。
「・・・珠現」
「不甲斐無し、遅れを取った」
足を引きずりながらも自力で歩行し、声も出る。しかし鬼気迫るその姿は最早消炭に近く、氣も歪な穴だらけのところを強引に形を保っているに過ぎない。
ひとに戻るにはとうに手遅れである。それを明確に知らしめる、残酷な姿だった。
「悪を極めし仙道よ、俺はまだ此処にいるぞ」
この世のものとは思えない、地獄の底から響くような怨嗟に満ちた声。珠現は凍り付く私たちの横を抜き去り、蓮が消えた方向へと氣を辿り進み続ける。
私は堪らずその場に崩れ落ちた。
心から願っていた夫婦の再会が叶わない現実。引き返せない領域まで人間を捨て、終焉へと猛進する兄弟子の姿。他の皆の安否もわからない中、ふたつの大きな絶望によって私のひび割れた中枢は完全に砕かれてしまった。
「・・・」
「私、皆を助けたくて・・・命を、守りたくて」
「ああ。わかってる・・・わかっているよ」
私に残されたものは、すぐ傍に膝をつき寄り添ってくれる先生の温もりひとつだ。これだけは奪われる訳にいかないと執念に似たものを燃やしながらも、どうすれば守れるのか、起死回生の手は果たしてあるのか、何もかもが遠く霞む。
いつだって綱渡りの様な不安を抱え、典坐達の死をどうにか捻じ曲げてここまで来たというのに。画眉丸と珠現という絶対的な強さを誇る二人ですら片や花と化し、片や消炭同然の姿にまで追い込まれたという現実が鉛の様に重く沈み込んでいく。皆を助けたいとどんなに強く願っても、希望は砂のように指の間を零れ落ちていく。
「」
せめてこのひとだけでも守りたい。なのに、その方法がわからない。
袋小路で途方に暮れる私を前に、その表情が不意に優しく綻んだ。
「本土へ渡った後、何がしたい?」
この苦境とは不釣り合いな、いつも通りの声。まるで日常に立ち戻ったかのような、穏やかな質問。私は呆然と目を瞬く。
「行きたい場所、食べたいもの、読みたい本でも良い。何かあるかい?」
「え・・・?」
「いきなり聞かれても難しいか」
それはあまりにも今にそぐわない問い掛けだった。しかし、先生は至って普段通りの調子で飄々とした微笑みを絶やさない。
「私はしたいことが沢山あるよ。勿論君の意向を優先するが、私なりに思い描いている未来もある」
未来。その単語が意味するところは、このひとが窮地を諦めていないことの現れで。私は唖然としたまま、先生の顔を見つめ返す以外になす術を持たなかった。
「ヌルガイにとって暮らし易い山村が見つかったら。彼女の気持ちにもよるが、我々は麓近くの集落に居を構えられたらと思う。生活基盤は一から築き直しだが、畑仕事でも寺子屋でもやってやれない事は無いだろう。何人暮らしになるかはさておき、四人で離れ過ぎない環境が良いと思うよ。にとっても、きっとそれが一番安心出来る形だろう」
温かな声が紡ぐ未来は挑戦心を忘れない豊かさを持ちながら、堅実さも兼ねた先生らしいものだった。こんな時だというのに、穏やかに告げられた先の光景のひとつひとつがゆっくりと私の脳内でも輪郭を成していく。
「春の花々の香りを感じながら散歩がしたい。夏の盛りに川で旬の果物を冷やして食べよう。秋の夜長に大きな月を眺めながら晩酌も良い。冬の寒さが厳しい朝は君の言う、布団に包まり二度寝とやらも一度経験してみたい」
まだ見ぬ四季を巡る声は柔らかく。その景色に思いを馳せる笑顔は堪らなく優しく。そして、大きな手が私の頬を花ごとそっと包み込む。
