心音が物凄い振れ幅で乱れている。呆然と目を見開くばかりの私を見下ろした後、典坐は素早く警戒の姿勢を取った。
「何っすか今の炎は・・・忍術?画眉丸さんじゃないっすよね?まだ油断出来ない感じっすか・・・?」
その疑問は尤もだ。悪意の塊とも呼べるシジャの笑みを想起し身震いしながらも、彼が画眉丸を追ってこの場を通過中だったことは察せられる。通りすがりの愉快犯だ。運が悪かったとしか言いようがないし、更に言うなら画眉丸と佐切が心配ではあるものの、今はふたりを信じることしか出来ない。
「いや・・・別の忍から嫌がらせされたんだと思う。本命は私じゃないから、今頃はもう遠ざかってる筈・・・」
「とりあえず去ったならひと安心っすけど、嫌がらせって。迷惑な話っすね」
いつも通りの典坐だ。年下の兄弟子で、同居人で、明るく溌剌とした雰囲気でいつだって笑顔をくれる。だけど今体感した瞬間移動の如き力は、どう考えても私の知る兄弟子とは結びつかなくて。戸惑いのあまり口の開閉を繰り返すばかりの私は、不意に猛スピードでこちらへ駆け寄ってくる気配を察知した。
「っ・・・!」
先生がその声に強烈な焦燥を滲ませながら、私たちの元へ駆けつける。典坐からそっと地面に降ろされると同時に、私の両肩は強く先生の手に掴まれることとなった。
「無事か?!火傷は?!」
「あ・・・大丈夫です、典坐が助けてくれて・・・」
驚きのあまりぼんやりとしていた思考が、徐々に戻ってくる。先生に心配されることは嬉しい筈なのに、胸の中の違和感が警鐘を鳴らす。今、先生がこの場にいることがどれ程の痛手かを、私はずっと遅れて理解する。
「・・・え・・・先生が現場離れたら合図が・・・!」
どういう理屈かはさておき、ここは牡丹の花から大幅に離れた地点だ。斬り手である先生が丹田から遠ざかってしまっては、メイと杠が合図を出せない。計画の連携が崩れてしまう、と。訳がわからないなりに慌てる私の言葉は、正面から強く抱き竦められることで中途半端に掻き消えた。
「君を・・・今度こそ失ってしまうかと・・・」
先生の声が震えている。安堵と恐怖が織り交ざった複雑な色で、か細く私の鼓膜を揺らす。今更ながらに自分がとんでもない窮地にあったことを悟り、罪悪感が塒をまいた。私の身体から緊張が抜けた分だけ、先生の腕の力が強くなる。このひとにどれほど心配をかけてしまったのか。流れ込んでくる思いが胸に迫る。
「先生こそ手は大丈夫っすか?」
「え・・・?」
典坐の言葉に瞠目し、私は一拍遅れで強引に先生の抱擁から逃れた。慌てて確認した先生の右手の甲が痛々しく熱を持つその光景に、頭を殴られたような衝撃を受ける。
「なん、で」
「さんのこと、誰より早く身を挺して庇おうとしたのは先生っすよ」
目前に迫る炎への回避は叶わず、出来る限り防御するしかないと固く目を瞑った、あの時。私の名を叫んだこのひとが、身体ごと庇おうと手を伸ばしてくれていたという事実に、漸く私は辿り着いた。先生はやんわりと患部を後ろ手に隠し、苦笑を浮かべて首を横に振る。
「ほんの軽傷だ。そもそも私の出る幕は無かったよ。典坐が私を炎から押し退けて、次の瞬間にはを抱えてここまで移動していたんだ」
「何言ってるんすか、先生の声が無かったら自分も出遅れてました。けど、結果的に間に合って良かったっす」
身代わりに焼かれることも厭わず、庇おうとしてくれた。この距離を懸命に走り駆け付けてくれたこのひとに、私は計画の進行を案じる言葉を先に叩き付けた。何より先に感謝を伝えなくてはいけない先生に、私は、何てことを。
