盤古と同化した朱槿を叩くには、蓬莱の中で五か所に聳え立つ花の丹田を切り伏せる必要があった。作戦には人数が要る。それも、ひとり残さず氣を熟知した人員でなければならない。竹光を下げて上陸しここまで生き延びた十禾さんなら、当然全てを会得しているのは言わずもがな。しかし威鈴と清丸―――追加投入された彼らの、氣への理解度は未知数だ。そこを確かめるべくふたりに直接問おうという試みに対し、十禾さんは良い顔をしなかった。
「やめときなって」
面倒臭いことこの上無い。そういった怠さを隠す素振りも無い言葉だった。
「だってあのふたり、結構凄腕よ?ここまで来る間に色々あったから普通に氣も使い熟してるでしょ、多分」
「多分じゃ困るんです、命に関わる一大事なんですよ」
それでも今は退けない。のらりくらり躱そうという兄弟子の悪癖を知ってはいても、遠慮なんかしてる場合じゃない。あくまで食い下がる私に対し、十禾さんは温度の無い薄ら笑いを浮かべる。じわりと息苦しくなるような静かな圧で、私は勢いを削がれた。
「わかってるけどさぁ。威鈴ちゃんは良いとして、おチビさんの方ははっきり言ってちゃんとかなり相性悪いよ。今は特にね。頃合いとしては最悪」
今は、という言葉が引っ掛かるものの。分道場の清丸とこれまで接した機会はほんの数回。百発百中でこれでもかと威嚇されてきた身として、前向きな可能性を模索することなど出来はしなかった。尤も、ろくに正面切って話したことなど無いのだ。ただ、言葉を交わさずともあの白群の瞳が力の限り訴えているのがわかる。近寄るな、と。
「大事な作戦の前に氣のお勉強~なんて切り口で探りいれてごらんよ。賭けても良い。十中八九清丸は噛み付くし、容赦無い敵意でちゃんは必要以上に傷付く。んで、そこに連鎖して士遠も責任感じて暗くなる。そしたら君たち芋づる式にみーんな調子悪くなるんでしょ。そしたらほら、大事な作戦も雲行きが悪くならない?それは困るよねぇ?俺も困るなぁ、うん」
確かに私は清丸から嫌われている。それも、桐馬とは別種の何かで。そもそも今彼らがこの場にいないのも、私の素性を明かした席から清丸が露骨な態度で飛び出したことが原因だ。
でも、苦手意識どうのこうのと言っていられる段階はとうに過ぎた。次の作戦にあの二人の協力は必要不可欠なのだから、例えどんな罵声を浴びせられようと私がしっかりしていればそれで済む話だ。そうして意見を捻り出そうとした私を庇う様に、踏み出した影があった。
「あの二人が既に氣を体得している、その可能性は理解した。清丸がに向ける敵意・・・というより、彼が本道場の者であれば誰であれ牙を剥く帰来があることも、心得ている」
流石の状況整理だった。理路整然としながら、清丸が忌み嫌うのは私に限った話ではないと説いてくれる先生の声から、丁寧な気遣いを感じる。
「だがの言うように、この先氣の理解度が生死に直結することも事実。現状確認と、場合によっては指南も必要だ。よって、私がひとりで彼らの元へ向かう」
「・・・え?」
我ながら情けない声が零れ出た。今私はどんな顔で先生を見上げているのだろう。ただ、こちらを振り返りふわりと頭に置かれた手の優しさだけが鮮明だった。
「私なら心配いらないよ。なに、手の付けられない子どもの扱いなら覚えがあるからね」
「耳が痛いっすけど・・・確かに。本道場の人間でも、先生なら清丸くんもまともに話を聞いてくれるかもしれないっす」
苦い思いをしながらも典坐が太鼓判を押す、その理由はわからなくもない。どん底の飢えと悪意で荒れた少年時代から、こんなにも眩く矯正された彼の姿こそが答えだからだ。しかし私は素直に頷けない。
「でも・・・」
「、大丈夫だ」
