先生にとっての鉄心さん。その欠損の痛みを私が正確に理解することは、きっといつまでも出来ないのだろう。去る背中を見送ってしまったが故の取り返しのつかない後悔を、あの日墓前で話して貰った時から、ずっと。弟子としては永遠に敵わないひとであり、同時に先生の幸せを祈る同志である筈だと、勝手に信じ続けていた。短いながら旅路を共にした相手だとはっきりした今、その思いは一層強くなるばかりだった。
彼は規格外に強い師弟愛を体現した様なひとだ。惨い別れ方をしてしまった先生を良い未来へと導きたいが為に、私という不安定な存在すら拾い上げて、強引にこちら側へと押し戻してくれた。何をしても受けた恩を返し切れないひと。それは目の前で俯く先生も同じことで、私は如何に自分が周囲の縁に恵まれ、助けられてこの世に存在しているかということを心に刻む。
「・・・ありがとう、。もう大丈夫だ」
果たしてどの程度役に立てたのかはわからない。背を撫で続けることしか出来ずにいた私の任を、先生はやんわりと解いてくれた。
「私は本当に・・・素晴らしい弟子達に恵まれたな」
穏やかな苦笑と共に告げられた言葉は優しい。素晴らしい弟子達。その栄誉ある括りの中に、私も入れて貰えていることは明らかで。
心底光栄に思う気持ちが、半分。そしてもう半分は―――
「先生に謝りたいことがあります」
―――長らく燻り続けた、罪悪感だった。
鉄心さん。そして典坐。この二人と同列に数えて貰える今を誇らしく受け止める為にも、一度私の抱えた汚いもの全てを曝け出す必要があった。
「本当は違う世界から来たって、言えなくて・・・大事なこと、都合よく隠したまま・・・長い間、先生の優しさを利用しました。嘘をついて、ごめんなさい」
「・・・君が負い目を感じる必要は無いと、言った筈だよ」
包み込むような労わりの表情が、チクリと痛みを発する。忘れたことなんて無い。あの日鉄心さんの墓前で、先生は私の隠し事が何であれ無理に開示する必要は無いと、最大限の寄り添いを見せてくれた。拭えない罪の意識でぐちゃぐちゃに押し潰されそうだった私にとって、どんなに救われた思いがしたことか。
「私を大事にしてくれる先生に隠し事をするのは、嫌でした。でも、本当のことを言ってもし遠ざけられたら・・・一緒にいられなくなったらと思うと、怖くて。生きていれば明かせない秘密もあるものだって。そう言ってくれる先生の優しさに、ずっと甘えていました」
もう何もかも白日の下に晒されている。桂花との会話を聞いていた先生には、全てが筒抜けているだろう。
私が当初、この世界を創作のものと感じていたこと。真相は真逆で、私こそが創られた人間であったこと。別の世界に生きる者、誤った自己認識の中でも私には最初からその意識があった。そこを都合よく伏せた上で、私は山田家の良くない未来が見えるのだと嘘を通した。
「全部ばれてからこんなこと言って、我ながら本当に自分勝手で狡い奴だと思います。でも、こんな私でも先生がまだ弟子と認めてくれるなら・・・先生には正直な私になりたいんです。だから、長い間ごめんなさい」
この局面で頭を過ぎるのは、洞窟で桐馬から冷ややかに浴びせられた言葉だ。ただの自己満足で謝罪を押し付けにきたのか、と。まさにその通りだ。自分が楽になりたい、身軽になりたい一心で、全部露見した今になって都合よく過去を清算しようとしている。
でも、今度こそ何の後ろ暗さも無く、私は先生の弟子だと胸を張れる自分になりたい。もう先生に嘘をつきたくない。だからこれは、私にとって必要な懺悔だ。
尤も、それを赦すか否かは私が決めることではない。先生の雰囲気が明確に厳しさを増し、私の内臓が縮み上がる。
「良いだろう。ならばこれは叱責だ」
「・・・はい」
「生まれた世界が違う。それを理由に私が君を放り出す、または遠ざけると思っていたのなら・・・」
先生の右手側面が、私の頭頂目掛けて結構な勢いで振り下ろされる。チョップを甘んじて受けるべく固く目を瞑り身体中を縮こまらせた、次の瞬間。
