白一色の装束は暗闇の中でよく目立った。私は相変わらず裸足とスウェット姿のまま、そのひとから二歩離れないことを心掛けて前へと進む。私の左手首から解け続ける山吹色がどんなに一直線を指しても、彼は曲がりくねった道を選んでいる様だった。もどかしくとも、これが安全な足場なのだろう。私はひたすらに付き従った。
辺りの景色が暗闇一色でなくなり始めたのは、暫く経ってのことだ。不意に聞こえたのは、首斬り浅、という子どもの声。惹かれる様に振り向いた先、暗い中ぼんやりと浮かぶ丸い池の様な囲いに、石を投げられ泣いて嫌がる幼少の佐切を見つけた瞬間、飛び付きそうになった私は即座にお目付け役のげんこつを喰らう羽目になった。
そうか。これが狭間とやらで、私が先程見事に落ちた先生の過去と似た様なものであると漸く気付く。後ろ髪を引かれる思いで先へ進む度、点在するそれらは都度私の目を引いた。
ゴリラと嘲笑う町娘達の嫌がらせに涙目で俯く幼い威鈴と、それを静かに励ます源嗣。絵筆と巻物を親に取り上げられ、淋しそうに従う少年時代の仙汰。鳥の死骸に刃を入れたことで周囲から不気味がられる付知。そして、暗く淀んだ瞳で山田家の門の前に立つ殊現。皆、心に影を落としていた。ひとりひとりを救えればどんなに良いだろう。それでも今は前に進むしかない。貧民街で空腹に膝を抱える典坐の姿、私は拳を固く握り締めてその横を抜けた。
次第にその幻影も、様子が変わり始める。どうやら、私がここに来てからのものが混ざり始めた様だった。
初めて先生の家に踏み込み、典坐が女の同居人に凄まじい動揺を見せた日。入門間もなく必要以上に山田家に詳しいことがバレそうになり、助け船を出してくれた期聖に見返りを請求された日。当主の娘として懇意の家に挨拶に行く佐切の着付けを手伝い、お互いのことを話して一層距離が縮まった日。仙汰と洗濯当番を務め、敷地内に入って来た猫とお日様の下で戯れた日。腑分け初日であまりの手際の悪さに呆れられながらも、付知に次も指導をお願いした日。女は不要とあまりに頑なな源嗣に張り合おうと腕立て勝負を挑み、割と食らいつきながらも敗れた無念の日。衛善さんと銀杏の木を見上げて、秋から冬に移り変わる空気を満喫した日。
そしてどんな日も、道場を後にする際には必ず門の前で私を待ってくれるひとがいる。だらしなく頬を緩ませて、犬の様にそのひと目掛けて嬉しそうに駆け出す私自身の姿に、思わず苦笑が漏れた。穏やかで懐かしい、堪らなく優しい日々。もう戻らない、私が組み込まれた過去。
そして舞台は、神仙郷へと移る。慶雲の花化という史実と異なる死。衛善さんの右腕が千切れ飛び、典坐は予定より早く朱槿と会敵した。厳しい戦闘の末、崖から闇に呑まれた源嗣。大量の血痕が撒き散らされ大穴の空いた、衛善さんが待っている筈だった洞窟。数々の異形を斬り捨てることで経験値を積み、最後は捨て身の策で挑んだ牡丹戦。色とりどりの花々が咲き誇る極楽浄土の如き神仙郷は、飛び散る赤によって瞬く間にどす黒い有様へと塗り潰されていく。
どれも紛れも無く死闘だ。血に塗れ刀を構える己の姿を客観的に見るという不可思議な経験の最中、そのひとは口を開いた。
「とんだ物好きもいるもんだ」
「・・・私のことですか」
「他に誰がいんだ阿呆が。物騒で血生臭い化け物の巣窟と、安泰の暮らし。わざわざ前者を選ぶ酔狂はお前くらいなもんだ」
これは、責められているのだろうか。しかし背中を向けたままのそのひとが、私に対して悪意を持っていないことは不思議とわかる。すぐ手が出るし言葉もなかなかに乱暴だけど、私を見捨てず導いてくれる。私を取り巻く複雑な事情、その全てを何故か知っているひと。私は、名前もわからないこのひとを、本当に知らないのだろうか。振り返らない白装束の背中を見つめ、説明し難い思いに眉を下げた。
