時を置くごとに、密度が歪に上がっていくような戦場だった。
無尽蔵かと思えるほど湧き出て来る牡丹の複製、依然として辺りを闊歩し続ける竈神の群れ。それらをひたすらに斬り続ける。相生の輪を乱さず、散らばり過ぎず、臨機応変に。誰かが傷付けばすぐさま付知が動いてくれたし、応急処置は氣の相生を重ねることで抜群の効力を発揮した。
皆で守り合いながら島を出る。衛善さんを失って心折れた洞窟で典坐がくれた言葉を、今こんなにも強く実感する局面が来るだなんて。氣を乗せた一刀でまた新たな牡丹を切り伏せ、私は丁寧に呼吸を整えた。

ヌルガイが高い跳躍から二体の竈神を斬り降ろした、その直後。屋根の上から勢いをつけて牡丹が彼女に飛び掛かる光景が視界の端に入った。すぐさま助太刀に入ろうとした私の横を、熱い光が抜き去っていく。

「わ!」
「大丈夫っすか?!今、どこか斬られたんじゃないっすか?!」

コツを掴んだのか、終点が離れ過ぎることの無い一直線で牡丹の間合いからヌルガイを攫う。お見事としか言えないような救出シーンだった。着地と同時に横抱きからヌルガイを降ろすなり、典坐は焦りを隠さず彼女の全身を気遣う。

「かすり傷にもなってない。心配し過ぎだよ。それに何かあったって付知がいてくれるから心強いだろ」
「それはそうっすけど、怪我しないに越したことは無いっす。女の子なんすから」
「ううっ・・・嬉しいけど、今はなんか複雑だよ!オレだって守られっぱなしは嫌なんだ!」

今は非常事態。皆の命がかかった絶対的な窮地。それは私だって十分理解していた。でも、典坐からの真っ当な女の子扱いに赤面しつつ、己との葛藤でジタバタしながら抗議するヌルガイという構図をスルー出来るほど、私は出来た人間ではなくて。

「はー・・・控えめに言って最高。ずっと眺めてたい。尊いの極み。生きてるって素晴らしい」
、心の声が全部出てる」
「はは。ごめんごめん」

思わず零れた正直な感想に、付知の冷静な突っ込みが返ってくる。私は足元の虫を切り払いつつ苦笑しながら詫びた。
楽しいことを考える。推しと推しの尊いやり取りで活力を補給する。オタクとしては日常茶飯事なことを、私は今崖っぷちの状況だからこそ切実に欲しているのだ。

「いやー・・・自分を奮い立たせる為に、あえて声に出したっていうか、さ」
「ああ、そういうことね」

東の空が、様子を変えつつあった。
盤古が萎む夜間の内に丹田を同時破壊するという狙いは未達だ。闇夜で弱体化している今でさえこれほど手を焼いているのに、朝が来て巨大な花と化した朱槿が咲き誇ることを許してしまえば、一体どれほどの地獄が待ち受けていることか。私たちはこれまでだって常に追い詰められた状況ではあったけれど、今まさに決定的な一線を越えようとしていた。
弱音は極力吐きたくない。その代わりにオタクとして幸せな本音を零させてくれた典坐とヌルガイに感謝しなければ。そうして細く息を吐き出した私に応えるように、先生がこちらを向いた。

「虫や竈神だけならともかく、天仙の複製は恐らく別の組にも現れている筈だ。我々と違い二人ずつしかいない状況で、更に苦戦しているのだろう」
「シジャ・・・さっきの忍も、画眉丸と交戦してる筈なので。かなり厳しい状況なのは間違いなさそうです」

