上陸から最初の晩、私は尊敬する兄弟子の利き腕を失わせたことを嘆き、命だけでも繋ぎ止めることに必死だった。本当なら置いて行ける筈の無い重体の身に背中を押され、必ず戻ると約束をして夜明けと共に洞窟を発ち―――そして今、再びその命と向き合うことが叶った。奇跡だ。とめどなく流れる涙で衛善さんの膝元を濡らしながら、強くそう感じる。

あの洞窟の惨状から一体どうやって生き延びたのか。何故、こんな船底に身を潜めていたのか。嗚咽混じりで聞き取り辛いだろう私の問いに、衛善さんは静かに答えてくれた。
襲撃してきた化け物は生け捕り目的で、片腕で交戦はしたが命までは獲られなかったこと。連れ去られた蓬莱内部に点在する花で溢れた穴に落とされ、その中で藻掻くうち花と同化しながらも何とか自我を保ち続けていたこと。数刻前、地面が割れるような大きな揺れ―――朱槿が盤古を喰らった時だろう―――により、気付けば外へ投げ出されていたこと。彷徨うように水門へ辿り着き、まだ無人だったこの船へ逃れ、気絶と覚醒を細切れに繰り返していたこと。船の揺れに意識を取り戻し、このまま朽ち果てることも覚悟した折、私の声を拾い上げたこと。

私は祈る神や仏をもたないから、私を創った桂花でも、誰でも良い。衛善さんを生かしてくれた全てに、感謝の思いが溢れた。ひと通りの話に区切りがついたその間を読み解き、ずっと背後で静観してくれていた先生が躊躇いがちに一歩踏み込む。

「・・・よく、ご無事で」
「その声は・・・士遠か」

奇妙な違和感に瞠目する。間違いなく視界に入っている距離で、何故探るような良い方をするのか。気付いてしまった暗い結論に胸が重く騒ついた。
このひとの身体から何カ所も顔を出す花々が、悪さをしているのだと。自我を保つことと引き換えに、身体の自由を奪われているのだと。すぐ傍にいる先生すら声でしか判別出来ないほどに、衛善さんの隻眼は闇で覆われてしまっているのだと。

「すまない。情けない話だが・・・残された片目も、近くにあるもの以外はまともには」
「大丈夫です」

私はその言葉を遮った。どんなハンデも意味が無いと、そう感じた為だった。

「見えなくても、動けなくても、衛善さんは生きてくれるだけで、それだけで十分です・・・!」
「・・・お前という奴は」

山田家の序列一位。皆の精神的な柱そのもの。衛善さんはただ、生きていてくれれば、それだけで皆救われる。揺らがない持論を語る私を苦笑がちに見下ろすその目が、この至近距離にしてようやく私の頬に咲く花を捉えた。大きな手がその花弁に触れ、そして安堵とも緊迫とも取れる溜息が零れ落ちる。

「これは・・・私とは別種のものだな。身体は動くか。まだ戦えるか」
「っ・・・勿論、戦えます。最高の刀を、預けて貰えましたから」

私の花化は、内在するもの故に起源が異なる。くすんだ視界でもそれを見抜く聡明さは流石としか言えない。そして私は、大事な預かり物を腰から抜き両手に掲げた。美しい太刀。私をここまで率いてくれたとも言える、頼もしい刀。

「・・・ありがとう、ございました。何度も、何度も、この刀の強さに助けられました・・・流石、衛善さんと歩んできた刀です」

小竜景光、写し。山田家の先頭に立つひとが、長年苦楽を共にしてきた愛刀だ。私が果たしてどの程度この刀の真価を発揮出来たのかは、正直わからない。それでも、本当にこれまで沢山の場面で助けて貰った。
ありがとう。心の中で丁寧にその言葉を囁きながら、私は本来の主へ返そうとその美しい刀を差し出す。衛善さんは静かに微笑んだまま、しかしはっきりとその受取を拒んだ。

