まるで昇りかけた朝日が分厚い曇に拐われてしまったような、冷え切った虚無と張り詰めた緊張感。私たちはその渦中で身動きが取れずにいた―――衛善さんの様子が急変したのだ。
苦し気に寄せられた眉、首筋に浮かぶ奇妙な強張り、そしてゆっくりと息をするが如く開こうとする花。目の前の光景どれもこれもが現状の厳しさを物語る。
突然足元が崩れたような心地で瞠目する私たちに対し、発作のようなもので暫くすれば落ち着くと、衛善さんは諭すように口にしたけれど、楽観視出来る者はひとりもいなかった。当然だ。私たちはこの花がどれほど恐ろしい代物か、島での経験を経て痛い程知っていた。今の衛善さんは、この花々に命を吸われているも同じ。喪った筈の兄弟子が生きていた奇跡の陰で、誰もが見て見ぬふりをしていた禍いの種が芽吹いた瞬間だった。
甲板の隅の小さな日陰へ衛善さんを運び休ませながら、付知が手掛けた花化抑制の薬と仙汰の描く雲を試す。誰もが息を呑み、縋る思いで容体を見守る中―――耳が痛くなるような長い沈黙を経て尚、その身に巣食う花々は衰えを見せなかった。落胆に肩を落とす時間も惜しむように、付知が一か所の根本に切り込みを入れる。微かな出血と共に切り落とされた花は、しかし次の瞬間には何事も無かったかのように再生した。まるで、その枝葉が既にこのひとの身体の一部であると主張しているかのようだった。
花に入り込まれてから時間が経ち過ぎている。皆一様に顔の色を無くした。ただひとり、生きたまま戻った調査団の与力という男の果てを連想してしまうのは、私だけでは無かった筈だ。同時に、衛善さんに限ってそんなことが起こる筈が無いと必死に最悪を否定する。
衛善さんは大丈夫。死とほぼ同等の状況からここまで自我を保ち生き延びてくれた、このひとは大丈夫。お願いだから、今になって取り上げないで。どうか、どうか、お願いだから。衛善さんを私たちから奪わないで。
震える拳を後ろ手に隠しながら奥歯を噛み締めたその時、仙汰の用意した紙から特別大きい靄が現れる。雲の形も模さないぼんやりとしたそれは、身体から突き出る花には効力を為さない。それでも衛善さんの身体全体をそっと包みこみ、頭の傾きひとつも余さず支える緩衝材の役割を果たそうとしていた。
「目覚ましい効果は望めませんが、ほんの少しでもお役に立てれば・・・」
「礼を言う、仙汰・・・現実離れした力だが、同時にお前らしくも感じる。不思議なものだな」
顔色を悪くしながらも、衛善さんは静かに微笑みそう口にした。相生の属性をもってしても花化は緩和されず、しかし仙汰の思い遣りを直に受け取っての安らぎに浸る表情は優しかった。
自力ではもうまともに動けない、隻眼も限られた視力しか発揮できない、花に溢れたその姿がどんなに絶望的でも、その声がはっきりと自我を保ち発されるだけで私たちをギリギリのところで救ってくれる。
「お礼ならさんと士遠さんにも。衛善さんを含め、誰がどの属性か。おふたりが事前に把握して下さっていたお陰で、僕も助かっています」
「あっ・・・私は単に一部の属性を知ってただけ。皆の振り分けは先生が・・・」
仙汰の気遣いを嬉しく受け止める余裕もなく、遠慮がちに首を横に振った。私が提供出来たのは本で知り得た知識だけだ。それをもとに稽古での様子や相性を鑑み、私を含めた皆の属性を見抜いたのは先生の功績に他ならない。
なのに衛善さんが、徐にその隻腕を伸ばすから。限られた視界の中、まるで私たちを探すように左腕を彷徨わせるから。私と先生は示し合わせることなく、同時にその手を掴みに行った。
「・・・私はどちらかではなく、二人に礼を言うぞ」
「・・・はい」
「士遠、よくここまでを導いた。そして、お前が立ち上がらねば何も始まりはしなかった。感謝している」