その微笑みから零れ伝わる情が、特別なものであると。私を心の底から慈しんでくれる、唯一のものであると。窮地に似つかわしくない甘やかな感覚は、しかし私の砕けた芯をひとつずつ丁寧に積み直す力を秘めていた。
「私の思い描く日常には、いつだって一番近くにの姿があるよ。朝目覚めてから夜眠りに就くまで君と隣合う新天地での生活は、どれ程素晴らしいだろうと・・・考えるだけで、どんな絶体絶命の状況下でも力が漲る。この未来を仮初ではなく現実にしたいと、心からそう思えるんだよ」
このひとは私を見ている。今この時も、未来の中にも、私だけを見ている。その安心感が、崩れ散らばった大切な欠片を繋ぎ直してくれる。
仮初ではなく現実にしたいという言葉に覚えたのは、感慨であると同時に不思議な既視感だった。奇妙な感覚に目を丸くしたその時、先生の笑顔が若干悪戯めいたものへと色を変えた。
「これが君のよく言う、妄想という奴だろう」
ほんの瞬間時間が止まり、そして動き出す。
妄想。私にも覚えがある筈だ―――典坐を逃がし朱槿と対峙したあの時、私を刹那の気絶状態から強く立ち直らせた光景。
典坐とヌルガイの祝言。夢ではなく、現実として先生に見せてあげたいと心の底から感じた、光溢れる幸福。私を戦いの場へと戻らせた強い思い。それに近しいことを今先生の口から告げられることで、私は目が覚めたような思いに瞠目する。
「・・・せん、せ」
「逞しい妄想が力をくれる、だったか。やはり私も君に似てきたんだよ」
可笑しそうに、柔らかく、その眦を下げて微笑む。先生の親指が、私の瞼の下をそっとなぞる。
あの時の私と同じように、このひともまた私との未来を思い描くことで逆境に立ち向かう力を得ているだなんて。信じられないほど嬉しくて、光栄なことだと。少しずつ穴を塞がれていく胸の内に、遂に小さな灯が点ったことをはっきりと感じ取る。
「君は幼き日の私に光をくれたひとだ。そしてそれは、今尚変わらない。どれ程深い奈落の底でも、がいるなら私は光を失わない。君がいてくれるなら、それだけで私の世界は暗闇ではなくなるんだ」
私の大好きなひと。先生がいないなら何もかもが色褪せ温度を失ってしまう、唯一のひと。そんな大切なひとからここまで尊ばれる奇跡も、両手いっぱいでも受け止め切れないような真心を向けられる幸福も。全部が今の私であり、未来の私に繋がっていると信じられる。先生の声と笑顔が、そう信じさせてくれる。
「だからありがとう、。君のお陰で、私は今この瞬間も希望を捨てずに立ち上がれる。辿り着きたい未来の姿を糧に、たとえ一人でも最大限の力を振るえるよ」
たとえ一人でも。その表現に、危険だからと置いていかれるのではと焦りが込み上げたその刹那。私の頬から離れた手が、改めて私の肩にしっかりと乗り。そして先生が師としての頼もしい表情を象り、弟子の私を見つめてくれる。
「だが、もしも君が私と共に立ち上がってくれるのなら・・・取り溢したもの全ては拾い上げられなくとも、二人なら二倍救える。戦力も二倍だ。私と君なら、きっと出来る」
「・・・先生」
「状況は確かに悪いが・・・どうだろう、私の言葉を信じてはくれないか」
先生の声。先生の言葉。先生の笑顔。私に向けられる何もかもから、惜しみない信頼を感じる。私がいればそれだけで、なんて勿体無い言葉を贈ってくれながらも、私なら出来ると励まし導いてくれる。私の可能性を、私自身より信じてくれる。
状況はどうしようも無く悪い。画眉丸は花と化し、殊現は人間を手放しつつあり、船で待つ衛善さんだってどこまで自我を保てるか。他の皆が無事なのかどうかも、わからない。