「この先もお前が連れて行け」
「でもっ・・・」
「私が今命運を共にしているのは・・・生憎こちらの刀なのでな」

物陰ですぐにはわからなかったけれど、衛善さんは腰元に一振りの刀を携えていた。私は思わず目を見開く。

「お前の刀だ。戦には不慣れだろうに、利き腕の無い私でも握り易く、ここまで実によく働いてくれた。義理を通したい」

私の刀。期聖の代理として正式に認められて初めて幕府から賜った、無銘の刀。洞窟でこの名刀と交換され、その後も利き腕の無い衛善さんの元で、ずっと活かされ続けていただなんて。

「・・・私、の」

万感の思いに、胸が締め付けられる。ほんの短い期間ではあったけれど、私と共に船出した刀が、ここまで衛善さんの傍らに在り続けた。存在感を主張しない影のような一振りを呆然と見つめる私の肩に、背後からそっと大きな手が乗せられた。先生に優しく微笑まれると、確かな功績を称えられたような気がして心の芯が綻ぶ。

「君の刀もまた、この再会に繋げてくれた一因だな」
「っ・・・はい」

左手一本でここまで生き延びたのは衛善さんの力だ。でも、その片隅には間違いなく私の刀があった。その事実を先生から認めて貰うことにより堪らなく誇らしくなって、私は涙を拭いながら頬を緩める。

ぎし、と木の軋む音がしたのはその時のことだった。

「・・・あらら。そういうこと」

背後から新たに踏み入った顔は、こちらからは逆光で見えにくい筈だった。しかし、陰影に縁取られたその表情がはっきりと読み取れて―――私と先生は、瞬時に衛善さんを守る姿勢を取った。

ぎし。ぎし。段差を降りる音が緊張感を高めていく。私たちの張り詰めた警戒心を看破した上で、十禾さんはあくまで余裕綽々の笑みを携えていた。

「何何、いきなりどしたの二人とも」
「・・・どうしたはこちらの台詞だ」
「仲間の生還を驚くでも、喜ぶでもない・・・今自分がどんな顔してるか、わかってますか」
「どんな顔って、色男の顔してない?あはは、冗談冗談」

私は確かに見た。先生も氣を通じて正しく読み取った筈だ。このひとが衛善さんを認めた時の―――何とも気怠い、落胆したような表情を。

「ただまぁ、ちょっとね。ちょっとだけ・・・なぁんだ、とは思ったかなぁ」

十禾さんはニヤニヤと笑いながらも、目を細めて溜息を吐いた。
なんだ。まるでその後、こう続くかのように―――生きていたのか、残念だ、と。
ぷつ、と何かの線を断たれた心地がした。

「っ・・・!」


無意識のうちに刀に手をかけ、一歩踏み込むその刹那。私の手に先生の手が重なることで制止がかかる。先生の手もまた、震える程の険しい憤りで固いものだった。

「えええ?そういう感じ?手ぇ出してないのに兄弟子への不敬ってだけでそれ?珠現じゃあるまいしさぁ」

そうだ。十禾さんは何も手を出していない。殺気も出さない。私がここで刀を抜けば決定的な何かが壊れる。先生の制止は正しかった。
ただ、悪びれもせず衛善さんの生存を残念がるこの兄弟子に対し、果ての無い怒りが蜷局を巻く。不敬なんて表現では到底足りない、許されない言動だ。私たちが互いに力のこもった手でギリギリのところを支え合う中、十禾さんはまるでこの状況を面白がるかのように口端を上げた。

「士遠とちゃんは考えたりしないの?邪魔な縛りもしがらみも全部消えたら、なーんも考えずふたりだけの世界をしっぽり謳歌出来るのにー、とか。俺は考えちゃうし断然願っちゃうけどなぁ、俺が繰り上げ首位で一生左団扇な生活」
「・・・だから、衛善さんが生きてたら不都合だって。そう言いたいんですか」
「や、そうは言って・・・るようなもんか」

本心を認めニタニタと嗤うのは、私たちを煽ることが目的なのか、まさか本当に衛善さんを害するつもりなのか、あまりに闇が底知れず読み解けない。それでも私の沸点が限界を踏み越えようとした、その時。