掴んだ左手は、こんなにも温かく握り返してくれるのに。確かに今、衛善さんは生きているのに。このひとを蝕む花が、何重にも茂って明るい光を覆い隠そうとしている。
胸が潰れるような息苦しさに思わず目を伏せると、私の傍らにヌルガイが膝をついた。小さな手が握り締めている筒からは、ちゃぷと揺れるような音がする。精一杯の気遣いで何かしようと、その目は真剣そのものだった。
「水なら飲めそうか?何かして欲しいこと、あるか?」
「・・・すまないな。君の様な幼子にすら、気を遣わせてしまって」
「そんなのどうだって良いよ・・・!」
ヌルガイを君と呼ぶ衛善さんの声は、既に死罪人の括りの薄れた穏やかさすら感じたものだったけれど。そこに反発するヌルガイの声は、誰の胸にも迫るような真摯さを帯びていて。
「はあの洞窟で、こっちが辛くなるくらいに泣いてたんだ。こうやってもう一度会えて、皆も本当に嬉しそうだった。折角助かったのに・・・こんなの、あんまりだよ。何とかならないのかよ・・・」
山田門下の誰ひとり恐れて口に出来ないことを、彼女が言葉に変える。ヌルガイが今発した声こそ、皆の心の叫びそのものと言えた。
何とかしたい。何かひとつでも可能性があるのなら手を尽くしたい。ただ、目の前には深刻な花化という残酷な現実が横たわるばかりで。悔しさと遣り切れなさで、私たち全員の心をすり減らしていく。
衛善さんの左手が私と先生から離れ、ヌルガイの頭の上へと優しく着地した。額に薄ら汗を浮かべながらも、私たち全員を安心させるかのような微笑を携えるその様子に、本土で門下生への指導にあたっていた姿が重なる。
「案ずるな。救われた命、決して無駄にはしない」
今最も苦しく消耗している筈のひとが、誰より状況を俯瞰して私たちの支えになろうとしてくれている。その思いに応えたい。しかし、再びこのひとを見送る覚悟なんて決めたくもない。葛藤と焦燥が、私たち全員の行く手に暗い影を落としていた。
* * *
波の音を一際大きく感じるのは、口数が減った為か、緊張感が増した為か。
衛善さんはあの後、体力温存の為に少し眠ることを希望した。恐ろしい予感に目を剥いてしまう私たちに対し、苦笑混じりでこれきりにはならないと約束も残してくれた。
山田家の長とも呼べる存在の危機と楽観出来ない状況に皆不安を抱えていた。しかし、弱音や悲しみに沈んでいる暇が無いこともまた現実で。一時見張りの任も解き、私たちは全員で甲板の中央へと集い今後の話を詰めていた。
今は奇跡を願う他、為す術が無い。今尚自我を保ち続ける衛善さんの強さを信じ、私たちは彼を殊現に引き合わせ、総力をもって蓮を止めることに集中しなくてはならない。山田家の面々もそれぞれに心の落としどころを見極め、不安は消えずともギリギリのところで持ち直し、頭を切り替えようとしている。そこへ進み出たのは杠だ。
「桂花から聞いた話だけど。蓮の目的は・・・師匠の徐福の復活だって」
「・・・遺体が朽ちないよう金で固め、魂を呼び戻す術を模索し続けていたようです。外丹法は、蘇った徐福と彼らが等しく不老不死でいる為の研究だったのでしょう」
仙汰の固い声がより丁寧な解説を添える。桂花と直接話したという彼らから明かされた、蓮の本当の目的。これまで幾多の人間たちが島へ誘い込まれ丹に変えられた、その理由。宗師と呼ばれる、天仙達の創造主。始皇帝の命により渡来した彼が普通の人間であるならば、とうの昔に亡くなっている事実も自然なことだ。しかしながら蓮は彼の復活を望んでいるという。それはあまりに私の想像を超えて―――情に振り切った願いに思えた。
「・・・一人の死者を魂ごと蘇生する為、本土の人間すべてを生贄に捧げる。その為に千年を費やしてきたのなら・・・ある意味、途方も無い師弟愛ですね」
戸惑いがちな佐切の言葉が、私の胸中を的確に表現してくれた。