「・・・せんせ、あの、」
「ーっ!!」
先生から少しの遅れを取りながらも、全力疾走の勢いを保ったまま滑り込んで来たヌルガイを、私は座り込んだまま抱き留めることとなった。息を乱し、瞼を濡らし、力の限り両手両足で抱き着いてくる体温が熱い。
「よ、良かった・・・!何だよ、オレを助けてが死んじゃったら、オレどうしたら良いかわかんないよっ・・・!」
「・・・死んだりしないよ、泣かないで。ヌルガイも無事で良かった」
先生には本当に申し訳ないことをしたし、典坐の手も煩わせた。でも、この子を助けられたことだけは間違いじゃなかったと断言出来る。愛おしい温もりを抱き締め返しながら、私は今無事でいられる幸運を強く噛み締めた。
「・・・改めて礼を言うよ、典坐。本当に、お前のお陰で助かった」
「ありがとう、ありがとう、を助けてくれてありがとう典坐・・・!」
先生とヌルガイが述べた言葉は、当然私も伝えなければならないことで。
「・・・ありがとう、典坐」
「いやー、こんなに感謝されっと流石に照れるっすね」
茶化す余地も無い真剣な感謝に、典坐は頭を掻いた照れ笑いで応えてくれる。改めて安堵が全身を巡るような、心が一旦ほどけるような、そんな隙間。跳躍を繰り返す独特な走法で、残された兄弟子が合流した。
「全員無事だね」
「あっ・・・ごめん付知、私のせいで皆離脱することになって・・・」
「まぁどの組もずっと丹田に張り付いていられる保証は無いから。さっきから合図も等間隔じゃなかったでしょ。問題は付き物だし、当然命が優先。あのままじゃの安否が気になってシオさんも斬るのに集中出来なかっただろうし」
やはりそういうことかと、胃が縮こまる思いがした。ただそれは先生も同じだったようで、渋い表情で頭を下げる。
「・・・皆、すまない」
「わ、私も・・・ごめんなさい」
「皆無事だったから良いじゃないっすか。ここからまた挽回しましょう、ね!」
五つの丹田を同時撃破の筈が、一か所でも離脱してしまっては作戦に支障をきたす。ただ、斬り手の先生をここまで引き離したのは私の責任でもある訳で。反省の念で俯く私たちを、熱く明るい声が上向かせた。前向きに鼓舞してくれる典坐の笑顔が、いつも以上に眩しい。
何にせよ全員無事を確認出来たのだから、私たちは速やかに持ち場へ戻る必要がある。典坐の言う通り、遅れた分を挽回しなくてはならない。
「とりあえず、典くんの身に何が起きたかは戻りながら聞くってことで」
「そうだよ!何がどうなってあんなことになったんだ?オレにもわかるように教えてくれよ典坐!」
「えー・・・自分も初めてのことなんで、上手く説明できるかどうか・・・」
互いの安否を気遣いながら、会話が出来る程度の駆け足で前へと進む。少しだけ先を往く三人の背を追う最中、私は隣を走る先生を恐る恐る仰ぎ見た。何も言わずともすぐ気付き、優しい表情で先を促してくれるその器の大きさに、泣きたくなるような思いがした。
「先生・・・心配かけて、ごめんなさい。手の火傷も、ごめんなさい。あんなに急いで駆け付けてくれたのに・・・酷いこと言って、ごめんなさい」
「私がそうしたいと思ったことだ。が謝る必要は無いんだよ」
先生の優しさに流されそうになりながら、私は懸命に首を横に振る。今伝えなくてはいけないと思った。こんなに心配をかけて、火傷まで負わせて、言い訳にしかならないかもしれないけれど。
私はもう、これまでの捨て身の私じゃないのだと。大事なことを、決して忘れた訳ではないのだと。
「あの、私、先生との約束を忘れた訳じゃ」