ふわりと着地した掌の感触が、一拍の末に私をそっと驚かす。先生は厳しく眉を顰めていた。なのに、私の頭に置かれた手はこの上無く優しい。
「まったく。見くびられたものだな」
「・・・“見”くびる」
「よろしい」
今拾いに行く冗談ではないだろうが、身に染み付いた癖だ。先生はそこも律儀に対応しつつ、緩やかにその眉間の皺を解いていく。
見くびるなと、これは叱責だと。いつだって私を肯定してくれる先生が、私の罪の意識を完全否定する。それは途方も無く優しいお叱りで、私の身勝手な懺悔は願った以上の形で赦されたのだと。私の頭をそっと撫でる掌が、穏やかな声が、もうすっかり厳しさを装うこともしなくなった優しい苦笑が、その証をくれる。
「私は君に対しそこまで薄情になれないし、そんなことで何かが揺らぐ筈も無いだろう。そこはしっかりと認識を改めて欲しい」
私が好きで好きで堪らない、先生の柔らかな笑顔がすぐ傍で花開く。誇張抜きに、視界が輝く。一度引き離されてしまった反動だろうか。先生が笑ってくれるだけで、私の世界はどこまでも色鮮やかになる。
「だが、私に正直でいたいというの真心は、素直に嬉しく思ったよ」
真心。そんな美しい言葉で表現して貰えるほど、多分私という奴は綺麗な人間じゃない。でも今、長い間抱え続けた罪悪感が穏やかに霧散していく感覚に、心の底からほっとしている私がいる。
生まれた世界が違う。それを理由に何かが変わる筈が無いと叱って貰えたことが、今はこんなにも嬉しい。
「・・・ありがとうございます、先生。今、すごく心が軽いです」
「なら良かったよ。だが・・・そうだな。良い機会かもしれない」
柔らかな笑みが不意に俯く。先生の手が私の頭から離れていく。追い縋る訳じゃないけれど、何か余計なことを言ってしまっただろうかと急に不安になる私の目の前で、先生が背を正し顔を上げた。
「私も、長らく君に偽っていたことがある」
ただの正座。それでも先生の所作は整っていて美しいから、私も思わずつられてピンと背を正してしまう。
偽り。そう言われてもまったく嫌な気持ちはしないし、むしろそれを打ち明けて貰えるのなら光栄にすら思う。しかし、今改まってする話とは何だろうか。
じわりと緊張感を高めた私が、今纏っているもの。浅ェ門の羽織、その一部に先生の手が伸びて、ひらりと瞬間翻った。裏地の山吹色がいつだって私に元気と勇気をくれる、特別なものだ。
「。この山吹色は君だけの氣の色だと、私はそう話したね」
「はい」
「・・・実際は少し違う」
ほんの一瞬、静かに目を丸くした私の前で。先生は穏やかに微笑んだまま、次の言葉を告げる。
「幼き日に私の前に現れた、天女様と同じ色の氣なんだ」
何を言われたのか、理解が大幅に遅れた。
天女様。その単語はそれ程馴染みが無い筈なのに、今の私は流すことが酷く難しい。
「え・・・?」
「本当のことを言えずすまなかった。ふたりだけの秘密にすると、あのひとと約束をしたからね」
記憶にある小さな先生と今の先生の姿が、頭の中で何度も交差する。ふたりだけの秘密。幼い先生に対してそれを口にしたのは、確かに私。でも、おかしい。こんなこと、ある筈が無い。
「え・・・せんせ、あの・・・」
そうして困惑の坩堝に嵌り明確に動揺する私を見据え、先生の表情が感慨に満ちた色で綻ぶ瞬間を、私は呆然と目を見開いたまま迎え入れた。
「―――やはり、君だった」
まるで、探し求めた特別な宝を見つけたかの様な。尊さに眩しく目を細める様な。そんな恭しい笑みを向けられて、心臓が激しく早鐘を打ち鳴らす。
「えっ・・・あの、待ってください。変です、私、確かに昔の先生に会いましたけど、それは本当についさっき・・・ここに戻って来るまでの出来事で・・・!」
「・・・成程。過去の私が邂逅したのは未来の。そして、私がもう一度出会った時点のはそこに至るより手前の段階。つまり時間軸が交差していた、と。噛み合わなかったのは、必然か」
「その理解力は流石過ぎますけど、でも・・・ええ・・・?!」
