先生の氣。感じ違える筈が無い、区別が付かない筈も無い、私が探し求めていた霞色の糸。それが一分一秒を惜しむような速度で近付いてくるのを、はっきりと感じる。
都合の良い妄想だと笑われても良い。私が先生の氣をわかっている様に、先生もまたきっと私の氣を感じてくれていて。そして全力で駆けて来てくれるのだと、信じたい。
あの時、確かに私たちの道は別たれたけれど。離れたくなかったと、透明人間の様な位置付けで一方的に知ってしまった先生の本音は、今も私の心の真ん中に息づいている。厳しい拒絶は私を守る為。凄惨な未来から私ひとりを切り離す為。その優しい真相が破門を言い渡された時の深い絶望を上書きして、私の方からも一歩ずつ歩み寄る勇気をくれる。
逢いたい。先生に逢いたい。私は、一番大切なひとの傍にいたい。
徐々に聞こえてくる激しい足音と、先生らしくない乱れた息遣いを、微かに拾える程近く。半壊した建物の向こう側から飛び出したその姿を、遂に私の目が捉えた。
「・・・せん、せい」
息が切れる程乱れ、肩を大きく揺らしている。二人の応急処置を経て尚、あの時と変わらない満身創痍。先生が、私を見ている。今度こそ、先生と同じ世界に立ってる。盲目であることは何一つ関係無い。今、しっかりと目と目が合っていることを感じる。
ああ、やっと―――
「・・・っあああああああ!!!」
感慨に浸る時間は、思いの外短かった。ここからは静かに歩み寄るだろうと思われた再会が、想定外の絶叫と猛ダッシュという先生らしからぬ側面を見せたことで、私は驚きのあまり足が竦み動かなくなる。
更にはそのままの勢いで抱き付かれ仰向けに転倒することになるだなんて、予想出来る筈も無かった。打ち付けた背中と後頭部の鈍い痛みも、すぐ後ろで同じく目を丸くして硬直しているであろう仲間たちへの羞恥心も、何もかも正しく感じられない。私はただただ先生の重みを感じながら、呆然と空を仰ぐことしか出来なかった。
「・・・せ、」
「っ・・・!駄目だ、花になるな、駄目だ駄目だ駄目だ!あああああ!!」
完全に我を失っている。これでも随分緩和された花化の症状が誤解させているのか、手が付けられない。
先生はいつだって私に優しいし、厳しい稽古中ですら身体に触れる時は気遣いを欠かさなかった。こんなにも、身体が軋むような遠慮の無さで抱きすくめられる経験はどう考えても初めてのことで。
「連れて行くなっ・・・連れて、行かないでくれ・・・!!頼む、後生だ・・・!!」
同時に、その縋る様な必死さが私の困惑を徐々に溶かしていった。痛い程の力強さも、先生らしくない暴走も、全てから私を繋ぎ止めようという思いを感じる。
「お願いだ・・・行かないでくれ、・・・」
消え入りそうなその声が、私の名を祈るように紡ぐ。幸せだ。こんな時だというのに、心の底からそう感じる。
力が抜けていくのは、先生が図らずも私の相克だからって訳じゃない。このひとが確かに私を必要としてくれていると、身をもって安心出来た為だ。
「・・・先生?」
未だ私に覆い被さったままの背中におずおずと手を添えた。そうすることで漸く、先生はびくりと肩を震わせながら私の顔を見てくれる。先生でもこんな顔をすることもあるんだ、なんて。場違いで不思議な余裕と共に、出来る限りの落ち着いた笑顔を象る。
「あの・・・皆多分びっくりしてます。深呼吸しましょう、落ち着いて」
「・・・だが、花が・・・」
「すみません、今回は刈り取れなさそうで・・・でも、身体も意識も乗っ取られてません。私のままです。だから落ち着いて・・・ね、大丈夫ですから」
私から先生に落ち着きを求めるだなんて、いつもとは真逆で何だか可笑しい。だけど、こうして遣り取りが出来ることも嬉しくて堪らない。先生の指先が、恐々と私の頬に触れた。一度もどかしい思いを経験した今、目と目が合って触れ合えることは、こんなにも素敵なことだと実感出来る。
「・・・本当に、なんだな」
「はい。オタクで変わり者の、私のままです。安心してください」
強過ぎる腕の檻からそっと抜け出て身を起こして尚、先生は私の手を掴んで離さなかった。それを私から振り解くことなんて出来ない。無理に解こうとも思わない。私たちは二人してぺたりと地面に座り込んだまま向かい合った。
「あの、先生。戻って来てごめんなさい。私、確かに何もかも半端だけど、まだ出来ることが残っていそうで、だから・・・」
「・・・あれほど」
「え?」
「あれほど、君を傷付けてしまったのに」
絞り出した声が揺らいでいる。先生の苦悩が、痛い程に伝わって来る。
「君はまだ・・・私を先生と、そう呼んでくれるのか」
「・・・当たり前じゃないですか」
先生。私の先生。何が起きても変わることの無い、私の大切な道標。こうしてまた巡り会えた奇跡に感謝したい。私の方から手をそっと握り返すと、先生が浅く鋭く息を吸う音がした。深く俯き、繋がった手にほんの少し力が入る。もう今は痛くない。先生が理性的であろうとする分、じわりとした熱さがどこか物悲しい。
「到底許されぬことをした。償いなどという言葉で片がつくとも思っていないよ」
「先生・・・?」
「だが・・・どうかお願いだ。時は戻らない、故に都合が良過ぎることを承知の上で・・・君を傷付けた全ての言葉を、撤回させて欲しい」
