髪を湿らせ雫が伝う有様の私に、彼は薄い布を差し出してくれた。
動揺のあまりまともに受け答えも出来ずにいる私を屋根の下に引き入れ、入れ違いに自分が雨の中へ飛び出したかと思えば、湯呑に少量の井戸水を入れて戻って来た。彼の母親は今日一日戻らないこと。建付けの悪い家ではあるが、外の様子が落ち着くまで雨宿りをして構わないこと。そんなことをポツポツと告げ離れた位置に座り、それ以上は積極的に話しかけてこない。厚意に甘える形で雨粒を拭い、喉を湿らせ、そして私は戸惑いながら彼の姿を密かに観察した。

―――間違いない。姿形はかなり幼いながらも、つい先ほど本を通して知ったばかりの容姿がそのまま目の前にあり、私は思わず胸が詰まる思いを浅い溜息で誤魔化した。
朱槿戦での先生の回想。そこで語られた、これまで秘めて来た旅芸人としての過去。生まれを偽ることの後ろめたさをずっと抱えながら、母親の名誉の為に耐え忍び続けた先生の苦悩。何年も共に暮らし、弟子として大事にされながら、私は先生の抱える重たさを理解出来ていなかった。

ただ、私の左手から今も解け続けている組紐の先は、目の前の少年を指してはおらず、開け放った戸を越えて暗く淀んだ雲の上へと続く。生まれつき盲目ゆえに氣を視認出来た筈の先生にも、この特別な糸は不思議と見えていない様だ。山吹色の糸が解けていく速度はゆっくりとしていて、それが唯一の救いではあるものの、私が何らかの事故で“本来戻りたかった先とは別の場所”に紛れ込んだことは明らかで。しかしながら、彼が時間軸は違えど先生であることも恐らくは真実で。私はどうするべきなのか。左手首を強く握ると、じわりと仄かな温かさを感じた。

「あなたは・・・天の使いですか」

雨の音に紛れてしまうような、微かな問い掛けだった。思わず目を丸くする私の反応に、彼は自身を恥じる様な表情で俯いてしまう。

「・・・え?」
「変なことを言ってるとわかってます。でも・・・何も無いところに、突然現れたから」

何も無いところに突如人間が現れた。それは氣を介した先生の視界にも、明らかな異変だったに違いない。

「妖の類には、思えないし・・・」
「あ、いや、私は・・・」

どう考えても怪しい輩以外の何者でも無いだろう。しかし彼は見ず知らずの私を屋根の下に招き、飲み水を与え、妖には思えない為に天からの遣いではないかと問う。自分の推理や判断に自信が無いのは、幼さゆえ。でも、その優しさが昔から健在なことが、私はとても嬉しい。

「・・・ただの行き倒れだよ」

本当のことは明かせない。私は漸く動揺を奥に押し込め、にこやかな仮面を被ることに成功した。

「はは。もともと存在感薄いから、雨に打たれて気絶して、余計に気配感じ辛かっただけじゃないかな」
「・・・」
「残念ながら綺麗な天女様じゃないんだよねぇ。君に悪さをする妖怪じゃないのも確かだけど」
「・・・そう、ですか」

私の心許ない言い分で納得してくれたのか、それとも空気を読んで引き下がってくれたのか。正直判断が難しいほど、幼い先生は聡い雰囲気の少年だった。どちらにせよ、私は彼に感謝しなくてはいけない。世知辛い世なのだから、こんな怪しい身なりの女に声をかけるのは人身売買の悪徳業者か、底抜けに善良な人間の二択だろう。

「雨宿りも、お水も、ありがとう。でも、怪しい大人に声かけるって勇気が要ったよね。ごめんね、迷惑かけるつもりは無かったんだけど・・・」
「・・・迷惑じゃないです」

家の隅で膝を抱えていた彼の表情と雰囲気が、ほんの少し和らぐ。

「それに、僕はこの通り盲だけど・・・こうして話せば、あなたが悪いひとじゃないって、わかります」


『正面から向かい合い対話すれば、信に値する人間かどうかくらいはわかる』


ああ、やっぱり先生だ。言葉に出来ない思いに、胸が切なく詰まる。

彼の顔がびくりと引き攣ったのは、その時のことだった。

「え」

両手で顔を覆い、身体ごと丸く縮こまる。小刻みな震えと全身の強張りは、どう見ても苦痛以外の何物でも無い。私は息を飲むなり、慌てて距離を詰めた。

「・・・何でもない、です」
「みせて」

怖がらせたくない。無理強いもしたくない。でも、放っておける筈が無い。極力優しく諭した末、外れた両手の向こう側。彼の両目に刻まれた痛ましい傷痕から血がじわりと滲む光景に、私は絶句した。

