巌鉄斎の読みは的中し、私たちと十禾さん以外はどこも満身創痍で本宮に辿り着くこととなった。付知の医療技術と相生の氣の重ねがけを繰り返す内、一組また一組と人数を増やし―――私たちは、遂に現れなかった亜左兄弟を残して水門へ向かうことを決断した。
どうか二人で雲隠れする算段であって欲しい。抵抗していた佐切も、先生からの説得で渋々折れたようだった。私も巌鉄斎からの励ましが無ければ納得は難しかったかもしれない。たとえもう会えなくとも、二人の命が消えていないことをひたすらに祈った。
地下水門へ続く道すがら、私と先生は杠に話があると呼び止められ、皆からほんの少し離れた列の最後尾につく。彼女と同じ組み分けで司令塔を務めた仙汰とメイも揃う中、杠が口を開いた。
「あんたの神様に会ったわよ」
突然の告白に瞠目するしかなかった。私の神様とは、この島で残る数少ない天仙のひとりに他ならない。
「・・・え。桂花・・・複製とかじゃなくて?」
「ちびになってたけど、花っ子が会話してたから本物でしょ」
「桂花、本物。氣消費シタ、身体小サクナッタ」
桂花の身体が縮んだ経緯は正しく理解出来なかったけれど。相対して尚三人が欠けることなくここにいるのならば、それは私の創造主が強硬な手に出なかったことの現れで。
「交戦はしませんでしたよ。敵意の類も初めから持っていないように感じました」
「・・・そっか」
仙汰の補足に小さく安堵しながら、私は頭のどこかで彼の戦意の無さをわかっていたような気もする。遡る私との邂逅時も、その場にひとり残されただろう先生に牙をむかず、朱槿と交戦中だった典坐たちの元へ送り戻した。煉丹宮で佐切とメイと相対した場面でも、儀式の監視役に徹し自ら手を上げようとはしなかった。
幾度かの接点を持ち、根源に深い繋がりを認識した今も、私は私の神様のことを理解出来ずにいる。彼は、何を考えているのだろう。何が望みなのだろうか。漠然とした疑問に思わず目を細めた、その時。
「お姉さんに伝言。本は燃えた。後は好きにしろ、だってさ」
杠の言葉で、心臓が大きく高鳴る。すぐ隣にいる先生もまた、静かに息を飲むような気配がした。好きにしろ、とは。この世界に舞い戻ったことを決して歓迎されない筈の私にとって、思いがけない許しの言葉だった。
「正確には、もう本の中へは戻せないので命は自力で守るように、とのことでしたが」
「変に過保護な神様よねぇ」
「いわば生みの親ですからね。さんを気に掛ける意図は、わかるような気がします」
「そういうもん?創り手の熱意ってやつ?」
拒絶されているという大前提に不安が漂い続ける中、創り手の熱意を忘れるなと鉄心さんが背中を押してくれた。存在を拒まれた時は共に説得すると先生が約束してくれた。典坐やヌルガイ、そして付知が、天仙であっても私と出会わせてくれたことを感謝したいと言ってくれた。数々の大きな支えを得ながら、いずれ来る対峙は試練の時と覚悟を決めていた中。突然の解放は拍子抜けのような、それでいてじわりと体温が上がるような、不思議な感覚を伴った。
恐る恐る隣を見上げると、同じタイミングで視線が交差して。先生の表情がそっと綻んだことで、私は漸く安堵に辿り着くことが叶う。桂花は私の存在を許してくれた。命は自分で守れと、気に掛ける言葉すら残してくれた。生まれた世界にもう戻れなくても、不安なんて欠片も感じない。何処だろうと、このひとの隣が私の帰る場所だと。今なら、心の底からそう信じられる。
「ま。こっちにはそれ以上に過保護なオトコがいるから心配いらないって言っといたけど」
「・・・え」
とはいえ、それは私の心の中の問題で。第三者から明言されることも、所謂男女の仲を持て囃されることも、致命的に慣れていないのが正直なところで。ぴしりと固まる私は、更に思いがけない追撃を喰らうこととなる。