「・・・わかっているよ」
そっと私の弁解を遮る、その声は堪らなく優しい。言葉が続かなくても、決して拒絶された訳じゃないとその笑顔が教えてくれる。
「が無事で良かった」
柔らかな微笑みが、心からの慈しみを伝えてくれる。先生の思い遣りが温かくて、同時にちくりと胸を刺す。
誰かを助けられても、心配をかけている時点でまだまだ未熟者だ。私が自戒の意味で浮かべた困り顔すら、先生は優しく受け止めてくれた。
* * *
「そうっすね・・・自分は、付知さんや仙汰さんみたく、氣を熟知した難しい技には向いてないっす」
未だ所々に燃えた名残のある轍に沿って、私たちは巨大な牡丹の聳える持ち場へと駆け戻る。自分なりの言葉をかき集めながら一生懸命説明してくれる典坐の声は、とても真摯だった。
「けど、自分の強みに特化集中させることくらいなら出来るんじゃねぇかって。今ならほら、五人で強化しまくってるでしょ。一か八か、全部一ヶ所に集めてみたっつーか」
「つまり、典くんは足に氣を集中させたってことだね」
付知のまとめは淡々としたものだった。足に氣を集中することで脚力を高める。理屈としてはわからなくもない。でも、納得には少し遠い。私は言い淀みつつも声を上げた。
「・・・その結果が、異次元級の移動速度?」
「いやー、それは言い過ぎっすよ」
「この地面の抉れ方見なよ。異次元以外の何なのって話だよ」
氣を局所的に集中させることの利点は私も知っている。それこそ遡る分道場での威鈴との試合でも、足と刀の二極特化で壁からの蹴り返しが叶ったようなものだ。
でも、氣を凝縮したからと言ってこれ程の爆発力を容易く生み出せる訳ではないことも、一度経験したからこそわかる。典坐の中に眠る氣との親和性、まだ発展途上だろうその強さがどれ程に規格外のものか。驚嘆としか言えない。
「足全体というよりも、踏み込む瞬間のみ氣を足裏へ一点集中させ、脚力の底上げ及び推進力として、爆発に近い加速度を生み出す、か・・・」
「流石先生!完璧な解説っす!」
考えこむような先生の呟きを採用し、この兄弟子は気持ちの良い笑顔を輝かせているけれど。先生の推理も、本人が認めた通り的を得たものに違いないのだろうけれど。普通に考えればあり得ない程の威力が、今も地面に証拠として刻まれている訳で。感嘆の溜息は知らず知らずのうちに緩い笑みへと変わっていく。
ああ、やはり。私の太陽は、こんなにも大きな可能性を秘めていたのだと。典坐が生きたからこそ拓けた未来は、これほどまでに想定外の景色を見せてくれるのだと。
「身体の一か所に氣を集中させるってことは他ががら空きになるってことなんだけど。適正な配分とか、もしもの時の分散先とかは・・・」
「あー・・・」
「考慮して無いか。典くんらしいよ。だからこそのあの加速度なんだろうし。それでもちょっと凄すぎる話だけど」
「すごいよ典坐、何が起きてるか全然わかんねーくらい速かった!この島で氣を覚えたのに大活躍だな!良いなぁ!オレももっと頑張らねーと・・・!」
ごもっとも過ぎる付知の分析評価と、ヌルガイの称賛一色な声。対照的なそれを受け止めた典坐が醸し出した空気は、何とも言えず気まずそうなそれで。どうしたのかと私が目を丸くしたその時、彼はこちらを振り返った。
「・・・あー、先生。もう正直に話して良いっすか」
正確には、私の隣を走る先生に困ったような同意を求めた。
一秒にも届かない刹那、先生が私を気にする素振りを見せる。それも私が疑問を覚えるより先に、苦い表情で典坐に頷くことで話は前へと進んでしまう。
