相変わらず、桁外れに大きな身体だ。正座で向き合うことでひしひしと感じる存在感、漲る圧力。それを叶える抜群の高身長と筋肉量を、彼女と試合で対峙した際にとんでもない脅威だと感じた。今もそれは変わらない。体格という圧倒的な優位性に恵まれながら、決して驕ることの無い誠実な努力家。

「あのっ・・・」
「え?」

そして同時に、可愛らしい女の子だ。

「花の下に見えているのは、傷口ですよね・・・痛くはないですか・・・」

遥か見上げる程の巨体に浅黒い肌。それだけを理由にゴリラなんて陰口を叩く連中は、この子の心根をまるで知らないのだろう。眉を下げておろおろと狼狽えるその可憐な表情に、私は自然と頬を緩めた。
杠と厳鉄斎―――彼女にとっては等しく同じ括りの“罪人”もいる中で、まずは座って話がしたいという希望を聞いてくれた上に、私の心配をしてくれる。威鈴は優しい子だ。

「・・・ありがとう。大丈夫、皆に沢山助けて貰ったから痛くないよ」

分道場で試合をして以降、積極的な関わりは無くともお互いに意識はしていた。同じ女性として。一度剣を交えた同門として。そして、より強さを求める者として。城勤めに向かう凛とした背中を見かける度、私も頑張らなくてはと密かに勇気付けられていた。

ただこうして向き合うと、否応なく面差しの被る彼女の兄の姿が浮かぶ。私はひとつの呼吸の末覚悟を決めた。
本来なら更に早い段階で佐切と合流し、杠との慣れ合いを許さず揉めた筈の威鈴が、一人で暫しの静観を決めたのは何故か。私にはその心当たりがひとつあったのだ。

「源嗣のことは・・・?」
「忍者さん達から・・・痕跡が、崖を最後に途絶えていると。谷底までは助かる見込みが無い高さだとも、聞いています」

本来の流れであるなら源嗣の遺体は焼けた森の中から発見され、致命傷が陸郎太に負わされた一撃であることも忍衆によって明かされていた筈だ。上半身の潰れた衛善さんの遺体と同じ。死罪人が浅ェ門を殺めたという事実が殊現をより一層修羅へと駆り立て、彼に倣う威鈴も例外では無かった。
ただ、私が紛れたことにより事象が捩れた今は状況が少し異なる。彼女は未だ、兄の死の真相に辿り着けずにいるのだろう。

「ごめんなさい。私、お兄さんを助けられなかった」
「・・・え」
「私、源嗣と一緒にいた。私の立てた作戦で無理を押して戦って貰って、乗り切れたと思ったけど・・・背後の竈神に気付けなくて。轢かれた私を、源嗣は庇ってくれて・・・」

そして、妹である彼女にそれを正しく伝える責任は私にある。迷う理由は無く、正座のまま深く頭を下げた。

さん、源嗣殿に起きたことは誰のせいでもないと・・・」
「ありがとう佐切。でも、威鈴がどう感じるかは別の問題だよ」

源嗣も衛善さんも、浅ェ門としてこの島で最善を尽くした。その結果としての死なら誰のせいでもないと、誰一人私を責めなかった。皆で乗り越えるべきことだと、私を支えてくれた。でもそれは、決して威鈴には強要出来ないことだ。
亜左兄弟を退け森へ戻す為の策。元から深手を追っていた源嗣に無理をさせた、私の采配不備。皆の過ぎた優しさでそれを許して貰えたとして、あの時私と源嗣の手が繋がっていた事実は変わらない。

「あの崖で、手を掴んでたのに。私、ちゃんと引き上げられなかった」
「・・・さん」
「ごめんなさい。何をしても取返しのつかないことだけど・・・本当にごめんなさい」

威鈴は源嗣の妹だ。本当のことを知る権利も、私を詰る権利も、当然ある。兄弟子を救えなかった辛さも悔しさも、彼女を前にしては意味が無い。家族を喪った哀しみの前で、私は深く頭を下げることしか出来ない。どんなに罵られようとも私にはそれを受ける義務がある。両手をついて地面に擦れる程首を垂れる、その時。

「・・・兄は、自ら手を離したのではないですか」

頭の上から聞こえた声は、考えていたよりずっと落ち着いたもので。目を見開き、そっと顔を上げる。威鈴は背筋を正したまま瞳を潤ませ、しかしその口端で緩やかな弧を描き私を見ていた。

