砥水が揺れる、柔く清らかな音。刀身の状態を見定める、丁寧な間。衛善さんが刀を研ぐ時間は、芸術に疎い私でも息を呑むような美しさだけで完璧に満たされている。

私も衛善さんも、一言も喋らない。ただ、一振りの刀が丹念に仕上げられていく微かな音だけが揺蕩う空間。雑念が自然と薄らいで、空気と共に自分自身が研ぎ澄まされていくような時間。私はほんの一時、これまでとこれからの何もかもを何処かに預け、無になれる。自分が成すべきことは理解してる。それでも私は、ふとした隙間に生まれるこの時間が好きだった。

きっかけは或る日先生と典坐が揃って出先からの帰りが遅く、ひとりで留守番ならば二人が戻るまで此処で待てば良いと、衛善さん直々に提案をして貰えたことから始まる。
居候の身なのだから、二人の帰りが遅い日は留守くらい一人で守れる。子どもじゃないんですよと笑っても、衛善さんは譲らなかった。陽が落ちてからの女の独り歩きは危険、悪しき輩は女一人主不在の気配を巧妙に嗅ぎつけるもの、だそうだ。以来、二人の戻りが遅い日は、こうして衛善さんが刀と向き合う時間に同席をさせて貰っている。

衛善さんは、私の入門時点で試一刀流一位の座に就いていた。今は私の知る時系列より手前で、まだ正式に免許皆伝になっていない人も多い中、衛善さんは既に完成しきっていて、その貫禄と安定感に次期当主の器とは何たるかを体現したような存在になっていた。規律に厳しく、統率力に長けて皆からの信頼も厚い、山田家の手本そのもの。そして、私の先生とは少しタイプが違うものの、大変面倒見が良く責任感の強いひとだ。先生が戻るまで度々私を預かる義務なんて一切無い筈なのに、こうして神聖とも呼べる時間の片隅に私を置いてくれる。とても厳しくて、でも同じくらい優しいひとだ。

丁寧に打ち粉を叩き、紙で拭き取る。じっくりと全体を余さず確認する衛善さんの目線が、時間感覚が曖昧になるような空白を経て私の方へ向けられた。

「待たせた」
「っ・・・!」

きらり、なんて表現じゃ足りない。刀身そのものが仄かに発光してるんじゃないかってくらい、輝く完成形を衛善さんが掲げていた。私は正座のまま、吸い寄せられる様にずりずりと前進してしまう。だって、まるで刀自身が誇らしげに自分を見ろと言っているみたいだ。

「あの、少しだけ、握ってみても・・・?」
「構わない。扱いには十分気を付けるように」

深々と頭を下げてから、両手で恭しく預かる。軽くはないのに手に馴染む。刃先を上に向けると、光の帯が天井に向かって伸びている様に思えた。これまで衛善さんの手で磨き上げられた刀はそれぞれに違った個性を放っていたけれど、どの刀も必ず最高に美しい状態を見せてくれる。目の前の傑作に、私は言葉の通り見惚れた。

「綺麗・・・波紋が輝いて、水晶みたい」

刀剣鑑定が山田家の副業のひとつだったことは偶然だったけれど、こんな貴重で心躍る機会に巡り会えるだなんて入門時点では考えもしなかった。本当に、素敵。私は何度だって、恍惚の溜息をつく。

「刀には、今何が映っている」

静かに問われる。まるで鏡のように澄んだ刀身に、何が映っているか、だなんて。

「私のだらしない笑顔、ですかね」

目の前の光景を正直に答える。口が半開きになった、実に締まりの無い笑顔だ。衛善さんは私の答えに厳しい表情の口端を僅かに和らげ、そして。

「その美しい刃で、我々は罪人の首を落とす」

たった一言で空気を作り替えた。
何と返すのが正解かわからない。私、何か間違えた?隠せる筈も無い不安は容易く読み取られ、衛善さんはそれ以上表情を険しくはしなかった。

「時に風変りではあるが、好いたものを堂々口にするお前の明るさに安らいでいる者も多い。だが、だからこそ私は、お前に御様御用は向かないと考えている」

心臓の鼓動が煩い。私の騒がしさを肯定的に受け止めて貰えることは嬉しい。でも、序列一位の衛善さんに真っ向から刀の道を否定されることがどれ程致命的なことか、わからない程馬鹿じゃない。
血管の収縮が大荒れの海の様に暴れて、頭も心臓も何もかも痛くて熱い。だって私は、今この道を断たれたら全部消えてなくなるのと同じこと。