「創り物と現実の境界なんざ、意識の違いで大したことは無ぇだろうが。食うに困らねぇ生活、何よりじゃねぇか。呆気なく手放して後悔しねぇって感覚は、俺には理解できねぇよ」
「・・・そうですよね」
創造の人間。そう告げられるまでは考えたことも無かった上に、私はこちらの世界に飛んで来る前は普通の暮らしをしていたのだ。至って無難で、平凡な人生が其処にあった。
「確かにあの世界で生きて来ました。親もいる、友達もいる。好きな作品も、沢山溢れてる。正直今でもピンと来てないくらいに・・・創作とは思えないくらい、よく出来た世界です。あの三年間は異世界トリップした長い夢だったと思えば、きっと普通に生きていける」
このひとの言うことは一理ある。意識を変えれば、どちらが創造でどちらが現実か。住み心地の良い暮らしがあるのだから、何もかも忘れて生きていくことはきっと出来る。
ただ、私にはどうしたって難しい。
「でも、もう知らなかった頃には戻れません。皆が今も戦ってるのに、ただの読者でいることなんて出来ない」
「けど、それがお前だった筈だろ。オタクって言ったか」
「そうです。でも、もう前の私とは違うから」
長い夢を見ていたと割り切ることなんか出来ない。共に暮らし、共に励み、皆の生き様を知った。沢山の明るい気持ちを、直接与えて貰ったのだ。
「半端な知識の創り物でも、異物が入り込んだことで正史を捻じ曲げたとしても・・・その先で典坐や仙汰、期聖。兄弟子達が生きてる世界がどんなに素敵か。もう、知ってしまったから」
取り零してしまった二人の兄弟子の命の重さは、無かったことにはなりはしない。それでも私は、 あの時典坐があのまま朱槿に殺されることを認められない。仙汰が花化する結末を、肯定出来ない。期聖の穴埋めとして参加した御役目のその先を、見届けたい。例え作り物でも、私が組み込まれたことで生存者が増えた世界線を諦めたくない。防ぎたい死も、確実にひとつ増えた。
「殊現に付知を殺させたくない。それから・・・」
一度言葉を切ると共に、脳裏に過ぎった光景の優しさに感情が零れそうになるのを耐えた。
傷痕に苦しむ幼い先生が、私の言葉に笑ってくれたこと。そして遡る、この組紐を貰った時。生きることを優先すると約束した時に見た、先生の心底安堵した様な穏やかな笑顔。私は、どんなに小さなことでも先生の為に何かしたい。先生の笑顔を増やす、その為に生きていきたい。
「私の人生は、ただ生きてるだけじゃ意味が無いんです。大切なひとの力になりたいんです」
生きて欲しい。先生はそう言ってくれたけど、遠く離れては意味が無い。例え心臓は動いても、先生のいない世界の私はもう、生きているとは呼べなくなってしまうだろう。
だから私は、何と言われようとも戻りたい。私自身の為。先生の笑顔の為。そして、皆が生きる未来の為に。
「正史を捻じ曲げて、更に運命を変えて、てめぇの願望も押し通そうってか。そりゃあ随分と欲深いこった」
「はは。返す言葉も無いですね」
一言一句、その通りだ。私は欲深い。その為に、正史のままでも十分美しかった筈の世界を、強引に変えようとしているのだから。
前を歩くひとが足を止めたのは、その時のことだった。
「・・・ま。そういう馬鹿正直な貪欲さが、あのひとも眩しかったんだろうけどなぁ」
つられて足が止まり、私は“あのひと”という言葉に、仄かに香る優しさを感じ取る。
私の事情を知るひと。先生とも、何らかの繋がりがあるひと。
「・・・あの、あなたは」
「無駄口叩いてる暇ねぇぞ」
その刹那、視界から暗闇が抜けて瞬間目が眩む。
「見てみろ」
怯みながら瞼を押し上げる、その最中に耳が拾ったのは微かな水音。薄暗くて広い室内。そしてその床に突き刺さった刀と、そこに蠢く蔦の集合体。怪訝な顔で凝視することでその正体に気付き、私は鋭く息を呑んだ。
「っ・・・朱槿・・・!」
間違いない。正史で先生とヌルガイに敗北した朱槿のなれの果て。先生が、仇討よりも生きることを選択した証。