「先生がこういう場面で頼れるひとだって、わかってます。けど、私の気持ちとして、ひとりで行かせるのは・・・」
どんな些細な可能性でも、このひとに無用な悪意が向けられることを良しとは出来ない。上手く立ち回れるからと言って、この嫌な役回りを先生ひとりに背負わせることなんて―――
「なら、オレも行くよ」
大きく膨らんだ葛藤は、想定外の軽い衝撃でぱんと破裂した。真っ直ぐに挙手したヌルガイが、私と目を合わせるなり力強い笑顔をくれた。
* * *
結論から言うと、私たちの心配は杞憂に終わった。
現状の聞き取りに現れた先生に対し、清丸は若干の苛立ちを浮かべながらも一刀を披露する。しっかりとその刀には氣が乗っていたし、威鈴もそれは同じだった。二人とも初心者とは思えないほど筋が良い。上陸まもなく現れた竈神の群れや道士を拷問することで得た知識、そして殊現への忠誠だけでここまでの成長を遂げたのなら流石としか言いようが無かった。
さて、この場にいない筈の私が何故それを把握しているかというと。
「心配いらなかったみたいっすね」
「・・・そうだね」
彼らから少し距離を取った岩陰で、声を潜めて縮こまる。結局のところ私は先生とヌルガイが心配で堪らず、こんな形で付いてきてしまったのだ。
「ごめんね典坐。コソコソ隠れるのに付き合わせたりして」
「さんの隣で全部聞くって決めたのは自分っすよ」
氣の扱いに慣れれば、気配を薄めることにも応用が効く。そうしてひっそりと後をつけようとした私を、典坐はひとりにしなかった。正々堂々が性分だろうに、無理をさせている後ろめたさは勿論ある。けれど同時に、今ひとりじゃないことへの安堵も確かなものだった。
「あ、けど盗み聞きがバレて叱られる時は一緒っすから、そこは逃げないで下さいよ」
声と氣は極限まで絞りながらも、拳を小さく付き出すその笑顔は普段通り眩しくて。
「・・・勿論」
込み上げる温かな思いに目を細め、こつんと拳を合わせる。ありがとう、私の太陽。今こうして生きてくれるだけで途方も無く嬉しいのに、いつだって誰かを支えようとしてくれる。歯を見せて笑いあうこの瞬間に、かけがえのない幸福を感じた。
とはいえ、叱られるのは決定事項と言えるだろう。あのひとの氣への感知能力は私なんかじゃ到底及ばない領域のものだ。威鈴と清丸、ヌルガイには気付かれずとも、先生には最初からバレていると思っておいた方が良い。叱られるならせめて私が先導したのだと前に出よう。そんなことを思案する中、刀を乱雑に振るう音が響いた。
「これでわかった?僕たち、先発隊の尻拭いでわざわざこんな所まで来たんだから。本道場の奴らになんか遅れは取らないよ」
「ああ、二人とも見事な腕前だ。心強いよ」
棘がある、なんてものじゃない酷い物言いだった。相手が先生じゃなければ一触即発になっても不思議じゃない。むしろ私も典坐も、大事な師を間接的に馬鹿にされたようで苛立ちを抑え込むのに難儀しているくらいだった。
山田家の本道場と分道場、その溝を最も意識しているのは清丸で間違いないだろう。実際、先生が伴っていたのが山田家に関わりの無いヌルガイだったからこそ、ことはここまでギリギリ穏便を保っていたと言える。
それにしても、先生なら和を乱さないだろうと見越しての発言だろうけれど、あまりに失礼が過ぎる。ここで飛び出すことの悪手加減がわからない私ではなく、怨みの言葉は自分の中に留め置く―――その時だった。
「いつもくっ付いてる奴はどうしたの」
その声に、どす黒い感情がはっきりと滲み出る。私のことだ。本能的にそれがわかった。
「ああ。本の中から出て来た作り物なんだっけ。弟子とはもう呼べないか、人間じゃないんだから」