「・・・破門、ですか」
「そうは言っていない」

恐る恐る口に出した問いに対し、時を置かず返ってきた答えは最悪とは少し違ったものだった。

「だが、山田家には鑑定士や製薬の助手として生きていく者もいる」
「・・・衛善さん」
「刀で命を断つのではなく、刀の美しさに磨きをかけ目を輝かせる。お前の性に合った道ではないかと、私はそう思う」

刀には真実が映る。山田家の教えであり、衛善さんが最も大事にしているであろう信念だ。男女の差異で強引に突き放された訳じゃない。輝く刀身に魅入る私の様子を見て、真剣に考えてくれたであろう心からの助言だと、すんなりと理解出来た。

可能性のひとつとして、剣技から離れ、鑑定及び修繕の道で山田家に貢献する未来を想像する。刀剣の美しさに熱弁を奮い皆からの苦笑を集める私の姿は、衛善さんの言う通り性に合った道かもしれないと、確かに私自身もそう思う。

でも、それじゃあ私の願いは叶わない。

「相手を斬ろうとすれば、逆に相手から斬られるかもしれない」
「何?」
「ごめんなさい、私の愛読書にある表現の応用です。でも、刀を握るってそういうことですよね」

相手を始末しようとするならば、逆に相手から始末される危険性が付き纏う。それはきっと、刀でも拳でも、同じことの筈だ。それでも私は、刀を研ぐ為じゃなく振り下ろす為に握るのだと決めている。

「この綺麗な刀身で何を断つのか、私、わかってるつもりです」

死罪人だとしても生きた人間の首を落とすのだから、人斬りと後ろ指を刺されることも、覚悟は出来ている。使い勝手の良い浪人として、いずれ未知の魔境に放り込まれることも―――

「衛善さんが私を心配して下さってることもわかってます。でも私、気持ちが揺らいだ日は一日だって無いです。確かに、向いてる向いてないの話なら・・・向いてないかも、ですけど。でも、そういうことじゃあないんです」

向いてる、向いてない。出来る、出来ない、じゃない。必ず、成し遂げる。何年先かはまだわからない、山田家を襲う厄災に、私が風穴を空けて見せる。
結末もわからない混沌とした物語の中に呼ばれて、初めはただただ典坐を救いたい一心で先生に弟子入りを懇願した。でも入門から時間が経った今、欲張りな私は出来る限りの一家生存を諦めずにはいられなくなってしまった。勿論、今目の前で私を心配してくれるひとのことも。

「私は、私が思う山田家の良い未来の為にここにいます。衛善さんの勧めてくれた道も確かに魅力的ですけど・・・私は、自分が斬られる可能性を押してでも、浅ェ門になりたいんです」

あなたにも死んで欲しくない。言葉には出せない思いを奥底にしまって、蓋をした。私は先生との約束を守る。明かさず、広めず、密かに備え、最善を尽くす。きっとそれが良い方向に芽吹くと、今は信じることしか出来ないけれど。

「・・・覚悟の程は理解した」

衛善さんの隻眼が伏せられ、次に開いた時には鋭さが目に見えて薄まっていた。先生という絶対的な存在を味方にして尚、衛善さんから得る理解の有無はあまりに比重が大きくて、私は心の底から安堵する。

「正直驚いた。拘束された死罪人の斬首というより、お前の想定するそれは混沌とした戦場だな」
「えっ・・・あ、いや、そう?ですかね?」
「堂々と胸を張れ。むしろ浪人の心構えとしてはそれでこそ正しい」

あまりに核心をつく例えに瞬間言葉が詰まっても、ぶれない士道にある意味で救われる。衛善さんが生きて島から戻れたなら、きっと山田家は安泰の筈だ。

「純粋な剣技ではなく実戦剣術を極めるなら尚の事、女のお前には厳しい道だぞ」
「承知の上です」

理解を示してくれたその瞳で、私は今一度試される。即答に対して返された微かな笑みが、私には殊の外優しいものに感じられた。

「士遠は良い弟子に恵まれたな」
「逆ッ!衛善さん、絶対にそれは逆ッ!私が良い先生に恵まれたんです!」
「・・・そうか」

いくら衛善さんでもそこは絶対に譲れませんと反り返る。少しの間を置いて、私たちは同時に小さく笑い合った。衛善さんは私と違って本当に気持ち程度、でもはっきりとわかる。普段厳しいひとが引き締めた口許を少しでも緩めてくれると、時に説明が難しいくらい嬉しくなってしまうものだ。