「すんません。本当は自分、本土にいた頃から氣のことは教わってたんすよ」
「えぇ?!そうなのか?!」
ヌルガイの驚きの声が若干遠く聞こえる程に。それは、思いがけないなんて域を遥かに越えた衝撃だった。
典坐が本土にいた頃から氣を学んでいた。それは聞くまでもなく、私たちの共通の師からの教えの筈だ。同じ家に暮らしていながら、私はこれまでそのことに気付きもしなかった。
「・・・いつのまに」
「さんの日課、途中から半分貰ったでしょ。あの時間っす」
私の日課。誰にも明かせない先読みの開示を部分的に許され、先生と共に氣の理解を深める為の対話の時間。確かにそれは典坐の代行就任を経て隔夜に減ったけれど、まさかそこで氣を学んでいただなんて考えが及ぶ筈もなく、意表を突かれて目が回りそうになる。
「浅ェ門としていつか必要になるかもしれないって理由の秘密特訓だったんで、まさかこんな局面の為とは考えもしなかったっすけどね。まぁ、自分にはさっぱり過ぎて、正直上陸後に先生たちと合流するまで殆ど何も掴めず仕舞いっしたけど」
狼狽えを隠せもしない私を一度振り返った末、典坐が小さく肩を揺らして笑いながら前を向いた。
「ただ、牡丹と戦った時にさんの回復に役立てたのは、間違いなくその時からの積み重ねが効いたと思ってます。この島で初めて触れた知識だったらとてもじゃないっすけど・・・はは。自分、馬鹿なんで」
忘れもしない。鬼尸解前の牡丹から喰らった強烈な一撃を、背中に感じた典坐の手から相生で助けて貰ったこと。見張り番の一夜漬けで猛特訓を受けたと笑っていた背景に、こんなにも緻密に組み上げられた土台が隠されていただなんて。典坐にも事情を悟らせず氣の知識を与えておく、そんなこと到底私には考えつく筈も無かった。
隣を走る先生の顔が見られない。細やかに張り巡らされた配慮は、確実に私より何手も先を見通していたと。私は今頃になって漸く、気付けたのだ。
「前から備えてた筈の自分を、仙汰さんがあっという間に抜き去ってぐんぐん伸びてく姿は、流石に悔しくてへこんだ時もありましたけど。遅咲きでも今こうして自分の氣と足でさんを助けられたんで!今、すげー嬉しいっす!先生にはいくら感謝してもし足りないっすよ」
蓬莱突入の前、典坐から仙汰に向けられた珍しい程の羨望には、きちんと理由があった。今紐解かれるそれらの悉くが、駆け足とは違う要因として私の心音を高めていく。
典坐は爽快な笑顔で感謝を述べるけれど。確かに下積みがあったからこそ、今このタイミングでの典坐の能力開花に繋がったのだろうけれど―――先生はそれを、知らなかった筈なのに。
「シオさんはを守る為に、先のことを極力話さない制約をかけてたんじゃなかった?」
「・・・そうだ」
「この島のこともそうだけど、典くんが死ぬ運命にあることも知らない状態で備えてたってこと?」
人智を越えた先読みの力にはどんな危険性が潜むか予測出来ない。故に安全策を取ると言って、このひとは私から必要最小限の情報しか受け付けなかった。
本土にいた頃、それこそ桐馬の入門まではこの島の存在すら知らなかった筈の先生が、何故典坐に知識だけでも蓄えさせようと思い至ったのか。付知の切り込みをきっかけに、おずおずと顔を上げる。先生は逡巡の末、何かを諦めたかのように肩を下げて浅い溜息を吐いた。
「山田家に迫る悪しき未来。から最初に聞かされた言葉は抽象的ではあったが・・・」
駆け足のまま私を見遣る、その表情は優しいと同時に切なさを薫らせたもので。
「が典坐を見る目に・・・時折、泣き出しそうな程の哀惜が浮かぶことがあったからね」