でも十巻までの展開を読んだ私は、瀕死の朱槿がこの水路を辿ってあの巨大な花に―――盤古と呼ばれる未完成の悍ましいものに同化することを知っている。それによって起きる混乱と消耗が如何に重篤か。そして同時に、自分が朱槿の相克であることも忘れてはいない。
刀は無いが、丸腰でもこの状態なら叩ける。相克の私なら、今とどめを刺すことも出来る筈。そうして勢いよく振りかぶった手刀が見事に空を掻き、私は次の瞬間瞠目することになる。
透けた。更に正確に言うなら、全てが私の手をすり抜けた。
「なっ・・・」
「馬鹿が。こっちからは干渉出来ねぇよ」
思わず振り返った先、そのひとは冷めた目で腕を組むばかりで、私の頭の中は疑問と困惑で埋め尽くされる。
「どういうことですか?また、狭間に落ちたとか?」
「舐めてんのか。何のために俺がいると思ってやがる」
「ですよね」
こちらから干渉出来ない。それは確かに、私が幼い先生と接触出来たパターンとは完全な別種であることの裏付けだった。でも、暗闇の中過ぎ去った過去達を遠くに眺める感覚ともまた違う。私たちは、確かに今ここに―――朱槿の城、胎息宮に立っている。目の前で弱体化しながらもうねり蠢く朱槿の姿は、確かな実物感がある。更なる解説を求めて下唇を噛む私を見下ろし、彼はゆっくりと歩き出す。行く先は、城の外へと繋がっている様だった。
「不安定な空間だからな。どこでどう道が交差して可視化しても不思議じゃねぇ」
「・・・つまり?」
「とりあえず俺の傍を離れなきゃ安全だが、何を見ても安易に道を踏み外すなって話だ」
どうしよう。答えが答えとして飲み込めない。こんな時、先生の様な抜群の聡明さがあれば。私は理解力の足らない自分の頭を呪うしか無いながらも、彼の後について歩き―――そして。
「ま、あっち側に近付いてきたのは、確かだろうな」
城を出て視界が開けた先に、探し求めていたひとを見つけた。
「・・・先生」
* * *
こんなに近くにいるのに、触れられない。気付いても貰えない。一方的でしかない再会は、それでも私の鼓動を十分に乱すだけの威力を持っていた。
先生は膝をつき、典坐とヌルガイに応急手当を任せている―――これ以上無い程の満身創痍だった。正史と違い典坐がいる状況で、三対一の戦いを朱槿と繰り広げ、その結果が先程見たものだということはわかる。三人共に相克にはなり得ない為にとどめを刺せず、しかし可能な限り消耗させたのだろう。
ただ、奇妙なほどに、典坐とヌルガイが傷を負っていない。
「どういうことか、全部説明して欲しいっす」
典坐の声はもどかしさにざらついたものだった。先生だけが擦り減ったこの状況に疑問を感じているのは、きっと同じ筈だ。私は食い入る様に答えを待つことしか出来ない。
「今の戦闘、何であんな無茶な戦い方をしたんすか。先生らしくないっすよ」
「そうだよ。消耗を抑えろ、深追いするな、一人じゃなく皆で戦えって作戦だったのに・・・」
無茶な戦い方。仲間がいながらただ一人のみが消耗する、単独の戦法。典坐とヌルガイの言う通り、先生らしくない。夥しい血を流す様子は、正史のそれと同等以上の悲惨さを物語り、私は一切干渉が出来ない己を悔やみ眉間の皺を深めることしか出来ない。
何故。今は典坐がこうして傍にいる。仇討ちに命を燃やす理由は無い筈が、何故先生だけがこんなことに。先生はふたりの質問に答えない。しびれを切らす様に、典坐が奥歯を噛み締めた。
「先生は合流前にどこにいたんすか。それに、なんでひとりなんすか」
「なぁ、は?とは、はぐれたってことか?」
あらゆる内臓が、ぎくりと強張った。
「―――彼女は、帰ったんだ」
空気が凍り、痛い程の静寂が辺りを包む。
「先生。今、何て」
「を、元いた世界に帰した」
