「頬から飛び出てる花以外は、普通の体組織だと思う。強いて言えば入門してからの成長速度が凄かったけど、それはシオさんの指導が良かったからだろうし。仙ちゃんはどう思う?」
「概ね同意見です。体調不良もあれば血も流れる、人体の構造としては・・・」

付知の分析はすらすらと澱みなく。そこに連なろうとした仙汰の言葉が中途半端に消え入る。私に向けられた苦笑は、実に彼らしい思慮深さに溢れたものだった。

「というよりも。これまで共に過ごして来たひとが創られた存在と言われても・・・実感にはなかなか届き辛い、といったところでしょうか」

私はこれまでの真実を皆に打ち明けた。

天仙のひとりである桂花が書き記した本の世界から召喚された、創造の人間であること。そこには此方側の世界が物語として用意されていて―――桂花が蓮も把握していない未来予知の力を有することも含めて―――私は地獄楽という名のその作品に夢中でありながら、結末を知らない中途半端な読者であったこと。何も持たないゼロからのスタートながら、先生の力を借りることで未来改変を目指しここまで辿り着いたこと。桂花によって自らの起源を明かされ、一度は向こう側に帰されたこと。そして、改めて物語を読み進める中で戻りたいと強く願った思いが、奇跡的に叶い今に至ること。

勿論心臓は早鐘を打つばかり、言葉だって何度も絡れて。その度に先生が出してくれる上手な助け船を借りることで、私という異分子の実態は皆のもとに届けられた。数奇過ぎる告白によってこれまでの絆にひびが入ることを恐れていた私に対し、まず亜左兄弟が然程興味も無い様子で席を立ち、露骨に悪態をついた清丸が立ち去るのを威鈴が慌てて追いかけた。残された面々の中から進み出た付知が私の身体構造について思いを巡らせ始めたところで話は冒頭へと戻る。
当然のことながら、皆戸惑いはそれなりにある様だった。でも、それは私が最も恐怖に感じていた忌避とはほど遠い。

「本の中の人間、という表現も正直よくわからんな。おヌシとワシらに確たる違いがあるとも思えんし・・・」
「・・・ありがとう」
「礼はいらんだろ。ただの主観だ」

画眉丸は本で見た通り、花化の症状が進んでいた。消耗も当然あるだろう中、胡座に肘をついて普段通りの調子で話を聞いてくれる。それだけで、十分に有難いのだ。私は苦笑しながら小さく肩を竦めた。
次いで、厳鉄斎が鉤爪で自分の顎を弄りながら眉を寄せて私を見る。表情に関わらず、これは何だか茶かそうとしている気配を感じた。

「紙の中から出て来たってか?その割にゃ厚みはあるぜ、まぁ女としちゃあ圧倒的に平らな部類だがよ」
「はは、紙だけに平ら。やるね」
「おうよ」

視覚ジョークならぬ厚さジョークだ。遣り方は荒いけど、本人が言ってた通り厳鉄斎は女に優しい。思わず苦笑が溢れるその刹那。私は、隣に座る先生の雰囲気が複雑に捻じ曲がる様相を察知した。厳鉄斎の冗談に対し、瞬間感心したような。それでいて、直接の内容―――身体が壊滅的に薄い、確かに剣を取るまでの私にとってはコンプレックスだった―――女性的にどうなのかという葛藤。私への配慮、そして迷い。端的に言えば、冗談を諫めるか否か、極めて渋い顔で悩む先生がそこにいた。

「・・・」
「おい。んな顔されてもよぉ。お得意の冗談て奴を真似ただけだろうが」
「全くもってその通りですし私は何も気にしてないですよ・・・?!」
「・・・君がそれで良いのなら。厳鉄斎もすまなかった、私もまだまだ修行が足りないな」

