三人の姿は、いつの間にか周りの景色と共に見えなくなっていた。戻ってきた暗闇の中、前を歩くひとの背を掴ませて貰いながら先へ進む。瞼は熱を持つ程腫れて、鼻も啜り過ぎて痛い。
「・・・いつまでぐずってやがる」
私がいなくなった後の世界。そこは本の通り正史が広がる訳じゃなく、という名の異物が皆の記憶から抹消されるような修正力が働く訳でもない。ただ、ひとりの仲間が欠けたことによる哀しみがそこに横たわっていた。典坐の激昂も、ヌルガイの涙も、先生の苦悩も。すべて紛れも無い本物だったと痛い程に理解出来るからこそ、辛い。
「あの、気持ちが、ぐちゃぐちゃで・・・」
「・・・鬱陶しい。吐け。あといい加減に手ぇ放しやがれ」
「すみません・・・」
そのひとは振り返らない代わりに、立ち止まることで私に時間をくれた。私が握り続けたせいで変な皺がよった白装束の背中。それをじっと見つめながら、私はもう一度鼻を啜る。
「典坐も、ヌルガイも・・・先生も。あんなに、私を大事に思ってくれてる。間違いなく最高の幸せ者です。皆の生存の為なら何だってしたい気持ちも、勿論変わりありません」
三人のことが大好きだ。それこそ、ただのオタクだった頃からその思いは変わらない。私の推し。その括りではもう到底足りない程に、大切な仲間だ。そしてその三人が、私の喪失を経てあんなにも嘆いてくれた。それは元読者として光栄を超えた感情であると同時に―――私に、底知れぬ恐れの種を埋め込んだ。
「でも・・・私の創造主は、私を歓迎してません。首尾よく皆と再会出来たとして・・・桂花が、私をはっきりと拒絶したら。一度帰して勝手に戻ってきた私を、今度こそ本気で疎ましく思ったら」
自分は普通の人間だと思えた頃なら違っただろう。でも、私はもう己が本の中の創作であることを知っている。温情か気まぐれか。一度本の中へ戻した筈の異分子が再び這い出てくることを、桂花は果たしてどう思うだろうか。創造主に反旗を翻した創作物を好きに泳がせておく程、慈悲深い相手だろうか。
「もし、私の存在そのものが・・・抹消、されたら」
まるで、本を処分するかの様に。私の神様が、私の存在を破り捨てたとしたら。そんな荒業が、可能なのだとしたら。今後こそ私がいなくなった世界でもう一度彼らを嘆かせる結末は、想像するだけで胸が詰まる。
「神様の決断に対して、創り物の私はどうにも出来ない。私は向こう側の世界にいるだけで、大好きなひと達をまた悲しませる可能性を抱えてるんだと思うと・・・急に、怖くなって」
消されることが怖いんじゃない。私が消されることで、もう一度先生や典坐、ヌルガイを悲しませてしまうことが、怖い。ここに来て存在の根幹に関わるリスクに私が怯え始めた、その刹那。
「阿呆が」
「いっ・・・たい」
白い背中が勢いよく振り向いたと思えば、重い音を立てて大きな拳が容赦なく頭頂部へと振り下ろされて。痛みに呻く暇も無く頭を鷲掴みにされ、ぐるりと横を向かされる。
「残念だったな。うじうじ悩んでる時間は無ぇぞ」
瞬間覚えたのは、眩しさだ。まるでそこが外へ繋がっているかの様に、切り取られた四角形から光が差し込んでいる。
―――出口だ。不思議とそれが、理解出来た。
「ここから先はお前ひとりだ。腹括れ」
「・・・はい」
そうか、と思う。やはり、この空間でしか一緒にいられない。死罪人の白装束―――この世に別れを告げたひと。
傍にいるのに指先ひとつ触れあえない虚しさで溢れ返ったあの時、確かに私を視認出来るこのひとの存在が無ければどうなっていただろうか。乱暴な物言いや容赦の無いげんこつすら、自分の存在証明として有難かった。それもここまでだ。あの扉の向こう側までは、一緒にいられない。