私たちは五属性が揃っている分敵の群れも寄せ易いけれど、五人いるからこその協力体制でお互いを守り合いながら戦えている。先生の言う通り他の組は二人ずつで圧倒的不利な状況にある上、シジャはとっくに画眉丸の元に辿り着いている筈だ。彼には結さんの元へ帰るという強い信念がある。相手がどんなに厄介でも負ける筈は無いと、今は信じることしか出来ないのが辛いところだけれど。
先ほどから法螺貝の合図がなかなか鳴らなくなってきているのも気にかかった。私たちですら一時全員離脱するほど混沌とした戦場だ。何が起きても不思議ではない。今はただ、目の前の敵を斬ることで希望を繋ぐことしか出来ない。

「皆を信じて攻撃を続ける以外に方法は無いな」
「はい、先生」

目の前に聳え立つ巨大な花弁が、不気味に震えた。迫りくる朝への凶兆か、それとも敵もまた追い詰められていることの現れか。時間が有限である以上前進する好機は逃せない。私は挑むことを決めた。

「次の合図が来たら・・・丹田までの一直線、一秒でも長くがら空きにします」
「わかった。君の後を追い近距離に陣取るよ。可能な限り連撃で破壊し続けられるよう努めよう。だが、無茶は禁物だぞ」

すべて言わずとも、私のしたいことを丁寧に読み取り掬い上げてくれる。先生の頼もしさでまたひとつ力を貰えたような心地で笑った、その直後。遠くから弱弱しくも鳴り始めた法螺貝の音を、私の耳が拾う。

「ヌルガイ!」
「おう!」

すぐさま飛んできた小さな少女を先生の隣に添えて、私は渾身の力で地を蹴った。時間が無い。ほんの僅かでも良い、この丹田が破壊されている状態を延ばすことで五カ所殲滅の可能性が上がるなら、そこに賭ける。

―――試一刀流・村時雨

先生に教え込まれた丁寧な技と、衛善さんから貰い受けた極上の刀が私をより高みへと押し上げてくれる。私が活路を開く。鋭く、素早く、深く抉れ。先生とヌルガイが一撃でも多く攻撃を放てるよう、道を作れ。

間隔を空けることなく技を繰り出し続けるその最中、物理的な重さに足を取られる。牡丹の一体が私の足首を掴み、ニタリと笑っていた。

「っくそ・・・!」

前を気にするあまり警戒網が疎かになった。忌々しい舌打ちと共に刀を振り被る。

さん振り返らないで!こっちは自分が!」
「ありがと!任せた!」

兄弟子の声を信じ、身体を捩るように前方へもう一歩踏み込んだタイミングで足枷が外れた。強い踏込みからの跳躍で屋根の上へと蹴上がり、私の後を追ってくる皆との距離感を氣で感じながら、腰を落とした構えを深める。

―――試一刀流・具足割

障壁が一掃され丹田へ続く視界が広く開けると同時に、背後から静かな一撃が飛び胚珠を切り刻む。次いで二撃、三撃。一秒も無駄にせず近距離からの攻撃を繰り出し続ける先生とヌルガイの気迫を感じ、私の執念にも火が付いた。

「付知、まだ行ける?!」
「当然・・・!」

私が手を伸ばすと同時に付知からも手が伸びて来た。繋がった手を通して渾身の氣を送り込み、小さな兄弟子の斬撃に威力を上乗せする。

―――試一刀流・秋霖

時間が無い。ここで決める。その一心で付知を前へ押し出し、歯を食い縛る。

「っ・・・落ちろおおっ!!」

―――試一刀流・鬼雨

一際鮮やかな一刀が爆発的な威力を伴い、道を空ける。私と付知の間を縫うような一撃が、巨大な丹田を穿ち抜く。
ぽきりと手折られたように、牡丹の花が茎からまっぷたつに割れるさまが、私たちの目に焼き付いて―――通った。その直感が全身を熱く駆け巡った。

「やったのか?!」
「わからないっすけど、明らかに何か違いますね・・・!」

茎から剥がれ落ち胚珠を破壊された大きな花が、まるで急速に水分を吸い上げられるかのように干乾びていく。祈るような思いでその衰退を見届けようという。その、刹那。

「・・・いや、まだだ」

先生の固い声、そこから遅れること数秒後。びくりと脈打つような反応を経て、再び地獄の花は返り咲く。しゅるしゅると音を立て、茎の折れた箇所から螺旋状に細胞を再生させていく。悪夢の様な光景がどこか神々しく感じられるのは、その姿が光を得たからであると。私たちは漸くその結論に辿り着いた。