二人が何も知らないということは、あの別れを経て初めて私のことを話すのだろう。先生の声が硬いことが、一層私の心臓をキリキリと締め付けた。
「え・・・何?元いた世界って?」
「・・・彼女は別の世界に生きる者だ。天仙のひとり、桂花がその世界との扉を管理していることがわかった」
「別の、世界・・・?」
突然別の世界と言われても、理解が追いつかなくて当然だ。戸惑うヌルガイをそっと後ろへ退け、典坐が前に出る。
「今大事なのは、さんがどこから来た何者かって話じゃないでしょう」
その声が、僅かに震えている。聞いたことが無い程、奥底に憤りを滾らせていることに、私は目を見開いた。
「さん本人が、そこに帰ることを望んだんすか?」
「・・・彼女は、抵抗した。共に戦うと、帰ることを拒んだ」
「ならどうして・・・!」
「私が、破門を言い渡した」
今一度、誰もが言葉を無くしたことで場が静まり返った。当事者だからこそ、居た堪れない思いで息が苦しい。しかし私は次の瞬間、感情が火を噴く様な息遣いを肌で感じることになる。
「何で、何でそんな・・・思ってもないこと言ったんすか?!」
鼓膜がひりつく。思わず肩が震える程の叫び。それは紛れもなく、全身全霊の怒りだった。
「をこの島から逃がせるなら・・・彼女を無事に生かせるのなら、それが正しい選択だった」
「正しいとか正しくないとかは今引っ込めて下さい!俺は!先生の気持ちを聞いてるんすよ!」
典坐の怒り、典坐の思い。真っ直ぐ過ぎる彼の誠実さが激しい威力を伴い、あの時私の心を折った別れにひびをいれる。
状況を鑑み正しいこと。そうじゃなく、私も先生の本当の気持ちが知りたい。だって、私の思い上がりじゃなければ。あの時確かに、私達の気持ちは―――
「先生はさんの傍にいたかったんじゃないっすか?!先生はさんを―――!」
「離れたくなど無かった!!」
私の中で深く突き刺さったまま抜けなかった致命的な氷塊が、静かに崩れ落ちる音がした。
これまで聞いたことのない程鬼気迫る、先生の絶叫。気持ちの荒ぶりに呼応したのか、私の瞳から透明な何かが零れ落ちる。視界が振れて、うまく立っていられない。ゆっくりと、私はその場に崩れ落ちた。
「叶うなら・・・いつまでも、傍にいたかった。私が、守りたかった。だが・・・私の思いなど、妨げでしか無い。彼女の命には変えられない」
先生の声が激情に揺らいでいる。
私は人でなしだ。先生はこんなに傷を負って、三人の空気はかつて無いほど張り詰めているのに―――先生の本当の思いを聞いて、心の底から安堵してしまうだなんて。
「遠く離れた世界で、は安全に生きる。これで・・・良かったんだ」
私を思って切なく微笑むその表情が、途方も無く優しくて、叫び出したい程に哀しい。
ずっと傍にいたかった。守りたかった。私も同じ気持ちなのに。今はただ、一方的に眺めることしか出来ない。
「・・・どうして?」
ヌルガイが典坐の背中を掴んだまま、俯きがちに言葉を絞り出した。
「センセイは、そんなにのことを大事に思ってるのに・・・どうして、一緒に戦うよりも、強引に帰すことを選んだんだ・・・?」
私がここにいることは三人には伝わらない。でも、典坐とヌルガイがあの時の真相を深堀りしてくれる。本来聞くことの無い会話。本当なら私が知り得ない真実。それでも、知りたい。先生の全部を、知りたい。
「・・・桂花は、他の天仙とは異なる能力を持っているらしい。霧によって分断されたあの時、私はずっとの傍にいたんだ」
臓器が縮み上がる様な思いに、ひゅっと息を吸い込む。ずっと、傍にいた。あの時、突如転移した桂花の狭い部屋。孤立した不安と、天仙への警戒心が薄れていく違和感に戸惑っていたその時。先生も、最初からそこにいただなんて。
「声が出なかった。存在そのものを、巧妙に隠されていた。恐らくは、彼・・・桂花の狙いだろう。そこで私はの真実を知った。これまでの根底を覆され、自身、どんなに心乱されたことか・・・どんなに、心細い思いをしたのか。傍にいるのに支えてやれない私を、あれほど情けなく感じたことは無かった」