人間を生きたまま丹に変えるという残虐の限りを尽くし、今度は本土中から命を吸い上げようという暴挙の果てにあるもの。
下等生物を根絶やしにする。惑星を征服する。そんな支配的な野望だったなら、まだすんなりと悪と断じられるところを。まさか、ひとりの人間を生き返らせようという切実な願いだっただなんて。
私がこの物語に惹かれた核である愛を、蓮もまた体現したような存在だっただなんて。
「大丈夫かい」
若干揺らぎそうになる根幹を正しく見抜き、私を気遣う先生の声は優しい。微かな間を置き、私は緩く首を振った。
「・・・譲れないのは、お互い同じですから」
思いのほか注目を集めていたようで、私の返答に対し杠が大袈裟に肩を竦める。
「あー良かった。お姉さんそういう激重な浪漫に弱っちそうだから、流されんじゃないかって一瞬ヒヤヒヤしたわよ」
「激重感情に弱いのは否定しないけどね」
厳しい現実が重く圧し掛かる中、彼女のぶれない性分や遠慮の無い言動に少し気が楽になる。
譲れないのは、蓮も私たちも同じこと。千年に及ぶ究極の師弟愛を知ったところで、こちらは本土すべての命は勿論のこと、自分たちの大切なひとの命運すらかかっているのだから。身を引くことも、命を差し出すことも、出来る筈が無い。
ただ、杠の指摘は正しかった。思いがけなかった真相に対して、心が微塵も揺れなかったと言えば嘘になる。
「世界中を滅ぼし尽くせば大切な一人を取り戻せる。どう考えてもまともな取引じゃないけど・・・もし蓮の立場になったら・・・」
奇しくも、同じ師弟関係は私にもある。
もしも先生を喪ったその時、世界中を殺戮で満たせば命を取り戻せるとしたら。私は―――そこまで考えた末に、はっと我に返る。
「・・・もしもの話は、意味無いか」
「そうよ。ってか、そういう意味で教えた情報じゃないから」
大切なひとは、今私の隣で生きている。先生だけじゃない、もう一人だって失いたくない仲間達がいる。もしもに思いを馳せることに、きっと意味は無い筈だ。立場が違う以上、蓮には寄り添えない。
杠に呆れられながらもふと隣を見上げれば、依然として心配そうな面持ちで私を見下ろす先生がいて。私は大丈夫と口にする代わりに、ひとつ頷いた末に口端を上げて見せた。
そっと眦を下げて微笑み返してくれるこのひとを、悲しませたくない。だから私自身を含め、誰の命も諦めちゃいけない。どんなに希望が薄くても、衛善さんを救う道だって残っていると信じ続ける。そうして大事なことを心に刻み直した折、静観していた画眉丸が杠に一歩歩み寄った。
「船には徐福の遺体が積んであるということだな」
「ご名答。仙薬と物騒な蝶と一緒にね。蓮は船の防衛にも力を割く必要があんのよ。本土中を丹で満たしたって、“器”を守れなかったら意味無いしね」
「ならば数で勝る此方側には好都合だ。標的は蓮に限らず、船そのものでも攻め手として有効になる」
「その話ですが・・・巌鉄斎は恐らく、船を壊す気でしょうね」
船を守る必要がある蓮に対し、先行した巌鉄斎はそれを壊すつもりであるという推理。付知の声は、ほぼ確信に至る芯が通ったものだった。
「剣龍の名は、若かりし日の彼が割ったものから命名されています。あのひとなら今も挑戦しかねない」
「何?何の話?」
『剣龍の二つ名を舐めんなよ』
頭の中に、別れ際の不敵な笑みが甦る。私も浅ェ門のひとりとして人別帖を確認した際、付知の言う二つ名の由縁を知った身だ。足止めとはそういうことかと目を丸くした直後、ヌルガイの質問にいち早く反応を見せた者は典坐ではなかった。
「・・・竜骨、ですね」
威鈴の声は静かで重かった。真面目な彼女もきっと巌鉄斎のことは頭に入っていて、しかし彼の狙いを口にするその声からはある種の感心にも近い感情が窺えた。竜骨を叩き割るとは、圧倒的な剛剣を誇る彼女ですら呻る程現実離れした計画であるということだ。