「やめろよ!」

ぼふ、という音が十禾さんの背から鳴ると共に、切実な声が船底に響き渡る。おやぁ、なんて気の抜けた声で応じつつ微塵もバランスを崩さない十禾さんの脇から姿を見せたのは、ヌルガイだった。

「同じ浅ェ門同士だろ?仲間だろ?敵対してどうするんだよ・・・!」

小さな身を捩り私たちの間に入り、まるで仲裁するかの如く必死に声を張り上げている。

「オレ、覚えてるよ。衛善って・・・があの洞窟で泣き叫んでた名前だろ。死んだと思ってた奴が生きてたんなら、皆で良かったって喜びあえば良いじゃないか・・・!」

ヌルガイの純真さが、私の中で芽吹いた怨嗟を溶かしていく。私と先生の互いを牽制する手の力が、徐々に抜けていった。

「島は出れたけど、まだ蓮の船も見えてなくて・・・心がバラバラじゃ何も上手く行かないよ・・・!何のために・・・何のためにメイが命をはって送り出してくれたと思ってるんだよ・・・!」

メイ。その名を呼ぶヌルガイの声が涙に震え、強く心を揺さぶる。私はなんて短慮な真似をしようとしたのか。大局を見据えて和解を訴えかけるヌルガイの叫びが、痛切に突き刺さるような気さえした。

「・・・その子の主張は正しい。この諍いに意味など無い。士遠、、矛を収めろ」

衛善さんの言葉が決め手となり、私と先生の憤りを砕く。完全に刀から手が外れたことを確認し、ヌルガイが私に飛び付いてきた。安堵しきれていない、探るような笑みを浮かべさせてしまうことが心苦しい。

「なぁ、センセイもも、怖い顔すんなよ。仲間が生きてたんだろ、あんなに悲しんで会いたがってた兄弟子だろ・・・」
「ごめんね、ヌルガイ。全部、ヌルガイの言う通りだね」
「私もすまなかった。団結しなくてはいけない時に、内輪でいがみ合っている場合ではないな。大事なことを思い出させてくれてありがとう、ヌルガイ」
「・・・っ・・・うん」

じわりと潤んだ瞳を誤魔化すよう、顔を押し付けるように抱き着いてきた細身を、私は精一杯優しく抱き締め返す。こんな小さな子ですらわかっていることを見失った己の浅はかさ、そして未だにこちらを見下ろす兄弟子に対し和解の一歩を踏み出せない未熟さを噛み締め、唸り声を殺しながら息を深く吐き出した次の瞬間。

「間違えたなら、仕切り直せば良いんすよ」

温かな声が、光のように差し込んだ。十禾さんの背後に立つ典坐の存在が、私に小さな勇気をくれる。

「・・・典坐か」
「っす。途中から聞かせて貰ったっすよ。生きてて本当に嬉しいっす、衛善さん」

典坐は十禾さん越しにこちらへ笑いかけつつも、ヌルガイの様に間へ入ろうとはしなかった。半ば面倒臭そうに振り返る兄弟子に対しても、私の太陽は俄然怯まない。この状況で十禾さんを逃がさないこと。それを正面からやってのける熱さが、そこにあった。

「十禾さん、謝ってください。そうじゃなきゃ何も進まないっすよ。ヌルガイさんの言う通り、今は皆で心を揃える時っす」
「あー、ここは典坐とお嬢ちゃんが正義っぽいね・・・」

宙を仰ぎ頭を掻き、そして十禾さんは私たちを見下ろして。残りの段差を下り切ると、呆気なく頭を下げた。

「ふたりともごめん、俺が悪かったよ。もうよからぬことは考えない。魔が差したってことで、許してくれる?」
「・・・今はその言葉を信じるしかあるまい」
「ありがと。ちゃんは?」

