「すっ・・・すみません、出過ぎたことを!」

威鈴の声は恐縮し切ったものだった。直接姿を見ずとも、あの顔を真っ赤に染めて両手を振るさまが目に浮かんだ。

「ですが、あのっ、お二人が再会した様子を見て、その・・・!師弟以上のご関係とお察ししました!その上で同じ女性として、知らされていないのであればさんも傷付くのではないかと・・・!」

私が傷付くとは。同じ女性として威鈴が口を出さずにはいられないほど、突き動かされた現状とは。私だけが知らない“条件”とは、一体何なのか。

「・・・忠告感謝するよ、威鈴。すぐにでもに話すから、安心して欲しい」

先生の声は固かった。結局私は典坐を問い質すことも出来ず、典坐もまた歯切れ悪く唸るばかりで核心には至らず、岩陰で蹲ったまま待つことほんの僅か。先生はやはり私たちの尾行はわかっていた様で、威鈴と別れるなり真っ直ぐに此方へ向かって来た。盗み聞きへのお叱りは無く、ただどうしようもなく気まずい空気が流れる。人気の無い蓬莱の片隅、私達がいそいそと立ち上がることで四人共内側に向かい合い、これまでに無い程白い静寂で耳が痛い程だった。

「・・・な、なんだよ。二人ともさっきの聞いてたのかよ」
「黙って隠れてたことはすみませんっした。けど、すげー格好良かったっすよ、ヌルガイさん」
「ええっ?・・・ありがと」

苦し紛れに転がり出たヌルガイの言葉に、典坐が応じる。何事も無ければ二人のこんなやり取りひとつ、私は心が躍って仕方がない筈なのに。今はひたすらに、重苦しい沈黙を貫く先生の姿に不安を感じてしまう。まるで覚悟を決めたかの様な溜息の末、先生が私に向かって深く頭を下げた。

「すまない、
「や、やめて下さい先生。頭上げて・・・!」

怖い。石の様に固く握られた拳も、頑なに頭を上げない姿勢も、何もかも。心は確かに通っているのに。実際に触れられるほど近くにいるのに。先生の氣が深い後悔と自責の念で揺れていることが伝わってくる。私はますます困惑した。

「違うんだよ。あの時はセンセイもオレ達も、ともう会えないと思い込んでて・・・それにわざと教えなかったんじゃない。本当に、が帰って来たことが嬉し過ぎてそれどころじゃなかったんだ。そうだよな、センセイ」
「自分も同じくっす。さんが戻って来てくれた安心で大事なことがすっかり抜けて・・・あっ!先生!これって”盲”点てやつですよね、ほら!」

本当に珍しく典坐から打ち上げた冗談の玉すら、先生は拾おうとしなかった。二人共私を気遣ってくれていることがわかる。私の知らない条件とやらは、きっと私にとって不都合なもの。でも、三人して今の今まで記憶の彼方だったこと。それは有難くも、私と再会したことを起因とする喜びで塗り隠されていたのだという。私はそこを責めるつもりも無いし、不服なんてある筈も無い。ただ、この状況の息苦しさには耐えられない。

「先生。お願いですから頭を上げてください」
「・・・
「話が見えないことが一番不安なんです。先生の言葉で教えて貰えれば、どんなことでも私は納得します。だから説明が欲しいです」

震えそうになる手で促すと、先生は漸く頭を上げてくれた。陰った顔色、苦し気に寄せられた眉、緊張で安定感を失った氣。向かい合うだけで怖い。でも私は聞かなかったことには出来ないし、何より今の先生をこのままにはしておけない。
清丸と遭遇した場面で何があったのか。どんな“条件”を経て私たちとの合流へ至ったのか。固唾を飲む私を前に、先生が遂に重い沈黙を破った。

「島からの帰還後、山田家の門は二度と潜らない―――それを誓うことで、あの場を不問として貰ったんだ」

どんなことでも怯まない。その覚悟をもって受け入れたその答えは、思いのほか静かに、深く、私の心の内側を打った。

「時代の定めに倣い無実の者を斬ることは、もう出来ない。私は、山田浅ェ門の名を捨てる」

絞り出すような声が、葛藤の末に導き出した答えであることを物語った。先生が山田家を去る。浅ェ門では無くなる。これまで当然のように結びついていた処刑人の名を捨てて生きる。その事実は確かに大きな衝撃だったけれど。このひとは幕府お抱えの浪人一家、その序列四位という立場を手放すことと引き換えに、ヌルガイを守ったのだ。それをすぐに理解出来たからこそ、私は落ち着いたままその決断を受け止めることが出来た。
罪とは時代が決めるもの。山田浅ェ門とは、時代が振り下ろす断罪の一刀。そうして典坐とヌルガイの信頼関係に当初懐疑的だった先生の変化が、私は心から嬉しい。なのに、このひとは変わることなく悲壮な表情で俯いたまま言葉を零す。