小さな咳払いと共に先生が呼吸を整える。そこに対し皆は笑ったり、厳鉄斎を小突いたり、反応は色々ながらあまりに空気は穏やかで。

「・・・サン。氣、心、揺レテル」

私の揺らぎは、左の胡座にちょこんと腰掛けるメイに筒抜けていた。それは自然と逆側の腿を陣取るヌルガイにも波及する。

「何?どうしたんだ?どっか痛いのか?」
「あ・・・違うよ。ただ、その」

いつぞやと同じく、私にぴたりと寄り添ったまま話を聞いてくれた小さな子達の温かさを両脇に感じながら。そして重大な告白を経て尚あまり変わった様子の無い皆を前に切実に思うこと。
私は、本当に恵まれている。

「皆、思ってたのと反応が違ったからちょっと面食らったのと・・・あとは少し、ほっとしてるのかも」
「んなこと、当たり前じゃないっすか」

先生とは逆側の隣に陣取った典坐が声を上げる。眩しくて熱い笑顔が、私を真っ直ぐに見据えていた。

さんがどこから来たどんなひとでも、これまで積み重ねてきた時間は確かなものっす。変な線引きなんてするひとはいねぇし、逆にさんからもしないで欲しいっすよ」
「そうだよ。オレ達皆、とまた一緒にいられて嬉しいよ」

典坐に同調するヌルガイが、軽過ぎる体重を預けてくることで感じる幸福な温かさ。当たり前だと、一緒にいられて嬉しいと言ってくれる。先生と同じ様に、皆ありのままを受け入れてくれた。胸が熱くなる。

「皆、思いは同じだよ」
「・・・先生」
「君の胸の内を話しても大丈夫さ。もう恐れることは無いんだよ」

優しい声が奥深くまで染み入る。先生と一対一で話した様に、皆にも今なら本音を明かすことを許された様な気がして。私は今一度、深く息を整えた。

「・・・私、この世界に来た日から皆のこと知ってた。未来が見えるとかじゃなくて、物語の中の出来事として、知ってた。皆がどんな目に遭うかわかってて、何とかしたくて・・・」

何者でも無かった私が先生の導きを得て、浅ェ門の称号を手にした。きっと何とか出来ると思っていた。先のことさえわかっていれば皆救うことが叶う筈だと、出立までは本気で信じていた。

「・・・なのに。私が来たせいで色んなことが捻じ曲がって。衛善さんと源嗣のこと、助けられなかった」
「けど、俺を助けてくれたでしょう。期聖さんだって、さんのお陰で今生きてるんっすよ」
「僕も命を救われました。さんがこの世界に来たことで生まれた変化は、悲観することばかりではないと思います」

私の罪の意識を、生き延びてくれた二人が優しく否定する。本当に、典坐と仙汰が今も命を繋いでくれているからこそ私は自分を保っていられるようなものだ。そうして苦い思いを飲み込んだ、その時。

「―――成程ね。僕も死ぬ予定だったけど、それを助けに戻ってきてくれたんだ」
「っ・・・」

一際小柄な兄弟子は勘が鋭い。凪いだ声で真相を紐解かれ、私は暫し言葉を失った。
戻った先で堪らず閉じた本の巻末。からりとした笑顔で、敵も味方も皆の願いが叶うようにと手を上げた魂の姿が、今も瞼の裏に強烈に焼き付いている。それでも今目の前にいる付知は、自分が死ぬ運命にあったという重さを静かに受け止めていて。言葉が出ない私の動揺も肯定と捉え、納得の表情を見せる。

「あの時が来てくれなかったら僕か巌鉄斎のどっちか、或いはどっちも。今頃死んでたよ」
「伊達女よ、改めて礼を言うぜ。細けぇことは俺にはさっぱりだが、お前さんに命を救われたことだけは確かだからな」

胸がいっぱいで上手く話せない。私は緩く首を振って応えた。
付知と厳鉄斎は片方を犠牲にするんじゃなく、二人揃って島から生還して欲しい。そう願った先に今がある。私が混じることで生まれた変化は悲観することばかりじゃないという、仙汰の言葉に一層縋り付きたくなる。
喪ったふたりへの思いは消えない。それでも、今目の前にある命が私を強く支えてくれる。本当に、間に合って良かった。そうして細く息を吐き出す私を前に、佐切が前へと進み出た。