腑に落ちたような顔で先生がすらすらと語る内容も、自分自身が経験したばかりの幼い先生との邂逅も、私はまるで上手に飲み下せない。だってそれが事実なら、あの時私が置き去りにした少年が今目の前にいる先生ということになる。
時空転移を繰り返して何かを救う物語はいくつか覚えがあるし、異なる時間軸には矛盾が生じがちなことも、約束された出会いが後から紐解かれる展開もわからない訳じゃないけれど。それもいざ自分と先生のことに置き換えると、まともに頭が働かない。今更ながらに先生の理解速度が異常なのだ。でも、そんな私の許容量の少なさに、先生は今だけは寄り添ってくれなかった。
「山吹色の柔らかな氣。それを薄衣の様に纏い突如現れ、幼き日の私の心を救ってくれた。例え君自身であっても否定させない、私の人生が変わった日だ」
ここだけは決して譲らない。先生の芯の通った声からその強い意志を感じてしまい、私は押し黙る他なくなる。
人生が変わった日。幼かった先生にとって特別な日。そこに私が干渉していただなんて、今この瞬間まで考え至る筈も無く―――そして、これまでの根幹が揺らぐ音が聞こえ始める。
「じゃあ先生は・・・最初から、私のこと」
突然現れて弟子入り志願した私を、先生が受け入れてくれたのは何故か。未来を知ってる、あなたを知ってる、訳のわからない私の言い分を全て即座に信じてくれたのは何故か。もしも、あの時の少年が私のことを本当に忘れずにいてくれたのだとしたら。
「私を高潔な人間と信じてくれる君の期待を裏切る様で心苦しいが・・・蓋を開ければ単純な話さ。幼き日に私の人生を変えてくれた天女様と君を重ね、二つ返事で弟子として迎え入れたんだ」
まさかの因果が悉く繋がっていく。出来過ぎた程私に都合の良い展開は、私自身の行いが引き金になっていただなんて。俄かには信じられない程に、壮大で運命的な繋がりだった。動揺は勿論あるけれど、嬉しさや興奮だって次から次へと湧いてくる。ただ、とにかく大き過ぎる戸惑いが先行してなかなか言葉が出てこない。そんな私の拙さが、何らかの誤解をさせてしまったのだろう。先生がゆっくりと浮かべた自嘲の笑みが、私を更に焦らせた。
「・・・幻滅されても文句は言えないな」
違う。そんなこと、ある筈が無い。視界が鈍く点滅する様な不安が唸りをあげて、私は慌てて距離を縮めながら鋭く息を吸い込んだ。
「あっ・・・ありえないです!!私が先生を幻滅するだなんて、そんなの絶対、世界が滅びてもありえません!!」
あまり広くはない空間に、私の声がやけに大きく響き渡った。後からやってくる静寂が奇妙な程張り詰めていて、外からぼんやりと聞こえていた話し声すら凪いでいる。壁の一枚向こう側から数々の注意を引いていることに気付いたのは数秒後のこと、羞恥心で頭を殴られた様な錯覚が私を襲った。間を読んで取り繕う様に聞こえ始めたのは、杠の惚けた芝居か、典坐のわざとらし過ぎる咳払いか。どちらにせよ困り果てて頭を抱える私の耳に、先生の忍び笑いが密かに届いた。
自分で大声を出しておきながら慌てふためく私の滑稽さを前に、自然と溢れたであろう遠慮がちな笑み。もう、自身を軽蔑するような哀しさは感じられない。それだけで、私は心の荒波が柔らかに落ち着いていくような心地を覚える。
「・・・ありがとう」
「わ、私の方こそ・・・まさか、覚えていて貰えただなんて」
「忘れたことなど、一度として無かったよ」
先生が穏やかに微笑んで、当然の様に告げる。その内容は思いの外重く、同時に信じ難い程に嬉しいものだった。この世界に来てすぐ先生と出会えた、その時にはもう先生の中に私の存在があっただなんて。
「しかし君は私や未来のことを知っているとは言うものの、私の知る彼女とはどこか様子が異なった。君の容姿が、空白の年月に関わらずまるで変わりがなかったことも奇妙だった。同一人物なのか、他人の空似なのか。引き取った当初は、私も多少なり困惑していたよ」
「・・・そんな。全然、気付きませんでした」
「胸の内を出さない術くらい心得ているさ。私もいつまでも拙い少年のままではない、ということだよ」