「二度と逢えないと覚悟していたともう一度巡り会えた、言葉を交わせた。奇跡に溺れていたよ―――真っ先に伝えるべき大事なことを、今に至るまで失念する程に」

己への憤りで先生の声が掠れている。嫌な予感がひたりと忍び寄る。

「もう山田家には戻れない。人生を左右する一大事を告げぬまま、私は浅はかにも君と共に在る未来を願った」

浅はかなんかじゃない。ずっと一緒にいたい。私も同じ気持ちで、嬉しいなんて言葉じゃ追い付かない程の幸福を感じたのに。一番大事なひとと心が通じた、夢の様な奇跡をそんな悲しい顔で語って欲しくなんかないのに。

「君もそれを望んでくれたが・・・生還後の安泰は約束出来ない」

―――まさか。胸騒ぎが歪な形を成して、すぐそこまで迫る。

「生きていく前提が覆った以上・・・君は今一度、考え直すことも」
「待って」

私は咄嗟に、先生の口許をこの手で塞ぐことで先を遮った。それ以上聞きたくない。一歩後退した先生を見上げ、追い縋る様にその両肩を掴む。今度は私が呼吸を整え心の準備をする番だった。急激に速度を上げた血潮を懸命に抑え、その間も先生から目を離さない。
このひとが今、私に言おうとしたこと。それは私にとって、何を引き換えにしても受け入れ難いことだ。深呼吸をひとつ。まるで死刑宣告を待つような表情を浮かべる先生に、どうしたら私の気持ちが伝わるかを懸命に考えた。

「とんでもなく生意気なことをしますけど、今だけ許してくださいね」
「・・・
「島から出たら浅ェ門じゃなくなるから。山田家の身分を無くすから。それを理由に私が先生の傍を離れたり、考えを変えるかもって、そう思われているのなら・・・」

どう考えても有り得ないのに、何故そんな可能性を許すのか。込み上げるのは、途方も無い程のもどかしさだった。
ああ。私が別の世界から来たことを言えなかったと告白した時、先生もこんな気持ちだったのかな。刹那、そんな思いが頭を占めて。私はじわりと滲み出た苦い思いを携えながら、勢いをつけて右手を振り上げる。
あっと焦りの声を上げたのは典坐か、ヌルガイか。すべて受け入れる心積もりだろう、防御の姿勢も取らない先生の顔に向かって私はその手を振り被り―――直前で速度を落とした掌で、強張った頬にそっと触れた。

「見くびらないでください」

恐れていた修羅場を回避したことで典坐は脱力し、ヌルガイは顔を覆った両手の隙間から硬直が抜けないまま呆然とこちらを凝視している。私の突っ込み待ちの顔を悟ったのか、数秒の空白を挟んだ末に先生が遠慮がちに反応を示した。

「・・・”見“くびる、かい」
「ふふ。一度言ってみたかったんです」



『まったく。見くびられたものだな』
『・・・“見”くびる』
『よろしい』



先刻とは形勢逆転の意味もあったけれど、それは先生だけに伝わっていると信じて私は努めて明るく笑って見せた。ビンタの真似事、その手を振り被る中で信じて貰えなかったもどかしさは自分なりに消化した。戸惑いはあれど先生の肩から力が抜けて、ヌルガイが恐る恐る私の傍へ近寄ってくる。

「良かった・・・、センセイのこと殴るのかと思った・・・」
「脅かしてごめんね、今のは振りだけだから。それに先生を平手打ちするくらいなら自分で自分を殴るよ私は」
「ぶっ、ははは!さんらしいっすね・・・!」
「えええ?自分で自分を殴るのか・・・?!」

典坐が噴き出して笑ったことをきっかけに、場の空気が一層穏やかにほぐれていく。ただひとり、きまりの悪そうな顔をしたひとを除いて。私は肩を竦めて先生の頬から手を離し、一歩退くことで改めて対話の距離を正した。