「まさか・・・朝日で、再生が始まった・・・?」

付知の声は決して大きくはないのに、やけにはっきりと耳に残る。もうすっかり白み始めた東の空を見遣り、私は短い溜息を吐いた。

「・・・やるしかないか」

朝が来る。ボーダーラインはとうに超えてしまった。でも、ここで諦める訳にはいかない。朝日を浴びて威力が強まろうが何だろうが、何十回でも何百回でも、続けるしかない。それはきっと、確かめ合わずとも皆同じ思いの筈だ。

そうして過酷な現実を受け入れようと刀を構え直す、その時。
私は見た。力を取り戻さんと大きく天に向かい花弁を広げようとした牡丹が、地中から這い出た黒いものに巻き付かれる瞬間を。

「えっ・・・」

それは触手のようにうねり、蔦の如く絡み付いた。ミシミシと音を立てる程強い力で牡丹の花に組み付き、遂には茎から花そのものをへし折り再び地へ叩き付けるといった荒業で捻じ伏せる。

「何だ?黒い、蔦・・・?」
「再生を阻んでいるのか・・・?」

異様な光景だった。花そのものを地に縛り付けて尚、それは広がり続け牡丹の再起を許さない。その徹底した制圧劇が、戸惑いより大きな不安を伴い私の背筋を駆け上がった。

まさか。私は“彼”のこの姿を直接目にした訳じゃなく、本の上でしか知らない。でも、戻って来て以降氣の知覚に長けたこの感覚がそう叫んでいるのだ。

「―――弔兵衛」

理屈じゃない。
ただ、花の氣を内蔵する私だからこそ、花と混ざり合った彼だからこそ、氣を通してその意志を感じ取れてしまう。その声が、直接耳の奥で響く。

崩れる。
壊れる。

ただひたすらに、愛する弟を守る為の力。しかしこんなにも広大な蓬莱の地を這って広がり続けることが、命の危機と直結しないと楽観視出来る私ではなかった。

「嘘・・・嘘っ・・・!弔兵衛、そんな・・・!」
さん危ない・・・!」

ふらふらと頼りなく近寄った傍から、典坐が地を蹴り私を引き離す。私たちはひと固まりになったまま地上に降り立ち、その混沌とした光景を呆然と見守った。
丹田を囲っていたものは悉く崩れ、瓦礫の山に埋もれていく花が生気を失っていくと同時に、黒い蔦もまた苛烈な勢いを手放し衰えていく。彼自身の現状と重なるような嫌な予感が止まらない。



『お前の言葉を借りるなら、あいつも心の枷が外れたらしい。礼を言うぜ』



あんなにも優しい目で、弟を眺めていたのに。

「駄目、弔兵衛・・・!」


ふらつく足取りで尚近付こうとする私を、先生が強く引き止める。今私が何をしたところで無意味だということくらい、わかっていた。それでも、じっとしてはいられない。あれほど強くお互いを思い合っていた兄弟が、今引き裂かれようとしていることを察して、それを仕方の無い犠牲だと飲み込むことなんて。出来る筈が無い。

「弔兵衛・・・桐馬・・・!」

折角、再会出来たのに。お願いだから、桐馬を置いて行かないで。彼をひとりにしないで。
崩れゆく花と触手の折重なる場所へ、無意識に伸ばした手。先生は私の震える手を、静かに掴み固く握り締めた。

「落ち着こう。まずは皆と合流しなければ。事実として盤古は朽ちようとしている。亜左兄弟が今どんな状況にあるか、正しくは誰にもわからない」

冷静でありながら情を織り交ぜた柔らかな響きが、正道を説いてくれる。先生の言う通りだ。それはよくわかる。それでも感情の行き場を無くして狼狽える私を見据え、先生は苦し気に眉を寄せた。