心の底から正直なことを言わせて貰えるのなら、全てを鵜呑みには出来ないと感じた。それでも今は内輪で揉めて良い局面ではないし、腕の中で緊張感を高めるヌルガイの存在もある。何より今は、衛善さんの生存を皆に知らせることが優先だ。
中段からこちらを見守る典坐と頷き合い、そして隣でこの不安を共有する先生とも顔を見交わし、私はひとつの釘を刺すことで切り替えようと決断した。

「・・・絶対裏切らないって、誓って下さい」
「あはは、信用無いなぁ。大丈夫大丈夫、誓うよ。俺だって剣龍ほどじゃないけど、可愛い子を悲しませるのは趣味じゃないからさぁ」

このひとに感じる根源的な恐ろしさは、やはり何年経っても消えない。私ひとりでは決して太刀打ち出来なかっただろう。大切な縁によって守られたような心地で、私はヌルガイの身体を強く抱き締め直した。



* * *




立ち上がることも厳しかった彼の身体を、典坐と先生が両脇から抱えて甲板へと上がる。騒ぎを聞き付け遠巻きに様子を伺っていた皆は、衛善さんの生存を知るなりそれぞれに大きく感動を示した。衛善さんもまた皆との再会を喜び、とりわけ長く世話をしてきた佐切の無事には心から嬉しそうな顔を見せた。私はただ、その光景の尊さを一秒も余さず見届けるべく、一歩引いたところから目を細めてばかりいた気がする。

画眉丸と杠が船の前方を、威鈴と清丸が後方を見張る中、本道場の面々にヌルガイが加わった状態の小さな輪の中で私たちは衛善さんにこれまでの話をした。
神仙郷から送られてきた花塗れの船は、天仙達が人間をおびき寄せる為の撒き餌だったこと。激闘の中で源嗣が散り、桐馬は無事ならば私たちとは袂を別ち兄と生きるだろうということ。そして、私が天仙に創られた本の中の人間であること。未来予知の能力を有する桂花の導きで途中までの展開を知り、未来を変えようと奔走していたこと。
衛善さんは私が何らかの目的をもって御役目に参加することを見抜きながら、信を預けてくれたひとだ。私の異質な起源にも動じることなく、ただ一言、腑に落ちたと。それだけで全てを静かに受け入れてくれた。

それぞれが島で氣を磨くことで天仙達との死闘を制し、メイという協力者であり大切な仲間の犠牲を経てこの船は蓮を追う只中にある。おおまかな説明が現在に追い付くと共に、衛善さんは浅く溜息を吐いた。

「・・・成程。遠くに感じた轟音は・・・殊現が敵船に乗り込む際のものだったか」

天仙の長である蓮を相手に臆せず単身挑んだだろう殊現に対し、衛善さんが浮かべた表情。それは想定していたよりもずっと、穏やかさに満ちた苦笑だった。

「この状況下では致し方の無いことだが・・・まったく。一人で出来ることには限度があると、入門当初から教えてきたつもりだったが・・・家への愛故だろうが、仕方の無い奴だ」

親を殺され親類に引き取られるでもなく、山田家へ流れ着いた暗い瞳の少年。復讐心に身を焦がしていた殊現を真っ当に育てたのは、このひとだ。殊現が衛善さんを特別に慕うのと同じだけ、衛善さんも殊現に大きな思い入れが当然あるだろう。静かで深い表情からは、二人の確かな絆が読み取れた。

「厳鉄斎も先行して船に乗ってる筈だけど・・・殊くんが共闘なんてする筈無いだろうね」
「むしろ三つ巴で戦っている確率の方が高そうだな」

付知と先生の予測は大幅には外れていない筈だ。死に急ぎに行く訳じゃないと笑った厳鉄斎の言葉を私は信じたいけれど、殊現はどうしたって罪人とも天仙とも組める筈が無い。三人で睨み合う様が頭に浮かぶようで自然と眉間に皺が寄る。

「全員で協力しなければ蓮は倒せません。それほどの強敵です。罪人も処刑人も関係なく、今は団結しなくては」
「ならばどんな形であれ、一度珠現に聞く耳を持たせる必要があるな」