甘えるな。不明瞭なことに怯える時じゃない。切り替えろ。切り替えろ。切り替えろ。切り替えろ。両手で自分の頬を強く叩き、ぐっと瞼を強く瞑った、その直後。
こつん、と。これまでの剣幕が嘘だったかのように優しい拳が米神に押し当てられ、私は瞠目した。
「お前。オタクだ何だとうるせぇ癖に、自分のことになるとてんで頭が回らねぇな」
呆れた様に私を見下ろすその視線はやはり尖ってはいるものの、どこか温かい。
「―――全ての創作には、作者の熱意が詰まってる。お前が言ったんだろうが」
その刹那、私の心に何が起きたのかは説明が難しい。ただ、足元を強い光が駆け抜けて、そのまま道になったような。驚きと安堵と、目が覚めるような思いが綯交ぜになって、私の時間を止める。全ての創作には、作者の熱意が詰まってる。確かに、本土にいた頃の私が口にした言葉だった。
「だったらお前は、あの能面野郎のありったけの熱量が煮え滾る火山みてぇなもんだろ」
「・・・ありったけの、熱量」
「その上、苦労しねぇ生活環境まで整えられた高待遇。疎ましがられるどころか、どんだけ好かれてんだって話だ。あの本で隠した虚無顔で色々練ってたと思うと笑えるぜ」
『ただの暇潰しだけど、僕が創った箱庭だから。眺めている分には割と気に入った世界なんだ』
そうだ。私はあの時、桂花が本を触りながら発したその言葉に、何か熱いものを感じたのではなかったか。佐切と仙汰。私を題材に本を起こしてくれた彼らの熱意を連想し、またその姿勢を尊敬しているからこそ、天仙のひとりである彼に対しての認識が変わり始めた。
人間を理解出来ないと桂花は言った。彼の真意はあまりに読めない。でも、わからないものを排除しようとするのではなく、細部まで凝って観察しようとしたひとだということは・・・そこだけは、わかる。
「それだけの熱意を注ぎ込まれて出来たのがお前だ。歓迎されようがされまいが、散々凝って仕上げた張本人が、そう簡単に傑作を破棄するかよ」
「・・・」
「神の決断を前にはどうにもできねぇだと?初手から諦めてんじゃねぇぞ、阿呆が。心の隙を突かれて追い返されたんならな、相手が誰だろうが二度と折れねぇぞって跳ね返すくらいの気概を見せろ」
創作には必ず、作り手の熱量がある。それを形にしようという愛がある。だからこそ私はこれまで数々の物語に夢中になって、沢山の明るい思いを貰って来たのに。このひとの言う通りだ。いざ自分がそちら側に置き換わった途端、大事なことが見えなくなっていた。
私は、彼の傑作。強い熱量を注がれて創られた、桂花の理解から最も遠い人間。創られた私だからこそ、出来ることはきっとある。桂花と対峙する局面が来ても、話せる可能性は諦めなくて良い。だって、彼は確かな熱意で私を創ってくれたひとなのだから。
穴だらけでぼろぼろに朽ちた心臓が、このひとからの指摘で新しく生まれ変わっていくような心地がした。
「・・・こっちの都合も構わず、あれが良かっただのこれが嬉しかっただの、能天気な顔して鬱陶しく喋り続けんのがお前だろ。らしくねぇツラで怖気付いてんじゃねぇ」
らしくない。そう言って私の肩を小突くこのひととは、この空間で初めて出会った筈なのに。もう随分と長いこと、私の話を沢山聞いて貰ってきたような気がする。
「あのひとを悲しませねぇ為にここまで来たんだろうが」
私の原点を思い起こさせ、力強く鼓舞する言葉。
「相手がお前の神だろうが何だろうが、意地でも喰らいつけ。あのひとの弟子なら、一方的な負け戦なんざ俺が承知しねぇからな」
厳しい声は、私の思いを理解してくれているからこそのものだと、今なら理解出来る。
「・・・ありがとうございます」
たとえ創られた人間でも、私がここにいる意味はきっとある。創造主の熱意と、皆と繋がった縁が、私を私にしてくれる。
「私・・・今度こそ、諦めません」