「先生、聞いて下さい。まずは全員で生きて島を出る。それ以外のことは全部二の次にして来ましたけど・・・確かに、島から出た後にヌルガイの人生を見守れる手段は何があるだろうって、私も考えてたんです。御免状を奪い合うことも、皆との関係性が出来上がった今となってはヌルガイには難しいだろうし・・・」

正規の方法で無罪放免を勝ち取れる罪人は一人だけだ。お互いをまるで知らなかった頃と違い、既に仲間意識が芽生えた今、この心優しい少女が他の罪人たちと御免状をかけて戦えるとは到底思えない。かと言って、このままヌルガイが死罪人として処刑されることを見過ごせる筈も無い。幕府お抱えの山田家にいる以上“命さえあれば何とかなる”が本土では通用しないことも理解しながら、どうしたものかと考えあぐねていたところだったのだ。

「・・・私たちが浅ェ門の名を捨てれば。処刑人じゃなくなれば、解決出来ますよね」

山田家を自ら出ていく。死罪人のヌルガイを匿えば最悪お尋ね者か、どんなに良くとも江戸の街は大手を振って歩けなくなるけれど、私たちは小さな少女を守りながらどこなりと密かに生きれば良い。失うのは名誉と立場だけだ。ヌルガイの命を思えば、掠り傷にもならない代償だと言い切れる。これしか無い、最良の選択だ。私はすっきりと頭の霧が晴れたような心地で年下の兄弟子を振り返った。

「確認だけど、典坐も一緒に山田家を抜けるんだよね」
「はい。自分も先生と同じ思いっす。山野を巡って、ヌルガイさんが生きて来た環境に近い場所を探します」

典坐の表情に迷いは無かった。更なる心強さを得て、私はヌルガイにも向き直る。

「私も一緒に行って良いかな」
「そんなの・・・!オレは勿論、嬉しいけど・・・」

小さく飛び跳ねる程の喜びを表現してくれる可愛い子。しかしながら最終決定権を求めて彷徨う目線の先には、難しい顔で佇む先生がいる。

「・・・戻る場所も立場も無くなる。その意味はわかっているのか」
「わかってます。でも私の考えは変わりません。典坐を生かして、ヌルガイの笑顔を守りたい。先生の傍にいたいんです」

何を失っても構わない。その覚悟を自分では良しとしながら、私に当て嵌めることは躊躇するだなんて。非常に頑固でもどかしいものの、私のよく知る先生らしいとも理解出来てしまう。徹底的に向き合うしか方法は無い。

「島から出るまでは、御家の名に恥じない働きをします。浅ェ門として、先生の弟子として、この刀に誓って。でも、私も山田家には帰りません」

決して退けない。ここだけは何があっても譲れない。

「お願いします、一緒に連れて行ってください」
「・・・」

先生は何かを言おうと口を開きかけては噤み、拳を固くして俯いてしまう。強情対決なら私も決めたことは引かない性分であることを、このひとはよく知っている筈だった。ただ、片方が黙り込んだままでは戦局が硬直し解決には至らない。
凍った時間を溶かすのは、ふたりの温かい声だった。

「ヌルガイさん、皆のところに戻りましょう」
「・・・おお、そうだな」

先に目が合った典坐の笑顔に照らされて、私は熱く背を押して貰ったような勇気を得る。

「先に行って待ってるっすよ。あとは二人で話して決めてください」
「センセイ、あんま意地張るなよ」

並び立ちながら遠ざかる二人の背中は刻々と逞しく、頼もしくなっていく。同時に笑ってしまうほどに息がぴったりで、心底愛おしい。

「っはは。先生は苦い思いしてるかもですけど、ヌルガイの時々背伸びした感じの喋り方、可愛いから私は好きです」
「・・・否定はしないよ」

苦笑を浮かべるだけの余裕を取り戻したのか、ヌルガイの一撃で頑なさが緩み始めたのか。今度は二人きりで向かい合った先生の表情からは、少なくとも私の主張に耳を傾けてくれるだけの余地を感じた。

「・・・よく考えた方が良い。君の大切な同門達も、居場所も、すべてから引き離されることになるんだよ。苦労も山ほどするだろう、全て捨てることで君を不幸にしてしまったら・・・」
「先生」