「真相がどうであれ―――ここで立ち止まっては、彼の思いを無駄にしてしまう」
「っ・・・」

それは厳しい現実であり、同時に今の私に一番必要な言葉だった。弔兵衛の決断がどんな代償を伴うものか。正しく知る術は今のところ無いけれど、盤古の沈黙という目標を達成出来たのは紛れもなく彼のお陰だ。前へ進まなくてはいけない。その思いを、無駄になんか出来る筈が無い。

「行こう、
「・・・はい、先生」

必要なことを言ってくれるだけじゃなく、痛みを分け合い寄り添おうとしてくれるひとの手を借りて、私は水門への一歩を踏み出した。



* * *




蓬莱中の至るところで腐敗が進む道中、私は全力疾走しながら大声を張り上げる。

「厳鉄斎!!」

前を往く巨大な背中が足を止める気配は無い。典坐を真似ようと足裏に氣を集めたって、練習も無しに超加速が上手く行く筈も無く。

「待ってってば・・・!ねえ!!」

一か八か。金切声のような懇願に、ようやく男の足運びが緩まったことを実感して。女と子どもは決して邪見に扱わない優しさにじんと心臓の揺らぎを感じつつ、私は懸命に走る速度を上げた。

盤古を沈黙させた後の落ち合う場所として定めていた、地下水門へ続く本宮大扉。そこへ向かう道すがら出会したのは十禾さん一人で、作戦の相方の所在を問えばあっけらかんとした物言いで“先に水門行くってさ”と告げられた時の衝撃たるや。
まだ他の組と合流出来ていないこともあり、典坐とヌルガイには十禾さんとの同行及び皆の捜索を願い、私と先生と付知は厳鉄斎を追うことを即決した。

想定より早く捕捉出来た背中までの距離は、身体が大きく目立つだけで実際にはそれ程近くはなかったというのが現実だけれど。皆との合流予定地を少し通り過ぎたあたりで、漸く捕まえることが叶う。
本宮前には誰もいなかったにも関わらず、この男は迷うことなく先へ進んだ。本当に、ひとりで水門へ向かうつもりだったのだ。

「よぉ伊達女。生きてたな」
「待ってよ、ひとりで行くなんて、そんなの・・・!」

身体ごと追い縋ろうと背中に飛び付いても、びくともしない。ずりずりと私の足型だけが間抜けな跡を残す中、その巨体が振り返るなり私の首根っこを軽々と掴み上げた。かと思えば、後から追ってきた二人の内、先生の方へと宙ぶらりんで押し返す。

「邪魔だ邪魔だ。ほれ、返すぜ先生。次は逃げらんねぇように首に鈴でも付けとくんだな」
「ふざけてる場合じゃないよ!お願いだから止まって!」

抑えきれない憤りがマグマの如く飛び散って、漸くこの男は足を止めてくれた。雑な掴み方に反してそっと地へと降ろされ、居心地悪そうに頭を掻く巨体と向かい合う。
親分肌の厳鉄斎を私は仲間としてすっかり好いていたし、生粋の良い漢であると認めていた。犬猫のような扱いも、ほんの軽口も、今で無ければ喜んで許容出来た筈だった。ただ、今だけは。ひとりで先行するという彼の決断を、受け入れられない。

「水門にいるのは蓮だよ。これまでの天仙達とは違うし、殊現だっているかもしれない・・・!いくら厳鉄斎が強くたってひとりじゃどうにもならないよ・・・!」
「っかー、男の浪漫ってやつをわかってねぇなぁ」
「そんなのっ・・・命を粗末にして良い理由にはならないよ・・・!」