さん、また仲間を助けていただきありがとうございます。戻れた先が付知殿のところで良かったです・・・」
「・・・偶然なんだよ、本当に。どこに辿り着けるかは狙った訳じゃなかったから、運が良かったとしか・・・」

あの時送り出された先が何処に繋がっていたのか、それは私本人も目を開けるまで知り得なかったことだ。決定的なひと太刀には間に合わなかったものの、珠現と対峙する場面に割り込めたことは幸運としか呼べない。その時だった。

「・・・これかもね」

付知が背に負った荷から出したもの。それは見覚えのある本だった。

「・・・付知、それ」
「サギと仙ちゃんの本。二手に分かれた時、僕が預かってた」

ふたりが私を観察し纏めた随筆集。画眉丸と杠、知らぬ間にメイやヌルガイも読んでいたのだという、本土にいた頃の私の日常。それが決して積極的には関わっていなかった筈の付知の手にあった。

「まだ未完成だって聞いたから。僕とサギと仙ちゃん、三人共生きて合流しなきゃこの本は完成しない。非合理的だけど、願掛けってやつ」
「・・・付知が、願掛け?」
「そう、僕らしくない。けど、あの時は必要なことに思えたから」

仙薬奪取班として発つ佐切と仙汰が、付知に未完の本を預ける。それは確かに三人揃って生還しなければ完成には至らない願掛けに相応しいけれど、現実主義の付知がそこに乗ったことが意外でならない。自覚もあったのだろう。けれど、らしくないと言いながら付知の言葉には確信めいた芯があった。

「これはを創った天仙の本ではないけど、サギと仙ちゃんが丁寧にの日常を記したものだから。を物理的に引き入れる門としての役割にはうってつけだったと思う。色々特殊ではあるけど、創造って起源を持ってたことが功を奏したんじゃないかな」

創られた私だからこそ。丁寧に描かれたもうひとつの本を門として、付知の元に辿り着けた。先生がくれた組紐、鉄心さんの導き、そして佐切と仙汰の手によって此処に生きた私が写された本。ひとつひとつが繋がって、最良の道になってくれていた。それは、例えようもない程に幸せなことで。

「僕もに影響受けたのかな・・・認めるよ。無敵とまでは言わないけど、確かに思いの力は強いね」

見えないもの、触れ得ないものは信じない。それが信条だった兄弟子が、今こうして思いの力を肯定し、願掛けをするに至る変化を受け入れてくれた。
生きてくれるだけで、十分に嬉しいのに。私の存在までこうして皆の傍に紐付けてくれるだなんて。

「付知・・・ありがとう」

報われた思いがした。まだ大局には辿り着いてもいない、それは承知の上だけれど。それでも私が此方側で生きた三年の証を、兄弟子達が先生とは違った形で与えてくれる。私という奴は、どこまで幸せ者なんだろう。

「・・・佐切と仙汰も、ありがとう。ふたりの本のお陰で、大事な場面に間に合えたよ」
「いいえ、さんを繋ぎ止める一因になれたのなら・・・私も心の底から嬉しいです」
「僕も光栄に思います。熱量、しっかり込めましたもんね、佐切さん」
「はいっ・・・!」

佐切と仙汰が顔を見合わせ頷き合う、その優しい雰囲気と熱意が私をここに導く鍵のひとつだった。照れ臭さと感嘆の思いに目を細めずにはいられない、その最中。

「はいはい、涙目のさぎりんは可愛いけど大事なのはここからでしょうが」

彼女は臆せず間に入り風向きを変えた。

「で!一回帰って戻って来られたってことは、今度こそ良い土産話持ってるのよね?ちびェ門の死に際を救えたんだから、つまり先の情報を期待していいのよね?」
「ちびェ門じゃない」