優しくて淋しい、その言葉を私は遮った。
典坐は、私が建前の為に言葉を選んでいたことを見抜いていたのだろうか。だから二人きりにして、遠慮なく全てを曝け出せと背中を押してくれたのだろうか。

「どんなに良い環境で、どんなに良い人の縁に恵まれていたとしても。私は先生がいなかったら全部意味無いんです」

私を思ってくれるからこその忠告だとわかっている。でもそれは、根底の部分では何ひとつ光の残らない提案だということに気付いて欲しい。どんな恩恵も、先生の傍にいられないなら価値が無い。本の中へ戻され二度と逢えないと悟った時、私はそれを痛い程に思い知ったのだから。
私の不幸を憂いてくれる先生の優しさは理解出来る。でも、何をもって不幸とするのかまでは先生はわかっていない。

「全部創られた人生ではありますけど・・・私の幸せを決めるのは創造主の桂花でも、先生でもない。私が自分で決めます」

脳内で鉄心さんに気合いを入れ直して貰った様な心持ちで、私は顔を上げた。今ならどんなに先生に背を向けられても折れない自信があるし、どこまでも追いかけて認めさせようという気力が尽きない。それが私を思う故の優しさで遠ざけようとしているのなら、尚の事。
半歩前へと踏み出す。正面から向かい合って話すには少し近い距離で見つめ合う。

「私ひとりに抱えさせない。どんな重荷も半分背負うって言ってくれたこと、覚えてますか・・・?」
「・・・勿論だよ」
「だったら、立場を無くして降りかかる苦労なんて何も怖くないです。先生と半分こ、それならむしろ、私は楽しめちゃうかもしれません」

大好きなひと。先生がいないなら朝も夜も来ない、どうしたって切り離せない大切なひと。生活の苦労も先生と一緒なら喜んで引き受ける。お尋ね者になったとしても、先生といられるなら地球の裏側まで逃げ切って見せる。先生がいればそれだけで強く生きていける。先生は私の幸せ、そのものだから。

「どんな時もずっと先生の隣にいたい。それが私の心からの望みで、一番の幸せです」
「・・・

こうまでしても煮え切らない先生がもどかしくて。我ながら奥の奥の、更に奥の手の様な台詞を武器にすることを決意する。思い切って先生の袖口を掴んだ。ろくに耐性の無い私の心臓、今だけもう少し頑張って。羞恥心は見ないふりをして、ええいと息を吸い込む。

「浅ェ門の一人だから先生を好きになった訳じゃないです」
「・・・」
「それは・・・流石にわかってくれてると、信じたいですけど」

やけに長く感じる静寂の果て。先生が震えるような吐息と共に小さく口端を緩めてくれたものだから、私の胸中はたったそれだけのことで虹がかかったように煌めいた。一番傍にいたいひとに、気持ちをわかって貰えた。それはこんなにも嬉しくて心が躍る奇跡なのだと、体中が熱くなる。先生が笑ってくれるだけで力が湧いてくる。このひとと生きる未来の為なら何にだって負けないと誓える。
ただ、不安が解消されると同時に意識するのは、自分から詰めてしまった距離の近さで。私は先生の袖から手を離すなり照れ隠しに頭を乱雑にかきながら、喉元に並べた原稿を早口に読み上げた。

「推しの隣にずっといたいだなんて、こっちに来てすぐの頃ならただのオタクが恐れ多いって断固辞退したと思いますけど。はは、もう私も腹括っちゃいましたから。今更元には戻れないです。私かなり面倒臭いオタクな自覚があるんで、申し訳無いんですけどそこは先生も覚悟を・・・」

言葉が不意に消失した。
左頬を掠める髪の毛の、何とも言い難いくすぐったさ。同じく左側の肩に感じる僅かな重み。格段に近く感じる、大好きな匂い。乱暴でない力加減で両腕を抑え込まれた上で、大きく屈んだ先生の頭を、肩に預けられている。状況理解にかかった数秒の間に、私の頭の中は白一色に染め上げられた。

「あっ・・・あの、せ、せ、せん、」
「・・・我ながら、酷く情けない男に成り下がったと思うよ」

動揺の極致。しかしながら、その声の落胆加減が私の注意を強く引く。

「威鈴に指摘された時、一番に開示すべきことさえ失念した己を呪うと同時に、心の何処かでならついて来てくれるのではないかと期待した自分もいたんだ」
「・・・先生」
「だが、こうして君の口から答えを直接聞くまでは・・・正直なところ、心底怖かった」

