頭の中がぼんやりと霧で覆われたような心地だった。いつだって楽しくて幸せな夢を見れる訳じゃない。ぐっすり眠れる時もあればそうでも無い時もある、それだけの話だ。
ただ、妙に赤が目立つ夢だと。視界も思考も不鮮明な中、ひとつだけはっきりと認められる色が、何故か不安を駆り立てて。
早く、起きなきゃ。そうして強引に意識が浮かび上がったその時。
私は思いのほか近くまで迫っていた男の顔を、反射的に拳で撃退してしまったのだった。
四畳半の小さな一間。気絶した源嗣が目を覚ます気配はまだ無い。巨漢には寸足らずにも程がある桃色の上掛けは、本来彼が私の為に持ってきてくれたものだ。心苦しいことこの上無い。
「脳筋ゴリラを一発で伸すとか。さんの拳、鉄でも入ってたりしてな」
「うっ・・・そんな言い方しなくても良くない?私だって無傷って訳じゃないんだけど」
純粋に心配して駆け付けてくれたならともかく、完全に面白がっている期聖に対し私は精一杯反論する。咄嗟のこととはいえそれなりの質量を正しい構えも取らず殴り飛ばしてしまったのだ。本当に鉄が入ってたらこんなに痛い思いせずに済んだでしょうよ。未だにじんじんと熱の名残を感じる私の手を見下ろし、それでも胡坐の上で肘をつく期聖のジト目は私を責めることを止めない。
「ま、下心で必要以上に接近し過ぎたこいつが悪いとは思うけど。今ここに士遠センセイがいたら、こんな場所で無防備に寝こけてたさんも悪いって言うんじゃねぇの」
返す言葉が無い。私は奥歯を噛み締めた。
ここは山田の道場敷地内。佐切と私、数少ない女性に充てられた支度部屋だった。他の門下生達と一緒に走り込みと打合い稽古、ついでに洗濯の手伝いを終えて、ああ今日も良く身体動かしてるなぁ、なんて。束の間の休憩時間、佐切はお遣いに出て自分しかいない空間で、障子を開ければ何だか麗らかな午後の陽射しが暖かくて。不意にうとうとと、出入り口を盛大に開け放ったまま眠ってしまったのだ。
部屋の前を偶然通りがかった浅黒い肌の兄弟子が、わざわざ薄手の上掛けを用意して被せようとしてくれたタイミングで私が目を覚まし・・・話は冒頭に戻る。
わかってる。私が悪い。悔しいことに期聖の言う通り、今日は朝からお勤めで外出している先生が今この場にいたら、きっと戸を閉めず寝てた不注意な私を叱るだろう。
「・・・反省してる。源嗣が起きたらちゃんと謝る。今度から昼寝は場所を選ぶ」
「センセイの名前出すと急に素直。笑える」
「っきぃぃあんたって奴は・・・!!」
それにしても、だ。いつも一言二言多い年下の兄弟子に対して目を吊り上げたところで、暖簾に腕押し状態だった。
入門から約一年の私は大半の門下生にとって妹弟子の扱いではあるものの、若手と呼ばれる同門たちより少し年上にあたる。衛善さん、十禾さん、先生。この三人以外は基本的に皆年下の兄弟子だった。
年功序列なんて言葉を振りかざすつもりは毛頭ないうえ、この世界における女が剣を握ることへの冷遇加減も最初から承知の上だったものの、意外にも皆それなりに私が年上であることを意識した上で色々と気に掛けてくれる。つい先刻の私の奇声を聞き駆けつけて来てくれた、仙汰、付知も同じくだ。オタクの性か、単純に私が慣れたのか、年下の兄弟子たちに対して喜々としてお姉さんぶって接しても許して貰えている。有難いことだ。
「まぁまぁ。源嗣さんもじきに目が覚めるでしょうし、さんの手もごく軽傷で済みましたし。今日は少し暖かいですから、日向ぼっこのまま昼寝をしたくなる気持ちも正直わかると言いますか・・・」
「仙汰・・・君って子は優しいの化身・・・!」