かなり嫌なデジャブを感じる。杠は私の真正面で胡座を組み、逃がさないと言わんばかりに妖艶な笑みをギラつかせ私の言葉を待っている。一筋の冷たい汗が背中を伝った。

「それが・・・あの・・・」

言い淀んだ時間はものの数秒。既視感を感じたのは私だけではなかったらしく、美しく聡いくのいちの瞳に闇が落ちた。

「・・・うーわ。マジ」
「ごめん本当に・・・!付知のことを知った時点で居ても立っても居られなくて、もっと先のことまでちゃんと読み込む余裕が無くて・・・!」

私が更新した知識は十巻、付知が死す場面で途切れた。今は更にその先なのだ。大事な機会を不意にして、またもや私は役に立たない状態で戻ってきた。杠が虚無の瞳になるのも無理も無いことだ。

「ま、らしくて良いんじゃない」
「先のことがわかっててもわかんなくても、沢山頑張らなきゃいけないのは一緒だよ!な、典坐!」
「っす!皆でいれば大丈夫っすよさん、自分達なら出来る!でしょう?」

次々に私の援護に回ってくれる仲間の声が沁みる。そしてまるで私を庇うかの様に、杠と私の間に横から腕が差し込まれた。

を先読みの役割から解放して欲しい。彼女は既に我々と時を同じくして生きる者だ。先見の明など無くとも、は確かな戦力になるよ。師として私が保証する」

穏やかな声が、もう先のことを見通せない私の実力そのものを後押ししてくれる。何より心強い言葉で、私を精一杯守ろうとしてくれる。胸に迫る思いが喉元を締め付けた、その刹那。

「・・・私は侍の仲間じゃないから納得できない。がっかりさせられた代償を要求するわ」

杠の声は淡々としていた。先生を相手にしても動じず退かず、そして改めて真顔で覗き込んでくる。心臓がきゅうと縮こまった。

「先のことを持ち帰れなかった代わりに、さっきイチャイチャ話してた内容を全部吐きなさい」
「・・・は?」
「そしたらチャラにしてあげる。私って寛大ねー」

ひらりと華麗な変わり身の如く、杠の唇がにんまりと弧を描く。私は唖然と口を半開きにすることしか出来ない。

「ゆっ・・・杠さんいけません!個人的なことですよ・・・!」
「とか言っちゃってさぎりんだって壁の向こう側に興味津々だった癖に」
「そ、それは・・・!」

果敢に割って入ろうとしてくれた佐切は一発で言い負かされてしまった。油断していた。確かに切り替えたいというのは私の思いでしか無く、逆の立場なら私だって気になって仕方ない案件な自信もある。
数々の奇跡が連なった途方も無い確率の末に、一番大事なひとと思いが通じていることを確かめ合った。創られた私に齎された、一番の幸せ。でもそれは今の緊迫した状況には不釣り合いなものだという思いがあり、先生もそれを理解してくれた―――ずっと前から、理解してくれていた。今は島からの全員生還に邁進するのみだ。その先の未来を、共に歩む為に。
ただ、こうまで遠慮無く探りを入れられた経験が無い故に私の心臓は爆発寸前のような有様で。落ち着け、落ち着け、落ち着け私。壁の向こう側という言葉から思い起こすあらゆる幸せな回想と、羞恥心と、今は封印しろという決意が荒波を立てる。

「だっ・・・だ、大事な局面を控えてるから、う、う、浮ついてる余裕は無くて、えっと・・・!」
「ふーん、へぇ、そーお?おねーさんはそうでもオトコの方はどうかなぁ?」

杠はあっさりと矛先を先生に切り替えた。手慣れ過ぎている尋問の甘い声色と、オトコという妙に色気を秘めた単語に、わたわたと目を回す私の隣。先生はあくまで普段通りの調子を崩す事なく腕を組む。

「私はの意思を尊重するよ。今は命懸けの大一番を前に、切り替えが必要な時だ」
「えー?つまんないー!」

乱されず、流されず、落ち着いた大人の対応だ。先生の全く振れない構え方を尊敬するやら、自分の未熟さが恥ずかしいやら。小さな安堵と、やっぱり私の大好きなひとは素晴らしいという不思議な高揚感に口元が緩む、次の瞬間。