怖いだなんて、先生らしくない言葉だった。それでも今こうして私の肩を支えに項垂れる先生の様子から、身体が弛緩する程の安堵が伝わって来ることも本当で。私の中で、少しずつパニックの波が収まっていく。

「今この瞬間も己の弱さが愚かしいよ。の覚悟を誰より理解している筈が・・・つい先刻も、今だけだと特例を押し通したばかりだというのに」



『これ以上は何もしないよ。ただ少しの間だけ、愚かな私を許して欲しい』



膝立ちで抱き竦められた熱さが脳裏に過ぎる。平時なら羞恥心でますます硬直するところ、今の先生が発する負のオーラは威力が凄すぎて、心配以外の感情は一時棚上げ状態だ。

「不埒な行いだ。これでは十禾と然程変わらない」
「んんん?いやそれは違いますって・・・!」
「そもそも、いくらとの再会で舞い上がっていたとはいえ・・・己の進退を失念するだなんて。分別のつかぬ子どもでもあるまいし、私自身の危機意識を疑うよ」
「待って。先生待ってください」

私は慌てて先生の言葉を止めた。次から次へと自分を呪う言葉が止まらないこの感じは私も身に覚えがある。

「先生は今色々消耗して、体力も精神力も限界で、そのせいで負の連鎖に陥ってるだけです。その・・・この体勢も気にしなくて大丈夫です。私の肩で良ければ喜んでお貸ししますし、師弟の支え合いならこれくらい当たり前のことです・・・多分」

若干無理があるような持論を、私は無理やり押し通した。少なくとも私は嫌じゃない。合意なら不埒じゃない。
それに先生は、御役目を優先したいという私の気持ちにきちんと寄り添ってくれている。両腕を掴む手は痛くない力加減で調整されて、肩に額が触れているだけで他の箇所は慎重に空間を保ったままだった。自分がどうしようもなく弱って尚、私への気遣いを残した結果がこのハグ未満の体勢なのだと思うと、そこは先生らしいと頬が緩んでしまう。

「本土にいた頃から、私は度々後ろ向きになったり自信を無くしてばっかりで。その度に先生が支えて、励ましてくれました。だから、先生が弱ってる時は私が力になりたいです」

ちょっとしたことで不安に呻く度、先生が私を助けてくれた。何度も何度も、至らない私を根気強く導いてくれた。どんなことをしたって返し切れない程の恩がある。こんな時でしか返せない。そうじゃなくても、このひとは私にとって一番大切な存在だ。微力でも力になりたいのだと、胸の奥に確かな使命感が湧いた。

「私は先生が強いひとだって知ってます」
「・・・だが、今の私は」
「先生自身がどんなに否定したって無駄ですよ。先生の凄いところも素敵なところも、一晩中語り尽くしても足りないくらいに私が証拠として並び立てますから」

先生が自分を否定したら二倍の賛辞で返せる、私にはその絶対的な自信があった。先生は強くて頼りになって、誰からも慕われるひとだ。試一刀流四位の序列は人格も重視されての位置づけだけれど、実際にこのひとは強い。盲目なんて一切の枷にはならない程鮮やかな剣技を、私は何度もこの目で見て、そして憧れていた。
でも、私の思いはこのひとの“強さ”に起因する訳じゃない。

「でも・・・弱い先生も私は好きなんです。珍しい一面をこうして私に預けてくれたことが、嬉しくて堪らないんです」

いつだって落ち着いている先生が、生還後の大きな変化を今さっきまで失念したことも。らしくもなく、自信を持って良い場面で怯えていたことも。私と同じ気持ちでいてくれているからこその“弱さ”となって現れたのだと思うと、心臓が締め付けられるようで、それでいて根本はふわふわと浮き上がってしまいそうな程に嬉しい。

「弱さは、強さの種なんだそうです」
「・・・強さの、種」
「私が直接言われた台詞じゃないですけどね。この世界を本で読んでた時に・・・メイと佐切が、同じことを言ってました。弱さも強さも、どっちも必要だって」

弱さは強さの種、強さは弱さの実。陰陽と同じく切り離せないもの、どちらも大事。メイが言う氣の真理や、佐切が画眉丸と刀を交えた序盤で口にした台詞の意味を、読者でいた頃の私はどれだけ理解出来ていたのだろうか。