プツンと音を立てて、私の中の何かが決壊した。
蓮と殊現。この島で最大の脅威が待ち受けるであろう水門へ一人で先に向かうなど、命を捨てることと同義だ。浪漫なんて言葉で遊べるほど、陽気にはなれない。
喉が塞がれたような息苦しさと、鼻の奥が痛いほどにツンとする感覚が同時にやってきたかと思えば。視界がもの凄い勢いで潤み、熱い涙がぼたぼたと溢れ出す。自分ではどうにも出来ないほどの荒波だった。目の前の男は狼狽えはしないまでも、困り果てたように眉を寄せ天を仰ぐ。

「おいおい、勘弁しろよ、女を不安で泣かすなんざ俺の流儀に反するじゃねえか。恨んでくれるなよ、先生。これは不可抗力ってやつだからな」
「・・・それは、君からへの返答次第だ」

先生もまた、厳鉄斎を一人で行かせることの悪手加減を理解してくれている。拭っても拭っても栓が壊れたように涙を流し続ける私の肩を、とんでもなく大きな隻腕が遠慮がちに掴んだ。
先生とも兄弟子たちとも違う、無骨な手。悪人を自称しながら女と子どもは守るべきものという信条の、優しい手。それに揺さぶられると、私は身体ごと一歩二歩とふらつく羽目になったけれど。怪力で頼もしいと、今だけは笑うことも出来ない。

「伊達女。泣くんじゃねぇよ」
「だって・・・弔兵衛も桐馬もどうなったかわからなくて・・・厳鉄斎まで、こんなの、嫌だよ・・・」
「・・・そういうことかよ」

悲しい。怖い。嫌だ。安否不明の兄弟の名を口にした分、一層その思いは強まった。兄弟子を二人喪い、もうこれ以上はひとりだって欠けて欲しくないのに。欠けさせては、いけないのに。
嗚咽が込み上げそうになる程の激情でしゃくり上げる私を見下ろし、厳鉄斎は盛大な溜息をついたかと思えば。コツン、と。極力そっと、鉤爪の弧を私の頭に乗せた。独特過ぎる金属の重みに目を丸くすると、その反動で幾分か涙の勢いが弱まる。安堵と困り顔の中間を取り、厳鉄斎は渋い笑みを浮かべた。

「あの兄弟はなかなかしぶてぇぞ。しかも弟の方は甘ちゃんのツラしてやがったが、この俺が直々に叩き直してやった逸材だ。そう簡単にくたばるかよ。大方死んだように見せかけて、自分達だけでとんずらこく算段でもつけてんだろ」

兄弟と共闘経験のある厳鉄斎ならではの励ましは、僅かに効いた。先ほど感じた、弔兵衛の命ごと氣を燃やすような共感覚が頭から消えない。でもそれすら全て仕込みとして、二人で悪い笑みを浮かべ立ち去っていく姿も想像出来なくもない。不安も心配も勿論あるけれど、私はひとつ呼吸の幅を取り戻す。

「それに俺だってなぁ、何も死に急ぎに行こうって訳じゃねぇんだからよ。頼むぜ、これ以上お前さんを泣かしちまうと、俺の男としての面子に関わるからよ」

前触れもなく、大きな手が私を後ろへと押した。何の構えも無くよろけた先、すぐさま背を支えてくれるのは背後にいた先生で。驚きに目を見開く私を見遣り、厳鉄斎は髭を扱きながら歯を見せて笑った。

「その粋なツラに湿っぽいのは似合わねぇよ。旦那だって自分の女は笑ってる方が良いに決まってんだろ。な、先生」

自然な流れで、殆ど抱き留めるような形で受け止めてくれたひとを仰ぎ見る。ほんの至近距離、私の泣き腫らした顔を認めた先生の表情は、何とも言えず切ない色をしていて。私は反射的にぐいと瞼を擦った。二度、三度乱雑に繰り返すと、こらこらと優しく諌める囁きが降って来て。張り詰めた心がほどけ、涙の勢いがぐんと弱まる。
私がこうなると見越して突いたのだろうか。したり顔の隻腕を見上げ、形だけの悔しい表情を象った。