佐切の力強い言葉によって、衛善さんの理解が得られたその瞬間。

「・・・遣り方は問わない。私を使え」

もう先読みの使えない私に残された、新たな役割を確信した。

「この通り満足に動かぬ身ゆえ、苦労をかけるが・・・」
「任せてください」

殊現はつい先刻までの私たちと同様、衛善さんの生存を知らない。



『衛善殿は、生きておられるのか』

『・・・ごめん』



もしも威鈴の言う通り、彼が私に何らかの期待をしてくれていたのなら。付知と厳鉄斎を庇ったことに後悔なんて無いけれど、兄弟子を深く傷付けた私に出来るせめてもの償いは、これしか無いとすら感じる。

「必ず、衛善さんと殊現を引き合わせます。殊現には、衛善さんが必要です」

ふたりを再会させる。今の殊現に誰かの言葉が届くとするなら、きっとそれは衛善さん以外に無い。何をしてでも、どんなに困難でも、必ず殊現と衛善さんを引き合わせてみせる。そうして得た新たな決意と共に進み出た私の隣へ、同じく並んでくれる影があった。

「まさか、ひとりで背負い込むつもりではないのだろう」
「・・・先生」
「私も協力するよ。ふたりの再会は、一丸となり戦う為にも有効だろう」

先生はいつだって、私の願いを汲んでくれる。当然のように、力添えをしてくれる。

「・・・君の心の棘を抜く為にも、きっと必要なことだ」

本土にいた頃から蓄積された、殊現への一方的な確執。島で起きた決定的な訣別を含め、一度も言葉にしない負の思いすら的確に掬い上げてくれる優しさが、酷く沁みる。私の先生は、本当に凄いひとだ。大き過ぎる心強さに肩の力が少し抜けると、私の左腕に抱き着く形で温かな重みが降ってきた。

「オレも手伝うよ!団結も勿論大事だけどさ、仲間が生きてるって知ったら、そいつも絶対喜ぶよ!」
「間違いないっすね!殊現さんは衛善さんを特別強く慕ってるひとっすから!皆で二人を会わせましょう!」

殊現が罪人相手には徹底した修羅だと知りながら、否、もうそんなことはどうでも良いのかもしれない。衛善さんとの再会で殊現が喜ぶことを望むヌルガイと典坐、ふたりの前向きさが心を和ませてくれる。自然と皆に笑顔が波及して、輪全体が明るくなる。その刹那。

「・・・典坐、士遠、そして

衛善さんがかすかに微笑みながら私たちの名を呼ぶ。

「山田家に戻るつもりは、無いのだな」

瞬きの一瞬、空気が凪いだ。
その声色は私たちを責めるものではなかったけれど、確信をもったそれだった。
山田家を去る。もう自分達で決断をし、どのタイミングで皆に打ち明けるべきか漠然と考えていたこと。それを衛善さんから確認のような形で問われる重さは、想像を遥かに超えた。

「・・・衛善さん」
「わかるさ。本土へ戻れたとて、もうお前達にその子は切れまい」

船底での十禾さんとのひと悶着然り、今も画眉丸や杠と違い自然と輪に溶け込む親和性然り。厳格な衛善さんがヌルガイに向ける目からは、罪人への侮蔑や無情さは感じ取れなかった。きっと、この子の善性を理解してくれた上での発言だとわかる。
それでも私たちは今、山田家を率いてくれたこのひとに対して罪悪感を感じずにはいられない。先生が静かに床に手を着き頭を垂れた。

「面目次第も無い。数々の不義理、許されるものではないと承知の上です」
「ごめん・・・オレのせいだ」
「いや、自分たちで決めたことっすよ。衛善さん、すみません。自分たちはもう、浅ェ門は名乗れません」

責任を感じるヌルガイを庇うように、典坐が頭を下げる。私も二人の後ろで同じように正座で手をつき、深く頭を下げようとしたその瞬間、脳裏に過ぎったのは洞窟での衛善さんとのやり取りだった。
代行でしかなかった私に、慶雲の首を落としたことから免許皆伝を許してくれた。長年の愛刀を授け、背中を押してくれた。
山田浅ェ門。その名を衛善さんに呼んで貰うことで覚えた誇らしさは、今だって何ひとつ色褪せない。
それでも私は、この先の未来で先生を選ぶと決めた。衛善さんの言う通り、ヌルガイを斬ることなんて出来ない。罪の意識がどんなに深くとも、そこだけは譲れないし揺らがない。