「典坐が代行免許を取った日。私は弱くなることを恐れて、この恋心を封印しようと決めましたけど。正直、一度帰されて戻ってきてから―――先生と気持ちが通じ合ってからの方が、氣の巡りは調子が良いような気がするんです」

胸が張り裂けそうな別離の痛みを知って、もう一度巡り合えた奇跡を引き金に確かな繋がりを得た。恋と使命は両立出来ない。そうして封じ込めようと努めた熱い思いが、どれ程氣の底力を引き出してくれるものなのか。あの日の私は考えもしなかった。

「画眉丸や弔兵衛を見てたら・・・このひとの為ならって心の芯になる存在がいることは、ある意味最強なのかもって考えが変わり始めました。でも、実際刀を握って戦うにはやっぱり気持ちの切り替えも必要で・・・何が正しいのか、今も迷ってばかりです」

愛は致命的な弱みであり、同時に強く在る為の原動力でもある。先生と手を携えて踏み出した新たな一歩は、私に革新を齎すような予感さえした。でも、やはり命をかけて刀を握る以上は余所見をしていられないというのも現実だ。
より強く在る為にはどうすべきか。中道を比較的早くから学んでいた身でも、情と理の両立は考えれば考える程難しく思えて。でも、今なら無数の別れ道を前にしても悲観せずにいられる私がいる。

「いつまで経っても、どんなに時間をかけても、この答えは出ない気がします。迷った末に正解を掴める保証も無いです。それでも私は、先生の隣で迷い続ける人生なら、それは最高に幸せだって。そこだけは確信があるんです」

典坐を生かす。先生を悲しませない。それだけを心に決めて自分の命すらあやふやに捉えていた頃には、辿り着けなかった境地だった。一緒にいられるならそれだけで幸せだから、間違いも回り道もきっと楽しめる。今はただ、その為に生き残りたいと思えるようになった。
先生の為なら死ねる、じゃなくて。先生と一緒にいられる幸せな未来の為に、死に物狂いで戦う。無償の愛とは呼べない、大いに下心のある動機付けだけれど、ある意味私らしいと苦笑が漏れる。

「一緒に迷い続けましょう、先生。調子が良い日も悪い日もあるでしょうけど、先生のことなら何でも喜んで受け止める弟子がいつも傍にいるってこと、忘れないでください」

強い先生も弱い先生も、等しく私の大好きなひとだから。きっとどんなことが起きても大丈夫。そうして待つこと数秒後、浅く零した吐息と共に私の肩から重みが引いた。
盲目の瞳と、間近の距離で目が合ったような感覚を覚える。私を見据えるその表情は、自責の念で潰されそうな悲壮感に塗り潰されたものではなくて。

「ありがとう、

私は、先生が好きだから。大好きだから。微笑んでお礼を言ってくれる、それだけで途方も無く嬉しくて。

「君がいてくれて良かった」

弟子としてもひとりの人間としても、光栄の極みの様な言葉が丁寧な声色で紡がれる。感激なんて言葉じゃ到底足りない、最上級の誉。
だから私は、幸せに気を取られるあまり反応が遅れた。
私の肩から頭を上げた先生は屈んだままで、顔の距離が依然として近いこと。その表情に、確かな熱情を感じること。ただ、躊躇いも同じだけ読み取れる。お互い思いが通じて、今周囲に他の気配は無くて。普通の男女ならきっと迷いなく詰めるだろう空白を、先生は慎重に推し測っているように思えた。
ドッと音を立てて血流が顔に集まる。切ない程胸が締め付けられる。私だって、こんな状況で大好きなひとに耐え忍ぶような顔をされて、何とも思わない筈が無い。切り替えると言ったのは私だけれど、罪悪感と羞恥心と、そして小さな期待にも似たものが芽を出しそうになる。
先生は無理に押し通そうとはして来ず、私の反応を細やかに伺っている。すべては、私次第。暴れ狂う心臓と、発火しそうな頬と。そしてほんの僅か踵を押し上げれば夢の瞬間が訪れるだろう、私の人生で初めてのときめきを前に、迷って、迷って、迷って―――