「竜骨は船の支え。一番深くを走る巨大な骨組っすよ」
「ええ?!・・・人間が斬れる物なのか?」
典坐からの補完を経て、漸く話が結びついたのだろう。目を丸くして驚きの声を上げるヌルガイの反応は無理も無いものだった。
復活させたい師の遺体を丁重に守り、無数の人面蝶達を忍ばせた蓮の船だ。並外れて堅牢な造りであることは間違いない。その主柱たる竜骨を叩き割るなんて荒業を、連戦で消耗した身で振り被ればどうなるか。
「・・・身体が先に壊れるんじゃないの」
「当然そうだろうね。そもそも最盛期の肉体が万全の状態だったとしても、斬れたのは奇跡みたいな話だし」
その身が持たない。私がそのまま口にした危機感を、付知は迷うことなく肯定した。しかし黒い瞳は焦燥に揺れるでも、不安に曇るでも無くて。ただそこにあるのは付知から巌鉄斎への信頼ひとつだと気付いた時、感嘆で胸の奥が熱くなった。
「満身創痍の今、叩き割ることは理論上不可能。それでも巌鉄斎はやると思う。壊すには至らなくても、船の速度は大幅に落ちる筈」
「そりゃあ良い。うまくやってくれれば、敵さんは大事な船の修復に力を使うよねぇ。流石、良い身体の男はやることが違うなぁ」
十禾さんは口笛を吹き笑うけれど、事実本当にそれが叶うなら千載一遇のチャンスだ。大型船の芯を脅かし速度を落とすだけじゃなく、蓮の氣を船の修繕にまで回させる。力ではどうしたって劣る私たちが蓮を止める。その為に逃せない鍵を、巌鉄斎が今握っている。そして付知がそれを確信しているのなら、きっと信じられる。
「追い付くには絶好の機だ。船へ移乗し、仙薬を奪い蓮を倒す。これ以外に残された道は無い」
画眉丸の言葉が絵空事じゃなく、現実味を帯びて耳に染み込んでいく。皆で生還する為に残された唯一の道。数々の絶望的な局面を乗り越え、今漸く見えて来た小さな光。
私は。私たちは。きっと、次の波も乗り越えられる。
―――その刹那。
金属を引っ掻くような耳鳴りに、足元がふらついた。
「・・・?」
まずいと感じた時には、もう自力では立てなくなっていた。膝から崩れ落ちるところを先生に支えられ、しかし持ち直すことは出来ず甲板の床へとへたり込む。
「・・・!」
「さん?!さんどうしたんすか?!」
まるで、頭の中を直接かき乱されたような嫌悪感が目の奥に走った。
皆の声はわかるのに、まるで水の膜を通したようにぼんやりと遠い。絶え間なく劈く耳鳴り、激しい眩暈。どくどくと全身を駆け巡る血潮が熱いのか冷たいのか、強過ぎる衝撃に感覚が麻痺して何もかもが遠ざかっていく。
意識は手放しちゃいけない。理解の及ばない状況下、それだけを辛うじて念じながらも、私は苦痛の波に翻弄され続ける。
次第に、目の前の光景にノイズが混じり始めた。雑音と砂嵐の中、此処とは違う何かが断片的に脳へ流れ込み、不規則な発光で私の頭を満たしていく。吐き気を催す悪寒でどうにかなってしまいそうだ。
「っく、あ・・・!ああっ・・・!」
「付知殿っ・・・さんは、一体・・・!」
「外傷じゃない、花の大きさにも変化が無い。けど、この苦しみ方は・・・」
「どうしようっ・・・どうしようセンセイ・・・!」
今目の前の視界と脳が読み取る光景の落差。膜を隔てた皆の声と、神経を刺激する耳鳴りと、何かがメキメキと軋むような音。意識を保とうと必死になった分だけ、強烈な違和感で身体中が引きちぎれてしまいそうになる。
その時だった。
「」
先生の声がした。水の膜を隔てず、耳鳴りにも負けず、はっきりと私のもとへ届く。混濁する意識の中、私が今唯一頼れるもの。身体の自由は未だ利かないながら、私は必死にその声を見失うまいと耳をそばだてる。
「・・・此処にいるよ」