「桂花、喜ンデタ」
「マジ?話盛り過ぎじゃない?能面みたいな顔で全ッ然感情読めなかったけど」
「ゆ、杠さん・・・!」
「私、ワカル。喜ンデル時ノ顔シテタ」
杠の言う通り、私も桂花の表情の差分を読み解ける気がしない。でも、メイの言葉は至って真剣そのもので。懸命に事実を伝えようとする幼気な姿勢を、否定なんて出来る筈もなくて。
「サン、先生イレバ大丈夫。大事ナ人。絆、縁、モウ解ケナイ。桂花、安心シテタ」
とてつもなく気恥ずかしいのに、その声が、その言葉が、あまりに真っ直ぐなものだから。私の幸せにあの創造主が安心してくれたという俄かには信じ難い現実を、そのまま受け入れたくなってしまう。情けない顔で言葉を探すしかないその最中、先生の手がメイの頭を優しく撫でた。
「その期待を裏切らないと誓うよ。君にも、桂花にも」
「・・・!!」
まるで特大の活力を得たように、その小さな身体が小さく跳ねたかと思えば。次の瞬間には愛らしい顔が私を見上げ、こちらが蕩けそうな笑みを向けてくれる。堪らない思いに胸がいっぱいで、そんな私が取った行動とは。
「よいしょ」
唐突に、その身を正面から抱き上げることだった。そのまま前進する私に抵抗することなく、こてんとメイの頭が横に傾げる。
「サン?私、足遅イ?」
「んーん。私がこうしたくなっただけ」
「お姉さん照れてる照れてるー」
「ううっ、そこ突くのやめて」
私の脇腹をちくちくと刺す杠の的確さに赤面しながらも、私は軽すぎるメイの身体をもう一度大切に抱きかかえ直した。しっかりと私の両腕に収まる、小さな身体。本で読んでいた頃から可愛いと思っていたけれど、こうしてぴたりと寄り添う今感じる気持ちは、天井知らずの愛おしさとしか呼べない。
「サン。身体、氣、温カイ」
「メイもあったかいよ。癒される温度で癖になっちゃう」
柔らかな頬擦りさえ許してくれる、愛しい子。遂に水門が迫り、島を出ようという今。私はひとつの心残りを消化することを決めた。
「・・・木人さんの話、しても良い?」
「・・・ウン」
「私はこの島で、殆ど接点を持てなかったんだ。でも正史の本を通して、木人さんとメイの関係は知ってた」
蓬莱の入口で牡丹と戦ったその時、木人さんは既に頭部だけの状態になっていたし、私が目を覚ました時にはメイに氣を譲り渡しその役目を終えていた。接点などほぼ無いに等しい。でも私は彼に―――否、木人さんとメイのふたりに対し、ただの読者だった頃からひとつの思い入れを抱いていた。
「樹化を目前に祈りを捧げようと覚悟を決めたひとが、何百年もその姿で生き永らえるって、途方も無いことだよね」
「・・・逃ゲタ私、助ケテクレタ。樹化シタ娘サン、イタカラ」
「うん。けど、単に重ねて見てただけじゃ説明つかないなぁって。だって、樹化は抗えない現象でしょ。それを何百年も先延ばしに出来るなんて・・・よっぽど、メイを愛する気持ちが強かったんだなぁって」
木人として生まれた者の宿命。いずれ誰にも平等に訪れる死と同じ、動かぬ樹と化す寸前に彼はメイと出会い、そしてその後数百年に渡り父親として生き続けた。愛する“娘”を守り続けた。それは紛れもない奇跡だ。
「・・・確かに、の言う通りだな」
「僕も同意見です。調べた限り、樹化は文字通り身体の自由が効かなくなる現象であり、避けられない変貌です。並大抵の気持ちひとつでは、凌駕出来る筈が無いんですよ」
腕の中のメイが明らかに動揺で身を硬くする中、先生と仙汰が心強い同意をくれる。そして逆側から、杠の美しい指先がメイの頬をツンと突いた。
「成程ね。あんたを守りたい一心で寿命を百年単位で伸ばさせるなんて、やるじゃん。私もそんな都合の良いオトコが欲しいなぁ。来世も私だけを守ってね、てやつ」
「杠さん、その言い方は少々語弊が・・・」