「折角免許皆伝を認めて貰ったのに、ごめんなさい。皆も、これまで黙ってて・・・ごめんなさい」

どんな謗りも甘んじて受けると覚悟した、直後。

「・・・衛善さん。この場をお借りして、僕もお詫びしたいことがあります」

その場に響いたのは仙汰の静かな声だった。目を丸くする私の横に座して背を正し、ひとつの深呼吸の末顔を上げる。

「この戦いを生き残れた暁には・・・僕も、もう江戸には戻らないつもりでいます」

え、と声が零れそうになるのをギリギリで堪えた。反射的に、船首の方を振り返る。聞き耳を立てているであろう杠はこちらに背を向け胡坐をかいたまま、華奢な身を奔放に海風へと晒していた。

「処刑執行の道は、僕が真に望む生き方ではないと気付けました。己に嘘を吐かず、残りの人生を自力で歩んで参ります。御家にも家族にも不孝を働きますが・・・長きにわたりご指導下さった衛善さんには、幾重にもお詫びを申し上げます」

長年己を偽り続けた兄弟子が、己にだけは正直に生きる死罪人に光を見出すことで人生観を変えた。額に緊張の汗を浮かべながらも、自分の言葉で未来を語る仙汰の姿は頼もしい。虚を突かれながらもじわりと熱いものが込み上げる最中、今度は別の兄弟子からも声が上がった。

「ごめん、衛さん。僕は帰るつもりではいるけど・・・この先ずっと浅ェ門として生きるかどうかは、一度時間をかけてじっくり考えようと思ってる」

付知は私たちのように頭を垂れようとはしなかった。赦しを乞うというよりも、決意表明の眼差しを感じる。何故だろう。どんな時も不敵な笑みで前を向く隻腕の大男の姿が、彼の後ろに見えたような気がした。

「山田家の皆を尊敬する気持ちは変わらないよ。でも、この御役目を経て命への向き合い方が変わったことも・・・誤魔化しようのない事実だから」

山田家の存在意義を強く理解する付知が今後に保留を突き付けた。幕府の命に従い首を落とす山田家を是としながらも、自らの身の振り方には迷いを告白する。
ああ、これが彼らの生きた先に拓けた可能性だったのか、と。私は呆然としながら、改めて正面に座する衛善さんの様子を伺った。浅ェ門を名乗る者が五人もその名を捨てる、若しくは辞することを考えていると明るみになったのだ。どれほど落胆させてしまったことだろう。惨い仕打ちと取られても言い訳は出来ない。
ただ、こんな時であっても衛善さんの静謐な雰囲気は厳かさを損なわない。そんなことを不思議に思った折だった。

「衛善殿、どうか皆の決断をお聞き届け下さい」

私のすぐ後ろから、凛とした美しさに溢れる声が響く。佐切は私も他の皆も飛び越えて、衛善さんを真っ直ぐに見据えていた。

「情を通して価値観が変わり、自らの生き方に迷い模索した結果です。たとえ共には在れなくとも、私は皆の選んだ道を尊重したい。そして衛善殿からの赦しもまた、彼らには必要です。どうかお願い申し上げます」

その声に迷いは無く、その言葉は初めから用意されていたかの如くしっかりとしたもので。私は恐る恐る、背後を振り返る。目と目が合って尚、年下の姉弟子からは動揺の気配が読み取れない。同門達が家から訣別すると、まるでわかっていたかのような落ち着きだった。

「・・・佐切」
「先の作戦で別れる前頃でしょう、心をお決めになられたのは」
「・・・なんで」
「私が何も気付いていないと、本気でそうお思いでしたか?」

私に限って言うならば、正確過ぎる程把握されている。把握され過ぎている。混乱で固まることしか出来ない私に対し、佐切は目を細めつつも少々得意げな咳払いと共に背筋を正した。