掌を通して流れ込む何かが、体内で乱れる爆音を抑え込んでいく。私はその時になり、身体の至るところで暴走していたのは血潮ではなく花の氣だという結論に辿り着いた。
あの時と同じく、先生は相克の氣で私の過ぎた出力を抑え込もうとしてくれている。
「息をするんだ、。大丈夫、決してこの手を離さない。氣の調整も、私に任せてくれて構わない。冷静に、自分の呼吸だけに集中してくれ」
静かな声が私の内側を整えていく。突如自由を奪われ激流に溺れそうになった惨事から、耳と手の感覚を取り戻し、ずくずくと苦痛を伴い脈打っていた花の氣も徐々に落ち着いていくのを感じる。まだ声は出ない。それでも、この糸を離さない。先生という道しるべを、決して見失うもんかと歯を食い縛る。
「の歩幅で良い。一歩ずつ、戻っておいで」
堪らなく優しい導きと共に、握られた手に温かな力がこもる。脳を満たす砂嵐が、止んでいく。嫌悪感ばかりを積み上げていた断片的な視界に、焦点が合っていく。
次の瞬間、私ははっきりと見た。
焼け跡だらけの巨大な船。
力無く横たわる皆の姿。
観音像のように六本の腕を生やした蓮。
そして―――巨大な柱に圧し潰された清丸と、蓮の氣で捻じ切られる威鈴の最期。
そして微かに感じる、金木犀の香り。
視界の暗転の末、私はゆっくりと自分の意識を取り戻した。瞼を押し上げた先で、皆が不安気な顔で私を覗き込んでいる。
一番近くには、大好きなひとの匂い。仰向けに寝転がる私を抱え支えてくれる先生と、通じ合えたような気がした。
「先生」
「・・・」
もう声も出せる。自分の意思で笑えるし、手も握り返せる。先生の心底安堵したような顔を見つめ返すと同時に、周りからは脱力と興奮の声が交互に上がった。
「はあああ、安心したっすよ・・・」
「っ!!心配したよぉ・・・!!」
「良かった・・・!!さん・・・!!」
「典坐、ヌルガイ・・・佐切も、ありがとう。皆、心配かけてごめんなさい」
典坐は床に大の字で倒れ込み、ヌルガイは私の腹の上に覆い被さり、佐切は目に涙を浮かべてくれる。他の皆も汗を拭う程の安堵で、それぞれに回復を祝福してくれた。
そっと私の頬に触れた指先が微かに震えているのを感じ、思わず目を丸くする。ほんの一瞬、下唇を噛み激情に耐える先生がそこにいた。皆に悟られる前に落ち着きを取り戻し、すぐ穏やかな苦笑を浮かべてはくれるものの、その刹那の姿が私に堪らない思いを齎した。
「先生」
「・・・戻ってきてくれて、良かったよ」
私自身ですら理解の及ばなかった花の氣の暴走を感知し、適切な手段で治め、唯一の道しるべになってくれた。
その裏側でどれほど心配をかけたのか、どれほど心を乱してくれたのか。瞬きの間の表情が、先生の思いをありのまま教えてくれたようで。申し訳ないという苦い思いと共に、声に出せない喜びも生まれてしまう。
心配をかけておきながら、私というやつは酷い弟子だ。繋がったままの片手同士、密かに指先を擦り合うと、じわりと胸の奥が温かくなるような思いがした。
「何が起きたか、話せるかい?」
「・・・頭の中に、見たことの無い景色が流れ込んできました。多分・・・未来の光景です」
私の一声で、その場が静まり返った。
こんなことは私も初めてだし、私は未来予知の能力を有している訳じゃない。確証は無い。ただ記憶に残る金木犀の香りから、創造主の意識を分け与えられたのだと本能的に理解した。
「こんなこと出来るのは・・・ひとりしか、いないとは思うんですけど」
「・・・桂花から意識を突如共有されたことで花の氣が増幅し、卒倒しかけたということだね」
桂花が私に意識を共有出来た理屈もわからなければ、何故そうしようと思い至ったのかという理由は更にわからない。私は私の神様と確固たる絆がある訳じゃない。それでも、創られた身ゆえに今確かに彼と繋がっていたことだけはわかる。強引な形ではあったけれど、知ったことを無駄に出来ない。私は頭を傾け、皆の顔を見渡した。