心臓を鷲掴みにされたような思いがした。
足が止まりそうになるのを気力で堪え、それでも動揺の波が強過ぎて、どうしたって足運びが鈍くなる。連なるように先生の並走も速度が落ちて、前を往く三人も合わせてくれる。こんなことで時間を遅らせるべきじゃないとわかってる。でも、心が乱れて酸素を薄く感じてしまう。
「が必死に励む理由は、典坐に迫る窮地なのではないかと。私にそう思わせるだけの判断材料は揃っていたんだ―――外れて欲しい勘ではあったが」
一緒に暮らしたあの家で典坐の屈託のない笑顔を見る度、死なせるものかと何度も決意を新たにした日常の中。秘めたつもりになっていた激情を、このひとは密かに見抜いてくれていたのだと。何も知らずにいた自分自身を、私は強く恥じる。
「確証が無くとも漠然と予感を強めた折、典坐が代行免許を得た。鍛錬と称して時間を取るには絶好の頃合いだった。が私に説いてくれた氣の概念を典坐にも先んじて学ばせることで、窮地の際何かひとつでも助けになれば良いと願った」
典坐を死なせたくない。私が先生に弟子入りを懇願した原点。私という異分子をこの世界に根付かせた願いの核。先生は弟子として私を育てるだけじゃなく、人知れず典坐にも知識を蓄えることで私の願いそのものを成就させようとしてくれていたのだと。
辿り着いた真相は想像を遥かに上回る大きさで、容易くは飲み下せない。そうして情けなく戸惑うばかりの私に向かって、先生は気遣うような表情を向けてくれる。
「ただ・・・先見の明は他言無用。そう強いてに負荷をかけておきながら、私は水面下で典坐にも氣を学ばせた。君には話せなかった。必要以上の情報を口にさせたくなかったこともあるが、私自身―――ただの憶測での心の琴線に触れることに、怖気づいていたんだ」
情報統制は、巡り廻って私に災いを齎さない為。優しいこのひとがどれだけ心を砕いてあらゆる事象に備えようとしてくれたのか。それはもう十分過ぎる程伝わっているのに、先生は揺れ惑う私を今尚支えようとする。
「勝手なことをしたとわかっているよ。すまなかった、」
「・・・どうして、先生が謝るんですか」
私の声はみっともなく震えていた。格好つかなくても、無様でも、これ以上先生に謝らせてはいけないと思った。先生の優しさに押し流されて、大事なことも言わずに許される私では、もういられない。いたくない。
「先生が典坐を強くしてくれたお陰で私・・・さっき、命を救われたばかりです」
「・・・」
「ありがとうございます。先生・・・本当に、本当に・・・」
何も知らないところから答えを導き出すには、幾晩の思考が必要だっただろう。ほぼ手探りの状態から道を探し出すには、一体どれほどの思案を重ねたことだろう。先生の幾重にも連なる苦心の末に今が繋がっている。典坐と氣の親和性も、その開花にかかる時間も、全部が先生のお陰で形を成した。私もこうして、ヌルガイを庇った末の無茶を救って貰ったばかりだ。
もう随分と鈍い足取りで思いを吐露する私の頭に、一度だけぽんと優しい手が乗った。盲目でも関係無く目と目が合うような感覚。そっと微笑まれると、それだけで視界が一段階透明度を増すような特別さ。
「転ばぬ先の杖。そのつもりで始めたことだったが・・・結果として花開いたなら、何よりだよ」
先生の優しさの全部が、惜しみなく開かれていることの幸せ。私の手を引いてくれるだけじゃなく、私の歩く道そのものすら密かに整えてくれていただなんて。杖なんて言い方じゃ到底足りないのに、独特な言い回しが先生らしくて思わず頬が緩んでしまう。