「だが、私も今後己の思いは偽らないことを決めた」

先生の口調自体は一切変わりなく。しかし、その場の空気が明確に揺らぐ。

「よって島からの生還を第一目標には掲げるが、不埒な輩は迷わず叩く。聞いているか十禾」
「・・・んぁ?なんか言った?」

半分以上寝ていた兄弟子に対する先生の視線は厳しい。十禾さんの日頃の行いを鑑みればそれ程違和感のある発言でもない。でも、再会から今に至るまでの濃い時間が、どうしたってそれ以上の意味を醸し出してしまう。耳朶が徐々に熱を持ち始める様な感覚に、私は意味も無く口の開閉を繰り返した。

「それはさぁ、任務第一に頑張るけど、それはそれとして自分の女に手出しすんなって牽制で良いのよね?ふたりはそういう関係って認めるのね?」
「ゆゆ、杠、ちょっと落ちちゅ、落ち、落ち着きれ」
「どんだけ動揺してんのよ、経験皆無すぎて引くわ」

お願いだからそれ以上詰めないで。そう言いたいのに大事な局面で噛みまくる私は、確かに恋愛偏差値マイナスのオタクだ。熱い血が頭を激しく巡って目眩を催すその最中。

「どう受け止めて貰っても構わないよ」

私は、不意に感じた優しい氣に目を丸くした。隣にいる先生とは直接触れ合っていないのに、そっと頭を撫でられたような感覚。心配無い、落ち着こう。穏やかな声でそう諭された様な心地に、心音のペースが自然と落ちていく。身体とは別で、氣を通し心が繋がり合っているのだと。理論や原理なんて全部後回しに、何故かそう信じられた。
先生が私の顔を見る。普段通りの飄々とした笑みを浮かべるまでのほんの二秒。私は懇切丁寧な気遣いにより、自分を取り戻させて貰った。

「大事なことは、二度と“見”誤らない」
「見・・・!」
「または・・・乗らなきゃ良いのに」

私に対する付知の呆れた様な声に皆が笑う。杠も先生の態度があまりに堂々とし過ぎて、それ以上の追撃がし辛くなったようで少し悔しそう。構え方次第でこんな風に遣り過ごせるだなんて、考えてもみなかった。

「・・・おふたりとも、思いが吹っ切れたのですね」

ぽつりと溢れ落ちた佐切の言葉は、揶揄いの類とは対極の彼女らしさに満ちたもので。私は一瞬先生と顔を見交わした末に、優しい頷きを得て心を決める。
吹っ切れた。それは確かに、今の私たちにぴったりな表現に思えた。

「・・・そういうことに、なるのかも」

緩く笑った次の瞬間、年下の姉弟子の瞳からゆっくりと透明なものが流れ落ちる。私はその光景を呆然と見送るしか無かった。

「え?佐切・・・」
「っすみません、ただ・・・本当に、良かったと思って」

今は大事な時だけれど、これくらいなら大きく構えて大丈夫な筈だと。皆が大切だからこそ正直になった途端に動揺の嵐がやってくる。両手で顔を覆う佐切の声は涙に揺れながらも、感慨深さとまごう事なき喜びで彩られたものだった。

「え、あの、良かったっていうのは・・・」
「仕方ないよ。サギは割と長いこと、ふたりのこと気にしてたから」

付知の指摘は淡々としたものだったけれど、初耳だったし気付きもしなかった。本土にいた頃の私と先生は秘密の共有者であり、弟子と師でもあり、オタクと推しだったけれど、周りからそれ以上のことを見守られていただなんて思い至る筈も無い。同性で、抜けた所の多い歳上の妹弟子だから気にかけてくれているものと思い込んでいたのに。突然の涙に狼狽える反面、そんな風に私の前進を全身で喜んで貰えることが気恥ずかしくも嬉しい。ただ、何を言えば良いのかわからず戸惑うばかりの私を前にして、佐切の口元から微かな吐息が溢れ出た。