それでも立ち上がり前を向く為にはどうすれば良いのかを、このひとが教えてくれた。
「ありがとうございます、先生」
世界にただひとりの特別なひと。今の私に必要な温かな未来を示し、一番良い方法で前を向かせてくれる、私の先生。
「私もさっきの妄想、叶えたいから・・・諦めません」
凍て付いた絶望から、雪解けのように頬が緩む。もう一度笑える。もう一度希望を抱ける。
私の目に光が戻ったことを認め、先生の表情が安堵に綻んだ。一足早く腰を上げて、そっと差し出された手は大きく心強いもので。私は何の憂いも無く、その手を支えに立ち上がり―――自然と働いた引力に導かれるように、その腕の中に収まった。
乱暴とは対極の様な、丁寧で優しい抱擁。先生の温もりと大好きな匂い。私に幸せな未来を垣間見せることでもう一度立ち上がる力をくれた、奇跡のようなひと。瞼の裏にじんと込み上げそうになる熱さを閉じ込め、些細な隙間すらもどかしく互いに強く引き寄せ合い、そして私たちは数秒も経たない内にその繋がりを解いた。
私たちはこの御役目を終えるまでは山田浅ェ門だ。為すべきを為す、その責務がある。私は惑うばかりの未熟者だけど、心が何度崩れても、その度に手を重ねながら一緒に積み直してくれるひとがいる。
私の両肩に手を置いた先生は抱き締め合った熱情の名残を微かに残しつつも、誰より頼れる師の顔をしていた。
「力を尽くそう。君と私なら出来るさ」
「はい、先生」
弟子としてその期待に応えたい。どんなに今が絶望的でも、ふたりで願った未来に辿り着けると信じたい。力強く頷き合い、そして互いに穏やかな笑みを交わす。
「二人だけで意気込まれたら淋しいっすよ」
不意に届いた声が、熱く耳を打った。
ほんの一瞬息が止まり、ぎこちない速度で目が声を追う。眩しい笑顔が、私たちを見ていた。
「てん、ざ」
「お待たせしました、先生、さん。遅くなりましたけど、復活っすよ」
生きている。本土にいた頃から死んでほしくないと願い続けた私の太陽が、確かに今私たちに向けて笑いかけている。
画眉丸と殊現の変わり果てた姿に叩き折られた心が、先生の包容力によって形と自信を取り戻し、そして今こうして新たな喜びと共に気力を吹き返す。次いで典坐の背後から顔を出した別の眩しさに、私は感嘆の息を飲んだ。
「急いで手当てして貰ってきた!一緒に連れて戻れなくてごめんな」
「ヌルガイっ・・・血が・・・大丈夫?傷口、深いんじゃ」
「平気だよ!これは服に染みてるだけ。付知と仙汰の頼もしさ、知ってるだろ?それよりオレはの頬の花がデカくなってる方が心配だよ・・・」
元気の証として肩を回したかと思えば、駆け寄るなり私を案じて背伸びしながら頬に手を伸ばしてくる可愛い子。典坐とヌルガイが二人揃って無事に生き残り、計画通り隣の船で治療を受け戻って来られたことの奇跡。
絶望に俯いて気付けなかっただけで、希望の芽はしっかりと残っていたのだ。途方もない熱い思いが込み上げ、私の視界を潤ませる。
「・・・大丈夫だよ、ありがとね」
「あっ、泣くなよ。オレ達もこれから、精一杯頑張るからさ」
「うん・・・そうだね。そう、だよね。でも一回だけ、ぎゅってさせて」
「良いけど。今更聞く必要ねーじゃんか」
ヌルガイは自ら両手を広げて私の胴に抱き着いてくれた。ぎゅうと効果音が出そうな温かさに自然と涙が零れ落ち、私はそれを拭いながら尊さを抱き締め返す。思いの丈をそのままに抱擁ごと軽く揺さぶれば、小さく上がる笑い声すら愛おしい。こうしていられる幸福を一秒ごとに噛み締めずにはいられなかった。