先生が拙いどころか、如何に聡明で気を遣う子どもだったのかを、今の私は知っている。行き過ぎた謙遜に思わず苦笑が溢れた。
昔の先生と今の先生。其々と出会った私の姿が同一だったことが、先生にとって困惑の種だったのだろう。桂花によって本の中へ送り返された時、容姿が三年前に戻されていたことが功を奏したのだ。何とも言えない複雑な気持ちで、頬から飛び出た花を指先で弄る。そんな私の指に、先生の手が触れて、優しく包まれる。特別な温かさに鼓動が跳ねた。
「忘れ得ぬひとと、同じ様でいて違う。最初こそ戸惑いはあったが、それもすぐに無理なく解けていったよ」
「・・・先生」
「君は男女の違いなど物ともせず鍛錬にひたむきで、己の好いたものを堂々隠さず、信念を貫く強さに満ちて、私を明るく照らしてくれた。“人生を変えてくれた天女様”ではなく“かけがえのない自慢の弟子”として、の存在は私の中で日々確立していった」
握られた手が熱い。全身を駆け巡る血が熱い。もう全部、沸騰しそうに熱い。なのに、先生の評価のどれもが光栄過ぎて否定の言葉が出てこない。そんなに出来た弟子じゃない、私自身が一番よくわかってる。それでも先生が私を自慢の弟子と呼んでくれる度に、自分の存在価値を確かめることが出来る。尊くて、有難くて、今の私には泣きたくなる程に優しい言葉だ。
「懸命に励むことで皆に認められていく君が眩しく、そしてそんな君に必要とされる自分自身が誇らしかった。の願いを叶えることは、いつしか私の願いにもなっていた。悪しき未来を改変し、この先も変わらず君の隣にいられるものと信じていた―――桂花の城に迷い込むまでは」
先生から握られる手に僅か力が入り、その眉が苦しげに顰められた。気恥ずかしさや嬉しさよりも数倍強く、その繊細な哀しみが私の内側深くまで入ってくる。
お願い、そんな顔をしないで。
「。改めて、すまなかった。私はあの時、君を・・・」
「―――良いんです」
気付けば先生の言葉を遮っていた。
私はもう、あの場で起きた真相を知ってる。先生が未来の幻視にどれだけ苦しんだのか―――もしかしたら、今だって。それでも、これ以上は傷口を抉る必要なんか無い。あの時一方的に知ってしまった先生の哀しみに、今触れるべきじゃない。それだけは、はっきりとわかる。
「もう良いんです。全部、先生が私の為にしてくれたことだって・・・わかってます」
「」
「私、此処にいます。もう、勝手に全部ひとりで背負おうともしません」
私が鉄心さんと一緒にあの場面を覗き見たことは、いつか先生に打ち明ける日が来るかもしれないし、聞かれない限りずっと来ないかもしれない。それでも、私は今先生の傍にいる。自分で選びかけた破滅の未来を、もう二度と掴みにはいかないことを誓える。
「先生との約束、今度こそ守ります。自分の命を大事に。勿論、先生や皆の命も。ちゃんと皆で生きて島を出ます。だから・・・そんな悲しい顔、しないでください」
説明はいらない。手と手が繋がっているだけで、お互いに大事な部分で通じ合っているような不思議な心地がする。静かに頷いた先生の表情から、僅かに痛みが和らいだような気配がした。
「君を強引に向こう側へと送り返したあの時。記憶と寸分違わぬ花吹雪に攫われていく姿に、やはりが彼女だったと確信した」
突如として花吹雪に包まれひとが消えるだなんて、まず有り得ないことだ。先生にとっては人生で二度目の衝撃が、私と過去の私を再び結び付けたのだろう。
「最初から、君だった―――もう二度と触れ合えない世界へ自ら突き放した後になり、私は己の浅はかさを痛感したよ。あんな形で別たれることを恐れて、長らく君の言葉を封じていたというのに」
ふと空気が静まり返り、私はひとつの気付きに目を見開く。先生の独白を材料に、またひとつ根本的な謎が紐解けていく。
「・・・先のことを、なるべく話さない様にって言ったのは」
「あの日、彼女は私に未来のことを伝え、抗えぬ力によって掻き消された。そしてその後、私は言われた通りの流れで検校の庇護を得て、山田家に入門した」