「わかります。妹ですから・・・そういう場面では、恐らく誰より潔い方です」

潔い。その言葉に、軋む重みから腕が解放された瞬間の感覚が甦る。



『佐切と殿、この島でふたりの妹弟子と共闘出来たことを誇りに思う』

『士遠殿―――後のこと、お頼み申し上げる』



穏やかな声を最後に残して、彼は逝ってしまった。私が手を離さなければ。自分の不甲斐なさを呪う程の後悔に、自分から手を離したのだという言葉がそっと重なる。思わず目を見張る私の前で、にこりと笑った威鈴の瞳から一粒の涙が零れ落ちた。

「哀しいことには変わりありませんが・・・少し、雲が晴れました。仲間を守るという士道の志のもと、兄が決めたことなら・・・私はそれを受け入れたいです」

涙を拭いながら健気に微笑むその表情は、亡き兄を心から敬うものだ。在りし日に妹のことを大事に語った彼と、同じ優しさを感じる。胸に熱い思いが込み上げた。

「・・・やっぱり、よく似てる」
「え・・・?」
「出発前にね、期聖のお見舞いの席で少し話したんだ。女が剣を握ることに疑問はあるけど、威鈴のことは誇らしいって・・・優しい顔で葛藤してた」



殿が山田家の女流御様御用として、佐切だけでなく妹の名を連ねた時・・・確かに拙者は、誇らしく感じたのだ』

『女は剣の道に不向きと考えながらも、妹の成長や成功は喜ばしく思ってしまう。我ながら大きな矛盾だ』



穏やかな午後。期聖が横たわる畳敷きの部屋。この髪を断ったばかりの私の隣に座して、妹に思いを馳せる源嗣の表情。性別も性格も違うのに、血の繋がった兄妹はふとした瞬間の表情がよく似ていると感じた。
そして今、同じ家族愛が豊かに写し取られた威鈴を前にすることで、私はやはり眩しい思いと共に底無しの後悔を痛感せずにはいられない。

「今の威鈴と同じ。家族を大事に思う笑顔がすごく優しくて・・・そっくりで・・・」

泣くな。一番悲しいのは目の前にいる彼女だ。深く俯き小刻みに震える程握り締めた拳に、大きな手がそっと重なった。思わず瞠目し、ゆっくりと顔を上げる。

「・・・兄様ったら。私には泣くな負けるなと、そればかりだったのに。そんな嬉しい言葉を、私にだけ秘密にしたまま遠くへ行ってしまうだなんて。ひどい兄様です」

兄様。源嗣をそう呼ぶ声は柔らかい。深い哀しみを抱えながら気丈であろうとするいじらしさと、まごうこと無き兄への敬愛が調和した、美しい笑みがそこにあった。

「でも・・・とても兄様らしい」

一筋の綺麗な涙が、威鈴の瞳から零れ落ちた。その光景があまりに胸に迫るもので、込み上げる激情を奥歯を食い縛ることで堪えるものの、私の脆弱な限界はすぐそこまで迫っていて。私は情けなく彼女の膝に縋るようにして蹲った。

「ごめん。ごめんなさい、威鈴」
「・・・さん」

悔恨の念は消えない。陸郎太に命ごと削られる運命を、回避出来た筈だったのに。あの森でこと切れる最期を、自力で塗り替えてくれたと思ったのに。奇跡的な可能性のひとかけらを、何故私は彼女のもとまで繋ぐことが出来なかったのだろう。威鈴が健気であればある程、私は自分の至らなさを悔やまずにはいられない。

「勝手なことばかり言ってごめん、でも・・・ふたりを、会わせてあげたかった・・・!」
「・・・私も、お会いしたかったです」

男女の違いへの認識を少しずつ変化させ、源嗣は私を共闘に値する妹弟子と認めてくれたけれど。きっと、一番に並び立ちたかった相手は威鈴の筈だ。魑魅魍魎が蠢くこの島ですら際立つ大柄な兄妹。二人が並ぶことが叶えば、どんなに心強い光景だっただろう。二振りの剛剣で風を巻き起こし敵を薙ぎ払う様は、どれほど圧巻だったことだろう。今はもうどんなに願っても叶わない、もしもの夢幻だ。悔しさと自責の念で縮こまるばかりの私に、逞しい手が顔を上げることを促す。

「もう頭を上げてください、さん。兄はきっと、貴女と共に戦えた誇りを胸に抱えたまま、満足して旅立ったと思います」
「・・・っ・・・威鈴」
「だからもう良いんです。さんにそんな顔をさせてしまうことを、兄は望みません。妹の私が保証します」