先生が悪い訳じゃない。こんな風に私に許しを乞う必要なんてどこにも無い。なのに私はこの問いを投げかけずにはいられない。
「私・・・先生の傍にいても、良いってことですか?」
たとえ答えがわかっていたとしても。今、先生の口から聞きたい。どうしても、先生の言葉が欲しい。
祈るような私の思いが、天に通じる。強張っていた先生の表情がゆっくりとほどけ、私の心は同じだけの時間をかけて軽くなる。
「・・・君さえそれを望んでくれるなら」
優しい笑顔が私だけに向けられる。穏やかな声が、確かな安心を約束してくれる。ああ、きっと私は、もうこれだけで生きていける。そうして思わず目を細めた、その刹那。
「っ!!」
弾丸の様に勢いよく飛び込んできたヌルガイを、私と先生は二人がかりで座り込んだまま抱き留めることになった。細く華奢な両手で私と先生の首元に絡み付き、どちらも離そうとしない。間近に見たその瞳には、やはりキラキラとしたものが輝いていた。
「よ、良かった・・・!!帰ってきたんだな・・・!!もうどこにも、行かないよな?!」
「・・・うん」
「本当に、本当に心配したんだからな・・・!う、あ、会いたかったっ・・・!」
「っ・・・うん、ごめんね。私も、会いたかった」
ヌルガイの涙に揺れる声が、私の涙腺を刺激する。小さな身体を抱き締め返すと、そこにそっと覆い被さる様に先生の腕が重なった。殆ど私の膝に乗り上げたヌルガイが、私と先生で二重の抱擁を得ることで嬉しそうに笑う。
「っ・・・へへ。やっぱりがいなきゃ。センセイの安定感が全然違うよ」
「ああ、そうだね」
否定の影すら無い即答は、きっと素で聞けば気恥ずかしい筈なのに今はひたすらに嬉しい。三人で座り込んだままのハグに思わず幸せな笑みが込み上げると共に、ひとつ欠けたピースをぼんやりと思い描くその時。期待を裏切ることなく、彼は近付いてきてくれた。
「お帰りなさい、さん」
「・・・典坐」
先程一方的に垣間見た怒りの爆発は名残すら無く、眩しい笑顔で私たちを見下ろしている。
一度帰ったあの場所で読み返した正史の世界線。典坐の魂がヌルガイの背中を押すシーンは、確かに美しくて心を打ったけれど。それでも私は、こうして彼が生きている今を尊く思う。ヌルガイにも、先生にも、私にも。典坐は決して欠かせない太陽そのものだ。
私がヌルガイの背を抱いていた腕を伸ばすのと、典坐が若干照れ臭そうに言い淀むタイミングがぴったりと重なった。
「・・・その、自分も少しだけ良いっすか」
「っはは。今ね、丁度呼ぼうと思ってたところ」
がしがしと頭を掻きながらも、明るい笑顔が膝立ちに屈み私たちの輪に加わる。ヌルガイを真ん中に、四人で強く交わし合う抱擁。こんなに温かくて優しい時間をこの局面で味わえるだなんて、考えてもみなかった。私を入れて四人分の心音と熱い血潮、巡る氣の強さを感じる。三人ではなく、四人で完成形だなんて。本土にいた頃なら恐れ多いと全力で否定した筈が、今はこんなにも芯からすべてが整っていくのを感じる。
戻って来られて本当に良かった。三人それぞれの体温を愛おしく噛み締めながらそっと瞼を下ろした、その時だった。
「なになに。士遠ってば全速力で駆け出したと思えば随分楽しそうなことしてるじゃない」
久しく聞いていなかった気さえする声に、顔を上げる。独特の雰囲気の兄弟子が、薄い顎髭を弄りながら私たちを見下ろしていた。
「・・・十禾さん」
「や。ちゃん。頬に可愛いの付けちゃってどうしたの」
殊現や威鈴との邂逅があったのだから、このひととも顔を合わせない筈は無い。花化のことは恐らく危険性を含めて理解しているだろうに、相変わらず妙な茶化し方をするひとだ。そうして曖昧な苦笑を浮かべた次の瞬間、私はぞわりと身震いをする羽目になる。
「俺も混ぜてよ、おとなの抱擁なら大の得意だからさぁ」
にたりと浮かべた下心そのものの如き笑み。本気か戯れかまるで読めない声色。ばさりと広げた両腕、あやしい動きで気まぐれに遊ぶ指先。典坐が咄嗟にヌルガイを庇う様に引き寄せ、良しとひとまず安堵したその時。
私は、横から強く引き寄せられる感覚に目を見開いた。
「触れるな」
もう随分と昔のことのように思える一幕。三人で呑むことになった席で十禾さんが戯れで口にした閨の誘いに、先生が殺気を立てて怒ってくれたことがあった。その時とはまた別種の、強く迸る憤りを感じる。
右腕一本で私を隠す様に抱き寄せ、十禾さんへの警戒心を露にする。ぴたりとくっついたことで感じる先生の熱さ。今になり突然意識の内側に入り込んで来る先生の匂い。もう随分と蚊帳の外にしてしまったのに、黙って成り行きを見守ってくれている仲間たちの視線。今の私を取り巻く環境の全てが、急激に荒波を立てて私の心臓に重い負荷をかける。
「には指一本触れてくれるな」
羞恥から来る動悸がピークに達すると同時に一層強く引き寄せられ、先生の熱い首筋に鼻を押し付けられる形で聞くその台詞の破壊力たるや―――悩殺という単語が頭に浮かぶと同時に限界を迎え、私は呆気なく意識を手放したのだった。
「センセイ大変だ!が気絶した!」
「えええ、士遠酷くない?俺まだ何もしてないのにさぁ」