先生は最初から、私の“先見の明”に理解を示しながら積極的な使用を禁じていた。全て具体的に明かせばもっと合理的に話が進むだろうことを、あえて封じた。先生が浮かべた淋し気な笑みが、私に真実を教えてくれる。
「未来の事象を口にすることで、君があの時と同じように天に召されてしまうのではないかと。その可能性を、恐れていたんだ」
人の理を超えた領分に手を出すことで、何らかの代償を求められる可能性。度々警告されていたそれは、知見が豊かな先生ならではの細やかな備えではなく、私が幼少の彼に直接刻み込んだトラウマに近い事象だったのだと。私は今になり、己の致命的な失態を痛感する。
「私・・・て、天女様なんかじゃ、ないです。天に召されるとか、先のことを口にした代償で攫われたとかじゃなくて・・・ただ、在るべき場所に戻されただけ」
「そうだね。だが・・・」
どうしようも無い罪の意識に苛まれる、その最中。不意に空気が丁寧に磨かれていくような、視界の彩度が高まっていくような、不可思議な静寂に私は言葉を失う。先生が堪らなく優しい笑顔で私を見ていた。
「―――あの日の私を救ってくれた君は、誰より神々しい天の使いに思えた」
繋がれた手が優しく、この上無く温かいこと。先生の表情が柔らかく綻び、私を見つめていること。このひとの誠実さが、今私の為だけに開かれていること。先生から私に向けられる慈しみの全てが、胸の奥にそっと小さな灯をともす。
「わかるかい、。君がたとえ何者であっても、私にとっては唯一無二の原点であり、かけがえのない存在だ。二度に渡り私の人生を優しく照らしてくれた、天から齎された奇跡そのもの。それが、君なんだよ」
正座で向かい合う距離感は、私から詰めてしまった為に膝同士が触れ合うほど近く。手と手が繋がったまま、先生は私に対して最上級の賛辞をくれる。
それらは全て、私という存在の根底に触れながら私のすべてを認め渇望してくれる、心が欲した以上の魔法の言葉に等しかった。
「あの日の私を肯定し、未来への希望を与えてくれてありがとう。こうして再び戻ってきてくれて、本当にありがとう」
他の誰とも比べられない、大切なひと。一度遠く別たれたことで、傍にいられることの尊さを痛切に実感したひと。そんな先生の過去と現在、両方に私の存在を認識して貰えるだけで、十分な程の奇跡だというのに。
「に出逢えたことで、私の人生は暗闇ではなくなったよ」
大好きな優しい笑顔が、創られた私にこれ以上無いほどの存在意義をくれる。創造主の熱量だけじゃない。仲間との間に培った絆だけでもない。私の心を占める唯一のひとからの特別な栄誉。
どこまで生きても暗闇しか無いと盲に生まれた自分を責めた、胸が潰れそうになる程哀しげだった少年からの、長い年月を経た最良の答え。ああ、私はあの時、幼い先生の心を救うことが出来たんだ、と。大き過ぎる達成感を得て感情が限界水位を越え、熱いものが次々に瞳から溢れ出す。
「・・・全部、先生が私にしてくれたことを、返しただけなのに」
「うん。今の私も、あの日君から与えて貰ったもので出来ているんだよ」
「や・・・やっぱり、時間軸がごちゃごちゃしてて、馬鹿な私にはピンと来なくて」
「確かに複雑に交差しているな。しかし、今の私たちが互いに並々ならぬ縁を感じていることが、答えにはならないだろうか」
握り締めた手はそのままに、先生が小さく笑いながら空いた手で私の目元を交互に拭ってくれる。時間遡行の整合性や矛盾という難しいことよりも、今はただ私のすべてを認め慈しんでくれる先生の言葉だけを信じたい。
並々ならぬ縁。その通りだ。私は世界も起源も飛び越えて、一番近くにいたいひととの解けない縁を手に入れた。きっとこの世で一番の果報者だ。
幸せ過ぎるのに相変わらず涙腺の制御が出来なくて、泣きながら頬を引き攣らせる私の不器用加減に、先生が甲斐甲斐しく涙を拭いながら肩を揺らして笑った。
その優しい笑みが、不意に静まり返る。小さな間を挟み、身を乗り出した先生の影がゆっくりと私の顔を覆う。