皆揃って島を出る。誰も悲しませない。神様との対話を諦めない。私は、今度こそあの世界に根を張って生きる。
それは、瞬きひとつの間の出来事だった。
ふわりと一陣の風が吹くと共に、何かが袖口ではためく。丈の長い黒の羽織。山田浅ェ門の証。裏地は、先生が選んでくれた特別な色。
「・・・っ」
内側には、白を基調としたカンフー服。思わず頭に手を当てて確認してしまう、女にしては短過ぎる短髪。きっと頬にも浮かび上がっているだろう、一閃に残った傷痕。そして私の腰元に収まった、尊敬する兄弟子から託された貴重な太刀。私があの世界から切り離されると同時に手放した、大切なもの。それら全てがこの身に戻ってきたことは、喜び以外の何物でも無かった。
奇跡を噛み締め、ただひとつだけ消耗を続けるもの―――光溢れる出口へ向かって解ける、山吹色の組紐を感慨深く見つめた、次の瞬間。私はなかなかの力で、その背を強く押されることになる。
「う、わ・・・!」
「ったく。世話の焼ける妹弟子だ」
躓きそうになるのを堪えた瞬間、聞こえた台詞は聞き間違いじゃない。私は慌てて背後を振り返った。
今になって漸く気付いた。私はこのひとと同じ時を生きてはいない。でも、確かに彼を知ってる。
強引に突き飛ばすことで、私に別れの言葉も紡がせてくれない。乱暴で、すぐ手が出て。でも、私をここまで導いてくれたひと。本土にいた頃から私の話を沢山聞いてくれた、唯一秘密を曝け出せたひと。
もっと早くわかっていたなら。そうしてもどかしく唇を噛む私に向けて、そのひとは苦笑を浮かべた。
「先生のこと、頼んだぞ」
私と同じ呼び方は、一言では表し切れない情感に溢れている。先生の幸せを願う、その一点に於いて私と彼は確かな絆で結ばれた同志だ。私は世界が別たれていく感覚に身を委ねながらも、力の限り声を張り上げる。
「―――はい!必ず!」
光と無数の花吹雪に包まれながら目にした最後の景色。彼は小さな笑みを携え、私を見送ってくれた。
* * *
意識も感覚も研ぎ澄ましたまま、私は瞼を押し上げた。花吹雪が止んでいく。私という浮いた存在が、今一度この世界に根付いていく。
「なっ・・・さん、なのか・・・?」
突如として妹弟子が金木犀舞う中から現れたのだ。僅かに怯んだ様子の兄弟子を前に、私は因縁の時が来たことを悟る。
「・・・殊現」
こうして降り立った瞬間から私の腕に抱き留めることの叶った、華奢な身体。付知。胸元はばっさりと刀傷が走っており、それだけで背筋が凍る思いがした。
「・・・?」
血を流し意識を朦朧とさせながらも、私の名を呼ぶ声がする。
生きてる。まだ、付知は生きてる。大事な局面に割り込むには一足遅かったけれど、死の運命を捻じ曲げることならまだ間に合う。私は今、兄弟子の力になれる。込み上げる激情をギリギリで飲み下し、震えそうになる頬を諫め、私は大袈裟な笑みを象った。
「っ・・・私が来た、ってやつ」
「・・・出た・・・わからない、ってば」
「はは、そう言わないで」
小柄な身体をそっと横たえ、手で血を拭う様に氣を練る。付知は金属性。土の氣を持つ私が、唯一相生を発揮出来る相手だ。限られた時間、その場しのぎで表面の出血を止めることくらいなら容易い。近くには倒れたまま動かない厳鉄斎の姿もあった。後は、私が如何にこの試練を早く乗り越えられるかにかかっている。
「絶対死なせないよ。二人とも、私が必ず助けるから」
少しだけ、待ってて。そっと囁くと同時に、付知が何か言いたげな顔をしながらも目を閉じるのを確認し。そして私は、覚悟を決めて立ち上がった。当然、目の前の男は私の意図を汲み取り暗い瞳で待ち受ける。
「―――貴女も、山田家の誇りを失ったのか」
「そんな筈無いって、あんたが一番わかってそうなもんだけどね」