「威鈴と清丸は、いる?」
「っはい・・・!さん、無理に起き上がらないでください。ここにいますから・・・」
威鈴は遠慮がちに手を上げ、私の傍に屈み込んでくれた。すぐ後ろにはそっぽを向きながらも佇む清丸の姿もある。ひとつの深呼吸で自分を落ち着けると同時に、何も言わずとも先生がしっかりと手を握り直してくれる。私は極力の冷静さを努め、その事実を口にした。
「落ち着いて聞いて欲しい。君たち二人の、死が見えた」
ざん、と波の音を強く感じた。威鈴は言葉を無くし、清丸もまたこちらを見ないまま固まっている。当然だろう。自分の死が迫るなんてこと、まともに受け止められる筈が無い。
それでも私は、今伝えなければならない。この先の未来を、もう一度捻じ曲げる為に。
「何それ・・・死ぬって僕らが?」
「大丈夫。これまでと何も変わらないよ」
そうだ、これまでと同じ。私は、皆の未来を変える為にここまでやって来たのだから。
「私の神様がくれた最後の好機だよ。絶対逃さない。清丸も威鈴も、死なせないよ」
「・・・意味が、わからないよ」
「を信じてくれ、お願いだ」
清丸の声が微かに震えだすと同時に、ヌルガイが起き上がりその手を掴んだ。真摯さに押し黙る清丸の姿に私は小さく安堵する。動揺の極致で同じく固まったままの威鈴には、典坐が声をかけてくれる。
「自分も死ぬ運命から救って貰ったひとりっすよ。威鈴さんと清丸くんを生かす、目的も達成する、全部取りに行けるように計画立てましょう」
「・・・は、い」
詰まる声を無理に出し、自らの頬を両手で撃つ。威鈴の強さに目を細めながらも、私は身体に残る気怠さに息を吐いた。
意識は問題無く元に戻ったというのに、恐らく強引に意識を繋げられた弊害か心身の消耗は零とは呼べない有様の様だ。それは寄り添ったままの先生にも当然筒抜けになっていて、私を案じるあまりその表情が曇る。
「すぐにでも話し合いが必要だが・・・」
「良いよ、僕が仕切る」
付知の挙手は素早かった。先生を真似てかパンと大きく頭上で手を撃つと、てきぱきと周りに指示を出し始める。
「シオさんはそのままの安静を確保。サギと仙ちゃん、僕の荷から応急剤出して。あと、抑制剤も追加で半量分作っておきたい」
「承知しました」
「調合もお手伝いします」
「なぁオレは?!」
「君は典くんと一緒にの両脇にくっついてて。あと、どちらか水も飲ませておいてくれると助かる」
「了解っす!」
付知の指令に対し皆実に従順だった。
私は先生に抱えられたまま仰向けで寝そべり、片腕にはヌルガイがぴたりと張り付き、逆側からは典坐が筒の水を飲ませてくれるという神待遇である。典坐の相生は勿論あるけれど、大好きなひと達に囲まれるだけで私は自分の氣が満ちていくのを直に感じることが出来た。
「何これ、極楽?」
「そうだよ、にはこれが一番効くでしょ。念のため状態診るから口開けて」
「んあ 」
遠慮の無い触診に従い大口を開ける私を眺め、忍のふたりも座り込んだまま会議への参加を表明してくれる。
「三度目の何とやらね。お姉さん、今度こそ有益なお土産話を頼むわよー」
「おヌシの話を全面的に信じる。些細なことでも聞かせてくれ、この大一番を勝ち取る為なら何百通りでも手は捻り出す」
「はは・・・頼もし過ぎるね」
結さんに逢う。そこに王手のかかった画眉丸に死角無しといったところだろうか。心から応援する夫婦愛に触れ、そして皆の温かさにも触れて。そして私は、一番近くで心を寄せてくれるひとと顔を見交わす。
「・・・行けるかい?」
「はい、先生」
これはきっと、私に齎された最後の“先見の明”だ。戸惑いと緊張に身を硬くするふたりを救うべく、記憶を正確な言葉に変えようと私は口を開いた。