咄嗟に典坐の肩を強く掴めたのは、氣の増幅の片鱗を隣からいち早く感じ取った為だった。私たちは本来ここにいない者。忍び隠れているべき者。無言の中からそれを即座に理解し感情の起伏を抑え込みながらも、ぐっと眉を顰め奥歯を噛み締める典坐は、やはり優しいのだ。どんなことを言われても年下の兄弟子が憤ってくれる。それだけで、私は救われた。
「弟子がひとりお払い箱で、次はそっちの死罪人?士遠センセってやっぱり変わり者なんだね」
「き、清ちゃん・・・!そんな酷いこと言わないで・・・!」
「何だよ、全部本当のことだろ」
私に関してのみ、清丸の言うことは正しい。桂花が作った本の中から出て来たもの。皆と同じ人間じゃない。気味悪がられても無理の無いことだと、私自身が理解出来た。
威鈴がそこまで感情を露に止めに入る必要は無い。先生も、ヌルガイも、どうかこのまま聞き流して欲しい。その刹那、私は大事なひとの氣が僅かに波打つさまを感じ取り瞠目した。
「は我々と同じ人間であり、今も変わらず私の大切な弟子だ。彼女が私との師弟関係を望んでくれる限り、二度とこの繋がりを違えるつもりは無いよ」
静かな声だった。なのに、中道と呼ぶには感情が迸り過ぎている。
今私を庇う必要なんて無い。波風立てずこの場を治めることが目的なら何が正解か、先生だってわかっている筈なのに―――先生の言葉のひとつひとつが、こんなにも胸を打つ。
一度絶望的な別離を味わった反動だろうか。二度と繋がりを違えないという言葉が、無性に熱く鼓膜を揺らした。
「・・・何それ。空想の紛いモノ相手に随分と下手に出るんだね。理解出来ないなぁ、紙と文字から生まれた得体の知れない何かが同じ山田家に潜り込んでたってだけで、僕は気持ち悪くて仕方が無いけど」
「清ちゃん・・・!」
怒りがさざ波の様に、先生の氣から漏れ出てくるのがわかる。駄目だ。今ここにいない私なんかの為に、先生が憤るべきじゃない。
今度は典坐の手が私を抑え込む番だった。行くな、なのか。先生の好きにさせろ、なのか。真意は読めないながらも、その瞳もまた激情が迸り始めていて。
「・・・それ以上は」
「お前、嘘がわかり易いな」
それは、まるで一滴から生まれた波紋だった。
岩陰でお互いに掴み合っていた私と典坐も、対峙する清丸と威鈴も、隣に立つ先生すら一瞬たじろぐ程の呆気なさで、ヌルガイはその場の空気を作り替えた。
「・・・ヌルガイ?」
「オレはのこと、大好きだから。のこと悪く言われたら嫌だし、そもそも理由も無く嫌われる奴じゃないこともわかってる。何かすれ違いがあるなら何とかしたいと思ってた」
しっかりとした声だった。齢十二歳。まだまだ子どもでいられる筈が、死罪人という肩書を突如として負わされた悲劇の少女。それが今、私を罵る清丸の言葉を嘘だと断じている。
「けど、お前の言葉は違う。全部嘘だ」
「何。死罪人なんかに僕の何がわかるの」
「オレは確かに死罪人だけど、わかるよ。村を出てから初めて嘘に触れて、色んな景色が違って見えるようになったんだ」
清丸に鼻で笑われて尚、ヌルガイは動じない。
「初めてって・・・何それ、普通に生きてればそんな筈無いでしょ」
「山では誰もが皆の為に生きる。自然や生き物の動向はオレ達皆の命に繋がる。全部分け合って生きるのが当たり前だから隠し事はしない。嘘は吐かない」
私と典坐が互いに掴み合っていた手から、同時に力が抜けていった。村から出て初めて嘘に触れた。俄かには信じ難い境遇も、ヌルガイの口から山の民としての生きざまを聞けばすんなりと腑に落ちた。
偽らない。故に疑わない。それを外界の侍に対しても当て嵌めてしまったことが彼女の幼さであり、運命の分かれ道だったのだろう。