温かなフォローが沁みる。失神する兄弟子の姿に慌てふためく私を宥めながら、いち早く源嗣の様子を診て、状況を察してくれた優しい子だ。期聖も少しは見習ってほしい、意地の悪い男は遊女にだってモテないんだからね。
「でも実際、の身体ってどうなってるんだろう」
しげしげと私の右手を翳し、眺め、付知が告げる。炎症用の軟膏を塗って貰った手前あまり抵抗は出来ないながら、正直少々怖い。これは私というより、私の皮膚の下に思いを馳せている目だ。
「入門してから一年と少しでしょ。メキメキなんて表現じゃ追いつかないくらい成長具合が著しいんだよね。筋肉の様子とか血の巡りとか、一度全部開いて確認してみたい」
「その飽くなき探究心に私は敬意を表するよ。でもヒラキは勘弁」
どうどう。そんなに近付いても筋組織は透けて見えないからね。そうしてやんわりと引き抜いた自分の手を、私は改めて見下ろす。
付知の言う通り。ここに来たばかりの頃は軟弱そのものだった掌は、一年かけてそこそこに逞しく姿を変えた。
「私の身体が特別な訳じゃないよ。全部、先生のお陰」
「シオさん?」
「うん。そりゃあ、遅れてるなんてもんじゃない私は、人の十倍二十倍の努力が必要なのは前提条件だったけど。先生が私を正しく管理して、最大限力がつく様に、まっすぐ指導してくれてるから」
人体に詳しい付知が感心するくらいの急成長は、先生の熱心な指導の賜物だ。 私ひとりじゃ、門前払いでお終いだったかもしれない。
私の先生。私の恩人。私の推しのひとり。私の人生をかけて、未来を変えたいひと。
「先生に会えなかったら、今の私はいないよ」
ここにいる皆には事情が明かせないのに、思いのほか熱い気持ちが滾り過ぎてしまった。それでも傍らに座る仙汰は、穏やかに微笑んでくれる。
「とても良い師弟関係ですね」
「へへ。ありがと、仙汰」
「ふーん。シオさんとの相性が特別良かったってことか」
「やめよう?そういう軽率なご褒美表現はオタクの寿命に関わるからやめよう?」
「何それ」
早口で捲し立てる私と、あくまで淡々とした付知の問答の最中。低い呻き声が渦中の人物の目覚めを教えてくれる。私は救われたような心地で、横たわったままの源嗣ににじり寄った。
「げ、源嗣、大丈夫?ごめんね」
「む。拙者は何故ここで寝ている?」
「記憶飛ばしてんじゃん、こわ・・・」
「期聖は黙ってて!あー・・・源嗣、あの、申し訳ない話なんだけどね・・・」
かくかくしかじか。こんな惨事に繋がった私の至らなさを自分の口で説明すると、源嗣は頭を押さえながらも話に付いてきてくれたようだった。のそりと起き上がると身体の大きさが余計に際立ち、はらりと捲れた上掛けが随分と可愛らしく見える。
「確かに・・・言われてみればこの上掛けは拙者には小さ過ぎるな」
「本当にごめんね、あとお気遣いありがと・・・」
「お前もう余計な世話焼くのやめとけよ、次は気絶じゃすまねぇよ絶対」
「うっさいよ期聖・・・!」
ひとが誠心誠意謝ってるのを引っ掻き回さないで欲しいお願いだから。歯をギザギザにして威嚇する私とニヤニヤ笑う期聖の間で、源嗣が顔を上げた。
「しかし殿、今思い出したのだが、随分魘されていたな」
「へ・・・?」
思いもよらないことだった。てっきり、昼下がりに口を半開きにして大層間抜けな寝顔を晒していたと思い込んでいたのに。
何もかも曖昧な、霧掛かった赤い夢。本能的に感じた不安が、何故か今になって再度込み上げる。
「うわ言を繰り返していた。典坐、仙汰、拙者や期聖、衛善殿の名前も・・・」
頭の中が白くなった。
皆の名前が何を示すか、わからない私じゃない。何か言わなきゃ。何でも無いって、笑って安心させなくちゃ。
今、皆、こうして生きてるのに。あの赤は何の色か、何を意味する赤なのか、本当に私はわかっていなかった?