「組紐は互いに消失したが・・・こうして君と確かな繋がりを感じあえる今を、私は心から嬉しく思う」
低く響いた囁きと共に、柔らかな熱源は私の額に落ち着いた。
時間感覚が甘やかに麻痺するような空白を経て、瞬きひとつ出来ず硬直する私のもとから先生の影が退いていく。
あまりのことに声が出ない。組紐を付けて貰った時の、手の甲へと祈る様に掠められたそれより、更に熱い。今額へ丁寧に押し当てられた思いを、単なる師弟愛の延長だと流すことなんて出来ない。だって、私は先生のことを―――そこまで思考が動いた末に、静止した。
怖い。嬉しい。怖い。幸せ。怖い。怖い。怖い。ここから先の一層大事な戦局で、私がこの熱情を理由に弱くなってしまうことが怖い。先生を守りきれなかったら。何か致命的な失態を犯したら。あらゆる負の可能性が足元に縋り付いてくる。
許容量を超えた幸せと、戸惑いと、怯え。綺麗には混ざりあってくれない感情に翻弄され俯く私のもとに、先生の声が優しく届けられた。
「―――これは私の身勝手でしかない」
心を読まれた様だった。島を生きて出るまでは優先順位を変えられない。そうした決意のもと封印した筈が沈ませ切れない私の恋心も、先生が大事だからこそ芽生えた恐怖心も、何もかも。全て理解した上で、一方的に咎を負い私を赦すような言葉に聞こえた。
「大丈夫だ、美月。気高い覚悟も、確かな強さも、君からは何ひとつ損なわれない」
繋がれた手を解かれると同時に、恐る恐る顔を上げたその先。先生の表情は確認出来なかった。膝立ちに身を乗り出すようにして、真正面から強く抱きすくめられていると理解した刹那、私の瞳から自然と零れ落ちた涙を特別熱く感じる。
「これ以上は何もしないよ。ただ少しの間だけ、愚かな私を許して欲しい」
先生の匂い。先生の体温。理性と激情の中間を取ったような強い力が、私を熱く閉じ込める。
情けなくも硬直しか出来ない最中、何故か脳裏に既視感が甦った。先生の家、夜の中庭、月が映り込む池の前。典坐が代行に就任した夜に見た、夢の中の出来事。この心を切り替える為に先生に一度切りの思いを告げた末の、突然の抱擁。
『の思いも、覚悟も、確かに受け取った。これから先、正しく君の師で在り続けることを誓うよ―――だから私も、今だけだ』
「君の覚悟に倣い、正しい師で在り続けると誓った筈が・・・未熟な男ですまないな、」
頭の中が、白い静寂に包まれる。
ドクン。ドクン。心臓まで瞬間止まったような間を置き、思い出したかの様に強く脈打ち始めた血潮。そのひとつひとつが、真っ白になった私の世界に一音一色の彩りを授け始めた。
ドクン。ドクン。瞬く間に鮮やかな色で優しく煌めく世界で、漸く指先が動き、酸素を取り込み、言葉を発する為に喉が震える。
ドクン。ドクン。とんでもない勘違いに今漸く気付けたことで、私の心臓が一層大きな音を立てた。
「っ・・・夢じゃ、なかった・・・?」
「ああ。随分と遅くなったが、やっと言えたよ」
先生の声が大きな安堵に揺れ、満ち足りた様な吐息を耳元に感じる。
「と、弔い鈴は・・・?」
「すまない。確かに勤めの際は音で手元が狂わぬ様外していたが、特別な時分はその限りでは無いんだ。誤解をさせたね、私の説明不足だった」
「・・・いえ、あの、私もごめんなさい。勝手な思い込みで、とんでもないことを・・・」
「いや、嬉しかったよ。夢ではなかったと漸く伝えられて、私も今肩の荷が降りた気分だ」
あの夜の出来事が夢じゃなかっただなんて、度を超えた羞恥と困惑で目眩がする。ただ、弔い鈴の有無だけで夢と現実を見分けていたのは、確かに私の勝手な判断基準でしかなかった。自分の浅はかさに呆れるやら、とっくに私の本心は先生本人に直撃済だったことが酷く恥ずかしいやら。
でも。特に直近で、私の思いが先生に伝わっている様な心地が思い違いでなかったことは、ほんの少しだけ嬉しい。気のせいなんかじゃなかった。一度すれ違いはしたけれど、私たちは確かに気持ちが通い合っていた。