「・・・そこで先生を出すのはずるい」
「ガハハ、狡くて結構!女の涙を止められんなら安い安い!」

色々と破天荒なのに、言うことはいちいち格好良いものだから困ってしまう。すんと鼻を大きく啜ると、先生から大きな気遣いと共に優しく肩を擦られ、私はいよいよ降参の苦笑を浮かべることとなった。
行かせたくはないけれど、止められない。死に急ぐ訳じゃないと聞きつつも、心よく送り出すことは難しい。そうして俯いた、次の瞬間。黙って事態を見守っていたもうひとりの兄弟子が、口を開いた。

「・・・僕も行きましょうか」

付知は普段通り凪いだ目と淡々とした口調で言葉を紡ぐ。

「貴方は直情型の向こう見ずだけど、意義のある戦いとそうでない戦いの区別はつく筈」
「んだよ。褒めるか貶すかどっちかにしやがれ」
「足止めかそれに準ずる何か、討伐とは別の目的があるんでしょう。手伝いなら僕も出来ますよ」

これはただの分析じゃない。ここまでの数日命運を共にしてきた付知だからこその答えだと、信じられた。討伐ではなく足止め、更には相棒の付知も付き添ってくれるのなら安心感も倍増する。これ以上無いほど良い提案だと胸を熱くした私を尻目に、しかしこの男は首を縦には振らなかった。

「お前は回復の生命線だ。他の奴らがどんな怪我して集まってくるかわかんねぇのに、俺の方にのこのこ付いてきてどうすんだ」

力強さで何もかも押し通すような気性の持ち主の筈が、戦いの本質を見極める目は冷静そのもので。だからこそ、歯がゆい思いが頭の中を蝕んでいく。
付知は回復の要。確かにそれはその通りだけれど、今は相方として連れて行くことを即決して欲しかったのが本音で。

「・・・わかりました」

付知も考えた上で了承してしまう。どちらの判断も正しくて、もどかしくて。私は強く下唇を噛んだ。

「剣龍の二つ名を舐めんなよ。俺にしかぶち上げらんねぇ特大の花火を見せてやっから、楽しみに追いついて来やがれ」
「・・・」
、時間が無い。行かせよう」
「・・・

納得なんてしたくない。でも、付知が引き下がるのなら私はこれ以上我を通すべきじゃない。なんだかんだと女の私に不安な顔をさせることを気にする、豪快なのに優しい大男。
死なないで。言葉にしたらまた泣いてしまいそうな懇願の代わりに、私はその逞しい腕を強く掴んだ。

「・・・無茶、しないでよ」
「おうよ」
「ひとまず僕が追い付くまでは踏ん張ってください。命さえ繋いでくれれば何とでもしますから」
「っは、首切り役の癖に言ってくれるじゃねぇか。手柄が残ってなくても恨むなよ」

私の手が離れると同時に、厳鉄斎はなかなかの勢いで駆け出して。地下水門へ続く階段を降り、すぐにその姿は見えなくなった。

「シオさん、も、戻ろう。皆を待たないと。彼の言う通り怪我人もいるかもしれない」

足早に引き返し始めた付知の表情はわからない。ただ、その氣が大きな決意と共に強く滾っていることは読み取れる。心配してない筈が無い。この理性的な兄弟子がイレギュラーに自ら同行を申し出た、それが何よりの答えだ。

「・・・大丈夫かい」

不安は、皆同じだ。この状況下で自分が如何に恵まれているかを痛感しながら、私は気遣ってくれるひとを見上げた。

「・・・ありがとうございます。戻りましょう」

厳鉄斎の決断も、亜左兄弟の立ち回りも、今は信じて最善を尽くすことしか出来ない。最後に一度だけ彼の消えた階段を振り返り、私達は付知の後を追う。

地下深くから、轟くような不気味な音―――蓮の船が遂に出航する音が響き始める。本土へ向けて、絶望の産声が上がろうとしていた。