創作の人間。桂花の口から語られた、私の真実。先生はそれを知りながら、私の心を案じてくれていた。わかっていた筈の先生の優しさが、こんなにも沁みる。
先生も、今の私と同じようなもどかしさを覚えていたんだろうか。すぐ傍にいるのに、何ひとつ伝わらない。何でもしたいのに、何も出来ない。私の視界は一層潤んでいくばかりだった。
「元の世界へ帰そうとした桂花に対し、は懸命に抵抗した。犠牲を一手に引き受けてでも、私たちの命を優先しようとした。彼女の決意を前に説得は不可能と、彼もその時になり悟ったのだろう・・・私は存在の隠蔽を解かれると同時に、幻視の術をかけられた」
その単語に、瞬間息が止まる。
脳裏に浮かんだのは、突如として部屋の隅に現れた先生の姿。そして、その場に崩れ落ちた苦悶の表情。
「・・・幻視?」
「ああ、そうだ・・・冗談でも、誇張でもない。私は、見た。盲として生まれ、光無き世界で生きて来たというのに。天仙の術は万物の理を越えて、私に正常な視界を齎したよ」
どんなに揺さぶっても、声をかけても、何も出来なかった。そしてその後、先生の様子が明確に変わった。
幻視の術。盲目の先生にさえ、正常な視界と共に桂花が見せたもの。そこにきっと鍵がある。私を無理に切り離そうとした、鍵が―――
「・・・センセイは、何を見たの」
「あの時、が選んだ未来・・・彼女だけが犠牲になる結末だ」
真実は、思いのほか残酷で。
「地獄とは、あの光景を指すのだろうな・・・死んだ方が余程楽な拷問、終わりの無い研究材料にされ・・・削られ、抉られ、痛みと絶望に嘆くの顔が、今も頭に焼き付いて離れない」
突き付けられた現実に、眩暈がした。
「皮肉な話だろう。ずっと氣を通してしか知り得なかった彼女の姿を、私は奇跡的にこの目に映し・・・そして、忘れ得ぬ惨状を刻みつけられたんだ。何にも替え難い大事な存在が、血と臓物に塗れ擦り減っていく。例え幻術でも、私に決断させるには十分過ぎる光景だったよ」
俯き、淋し気に自嘲し、そして険しく眉を寄せる。先生の表情が、全てだった。あの時、先生に厳しい決断をさせたのは私。幻影だけど、私が選ぼうとした未来で、実験材料になった私の姿。
造り物の私の氣が蓮の気を引けるのなら。それで皆を逃がせる隙を作れるのなら、それで良いと思った。私ひとりの犠牲で片が付くのなら、安いとすら思った。でも、その未来の映像が、今も先生の心に焼き付いて苦しめているだなんて。
そっと手を伸ばしても、隣に立つ目付け役の彼は何も言わなかった。私の震える指先が、先生の肩をすり抜ける。
先生。私、ここにいます。二度と会えない世界に帰った訳じゃなく、悍ましい拷問も受けてない。今、貴方の肩に触れたいのに。大丈夫ですって、安心させたいのに。
「先生、すみません。それでも・・・自分は、納得出来ないっす」
典坐が声を絞り出したのは、暫くの空白を経てのことだった。
「さんは、この島で起きることを知ってて、それを何とか変えたくて、必死に頑張ってたんでしょう・・・先生はそれを、一番近くで見てたんじゃないっすか・・・」
屈み込んだ典坐の手が、力強く先生の肩を掴む。透き通って何も出来ない私の手は、当然何の影響も受けない筈なのに。まるで熱い手に縫い付けられたかのように、動けない。典坐の瞳の端に、小さな涙が光っていた。
「なら、今度は先生がさんの未来を変える為に頑張る番だったんじゃないっすか・・・?!勿論先生だけじゃない、皆で協力し合えば、違う未来を切り開けたんじゃないっすか・・・?!さんが今も先生の隣にいられた未来だって、あったんじゃあないっすか・・・?!」
ああ。何て熱くて、真っ直ぐな声。道理や危険性、あらゆる負の要因を飛び越えて、あったかもしれない眩しい可能性を紡ぐ。私も、先生も、二人して絶望を前にして、一緒にいられる未来を諦めたのに。典坐はその小さな光を決して見失わない。