そこに辿り着いた途端、息が苦しくなる。変な空気になったら皆心配する。早く弁解しなくちゃ。早く、早く、早く。
「やはり、女の身にこの生活は重荷なのではないか」
「っ違・・・そういう、ことじゃ・・・」
重苦しく眉間に皺を寄せる源嗣に対して、いつもの様に笑って返事が出来ない。どうしよう。こんなことじゃダメなのに。冷や汗が這うように背中を伝う、その時だった。
呑気な欠伸の音が、狭い部屋いっぱいに広がる。
「寝言だろ。いちいち意味なんてあるかよ」
怠そうに伸びをした後首をポキと鳴らす。そして期聖は揶揄うように目を細め、ニタリと口端を上げた。
「どうせさんお得意のあれを夢に見てたんだろ。あー・・・呪呪立ち?」
その言い間違いが意図的かそうでないかはわからない。
ただ、私はその時、確かに救われた。
「・・・おっ・・・惜しいけど違うし魘されるネタではないからね!!まー皆にもいずれ誰かのポーズ伝授したいのはほんとだけど!!」
「へいへい。とにかくゴリラも起きたし俺らは退散しねぇと。衛善さんが煩ぇぞー」
ごく自然な流れでこの場は解散へ向かう。確かに私自身は気にしなくとも、源嗣が目を覚ました今、皆がこの部屋に居ることを知れば規律に厳しい衛善さんが良い顔をしないだろう。
「た、確かに!女性の利用する部屋で長居はいけませんね!さん、失礼しました・・・!」
「の元気な筋肉触ってたら色々勉強し直したくなった。僕も戻ろっと」
「あ、あの、皆色々とありがとうね・・・!」
期聖を先頭に、ぞろぞろと皆部屋を出て散っていく。最後に去ろうとする一際大きな背中に向かい、私は慌てて声をかけた。
「あっ・・・源嗣」
彼は足を止めても、こちらを振り返らない。きっと、私が理解から遠いことばかり口にするとわかっているから。
「上掛けもそうだけど。心配、ありがと」
男と女の役割を明確に分けて考えている。男尊女卑じゃなく、ただ、そういうものだと。別々の目的の為に作られた、相容れぬものだと。女と男―――陰と陽は、確かに別々だからこその意味もある。源嗣がそうした考えを持つひとだということは、ここに来る前から知ってた。私や佐切が女ながら剣を握ることに対して、理解が及ばない故の苦手意識を持っていることも。難しい顔をしながら、実のところ心配をしてくれていることも。
「今の生活は重荷なんかじゃないよ。確かに私は女だけど、大丈夫」
きっと今の源嗣には伝わらない。それでも、ほんの少しで良い。可能性に賭けたい。
「気持ちの強さは、男も女も関係無く誰にも負けないつもりだけど、源嗣も皆も、きっとそうだよね」
「・・・」
「私もおんなじ、それだけだよ」
佐切の中道を、あの島でもっと早く理解出来ていたら。妹弟子の力をもっと信じられたら。未来は、変わるかもしれないから。今は小さすぎる可能性の種が芽吹くことを、祈ることしか出来ない。
背中越しにちらと振り向いた口元は、険しく引き結ばれたままだ。
「・・・風邪を召されぬように」
豪快な足音で去っていくには、優し過ぎる台詞だった。入門当初こそ、何故こんな歳の女が今更剣を始めるのか、という不快感を露わにしていたのに。今はひっくり返って眠りこける年上の妹弟子に、こんな柔らかな上掛けを用意してくれるようになった。どんなに第一印象が良く無かろうと、努力を正面から認めてくれて、きちんと歩み寄りも出来るひとだ。身体は熊みたいに巨大だし顔も怖いけど、源嗣は優しい。
皆、そう。死んでも構わないひとなんて、一人もいない。
残された桃色の上掛けを緩く握りしめたその時、俯いた私の視界が影で覆われる。いつの間にやら戻って来ていた男が、こちらを見ずに片手を差し出していた。
これが、お手をどうぞという素敵な誘いなんかじゃないことは、私が一番よくわかっている。
半目で相手を睨みながら小銭を握らせた。さよなら、私のへそくり。
「毎度あり」
期聖はそれだけ告げて今度こそ去った。はああ。窮地を助けて貰えたことは事実だけど、溜息が畳を貫通しそう。次の瞬間私はぎょっとすることになる。
「・・・」
開け放ったままの障子。庭に面した廊下の曲がり角から、先生が渋い顔で私を見ていた。