仙汰の苦言にも当然怯まない杠の言い分に思わず笑いつつも、私はだっこのまま愛おしい背をぽんぽんと撫でる。
「それくらい大きな力で、メイが木人さんの心を動かし続けたってこと。親子みたいじゃなくて、もうとっくに二人は本物の親子以上の絆で結ばれてたんだよって。そんな出会いは外の世界を探したってそう簡単には見つからない、特別尊いものだよって。ずっと、伝えたかった」
「・・・サン」
「はは。出来れば私も木人さんと、メイの可愛さについて語り明かしたかったなぁ」
直接この目で見届けることは叶わなかったけれど。木人さんがメイとの別れに残した愛情は本物であった筈だと、私は今も強く信じられる。父に奇跡を与え、その奇跡をもって愛された娘だからこそ。この子は心のまま、これから先も生きるべきだと強く感じるのだ。
「木人さんもそうだったに違いないけど、私もメイが笑顔でいると嬉しいよ。皆メイのことが好きだし、メイの幸せを願ってる。だから木人さんの為にも、メイが笑顔でいられる最高の“普通”を、外の世界で探そうね」
腕の中の体温が、ぽかぽかと温かさを増していく。丸みを帯びた小さな腕が、ひしと私の首元に縋りつく。
「・・・アリガト、大好キ」
触れあった頬が熱くて、ほんの少し湿っている。私は込み上げる笑みをそのままに、頬を摺り寄せ返した。ありがとうも、大好きも、私の台詞だ。この子を通して、私は私の謎多き神様との確執をひとつ乗り越えられたような気さえしているのだから。
「ふふっ、私も大好きだよー」
「おっと。強力な恋敵の出現ね、先生」
「参ったな。これはなかなか手強そうだ」
悪戯な杠の言葉に珍しく先生が乗っている。慣れない私はその手のノリにあまり長く耐えられそうにないものの、腕の中でメイが小さく笑うのを感じ取るだけで心が解けていくようだった。
先行きがどんなに暗くとも、心にひとつ灯る温かな光。木人さんとって、メイはそうした存在だったのだろうと思う。守りたいもの。愛するもの。心を捧げるに値するもの。生きる上で、何を引き換えにしてでも必要なもの。理屈を超えて樹化を百年単位で先延ばし出来る程に。
彼の残した希望をより丁重に抱き直した次の瞬間。小さな泡が弾けるように、束の間の憩のひとときは終わりを告げた。
「・・・何か、あったようです」
仙汰の固い声に、私たちは我に返る。少し先を往く皆の様子は、確かに異様な雰囲気を放っていた。
視界が開けると同時に目に入ったもの。それは、確かに水門の筈だった。船はある。向こう側に外界へ続く海も確認出来る。
「・・・何すか、これは」
ただし、無数の瓦礫が行く手を阻んでいた。
愕然とすると同時に、己の読みの甘さに米神が痛む。蓮は本土に向けて確実に災いの蝶を放とうとしており、私たちの追従をそう簡単に許す筈が無かったのだ。
メイが私の腕から降り、覚束ない足取りでヌルガイに並ぶ。二人して下を覗き込む背中は現実を受け入れきれておらず、戸惑いに満ちていた。
「でも、船は・・・船はまだ残ってるよ・・・」
「ああ・・・だが、水の動きが聞こえない」
ヌルガイが安心と答えを求めるようにこちらを振り返るものの、私の隣に立つ先生の表情は固い。
「瓦礫が水底まで詰まっている。これでは・・・船が出せない」
先生の言葉が、この状況のすべてだった。私たちが追って来られないよう、破壊を尽くすことで水の流れを止め道を塞ぐ。蓮の方が一枚上手だったのだ。
「そんな・・・ここまで、来たのに」
ヌルガイの震える言葉は私たちの心の声と呼べた。外界へ繋がる唯一の出入り口。ここへ辿り着く為に決死の場面を潜り抜け、仲間を失い、そして厳鉄斎は今も私たちが追って来ることを信じ先行してくれているというのに。