哀しみを湛えながらも微笑む威鈴の強さが、心に深く突き刺さった棘を抜いてくれる。
妹であるからこそ威鈴の非難を受け止める覚悟で挑んだところを、妹にしか出来ない強引な遣り方で私を赦すだなんて。何て規格外で、何て優れた人間性だろう。

「・・・ありがとう、威鈴」
「いいえ、私の方こそ。兄の最期の姿を、隠さず教えて下さってありがとうございます」

源嗣。威鈴は本当に、素敵過ぎる妹さんだね。
そんなことを思いながら、盛大に鼻を啜り潤んだ眦を強引に拳で擦る。私の女性らしさとは対極の粗っぽさで空気が緩んだのか、威鈴が口元に手を当てて切なく笑った。

「・・・性別に関わらず共闘だなんて。昔を思えば考えられないですね」
「うん。源嗣は・・・本当に変わったよ。優しくて、居てくれるだけで心強くて、本当に最後まで頼もしかった。私と合流する前だって、佐切達と一緒に戦ってたんだよね・・・?」

振り向いた先、私をずっと心配してくれたであろう佐切と目が合う。威鈴という源嗣のことに関して絶対的な赦しを得て、私が息を吹き返したことにこの妹弟子は安堵の表情を見せてくれた。

「陸郎太との死闘を制することが出来たのは、源嗣殿の立案した作戦あってのことでした。画眉丸の機動力、源嗣殿の力技。両者の共闘が無ければ、私が首を斬る隙は生まれなかったでしょうから」

その刹那、威鈴の纏う空気がざわりと音を立てて変容する瞬間を、私は確かに感じ取る。私が今、何を置いても彼女と話さなくてはいけないと悟った理由。源嗣の死の真相は勿論のこと、威鈴の根本的な立場を忘れた訳ではなかった。
彼女はあくまで“殊現に付き従う浅ェ門”だ。たとえ源嗣が死罪人によって葬られた事実があろうと無かろうと、島に上陸したその時から山田家以外は全員敵である基本認識は変わらない。

「・・・兄が、自分から罪人と?」
「はい。並外れて巨大な陸郎太を御するには、欠かせぬ連携だと。罪人の画眉丸を実力優先で必要とし、そして・・・女の私を、戦力として認めて下さりました」

それ故に、佐切の口から語られる源嗣の変化は賭けだった。罪人には手縄を。計画外のことが起きれば即刻処刑を。幕府から言い渡された掟は絶対であるところを、先発隊の兄が罪人との共闘を選んだ事実。それを受け止めた威鈴がどう動くのか、私は秘かに固唾を飲み見守ることしか出来ない。

「我々はこの島に来て、皆それぞれ情の通った変化を遂げています。それは・・・浅ェ門としては、許されない変貌かもしれませんが」

佐切の言葉には迷いがあった。ひととしての感情か、侍としての矜持か。浅ェ門として島に上陸した以上、この選択は重過ぎる。だからこそ、葛藤しながらも背筋を伸ばす姿が凛として美しい。

「威鈴さん。侍として正しいかどうかよりも、今は思いを信じたい。罪人も浅ェ門も関係無く、皆で島を脱出することを認めていただきたい。それが私の願いです」
「佐切ちゃん・・・」
「・・・殊くんはそれを認めないこと、僕は既に身をもって知ってるけど。それでも僕らが信じた道を往くよ。命の尊さに気付けなかった頃には、もう戻れない」
「僕もです・・・過酷なことがあり過ぎましたから。今はこれ以上、誰も犠牲にならないことが何よりの望みです」

同性として思い入れもある佐切からの言葉。それに連なる、付知と仙汰からの援護。威鈴の感情が、明確に揺らぐのを感じる。私はぐっと瞼を閉じた。
正史での威鈴が如何に殊現に忠誠を誓う浅ェ門であるかを知っている。その頑なさも知っている。でも同時に、彼女が兄の死を理解して尚私から罪の意識を掬い上げてくれる程優しい人間であることも、よく知っている。

「威鈴、ごめん。わかって欲しいとは言えない」
さん」
「でも・・・どうか、黙って行かせて欲しい。彼らは罪人だけど、悪人とはどうしても思えない」

罪人も、島の妖も、天仙も、そしてそれらを庇うのなら、浅ェ門も。すべて斬ることを決めた殊現の覚悟が、あんなに親しかった付知にすら刀を抜かせた。ならば威鈴もまた同様の心積もりでいることは明白で、先ほど赦されておきながら見逃せと願う私は酷い薄情者だろう。でも、今はもう正面から乞うしか方法が無い。