ずっと恐れてきた。この島の攻略に於いて、殊現を敵に回すことは天仙を相手取る以上に難関だという確信があった。
でも、今は怯まない。怯めない。私が一歩でも退けば二人が死ぬ。その重圧が、私を強く奮い立たせてくれる。
「付知と厳鉄斎は死なせない。浅ェ門も罪人も関係無い。皆で生きて島を出る為に、私は戻ってきた」
自分の存在そのものの真実を知った。私が欠けることで生まれる哀しみも、創造された者だからこその意義も知った。
『相手がお前の神だろうが何だろうが、意地でも喰らいつけ。あのひとの弟子なら、一方的な負け戦なんざ俺が承知しねぇからな』
そして、あのひとに背中を押して貰った。私は決して負けられない。
「そうか」
殊現の声のトーンが落ちる。
「ならば仕方ない」
―――来る。
反射的に固めた防御の中心、鳩尾を拳で振り抜かれ、空気の塊が喉元から転がり落ちた。咄嗟に受け身を取り、転がる様に駆け出し背後を取ろうとした傍から鋭い蹴りが脇腹を抉る。手刀、正拳突き、肘打ち、回し蹴り。全てにおいて避けることも儘ならない、圧倒的な速度と威力だった。氣で防御を固める―――画眉丸と杠から戦闘訓練で学んだ技が無ければ数秒も持たず気絶していただろう。こちらが防御に全振りして尚この破壊力と圧だ。わかってはいたけれど、化物級に強過ぎて嫌になる。
「・・・っざけんな」
そして同時に、腸が煮えくり返る思いがする。
「・・・何で付知には刀を抜いた!!」
殊現は私に対して徹底して刀を抜かない。素手でも竈神を倒せることは知っていた。実際この身で直撃を受けることで、この真面目男が如何に規格外の強さであるかを痛感し通しだ。だからこそ憎い。何故、素手でも制圧出来る場面で付知を斬り捨てたのか。
「彼の決意は頑として揺らがなかった。斬ることでせめて彼の気高い魂を正しい方向へ導けるなら、それが最良だと感じた」
私は本を通して正史の付知の最期を見た。己との葛藤の中彼が仲間の命を選び、自らは命の炎を燃やし尽くしたこと。即死を免れたのは、殊現の刀に迷いがあった為だ。そんな殊現を、付知は斬られた後も変わることなく好きだと言った。
迷いを秘めた刀で仲間を斬り、それを最良と嘯く殊現の“正しさ”を、私は認めない。認められない。
「・・・つまり私なら、殴れば考えも揺らぐだろうと。あんたは私を舐めてる訳だ」
裏拳打ちが耳の後ろを狙い襲い来る、その時になり漸く私は反撃の機を得た。軌道を正確に読み、その手首を掴み、肘を狙い拳を横に振り抜く。
兄弟子達が其々どの属性の氣かは、この島に来るよりずっと以前から先生との検証を経て把握していた。殊現は水―――朱槿と同じく、相克。一撃で良い、お願いだから入って。そうして繰り出した渾身の殴打は確かに殊現の前腕部にめり込んだ筈だった。入って尚、勢いを削ぐことが出来なかったのだと、私は強烈なカウンターで壁に叩き付けられた後になり漸く理解したのだった。
「もうやめてくれ、さん」
崩れ落ちた私に歩み寄る殊現の瞳には涙が浮かんでいた。ああ、こういう男だった。だからこそ、余計に怒りが治まらない。
「秩序は絶対だ。俺にこれ以上、大事な妹弟子を傷つけさせないでくれ」
「っ・・・そういうところだよ、本当に!!」
戦局は圧倒的に劣勢。地の強さが違い過ぎる。それでも負けられない局面が今だ。遂に私は覚悟を込めて刀を引き抜いた。相手もそれを見越していたのか、鋼同士がぶつかり合い甲高い音が反響する。
殊現の目の色が変わった。
「・・・その刀は」
わかっていた。誰より衛善さんを敬愛する殊現が、この刀に気付かない筈は無い。そして同時に、これが途方も無いリスクを伴う賭けの一手であることも、十分理解していた。