嘘も知らない純真さを容易く踏み躙られ、どんなに困惑し、どんなに傷付いたことか。奈落に転がり落ちた勢いで辿り着いた先がこの島だ。究極の逆境。それでもしっかりと両の足で立ち意見を述べる逞しい姿に、改めて感嘆の息が零れる。それは恐らく典坐も同じで、私たちは息を殺したまま状況を見守る。ただ、心だけはしっかりと彼女に寄り添った。
「ひとを傷付けたり、自分が上に立つ為の嘘が、外の世界には沢山あるんだって知ったよ。そういう奴は大抵嘘に慣れてるから、正直オレには見破れない。でも逆の嘘なら少しわかるようになった」
「・・・逆の嘘?」
「誰かを守る為の嘘。それから―――自分を守る為の嘘だ」
計算の無い言葉で図星を突かれたのか、真相は私にはわからない。ただ、清丸の氣が鋭く尖った空気のひりつきは、距離を置いて尚痛い程に感じられた。
「人間じゃないとか、紛いモノとか。酷い言葉だけど、本心じゃない。を無理に悪く言うことで、お前は自分の心を必死に守ってる」
「・・・っうるさいなぁ!!」
思いもよらない爆発だった。私の知る清丸は生意気でいつも不機嫌で。でも、大抵はこちらを嘲笑ったり睨みつけたりと、そこまでだ。こんなにもヌルガイに対し感情剥き出しで声を荒げるとは思ってもみず、隠れ忍ぶ身としては気が気でない。
「何だよ!本心に決まってるだろ!何の立場も無い女が突然よそから転がり込んで来て、本道場でのし上がって・・・それにっ・・・!」
明確に、何かを言い淀む間が空いた。
「おかしいだろ!あいつは何で立場を弁えないんだよ!人間じゃないくせに!空想の中から出て来たくせに!本の中で生まれたくせに!」
「どこから来たとか、どこで生まれたとかは・・・関係無いだろ」
ヌルガイは冷静だった。先生から学んだのか、こんなにも怒鳴られ心細いだろうに精一杯の虚勢を張っているのか。清丸の怒号に押されることなく、懸命に言葉を紡いでいる。
典坐と触れあう片側に熱さを感じた。強く目を瞑り、全身全霊の祈りで彼女を鼓舞する兄弟子の姿が、そこにあった。
「今頑張って生きてることが大事なんじゃないのか。オレは皆から、それをずっと教わり続けてるよ。オレのせいで村の皆を殺されて、オレだけ外の世界で生きるべきなのかわからなかったけど・・・でもオレは、今この島で皆と一緒に笑って泣いて、そういう時間を大切に思えるようになったから・・・今なら、生きてて良かったって言える」
生きていて良かった。ヌルガイの口からその言葉を聞けたことで、胸が熱くなる。生きるべきか、死ぬべきか。迷子になっていた小さな子はもういない。
「が変えてくれた、典坐が生きてる未来を・・・これから先も、ずっと生きていきたいと思う。だから皆で強くなって、一緒に島を出たい」
咄嗟に自分の口を両手で塞いだ。でなければ気の抜けた声も、思いも、全部が零れ出てしまいそうで。
どうしても典坐を生かしたかった。正史の犠牲を、認められなかった。その結果先生を巻き込み足掻いた先の未来を、ヌルガイが生きたいと言ってくれる。
―――嬉しい。どんな言葉を尽くしても足りない程に、嬉しくて堪らない。私は力の限りその場で縮こまった。
「は良い奴だよ。たまに訳わかんない話も出て来るけど、いつも全力で好きだって伝えてくれるし、一緒にいるとあったかい元気をくれる。誰がどこで生まれたとか、立場とか、全部関係無く皆と明るい輪を作れる奴だ。と話してると、皆いつの間にか痛みや苦しみが薄れてる。自然とそういうことが出来る、はすごい奴なんだよ」
そんなことない。痛みや苦痛も吹き飛ぶ程の元気をくれるのはヌルガイの方だ。その純真さで何度も私は力を貰えたし、皆だって同じ―――今私の隣で静かに感極まる兄弟子だって同じ筈だ。
示し合わせることなく私と典坐の手が重なり、お互いに強く握り合う。罪無き死罪人。その少女の成長に心を動かされた同志の、熱い繋がりだった。
「だから・・・そんなを精一杯悪く言った分だけ、お前も痛い思いをしてる気がして」