「誰も死んで欲しくない。勿論それは、威鈴も・・・殊現も、同じだよ」

言葉に偽りは無かった。例え立場は敵対することになるとしても、同じ浅ェ門として死を願う筈が無い。脳裏に過ぎる、殊現の顔。兄弟子とは認めないと言い切った私に対し傷付いた暗く沈んだ瞳が、ずくりと疼く様な痛みを伴う。
それでも私は罪人達の生存を諦められない。再会したその時、ヌルガイを切り捨てられる筈が無い。あの子を斬ることはきっと、私にとって、先生にとって、そして典坐にとって、心の死と同じことだ。譲れない。威鈴の信念が殊現と重なるのなら、同調することは出来ない。

「私は、殊現様のお考えを信じたい」

思わずぐっと苦し気に眉を寄せた、次の瞬間。顔を上げた威鈴の真っ直ぐ過ぎる眼差しに、私は目を見張った。

「ですが、兄の最期を伝えてくれた貴女達の思いも、無視はしたくない。罪人と協力関係を結んでまで活路を開こうとした兄の変化も・・・妹として、無かったことにはしたくないです」

まだ本土にいた頃、私の頭の中だけで組み立てた、都合の良過ぎる脱出劇。頑なな殊現を説得する大事な鍵は、衛善さんだった。そして同じく威鈴に考えを変えて貰う役割は源嗣にあった。
どちらも救うことが叶わなかった今、それでも源嗣に起きた変化が威鈴の決断に新たな道を作ってくれるだなんて。

「同行させてください。貴女たちの判断は本当に正しいのか。彼らが極悪人か、或いはそうではないのか。どうするべきかは、自分の目で見極めます」
「威鈴・・・」

答えは一時の保留。それでも、十分過ぎる程の奇跡だ。
とてつもない僥倖に思わず脱力する私の肩に、威鈴の手が優しく預けられる。

「貴女に負けたあの日から、私も強くなりました。さんとは全く違う、私の戦い方を磨いてきたつもりです」



『思いの強さは時に理すら曲げる。さんにはさんの、威鈴には威鈴だけの戦い方がある。更なる鍛錬で最良の道を見出すと、俺は信じるよ』

『・・・はい!!必ず!!』



分道場を出てすぐの木陰。泣きながら殊現の励ましに頷いていた威鈴と、今私の目の前で微笑む威鈴がゆっくりと重なる。

「それぞれが信じるものの為に、最善を尽くしましょう」



『拙者はこの島に来て漸く、大事なことを理解出来た様な気がする』



面影をはっきりと感じる。

佐切の強さを認め、男女の括りを取り払うことで一回り強く優しくなった源嗣の逞しさが、そのまま今の威鈴に宿っている。もう二度と会えない兄弟子と、再会出来たような気さえした。

珠現と同じく強硬派と思われた威鈴に一時の理解を示して貰い、更には燻っていた源嗣への後悔すら赦しを与えて貰えた。感嘆の思いが込み上げ、何度も頷きながら肩に乗った手に触れる。威鈴は小さく笑い返してくれた。

緊張が緩み、心が弛緩したその時。
不意に感じた耳鳴りの様な強い引力に、私は弾かれた様に振り向いた。

さん?」
「何。、どうしたの」

皆の声が急に遠くなる。歓喜か焦燥かは判別がつかない。ただ、自分の心拍だけが酷く大きな音を立てて響き続けている。
静かに落とした視線の先、左手首に辛うじて巻き付いていた山吹色の糸。その最後の一本がキラキラと輝きながら消えていく光景が、ゆっくりと目に焼き付いた。

もう目視での導きは必要が無かった。はっきりと、霞色の氣を感じる。視認出来る距離にはいない。でも確実にこちらへ向かって、かなりの速度で近付いて来る。

私はゆっくりと立ち上がり、覚束ない足取りで歩き出した。皆が其々心配して何か声をかけてくれているのはわかるのに、何ひとつまともに答えられない。私も駆け出したい筈が、足は一歩ずつしか動いてくれない。

早く逢いたくてもどかしいのか―――だって、私は先生の力になりたい一心でここに戻ってきた。

それとも待ち焦がれ過ぎた反動で怖気づいているのか―――先生の気持ちは知っていても、あの辛い別れ以来初めて顔を合わせるのだから、正直なところ少し怖い。

心が宙に浮いて、完全に迷子の心地だ。でも、待つだけなんて絶対に嫌だ。

「・・・先生」

声に出してその名を小さく呼ぶ。それだけで、息が苦しくなる程に胸が詰まる。私は見えない氣の糸を辿る様に、一歩一歩を丁寧に踏みしめて。そのひとのもとへと、ゆっくりと近付いていった。