小竜景光、写し。衛善さんと長年を共にした愛刀が何故ここにあるのか。それをどう受け止められるかによって、私の命運は決まる。
「・・・衛善さんと、為すべきを為すと約束した。大切なこの太刀を、譲り受けた」
真っ直ぐであると同時に、誰より危険なこの男に偽りは通用しない。山田家の主柱である絶対的なひとの脱落、それに伴う絶望か。それとも、意志を受け継いだことへの心の機微か。どちらに振れても退かずに戦える様、私は呼吸を整える。相手は殊現だ。相克の相性すら優位に働かないとは最早笑いが込み上げる程の実力差だが、それも今嘆くことじゃない。
「邪魔をするなら、相手が誰であろうと戦うよ」
「・・・貴女に、何が出来るというんだ」
「出来る出来ないじゃあない・・・やるんだよ」
衛善さんの名前が出たことで、珠現の様子が変わった。押し殺す様な声は暗く澱み微かに震え、彼が今怒りと嘆きのどちらに染まっているのかは判別出来ない。危機的状況も、劣勢も変わらない。ならばこそ、私は注意深く呼吸を整える。
「私が先生から教わったのは、臨機応変な戦い方と、仲間を守る為の剣だから」
飛び抜けた剣才も身体能力も無い。そんな私が山田浅ェ門にまで上り詰められたのは紛れもなく先生のお陰。先生が正しく私を導き、戦い方を授けてくれた。そして強くなる為の原動力は、この島で起きる仲間の死を回避させたいという願いだった。
今がまさにその時だ。相手がどんなに恐ろしい男であっても。どんなに愛情深い兄弟子であっても。私は後ろで倒れる仲間を守らなくちゃいけない。
「先生の教えに報いる為に・・・この刀を授けてくれた衛善さんの思いに応える為に、私は絶対にここから退かない」
衛善さんは何も聞かずに私を信じてくれた。長きに渡り相棒だったこの頼もしい刀を、授けてくれた。珠現と敵対することになったとしても、退くことは出来ない。
これはずっと前から定められていた、来たるべき訣別だ。山田家を心の底から愛する、彼の行き過ぎた純粋さを理解してしまった時から、この痛みは想定出来ていた筈。力同士の拮抗で張り詰めた刀の方へ顔を近付け、私は黒一色の兄弟子を力の限り睨み付ける。
「秩序じゃ守れない大切なものがすぐ目の前にあるのに・・・わかってて目を逸らすような奴を、私は兄弟子とは認めない・・・!」
その刹那。
暗い瞳が、確かな一瞬酷く傷付いたように揺れる光景を、私は見た。
中道を強く意識しなければ、焦りと罪悪感で致命的な隙を生んだかもしれず。辛うじて刀を握る力を強めることで乗り切った視界の片隅で、動くものがあった。
「殊現様」
石隠れの忍は音も無く影の様に現れた。刀同士の均衡が崩れ、私を弾くと同時に珠現は彼らの元で報告を聞き始める。
水門から蓮の船が出る、その知らせだろうか。しかし、私は刀を構え直しながらも胸の騒めきが鎮まらない。
今報告に来ているのは別の忍を装ったシジャの筈。珠現がここを立ち去っても、奴がいる限り確実にこちらの息の根を止めようとするだろう。
更に正史では、このタイミングで朱槿が盤古と融合したことによる状況悪化も始まる筈が、今のところそうした気配が無い。またもや、私が入り込んだことによるずれが生じているのだろうか。
そして何より、今しがた見た珠現の揺らぎ。確かに、傷付いた目をしていた。
「・・・わかった。船へ向かう」
「こちらの者達は」
私はぐっと眉を寄せて息を吐き出す。余計な悩みは全て後回しで良い。珠現だろうとシジャだろうと、私は仲間を守り自分自身も生き残る。ここでは死ねない。それだけを考えろ。そうして自身に厳命する最中、珠現が口を開いた。
「・・・彼女は浅ェ門のひとりだ。好きにさせる。お前達は先に水門へ向かえ」
「御意」
何が起きたのか、理解するまでに数拍の間が空いた。命令に従い忍は立ち去り、珠現は既に刀を収め私に背を向けている。