「っ・・・!そんな訳ないだろ、山の人間はどうしようもない馬鹿・・・!」
優しさを根底にした指摘を、清丸は力一杯に撥ね退けた。そのまま粗雑な足音が遠ざかっていくことで、彼が去ったことを悟る。馬鹿とは随分と子供じみた捨て台詞だと遠い目をしつつ、彼もヌルガイと同じく十二歳であったことを思い返す。どちらも子どもだ。なのに、その子ども同士の思いのぶつけ合いでこんなにも感情を揺さぶられた私がいた。
「・・・ごめん。言い過ぎた?」
「いや、君の気持ちは十分伝わったよ。見事だった。私の出る幕は無かったな」
「えへへ」
先生に頭を撫でられて、照れ臭そうな愛らしい笑顔が目に浮かぶようだった。沈黙していた影が一歩を踏み出す音が聞こえる。威鈴は今ばかりは清丸を追わなかった様だ。
「ごめんなさい。彼に代わって、謝ります」
深く頭を下げるその長身から発される氣に、誤魔化しや偽りの気配がある筈も無く。兄譲りの実直さに、先生も何か感じ入るものがある様だった。
「私と清ちゃんは、さんに同じ嫉妬心を抱いているんです」
「・・・嫉妬?」
想定外の単語に、岩を背に座り込んだまま目が丸くなる。
「殊現様が、さんに期待をしているから」
ほんの一瞬、心臓を強く圧迫されたような緊張感が走った。次いで浮かぶのは、黒い隈を携えた頑固な瞳。期待。山田家で最も強く、最も家を愛する男が、私に期待を?脂汗か冷汗かもわからない何かが背中を伝った。
「決してわかり易い贔屓はしない方です。それでも、心のどこかで他の門下生より大きな期待をさんに寄せていた。殊現様を強く慕う分、私たちには伝わってくるものがありました」
考えもしなかった展開も、強く慕えばこそわかると言われてしまえば反論など出来る筈も無い。威鈴も清丸もどれほど殊現を思っているか、私はそれを知っていた。
『・・・それにっ・・・!』
先ほど清丸が言い淀んだ何か。そこに殊現からの期待がパズルのピースの様にはまった瞬間、これまでの強烈な敵視も悪態も説明がついた気さえして。私は困惑に眉を顰めることになった。
「追加上陸組の私たちには、無数の忍のひと達を通してこの島で起きたすべてが共有されています」
石隠れの忍達による情報共有。この島で起きたすべて。彼らなら可能だろうと息を吐いた次の瞬間。私の脳裏に浮かんだのは、別の忍の皮を被り現れたシジャの姿だった。
まさか。ずくりと音を立てて内臓が痛みを発する。
「死罪人、民谷厳鉄斎。そして幕府に逆らい彼を庇った山田浅ェ門付知。彼ら二人を守るべく立ち塞がったさんを―――交戦の末、殊現様は見逃した」
『・・・彼女は浅ェ門のひとりだ。好きにさせる』
圧倒的に有利だった状況下、殊現は私を見逃した。厳格な彼ならまずあり得ない程の特例だ。殊現の行動原理、そのすべてを読み解く力は私には無い。でも、そんな私にもわかることがひとつだけある。
「きっとその事実が、清ちゃんには堪えたんだと思います。さんの出自を理由に罵らずにはいられないくらいに」
期待や特別扱いなんかじゃない。衛善さんの刀があったからだ。
小竜景光、写し。鍔迫り合いの最中、殊現は一目で敬愛するひとの刀に気付いた。長年の愛刀を、衛善さんが私に託したという事実。山田家の序列一位が既に脱落した耐え難い現実。それを看破したことで戦局が硬直し、奇跡的に見逃されるに至ったのだ。
違う。私が特別だった訳じゃない。弁解にも似た思考を並び立てる、その最中。頭を過ぎったのは殊現の傷付いたような表情で、私は顔色を失った。
仮に、威鈴と清丸の信じている説が本当で。山田家最強の男が、私なんかに特別な期待をかけていたとして。あの時付知と厳鉄斎の命を守ることに必死だった私は、殊現にどんな言葉を投げつけた?