「・・・本当に、お前には敵わないな」
項垂れる先生の声が哀愁を帯びる毎に、胸の痛みが増す。涙と激情に肩を震わせる典坐が希望を語れば語る程、遠く乖離した現実を虚しく感じてしまう。先生が短く溜息を吐き、傷付いた様な自嘲の笑みを浮かべたのはそんな時だった。
「例え傍にはいられずとも、もう二度と会えずとも・・・をあの凄惨な運命から切り離せるなら、それで良いと思った。私自身の決断に、後悔は無い。だが・・・」
先生の手が、肩で強張り続ける典坐の手に重なる。まるで、透き通る私の手まで包み込まれた様な心地に、はっとした。
「消える間際にまで、泣いて抵抗したの声が、今も忘れられないんだ」
心の脆さを曝け出した、弱弱しい笑み。それは典坐に対して向けられた表情なのに、私まで切ない思いで溢れ返りそうになる。
そうだ。私、最後の最後までみっともなく泣き喚いた。先生と離れたくない。自分本位な言葉で、必死に追い縋って。そして先生が最後に見せてくれた隠し切れない優しさが、私の目にも焼き付いた。
こんなに気持ちが通じて、同じことを思っているのに。どうして私は、先生に何もしてあげられないんだろう。
「あんなにも酷い言葉で突き放した私と・・・離れたくないと、そう言ってくれた。涙に震えるの声が、今も、ずっと・・・」
「そんなの、当たり前じゃないか・・・!!」
声を張り上げたのはヌルガイだった。典坐の後ろから飛び出し、私の身体に重なるようにして仁王立ちになる。その瞳からは、ポロポロと大粒の涙が零れていた。
「どんなに突き放されたって、心が離れる筈ないよ!!はセンセイのこと・・・本当に、本当に大好きだったんだから・・・!!大事なひとと引き離されて生かされたって、が本当に笑える筈無いじゃないか・・・!」
「・・・ヌルガイ」
「オレなんかよりずっと長く一緒にいたんだろ?!何でそんなこともわかんないんだよ!センセイなのに!センセイ、なのにっ・・・!」
涙にしゃくりあげながら、一心に思いを訴えようとする可愛い子。島に来てからは困惑することだらけだっただろう。そんな中で彼女は私という人間をよく見て、きちんと知ろうとしてくれていた。大事なひとと引き離されて生かされても、笑えない。私の思いを見事に代弁してくれた小さな身体は、どんなに拭ってもきりの無い涙に溺れながら、それでも尚声を上げる。
「を帰せて良かったなんて。そんなの絶対、本心じゃないよ・・・!センセイは、嘘がヘタだよ。淋しくて、虚しくて・・・心が壊れそうになってる・・・!だから、さっきだってあんな無茶な戦い方したんだろ・・・!オレ、嫌だよ・・・このままじゃ、センセイも消えてなくなりそうで、怖い・・・」
虚勢を張った声が、徐々に力を失っていく。最後は消え入りそうになったその言葉を拾い上げたのは、細い背中に手を当てた典坐だった。
「・・・ヌルガイさん」
「うっ・・・う、わあああん」
とうに決壊した涙腺で、ヌルガイは典坐に抱き着き大声を上げて泣いた。
「帰って来てくれよ・・・・・・!四人一緒に島を出るって・・・!約束、したのに・・・!」
過酷な島で研ぎ澄まされた仮面が剥がれ、年相応に声を上げて泣くその姿が胸に迫る。それを受け止める典坐も、力強く彼女を抱き締め返しながらも瞳の端に涙が滲んだままだ。
どうして私は、こんなにも思ってくれる仲間を目の前にして、何も出来ないのか。どうにもならない悔しさとヌルガイの嗚咽が、更に私の涙腺を刺激する。
「・・・すまない」
今度こそ大きく項垂れた先生の声が、切なく響く。
「すまない・・・・・・」
きっと、遠く離れた私に向けられた言葉。至近距離で受け止めるにはあまりに辛過ぎる、先生の思い。私は込み上げる激情に負けて、両手で顔を覆いその場に泣き崩れたのだった。