好きにさせる。つまり、見逃すということだ。
「・・・珠現」
「さん、最後にひとつ聞かせて欲しい」
想定外の展開に狼狽える私の呼びかけに被せるように、珠現の声が静かに響く。
「衛善殿は、生きておられるのか」
脳裏に浮かぶのは、衛善さんとの別れ際の優しげな苦笑と、血痕飛び散る洞窟の惨状だった。
「・・・ごめん」
答えによっては斬り伏せられた可能性もあった。でもこの状況で嘘はつけないし、衛善さんの為にも偽れない。珠現は答えもせず、私を振り返ることもなく、闇の中へと消えた。
大き過ぎる戸惑いと底無しの安堵で汗が噴き出す。珠現との敵対。長いこと悩んでいた難関を、こんな形で抜けられるとは思わなかった。しかし、私の頭は即座に次へと切替わる。横たわった付知の身体、先ほど急場凌ぎで塞いだ傷から、早くもじわりと血が滲み始めていた。
「待たせてごめん、すぐ何とかするから・・・!」
「・・・、聞いて」
考えている暇は無い。相生を重ねようとした私の手を、付知が止めた。
「厳鉄斎の方が、危ない・・・僕の回復を待ってたら、間に合わなくなる」
付知こそ苦しそうな呼吸音を立て、どんどん顔色を失っていく。間に合わないという言葉に厳鉄斎を振り返るも、私に出来ることは付知の回復しか無い。順序は変えられない。
「で、でも、私の相生が効くのは付知だけで・・・」
「だから・・・の力を、借りたい」
「何でもするよ、言って」
食い入るような即答に対して、付知が掠れた声で指示したこと。
「右の、腰元・・・赤い、巾着。中の丸薬、出して」
「わかった」
「水も少し、筒に入ってるから・・・これで、回復を後押し出来る」
兄弟子の手足の如く、言われた通りに水と丸薬を差し出す。私はそれを、寸前で止めた。
「・・・?」
「花化を促す薬じゃ・・・ないよね・・・?」
回復を後押しする薬とは、何か。頭を過ったのは、蘭戦で人間を捨てた画眉丸や、桐馬の為に自我を手放す弔兵衛の姿だ。付知がもし、この場を生き残る為とはいえ、同じ道を辿ろうとしているのなら、私は―――
「・・・何て顔してんの」
消耗しながらも、普段通りの付知の声色が私を引き戻した。
「僕は画眉丸とは違う・・・危険を押して胚珠を直接打ち込もうなんて博打は打てない」
「・・・知ってたんだ」
画眉丸の二の手。桐馬とメイ以外にも知る者がいたという現実に私が怯んだ、ほんの一瞬の隙をつき、付知の手が水と薬を攫っていく。
「けど・・・確かに花化は有効」
「あ・・・」
「だから僕なりに・・・ぎりぎりを攻めたつもり」
小さな丸薬が付知の喉元を通過していく。私はもう、固唾を飲んで成り行きを見守るしかなくなった。
嫌だ。花にならないで。
その時だ。付知の身体がふるりと震え、細く息が吐き出される。
「咄嗟の劇薬よりも、練りに練った弱薬の方がよく効くことだってある」
声は明確にしっかりしていた。細い蔓が生えたかと思えば、刀傷を薄く覆いすぐに消える。唖然とする私の目の前で、致命傷の痕が薄まる。顔や頭から花を咲かせる訳でもなく、付知が自力で身体を起こす光景を、私は口を半開きにして見つめるしかなかった。
「成分的には、殆ど消化されず排出する物を選んだから。効力はほんの一時的、表面上塞がっただけで根本解決にはなってない。でも・・・が相生で繋いでくれるなら問題無い。僕は厳鉄斎の治療を始めるから、はこのまま僕の回復補助、お願い」
何てことは無いかのようにすらすらと述べる内容は、常識からかけ離れた領域だ。だってそれは、花化の力を人工的に丸薬に捩じ込んだもの。更にはかなり強力な部類を、人体に悪さをしない水位で操るもの。どう考えても、天仙の術に匹敵する神業だ。
「・・・どうやって、こんなこと」
「僕の医学愛は僕を裏切らないって、が言ったんでしょ」