「・・・いけませんね。私よりも、もっと今を心待ちにしていたひとがいるのに」

今を心待ちにしていたひと。今こんなにも泣いて喜びを表してくれる佐切よりも、もっと。困惑に眉を寄せた一拍後になり、私は目を見張ることとなる。先生とは逆隣、すぐ近くで膝の上の拳を強く握る気配が伝わってきた為だった。

「―――自分はわかってたっす」

ゆっくりと右側へ視線を向ける。絞り出した声、いくつもの感情が綯い交ぜになった吐息、少し時間をかけて心を整理した末に歯を見せて笑ってくれる、私の太陽。

「だって先生とさんは、ふたりでいる時が一番笑顔が輝いてるんすよ。同じ家で何度も見てきた、大好きな光景っす」

三年間、同じ居候として共に暮らした。先生と同じくらい近くで、沢山の元気をくれた。絶対に死なせちゃいけない、何度だってこの笑顔を見る度にその決意を繰り返させてくれた。そんな兄弟子までも、同じ屋根の下で私の秘めた思いを見守ってくれていただなんて。

「へへ。だから自分も、今めちゃくちゃ嬉しいっす。ぜってー、生きて島を出ましょうね」

一際輝く眩しい笑顔の輪郭を、一筋の薄い涙が疾る。光栄で、嬉しくて、幸せで。火がついたように身体の奥が熱くなる。鼻の奥が一気にツンとした。

「・・・典坐ぁ」
「あー、涙は駄目っすよさん!めでたい時は笑わねぇと!」
「はは、典坐も泣いてるじゃん。けど、オレもすげー嬉しいよ。センセイとは一緒にいないとダメなんだ。な、センセイ」
「ああ、そうだね」

私と典坐、そして佐切の間で泣き笑いを交わし合いながら、大人ぶったヌルガイの言葉に苦笑を漏らす。どうしよう。今、とても嬉しい。

「良かったな」

はっと顔を上げる。依然として花の侵食を受ける画眉丸の瞳に強い生気が宿る光景に、私は目を見開いた。

「ワシも俄然、妻に逢いたくなった」
「っ・・・うん!絶対、絶対に会わなきゃだね!」

やっぱり、画眉丸が結さんを想う熱さはこの世界で最上級に強いものだから。自分自身の嬉しさも加速したような心地で私は目を細めて笑う。無意識に力が入ってしまったのだろう、左側で僅か身じろぐ気配がした。

サン、氣、熱イ」
「あっ・・・ごめんねメイ、嫌だった?」
「違ウ」

桃色の髪をふるふると揺らして首を振る、メイの愛らしい瞳が柔らかく綻ぶ。

「幸福ナ熱サ。笑顔。触レル、嬉シイ」

化け物蠢く魔の巣窟。極楽浄土と紙一重の美しい地獄。そんな地にありながら、こんなことを思うのは可笑しいかもしれないけれど。
心の底から、此処に来れて幸せだと感じる。

「・・・もう。皆大好き」
「オレも好きー!」

両腕でヌルガイとメイをぎゅうと抱き寄せると共に、和やかな笑い声が溢れる。温かくて優しい匂い。ひとの縁に恵まれたことの喜び。そして、特別なひとと解けない糸で結ばれた奇跡。
ほんの一瞬、視線を上げた先で目が合った。堪らなく優しい笑みが私に向けられて、私もだらしない頬の緩みで応える。

「あ!今目配せでイチャイチャした!」
「目配せ・・・成程、一本取られたな」
「はぁ?」
「っはは・・・!杠やるじゃん」
「えええ?何このふたり面倒臭いー!」

為すべきことは変わらない。私たちの関係性が少し変わっても、皆の心地良い空気感はそのままだ。

「よし。皆切り替えていくぞ」
「はい、先生!」
「はーい、センセイ!」
「センセイ」

先生が手を二回叩くと、私と膝の上の子達の息がぴったり合って。私たちは思わず、それぞれに顔を見合わせ小さく笑い合った。