私から動揺と戸惑いの空気が引いたことを察したのだろう、先生のほっとしたような笑顔は穏やかで温かかった。
「センセイはの様子だけで典坐が危ないって思って、いつかもわかんねー時の為に、ちょっとでも強くさせようとしたってこと?すげー・・・」
「が色々わかりやすいのは今更だけど。それにしてもシオさんの先を見通す力が凄過ぎるね」
すっかり目が丸くなっているヌルガイと、感心に首を傾げるばかりの付知の反応から。何故か私の脳裏に過ぎったのは、私を創った神様の言葉だった。
『どちらかと言えば、君から得た断片的な情報を頼りに先を見通した彼の方が・・・』
「・・・そっか」
「?」
今ならわかる。先見の明という呼び名を、私の予備知識や自身の未来予知には紐付け難いと言い淀んだ桂花の意図が。
「“先見の明”は、私じゃなくて先生の力だったんだなぁって」
目の前にある最小限の事象を頼りに、先の出来事を見通し、正しく備える。どんなに先行きが暗く不安なものでも、明かりを見出だし結びつける力。最初から、私じゃなく先生に備わった特別さだと思えば、色々なことが腑に落ちる気さえした。
「先生は私の叶えたい未来を、最低限の情報から正しく読み取ってくれました。私にもわからないところで、沢山色んなことを考えて道を整えてくれました。明るい方へ、導いてくれました」
先生が先を見通して蒔いた種が、今こうして芽吹いた道の上に私は立っている。もうとっくに、一生かけても返し切れない恩を感じているというのに。これ以上は、一体どう表現すれば良いのか見当がつかない。大きな尊敬と感謝を込めて、私は隣を並走する師を仰ぎ見た。
「全部先生のお陰です。ありがとうございます」
「・・・礼には及ばないよ。それに、私の力という訳ではないさ」
普段通りの穏やかな微笑みのまま、先生が首を緩く横に振る。
「君のひたむきな姿が、私に様々なことを教えてくれた。未来を変えたいというの強い思いが、私を動かしたんだ。“先見の明”はやはりの力だと、私はそう思うよ」
反論の声が喉元で詰まる。だってこの流れは、何を言っても先生が私の功績を残そうとするだろうことがわかるから。私を認めてくれるのは嬉しいけど、今はそういうことじゃないのに。先生はどこまでも、私には綺麗過ぎるような言葉を贈ることをやめない。誇らしさともどかしさで両手足の動きが揃いそうになってしまう、その時だった。
「自分、思ったんすけど。その力って、どっちかじゃなくて二人だから意味があったんじゃないっすか?」
何も難しくない、決まり切ったことのように。前を駆ける明るい声がこちらを振り向き、溌剌とした笑顔をくれる。
「さんも先生も、何かひとつでも諦めてたら今の景色も全然違ってた。二人が揃ってたから真価を発揮した。今に辿り着く為には二人とも必要で、先生とさんは同じくらいすげぇ可能性の塊。自分はそう信じてるっす」
天性の才能としか呼べない。典坐の声はひたすらに前向きで善性に満ちたもので、真っ直ぐに胸の中に飛び込んでくる。白い歯を見せて親指を立てる良い笑顔と目が合ってしまえば、それ以上の否定や遠慮の言葉なんて意味を無くしてしまう。
前向かないと転ぶよ、という強がりすら途中で溶けて、私はもごもごと言い淀んだ末に小さく口端を上げながら溜息を吐き出した。相手は燦然と輝く太陽だ。どうしたって敵わない。
先生と私がふたり揃ってこそ、だなんて。どんなことをしてでも救いたいと願った原点にそう断言されて、何とも思わない筈が無い。不意に横を向けば、隣で足並みを合わせる先生が和やかな表情で受け止めてくれるものだから。私は思わず、場違いと理解しつつも気の抜けた笑みを零してしまう。