動揺でふらついたヌルガイを支えたのは、意外にも威鈴だった。小さな身体を受け止め、そっと典坐の方へ託す手付きから死罪人への侮蔑は感じられない。私たち全員に波及する嘆きの連鎖を何とかしようと、人一倍大きな身体で彼女は拳を握りしめた。
「何か・・・何か、手は・・・!」
「無理だね、どう考えても。瓦礫どかすのに一日かかる」
十禾さんの声は容赦の無いものだったけれど、現実だった。瓦礫をどかす。それは物理的に可能であっても、時間がかかる。一日後に追いかけたとして、本土はもう私たちの知る姿では無くなっている筈だ。
詰み―――誰もの頭にその単語が浮かんだだろうその時、画眉丸が瓦礫の海に飛び込んだ。ひとつひとつ、花化の消耗も激しい筈のその身で持ち上げ、放り投げる。
「君でも無理だよ。目的を根本から考え直そう」
「考え直す?目的は一つだ」
十禾さんの言葉がどんなに現実的でも、画眉丸は怯まない。
「どれほど困難でも―――ワシは諦める気はないっ」
「・・・私も、諦めません!」
彼に呼応するように、佐切もまた身一つで瓦礫の中へと飛び降りた。目尻に涙を浮かべ、重く厄介な瓦礫をひとつでも退かそうと尽力する姿が、今度は明るいさざ波となり皆の元へ広がっていく。
「画眉丸さん達の言う通りっす!諦めるのは今じゃないっすよ!」
「っ・・・オレも!オレも絶対諦めない!」
今ばかりは典坐が自らをも鼓舞するような勢いで吠えて飛び降りれば、ヌルガイも涙を拭いそこへ続く。
必死で瓦礫の山を押そうとする二人に力添えするような靄が盾を象り、ほんの僅か瓦礫を動かすと同時に消滅した。仙汰は既に紙と筆を手に体勢を整えており、次から次へと絵を具現化させることでこの場の力になろうとしていた。
「焼石に水。それでも、何かを変えられる可能性が一片でもあるのなら・・・」
「皆、せめてあの船を軸に航路を切り開こう。最短距離を今計算するから・・・!」
付知が動かせそうな船を指し、近寄れるギリギリの距離まで身を乗り出しながら険しい顔で書物に書き込みを始める。
皆、必死だった。無茶でも無謀でも、じっとしてはいられないという熱意がそこにあった。
今すぐ加わるべきだと、頭ではわかっているのに―――私は、その場に足が縫い付けられたように、一歩も動けずにいた。
「・・・」
この水門に足を踏み入れた瞬間から、ずっと。眩暈を催すような甲高い耳鳴りが続いていた。一度本の中へ帰り、戻って来て以降研ぎ澄まされた氣の探知能力。それが有り得ない気配を拾い上げ、私の心臓を強く締め付けた。
典坐たちが今どんな思いで瓦礫の海に飛び込み力を尽くそうとしているのか。それを理解して尚私をこの場へ縛り付け、強烈な力で注意を引き続けるもの。破壊され尽くした水門の中でたった一艘残った船の中から、私を呼ぶもの。
「・・・?」
無意識に胸元を強く握り締める私の異変を、先生は察知してくれた。この状況への悲観ではなく、別の理由から私が動揺の極致にいることを読み取り案じてくれる。
「・・・先生。あの、こんな時におかしいって、自分でもわかってます」
「大丈夫だ。君の感じるまま、聞かせてくれ」
勘違いでは済まされない。それ程、重い気付きだった。それでも先生は私に気掛かりを口にする勇気をくれる。私の焦りを鎮めるように、冷静に先を促してくれる。震える息を飲み下し、意を決して先生の顔を見上げた。
「・・・あの船、に」
「船?」
「まさか・・・やめなよ!」
杠の厳しい声が飛んできたのは、そんな時のことだった。私も先生も、はっとしたように振り返る。
「もう回復出来ない体でしょ!」
誰より小さな身体で、懸命に氣を捻り出そうとする少女の、弱弱しい笑み。それが目に映った次の瞬間、宙に突如顕現したのは巨大な蝶だった。
誰もが言葉を失い、唖然とその姿を仰ぎ見る。
《皆・・・船に乗って》
私たちの脳裏に、彼女の声が直接響き渡った。
《私が道を開きます》