「杠さんと厳鉄斎さんは傷が深くて戻れそうに無いっす。さんの顔の花も、先生の傷も・・・出来れば二人とも隣に移って付知さんに診て貰いたいっすけど」
「・・・状況からして、そんな余裕は無いな」
再起が難しい程の重傷具合は心配だけれど、杠も厳鉄斎も今頃付知の治療や仙汰の力で氣を充填出来ているのならひと安心だ。案じるばかりだった点がひとつずつ解消され、安堵の溜息が深く零れ出る。
先生の言う通り私たちに離脱の猶予は残されていないが、仲間の安否がわかりこの二人が戻って来てくれただけでも強く戦える。そうして抱擁の区切りとしてヌルガイを一層強く引き寄せた、その時だった。
「だからさ、付知から伝言!おしくらまんじゅう作戦で乗り切れって」
「え・・・」
私の腕の中から上がった声には覇気があった。
思わず間の抜けた声で聞き返してしまう単語。おしくらまんじゅうとは、私が本土にいた頃見た夢を指す。つまるところ、五属性の丹田を破壊した時と同じく相生の輪を使えという指令なのだろうけれど。土の私と水のヌルガイを繋ぐ頼もしい金属性の兄弟子は、今隣の船で医療班として力を尽くす大戦の真っ只中だ。
「でも、付知がいないと・・・」
「どこ見てんだよ。失礼な奴だな」
船の縁を掴み、軽い跳躍で飛び乗ってきた身は回転しながら動きを止める。半目で私を睨みつける少年は、しかし確かな気概に満ちていて。私は漸く今この瞬間の意味を悟る。
彼こそ、付知と同じ金属性―――私たち四人を相生の円で繋ぐ存在だと。
「清丸」
「訳わかんない作戦名だけど。本道場の奴なんかより、ぜってー良い働き見せてやる」
「船で待機してる間、付知さんから相生の形はきっちり伝授して貰ったみたいっす。出たとこ勝負っすけど、清丸くんなら対応してくれるって自分は信じます」
「大丈夫だよ。こいつ、こっちに移るギリギリまですげー練習してたし、強ぇから。きっと頼りになるよ」
「うっさいよ、余計なこと喋んな山の民」
どんなに毒づいてもまるで響かない二人の明るさに顔を顰める清丸と、目が合った。憮然とした顔をして、私への敵対心も隠さない。それでも彼がこの局面に全力を以って挑み、勝つ気でいることも同じくはっきりと伝わってくる。
「ヘマなんかするもんか」
「・・・うん、ありがとう」
もうお礼の言葉は途中で遮られない。ふんと視線を逸らす少年に対し覚えるのは確かな頼もしさで、私は思わず苦笑する。
蹂躙とも呼べる蓮の攻撃を受けながら、防御を磨いた策が実を結び皆それぞれに命を繋いでくれた。典坐とヌルガイが清丸を連れて戻り、今再び五人で相生の円環を作りながら戦える準備がある。私たちを待つのは暗闇なんかじゃない。潰えたように思えた道の先は、明るい方向へ繋がっている。
全部、諦めずに立ち上がったからこそ見えた景色だ。私は隣に佇むひとをゆっくりと見上げる。何も言わずともこちらを見返してくれる笑顔に、際限の無い感謝の想いが溢れた。
「先生のお陰で、私も光が見えました」
先生は私を、幼い頃に光をくれたひとだと言ってくれたけれど。私にとってもそれは同じ。先生がいるから、私も大事な光を失わずにいられる。
先生の笑顔が優しく深まった。大好きなひとの柔らかな表情を、守りたいと強く願う。
「ああ。お互い“視界”良好だな」
「ふっ・・・ふふ・・・視界・・・」
「・・・何このふたり、変なの」
「センセイとが絶好調な印だよ!」
「良いっすね!張り切って仕切り直しっすよ!」
終わりなんかじゃない。ここからが本領発揮だ。
少し前なら考えられなかった前向きさを纏い、私たちは同時に一歩を踏み出した。