「先生と同列とか。買い被りすぎって、前の私なら突っぱねるところですけど」
「ああ。今の君は?」
「・・・めちゃくちゃ嬉しい、です」
「うん、よろしい」
素直な感想を述べると、ぽんという瞬間のひと撫でじゃなく、わしゃわしゃと大きな手が私の短髪を撫でるものだから。不可抗力のように微かな声を上げて私は笑った。
本当に、こんな緊迫した時だというのに。私の大好きなひとも、大好きな仲間も、皆して私の心のツボを心得過ぎていて、八方塞りで参ってしまう。
「・・・んん?」
「ヌルガイさん?」
前を進む少女が胸に手を当て小首を傾げたのは、丁度そんな折のこと。
「なんかオレ、センセイとが笑ってるのを見てると、すげー明るい気持ちなのに心臓がちょっと痛いくらいに熱い。何だろ」
一瞬、何を言われたのか理解するのに遅れを取った。
明るい気持ちなのに心臓が痛いほど熱い。それは私もオタクとして身に覚えのある感情ではあるけれど、いやいやまさか。ぽかんと間抜けにも目を丸くする私は、その意図を確認するより早く次の兄弟子の指摘で大いに情緒を乱されることになる。
「君は典くんと似た種類の人間だから、多分それは心の昂ぶり。的に言うと、推しに触れた時の感情の洪水」
「ちょっ・・・!付知、嘘教えないでよ、それ逆だから!ヌルガイが私の推しだから・・・!」
「そうかな。双方向に感情の矢印が向くって、可能性として全然あり得る話だと思うけど。好きも嫌いも、それこそ推しだって一緒じゃないかな」
純粋な女の子を相手に淡々と嘘を捻じ込まないで欲しい。でも、付知の言う双方向の矢印という概念を否定できないことも本当で。言い負かされて怯んだ隙をつき、今度は別の方向からも追撃が降り注ぐ。
「ヌルガイさん、自分たちは推し仲間っすよ。先生とさんが幸せそうだと、嬉しくて心が燃える感じするでしょ。自分も同じくっす」
「そっかぁ!これが推しって気持ちで、オレと典坐は推し仲間かぁ!へへ、なんか嬉しいなぁ」
「典坐まで何言ってんの本当に・・・!ていうか推しって使い方が微妙に違うし、あああもう・・・!」
「潔く諦めなよ」
「だって・・・!」
ヌルガイの純真さと典坐の眩しさがかけ合わさると無敵過ぎて手が出ない。ぐぬぬと歯を食い縛るばかりの私の耳に、微かな笑い声が飛び込んできた。
「・・・っはは」
それは、堪え切れなかった綻び。口許に拳を当てつつも、肩を揺らして笑う先生の声で。
「わかってはいたが、君がいると空気が自然と明るくなる。は凄いな」
「・・・一番凄いひとが何言ってるんですか、もう」
「事実だよ。陽気さを得て肩の力が抜けて、皆の氣が熱く巡っているのがわかる―――遅れを取り戻すには、十分な程にね」
その言葉が、再び巨大な牡丹とその雑兵達の間合いに踏み込んだことを教えてくれる。
肩の力が抜けて氣の循環が活性化する、それは確かにその通り。各々抜刀することで研ぎ澄まされる闘志も、焦りや緊張感で張り詰め過ぎず丁度良い塩梅ということも否定しない。私は肩を竦めて苦笑するなり先生と顔を見合わせた。
「推しの定義はちょっとモヤっとしますけど・・・今はそういうことにしておきます」
「よし。仕切り直しだな」
「オレ、今すっげー元気だから頑張れそう!」
「元気は良いけどあまり離れ過ぎないようにね。あと断面はなるべく綺麗にお願い」
「っはは、ぶれないっすね!自分も精一杯、活躍で挽回するっすよ!」
今一度、私たちは混沌の戦場へと飛び込んだ。