「・・・ご、ご褒美」

―――私は、王手を引き下げることを選んだ。

「褒美?」
「全部終わった後のご褒美に取っておいたら・・・駄目、ですか」

緊張のあまり声がひっくり返りそうになる。命懸けの決戦前だから、しかし決戦前であるからこそ勇気を出して背伸びしたかった気持ちも本当で。私が出した答えは、未来への先送りだった。
したくない筈が無い。触れたかった。この強い葛藤を全てが終わった後のご褒美に置き換えることで、より一層強く戦うことを自分に課す。

「その、私、先に励みがあるとかなり頑張れるタイプなので・・・!」
「・・・成程、一理あるな」

ただ、これはあくまで私の線引きだから。先生の思いを蔑ろにしてしまったような不安が蜷局を巻く、その直後。こつんと、ほんの一瞬額が合わさる感覚に目が丸くなる。一歩退き改めて私の肩に手を置いた先生の表情は、私の大好きな優しいそれだった。

「島からの生還後。特別な褒美として頂戴できるその時を、私も楽しみに待つよ」

柔らかな笑顔と温かい声が、私を安心させてくれる。底なしの安堵と、ほんの少しの後悔と、心機一転前を向こうという思いに背筋を伸ばそうとした刹那。私は小さな引っ掛かりを覚える。今先生は、何と言っただろうか。

「・・・ん?違くないですか?先生じゃなくて、私のご褒美・・・」
「いや、私の褒美だよ」
「いやいや、違いますって。私は強火なオタクですよ?出会う前から先生は強烈な推しだったんですよ?」
「ならば私とて、子どもの頃からは私の天女様であったのだから、引けは取らないよ」
「てっ・・・天女様じゃないですってば・・・!」

思いがけず始まった論争は、些細なことでお互いむきになってヒートアップして。つい今しがたまで至近距離で熱の籠もった葛藤を交わしていたことを考えれば、温度差で風邪を引いてしまいそうな程だ。そして訪れた静寂を挟み、二人して同時に肩が小刻みに揺れ始める。

「・・・っく」
「ふっ・・・ははっ、あはは!」

もう笑うしかない。化物の巣窟において完全な場違いとわかっていながら、まずは島を出ることで苦難する前に生還後の進路についてひと悶着起こし、更には封印すると決めていた色恋で体温が上がったり下がったり。まったく何を考えているのか。でも、こうして腹の底から二人して笑い合うことで、氣が高い純度で急速に整っていくのを感じることも事実で。
やっぱり、先生は私の特別なのだと。そんなひとと思いを通わせ、同じ未来を向いて歩きだせる私は最高に幸せ者なのだと。お腹を抱えて涙を払いながら、私は心の芯から爽快に笑う。

「はは・・・はぁ。、皆の元へ戻る前にもうひとつだけ良いかい」
「ふふっ・・・はい、勿論」

決戦は目前だ。生還後の身の振り方も整理して、大好きなひととの繋がりも今の優先事項も再確認して、準備は万事整った。幸せな笑いからすべてをプラスに許容した私の目の前で、一歩片足を引いた先生が静かに跪く。その美しい所作が、ゆっくりと私の目に焼き付いた。

「・・・せん、せ」
「私も、と出会う前の自分には戻れそうにないからね。今度こそ覚悟を決めたよ」

時が止まったような錯覚を覚える。師に片膝をつかせるだなんて弟子として即座に止めるべきところが、指先ひとつまともに動かせない。

「私はこの先の人生がどんな逆境であろうと、必ず君を守ると誓う」

だってこんなの、反則だ。

「良き時も悪しき時も、の隣に相応しい存在であり続けることを約束する。苦労もさせるだろうが、可能な限りが笑顔でいられるよう尽力する。君にこの決断を後悔させない為なら、どんなことでも喜んで応じるよ」

丁寧な誓いの数々も、夢のようなシチュエーションも、物語の中でだって見たことが無い。先生にこんな形で傅かれるだなんて、私には荷が重過ぎる。なのに、足元が覚束なくなるほど嬉しくて堪らない。

「だから・・・改めて言わせてくれ、

跪いたまま、先生が微笑む。私に向かって、その手がそっと差し出される。

「島から出た後、全てを捨てて私を選んで欲しい。心から、君だけに乞うよ」

信じられない。信じられないくらいに、幸せだ。
私が伸ばした震える手を、先生は優しく握り返してくれた。

「・・・喜んで」

感情の限界水位はとっくに超えていた。頬を際限なく緩めながら器用に視界を潤ませる私を見上げて、先生が柔らかく笑った。