「お返しします、ありがとうございました」
「お前もいずれは自分の刀を持つだろう。その時は丁寧に扱うように。研ぎ方は追々教える」

両手から神々しい重みが離れたその時になり、私はぴしりと固まった。

「・・・どうした?」
「いや・・・私の刀とか、そんな、付喪神の主になる覚悟がまだ出来てないというか、あの・・・」
「・・・付喪神?」

私が元いた世界では刀剣の力を借りて戦うゲームがあってですね、とは流石に説明できないものの。思わぬ単語に思わず鼻息を荒くする私と、頭の上に疑問符を浮かべる衛善さんだけの空間に、外からの影が伸びてくる。

「こら。衛善さんを困らせるのは止しなさい」

咎める口調は形式だけで、声色はいつも通り優しい。待ち人の帰還に、自然と目が輝いた。

「あっ・・・先生!おかえりなさい!」
「ただいま」
さん、お待たせしましたー!」
「典坐もおかえり!お疲れさま!」

先生の穏やかな微笑みと、典坐の明るい笑顔。毎日共に暮らしていても、やはり特別な推し故に慣れることは無いときめきに、私は毎度頬が餅の様に蕩けっぱなしだ。

を預かって下さりありがとうございました。研磨中、迷惑はかけませんでしたか」
「特段何も無い、大人しくしていた」

子どものお迎えかな。どうも私の実年齢とかけ離れているような遣り取りに暫し遠い目になりながらも、私自身この生活と山田家に溶け込めていることが嬉しい。いつも先生が見守ってくれて、典坐が元気をくれる。それだけで十分過ぎる程恵まれているのに、衛善さんが進む先を気にかけてくれて、道場の皆も私の拗らせ気質を込みにして受け入れてくれる。

この家を守りたい。今が充実している分だけ、強くそう願う。

「聞いてくださいさん、帰りに良い栗を買えたんすよ!」

ひっそり物思いに耽るところを、典坐の声が上手に引き戻してくれる。上機嫌に差し出された大袋の中に、粒の揃った戦利品がたんまりと詰まっていた。

「ええ?!沢山ある!!栗ごはん出来るじゃん!!」
「元々予定してた秋刀魚と、相性良いと思いませんか?」
「良いね良いね!早く帰って支度しなきゃ!手伝ってくれる?」
「もちろんっす!」

気持ちの良い返事に、ニコニコと頬の緩みが止まらない。甘い栗ご飯と秋刀魚の塩焼き、玉ねぎのお吸い物に揚げ出し豆腐なんてどうだろう。日は既に落ちて夜が深まっていく。明日に備えるには良質な眠りを、そしてぐっすりとした睡眠の為にも美味しい食事は必要不可欠。氣の文字にも米が入っているくらいなのだから、食べることは生きることと切り離せない筈。そうしてますます夕食作りへの意欲を上げて、腰を上げかけたその時。

「あっ!衛善さんも・・・」

私は当然のように今日お世話になったお礼を提案しかけ、寸前で飲み込んだ。いけない、いけない。台所や食費献立をある程度自由にする許しを得ていようとも、私は所詮居候。主の許可無しに勝手なことは出来ないし、しちゃいけない。まるで私の心の声などお見通しであるかの様に、先生が小さく笑った気配がした。

「我が家の今宵の献立は聞いての通りですが」

私が切った空白が不自然に響かない様、絶妙に素早い頃合いで拾ってくれる。流石、私の先生。

「ご都合が悪くなければ、衛善さんもご一緒にいかがですか」
「・・・邪魔させて貰おうか」

お誘い成功。まったく同時に顔を見合わせたあたり、典坐も私と同じことを考えてくれていたようで嬉しくなる。

「そうこなくっちゃ!さんの手料理すげー美味いから楽しみにして下さい!」
「えーそういうこと言っちゃう?典坐、今夜はおかわりを二杯まで許可する」
「よっしゃ!」

年下の兄弟子の、大袈裟な程全力のガッツポーズが可愛い。

「なにぶん、騒がしい食卓ですが」
「たまには良いだろう」

先生の優しい苦笑も、付き合いが長い故に更に肩の力が抜けた衛善さんの答えも。ただただ長閑で楽しい団欒を約束してくれているようで、私にとってはかけがえなく尊いものだ。

刀に映ったなだらかな道は、束の間のもしもを見せてくれたけれど、性に合っていようとも私の進む道じゃない。いつまでもいつまでも、この優しい繋がりが欠けることなく続きますように。その為なら私は、喜んで険しい道を往ける。私たちは和やかな談笑を途切れさせることなく、帰路へ着いた。