「甘いですね。私も筆を持つ者の端くれ。さんを“観察”する力だけなら、士遠殿にも遅れを取らないと自負しています」
「・・・やられたよ」
「恐れ入ります」

先生からのお墨付きに彼女らしく丁寧な応対をし、そして佐切の目元がそっと綻ぶ。

「それに、仙汰殿からは直接相談を受けていましたし。付知殿の迷いも、何となく察してはいました。きっとさん達もそうされるのではないかと・・・予感めいたものは、あったんです。ヌルガイさんには典坐殿達が必要です。そしてさんも、彼らと離れず幸多き道を歩んで欲しい」

私たちの出奔計画を見抜き、密かに心の準備をしていた姉弟子の言葉はしっかりとしたものだった。何もかも察した上で私たちを後押しし、衛善さんからの許しを共に乞おうとしてくれる。
山田家の娘、その生まれ故の苦悩を誰より抱えながら、私たちの門出を冷静に、そして寛大に受け入れ―――不意に、その眉が困ったように下がる。すっかり美しく成長した今尚、その表情が私が知り合った頃の少女時代と被り、強く胸を打った。

「淋しい思いも本物ですが・・・私は、喜んで背中を押します。さんは、暗闇で立ち止まっていた私に、沢山の新たな可能性を見せてくれたひとですから」
「さ、ぎり」

とてもじっとしてはいられなかった。座ったまま腕を伸ばし、思いのまま頭を抱き寄せる。あ、と小さな声を上げながらも恥ずかしそうに肩を揺らし控えめに笑う、可愛い姉弟子に大きく感情を揺さぶられた。
私も淋しいよ。すべて捨て去る身では容易く口に出せないその思いが伝わるように、抱き寄せた頭を丁寧に愛でる。沢山の可能性を見せて貰ったのは私の方だ。佐切が私という存在を本に書き起こしてくれたお陰で起きた奇跡がいくつもある。
大好きな物語の、もう一人の主人公。この子にこんなにも慕って貰えたことを忘れない。例えどんなに離れても、かけがえのない誉として決して忘れない。

「―――皆、成長したものだ」

佐切と頭を摺り寄せながら聞いた衛善さんの声は、思いのほか感慨に満ちた響きがした。皆一様に動きを止め、ゆっくりと顔を向ける。

「誰しも、育った家からは必ず巣立ちの時が来る」

厳しさと優しさの共生する隻眼は今、花化によって多くの光を奪われていたけれど。それでも、私たち全員を見渡すその瞳から確かな慈愛を感じる。

「山田浅ェ門士遠。山田浅ェ門仙汰。山田浅ェ門付知。山田浅ェ門典坐。山田浅ェ門

不意に、その声に厳格さが増した。いつも通りの衛善さんの声だ。これにはひとり立ち上がっていた付知も、佐切と抱き合っていた私も、皆電気が走ったように正座で背を正す。
山田浅ェ門。もう呼ばれることは無いと思っていた響きは、やはりこのひとの口から零れることで格別の誇らしさを生んだ。

「この船を降りるまではその名を冠する者だ。山田家の者として、どんなに過酷な御役目だろうと半端なことは許さんぞ。私は私の為すべきを為す。お前達はお前達の為すべきを為せ」

その台詞から頭に過ぎるのは、このひとと別れた場面だった。



『一刻も早く此処を発ち、お前が為すべきことを為せ』

『後は頼んだぞ、山田浅ェ門



辛く苦しい局面で、何度も私を奮い立たせてくれた言葉。花化によって消耗した今も尚、心を強く燃やしてくれる言葉。衛善さんだからこそ最大限に効力を発揮する、特別な激励だ。魔法の重ねがけをして貰えたような心地で思わず視界を潤ませる私から順に皆を見据え、彼は小さく頷く。

「そして胸を張り、堂々とこの船を降りろ」

私たちの未来が、何より大きな後押しを得た瞬間だった。