呆然とした呟きが私から溢れて間もなく、付知は当然のことの様にその答えを口にした。目と目が合うのは一瞬のこと。付知は肩を竦めると、手早く治療の支度を始めた。
「あんな煽り方されて、出立までじっと待てる奴はいないよ。数刻はあったんだから、新薬のひとつやふたつくらい編み出せる」
「・・・ありがと、付知」
「なんでがその台詞?・・・まぁいいけど」
見えないものは知り得ない。そうして氣への理解を諦めていた付知に対して、私が向けた本音。それをこんな形で昇華させてくれるだなんて、信じられない。それだけじゃなく、今こうして付知は生きて巌鉄斎を治療しようとしている。またひとつ新たな未来の扉が開いたことが、私は心の底から嬉しい。
「生きててくれて・・・ありがとう・・・!」
「はいはい、僕も助けてくれてありがとうだよ。このまま相生、よろしく」
「うん・・・!!」
「抱きつかないで、手元狂うから」
* * *
細く消え入りそうだった呼吸が安定して、巌鉄斎の大きな胸板が静かに上下を繰り返している。私はひたすら付知の相生に注力していた為何も出来なかったも同然だけれど、この小さな兄弟子は見事に瀕死の巌鉄斎を治療してみせた。
「・・・うん。これで、大丈夫」
「良かった・・・良かったね、巌鉄斎・・・」
未だ意識は戻らない。でも、確かな生命力を感じる。奇跡的に殊現を退け、巌鉄斎も付知も生きてる。こっちの世界に戻ってきた矢先、願った以上の現実が尊くて、気を抜くと泣いてしまいそうになる。
「付知は・・・?薬の副作用とか・・・」
「馬鹿にしないでよ。僕が調合したんだから、問題無いに決まってる」
「へへ。ですよね」
いつも通りの付知の調子に救われる。正史では此処で死んでいた筈の兄弟子と話せているだけで、嬉しくて堪らない。必要以上に頬が緩んでしまう私を横目に見据え、小さな咳払いが響いた。
「とはいえ、僕ひとりじゃ色々間に合ってなかったのも事実だし・・・が来てくれて助かった、ありがと」
この兄弟子にしては、珍しく素直な言葉。それは今の私にとって、普通の三倍以上の効力を伴い喜びで溺れそうになる。
私は、この局面で力になれた。皆で生還する第一歩を、踏み出せた。一度全てを失って戻ってきた私には、眩し過ぎる栄誉だ。
「・・・良かったぁ」
「やめて。泣かないでよ。シオさんじゃないんだから、僕は慰めるとか無理なんだってば」
先生の名前を聞いて、不意に心が綻ぶ。左手首の組紐は既に原型を留めない程に痩せ細っていた。この糸が完全に途絶えてしまう前に、会えるだろうか。外に出て感覚を広げれば、もっと探し易くなるだろうか。
先生。はやく逢いたい。
そう願った、次の瞬間だった。
地面が揺れ、辺り一面に花が咲き乱れる。ああ、遂に来た。そうして身構えるとほぼ同時に、私は自身の異変に目を見張ることになる。
強烈な眩暈、悪寒、それでいて節々が熱い。堪らず両手を地面についた瞬間、私は右側の視界が半分塞がれる違和感に見舞われた。がさがさと音を立てて侵食してくるそれが、頬の傷から咲き零れた花であると気付くまでに、そう時間はかからなかった。
「ちょっと・・・?!一体何が・・・!」
あまりのことに慄く付知に対して、何と説明すれば良いのか皆目見当がつかない。私は鞘から太刀を引き抜いた。
美しく頼りになる刃の表面に映るのは、顔の面積三分の一を覆う花と、白黒反転した目だった。
「・・・はは。そっか」
こんな時だというのに、何故か渇いた笑いが込み上げる。
「特別製だもん・・・自分と同じ花の氣くらい、混ぜ込むよね」
私は桂花の傑作。ならばこそ、盤古を食べた朱槿の暴走を経て無事でいられる筈が無かったのだ。
蓬莱で広がり始めた混乱の証に、不気味な音が随所から響き始めた。