そうして感情の波に緩く流され続ける私の背を、先生の両腕が一層強く抱き寄せる。心臓の鼓動がぴたりと重なる。血が通って、呼吸をして、特別なひとの温もりを感じて。私は今、確かに現実の世界を生きている。熱い抱擁が、それを教えてくれる。
「たとえ何が相手であろうとも、の為なら迷うことなく戦える。そして私は、君と共に在れる未来を二度と諦めない」
共に在れる未来。私も先生も、圧倒的な絶望を前にして一度は諦めたもの。
『皆で協力し合えば、違う未来を切り開けたんじゃないっすか・・・?!さんが今も先生の隣にいられた未来だって、あったんじゃあないっすか・・・?!』
そして、典坐が決して諦めなかったもの。熱い激昂を思い起こすと共に、もう二度と諦めないと言ってくれた先生の言葉の重みを噛み締める。
「・・・私、も」
勇気の要る一歩だった。でも、先生と一緒なら怖くない。
「私も、諦めません」
私はここに来て漸く、手探りながら先生の背に腕を回し返す。先生の一方的な身勝手なんかじゃない。先生は愚かなんかじゃない。私も心から、貴方の存在を必要としているのだと伝えたい。
「島から出た後も・・・先生が笑っていられる優しい未来で、私も先生の傍にいたいです。だから・・・今だけ、私もこうさせてください」
「・・・」
「ちゃんと切り替えて頑張りますから。先生とこの先も一緒にいられる、その為なら・・・きっと、私至上一番強い私になれると思うんです」
恋と使命は両立出来ないと思っていた。この思いは、私にとって弱みにしかならないと思い込んでいた。でも、互いに通じた思いの向こう側へ、手を携えて歩いていけるのなら。その過程として使命があるのなら、きっと話は違ってくる。
先生がこんなにも私を必要としてくれる。この厳しい島でも、更にその先の未来でも。この上無い光栄さを糧にして、私は際限なく強くなれる。先生の期待に応えたい。先生の笑顔を増やす為の、力になりたい。何より、このひとの傍にいたい。
あらゆることが前向きな形で綺麗に繋がっていく、それは清々しささえ伴う多幸感に満ちていた。
「・・・ありがとう、」
「私の方こそ。ありがとうございます、先生」
大好きなひとの温かさに大切に包まれて、心からの感謝を伝え合う。それはあまりに馴染みが無さ過ぎて、少々現実感に欠けるのも正直な気持ちで。ふわふわと身体が浮いてしまいそうな頼りなさを先生に繋ぎ止めて貰えていると思うだけで、頭がぼんやりと蕩けてしまう。夢見心地という単語は、今この時のことを指すのだろう。私は先生の匂いを鼻からいっぱいに吸い込みながら目を閉じる。幸せ過ぎて、溶けてしまいそうだった。
「・・・やっぱり、夢みたい」
「そうだね。だが、すべて現実だよ」
地獄か極楽か、美しく残酷で愛に満ちた物語。今の私は何が現実かをもう知っているけれど、それでもこの一際魅了された世界で、先生の一番近くに在れる今が誇らしい。
「君も私も、確かに今同じ時を生きている。これから先も、私は君の隣で生きたい」
心を占めるひとから告げられる、夢の様に幸せな言葉。同時にそれは、どんなことをしてでも共に生き残るという決意に火を付ける、今の私に最も必要な言葉でもある。やっぱり、このひとは最高の先生だ。
「共に為すべきを為そう、。決して互いに欠けることなく、同じ未来へ行こう」
「・・・はい、先生」
蕩けそうに甘くて優しい温かさと、この先決して負けられないという使命感が、綺麗に調和することで氣の純度を研ぎ澄ましていく。これもひとつの中道と呼べるのだろうか。頭の片隅でそんなことを思い浮かべながら、残り僅かな時間を惜しむ様に先生の背中に回した腕の力をぎゅうと込める。すると同時に先生からの強いお返しが返ってきて、嬉しいシンクロ具合に思わず小さな笑いが零れた。
「苦しくはないかい?」
「大丈夫。今の私は幸せ過ぎて無敵です」
「ほう・・・ならば目に物見せてくれようか」
「目に物ッ!・・・って苦しい、あはは・・・!」
熱烈な抱擁と息継ぎの間が、じゃれ合うように繰り返される。束の間の眩い幸福であることは理解した上で、私たちは互いを強く抱き締めたまま笑いあった。