『秩序じゃ守れない大切なものがすぐ目の前にあるのに・・・わかってて目を逸らすような奴を、私は兄弟子とは認めない・・・!』
その言葉に嘘は無い。ふたりを守ったことに後悔なんてある筈も無い。ただ、罪悪感だけが火の手を上げる。私にとって殊現は、ずっと恐れていた脅威であり。同時に、ずっと背を追い続けた尊敬する兄弟子だったのに。
「・・・お前も、を悪く言わないと自分を守れそうにないのか?」
ヌルガイのおずおずとした問い掛けが、私の意識を暗い闇から引き戻した。そうだ。全てを共有していたのなら、再会したあの時点で威鈴もまたことの顛末を知っていたことになる。
「いいえ。さんは妬いてしまう相手であると同時に―――私の目標だから」
たとえどれほどの呪いの言葉が降って来ても甘んじて受入れるしか無い。そうして構えた側から、覚悟は呆気無く砕かれた。
「大きな期待の末に、殊現様が巡り合わせて下さった試合相手。あの日に大きな負けを知ったからこそ今の私が在る。そしてさんは・・・道場の括りに関わらず、私を真っ向から認めて下さっている。この島に来て尚それが変わりないことは、対峙した瞬間にわかりましたから」
誰よりも慕い、尽くし、心を寄せる。そんな殊現に目をかけられながら、幕府に逆らい牙を剥いた。憎まれて然るべき私を、威鈴は目標と呼んでくれた。
「兄の最期を正直に話してくれたこと。心から悲しみ、泣いて下さったこと。嫉妬を覚える度に曇りそうになる私の意識を、さん本人が晴らしてしまうんです」
困ったような泣き笑いの表情が、柔らかな声を通して伝わってくる。ああ、どこまで良い子なんだろうか。頭の中で清丸の怒号と、殊現の傷付いた瞳と、威鈴のフォローする言葉が折重なって、胸が苦しい。
不意に、繋いだままの手から温かな巡りを感じ取る。典坐は相生の氣と優しい笑顔をくれた。
「貴女の言う通り、生まれや出自は関係無い。私はあのひとを目指して、そしていつか私自身の力で殊現様の特別を勝ち取りたい。あの日さんが本気でぶつかって下さったからこそ、そう思える私になれたんです」
この場にいない私を称えてくれる威鈴の声は誠実で、力強くて。そして、あれほど頑なだった正史の意思を緩め、死罪人であるヌルガイの言葉も許容する柔軟さを見せてくれる。
変化の仕方まで、そっくりだなんて。込み上げそうになる激情を短い息に変えて吐き出し、典坐の助けを借りて、私は大丈夫だとひとつ頷いて見せた。
「清ちゃんのこと、本当にすみません。時間が無いので、和解は難しいかもしれません。ですが、私たちが皆さんに遅れを取らず戦力になれることだけはお約束します」
「・・・十分だよ。ありがとう」
先生と威鈴の会話を耳だけで捉えながら、顔を上げる。
誠実な威鈴が目標とまで言ってくれる、そのひたむきな思いに応えられる自分でいたい。ヌルガイが言い表してくれたほどの器は少し自信が無いけれど、それでも胸を張れる自分で在りたい。傷付けてしまった殊現に報いることは、敵対する限り難しいのだろうけれど。今は全員で島を出る、その目的の為に前を向かなくてはいけないのだ。決意をひっそりと新たにした、その時。
「格好良いな」
「え?」
ヌルガイの声が明るく響いた。
「誰かの代わりに謝れて、目標もぶれなくて、ずっと前向き。それってめちゃくちゃ格好良いよなぁ。あとその身体の大きさも羨ましいくらい格好良い。オレももっとぐんぐん背ぇ伸ばしたい」
「えっ?え、いや、あの・・・ありがとうございます」
思ったことを端から言葉にしていくヌルガイの声には、疑う余地の無い正直さが満ちていて。これまで周りからは誤解されてばかりだったからこそ、純粋な賞賛と憧れ、その両方を余すことなく向けられる狼狽え。相手は死罪人の少女でありながら心が弛んでしまうことの戸惑い。そして堪え切れない喜びを噛み締めるような威鈴の礼に、私と典坐は小さく笑いあいながら二度目の拳を軽くぶつけ合う。
心配していた不和の波立ちが起きなかった訳ではないけれど、ヌルガイと威鈴の真摯さで丸く治まった。隠れて潜んでいたことは褒められた行為ではなくとも、今ここで一部始終を聞けたことには大きな意味がある。短時間で、数々の実りを得たような充足感を覚えた。
「・・・あの、お節介かとは思うのですが」
だから私は少しぼんやりとして、威鈴の声に滲む緊迫感に気付くのが遅れてしまったのだ。
「先ほども言った通り、私たちはここに至るまでの出来事を共有していますので・・・私は、貴方がたが清ちゃんと遭遇した時のことも存じています」
隣に座る典坐の氣が、突如動揺で揺らぐ。ヌルガイも何かに気付いた様で、はっと息を飲むなり先生を見上げる。先生もまた、珍しい程の思案で顔を曇らせていることを感じ取れた。この場で付いていけないのは私だけだ。
とどめを刺さないながらも朱槿を下し、そして清丸率いる忍達に先生とヌルガイが―――この世界では典坐も共に捕縛されたのだろう、そこまでは私も本で把握出来ていた。ただ、そこで何が起きたのか。私達と合流するまでの間に何があったのか。私の知らない空白に、答えがある。
「あの場を見逃すに当たって交わされた“条件”のこと・・・さんに、お話はされていますか?」
条件とは一体何か。私はただただ困惑の坩堝にいた。