「大丈夫です。まだ、傷が馴染んでいないだけ。時間が経てば、熱も痛みも忘れます」

私が知る先生は初めからこの傷を持っていたし、それが自然だった。でも、私は先程本でその傷の真相を―――盲目の子どもが剣を避ける、その芸に箔をつける。それだけの為に母親から両目を傷つけられたことを知ったばかりだ。
時間軸としては、恐らくこの痛々しい傷が膿む程に日が浅いのだろう。痛くない筈が無い。平気な筈が無い。信じられなかった。こんなに幼い少年に無理をさせる、傷が馴染むまでの辛抱だと、精一杯の強がりを言わせてしまう現実も、彼の母親のことも、何もかも。

「・・・どうして、こんなこと」
「僕がいけないんです」

呆然とした呟きに、思いがけない答えが返って来る。

「生まれてくるときに、光をどこかに置き忘れてしまったから」

幼い身で傷の疼きに懸命に耐え、私に心配をかけまいと口端を小さく上げて。でも、下がった眉が彼の哀しみを如実に物語る。薄い血の一筋が涙に見えてしまい、私は自分の脳内が急速に冷え切っていくのを感じた。

「盲だから・・・半端に生まれて来た、僕が悪いんです。どこまで生きても暗闇でしかない僕に母上は困り果てて、二人共生きる為にはこうするしか無かった」

半端に生まれた。どこまで生きても暗闇、だなんて。どうして、彼がこんなことを言うのか。誰より優しい先生が、何故こんなにも自嘲で傷付かなくてはならないのか。

「これくらい、痛みに耐えなきゃ。母上の役に立たなきゃ・・・生まれて来た、意味が無いから」

役に立たなくては、生まれてきた意味が無い。その言葉は、あまりに大きな衝撃を伴った。

「・・・お母さんが、君に、そう言ったの?」

私の指摘で、彼の肩が小さく震える。自らを責める様な眉間の皺、恥じ入る様に噤まれた口許。思いもよらない現実に、私は愕然とした。

「ごめんなさい、喋り過ぎました。このことはどうか、黙っていてください」

先生をこの世に産んでくれたひとだ。嫌な人間である筈が無いと、そう信じたかったのかもしれない。それでも、両目に大きな刀傷を刻み付けたその女性の言動により、彼は今こうして心身ともに傷付いている。盲に生まれた自分が悪いのだと。彼女を庇い、役に立ちたいのだと懸命に虚勢を張っている。

「母上には言わないで。お願いします」
「・・・違うよ」

感情の波が荒れ狂い、飛沫を上げる。幼くして聡く優しい彼が、何故こんな目に遭わなければならないのか。今初めて触れる、大切なひとの悲しい古傷が、こんなにも痛みを伴うものだっただなんて。

「君がいけないなんて、そんなこと無い・・・!生まれて来た意味が無いなんて、絶対にある筈無い・・・!」

全て私の勝手な思いだと承知の上で、これ以上黙ってはいられなかった。だって、先生は私に数えきれない優しさをくれた。何も持っていない私に、必要なものを惜しみなく与えてくれた。

「痛いのも辛いのも、全部代わってあげられたら良いのに。何もしてあげられなくて、ごめん」
「そんな・・・」
「だから、これが今の私に出来る精一杯」

今度は、私が彼に返す番だ。例え、私の知る時間軸とは別の先生だとしても。大好きなひとがこんなに傷付いているのに、見ないふりなんか出来ない。私は彼の細い両肩に手を置いた。

「今から話すことは、ふたりだけの秘密。よく、聞いて欲しい」

私の一方的な熱量に戸惑いながらも、おずおずと頷いてくれる優しい子。大好きなひとの、幼い姿。傷付かないで欲しい。悲しまないで欲しい。今私が落ちて来た場所がどんなに異様に捻じれた時空の彼方だとしても、私が心から望むことは決まってる。

「君は半端なんかじゃない。それどころか・・・完璧以上のひとに、なるんだよ」

先生。私の、先生。欠点なんて何ひとつ無い、安定感の塊の様なひと。私を受け入れてくれた、出会えたことが奇跡のように素敵なひと。

「その傷は今本当に痛いだろうけど・・・絶対に無駄にならないから」
「・・・え?」
「君の見えてる世界は、他のひとにはわからない。痛かった分、近いうちに君とお母さんの芸は偉い人の目に留まる。君には不本意かもしれないけど、出自を偽りさえすれば名のある浪人一家の門を潜ることが出来る」

想像を絶する痛みだろう。正直なところ、彼の母親に対する憤りもある。でも、ここから彼の人生が加速し始めるのも正史の事実だ。私は具体的な名は出さず、極力の情報開示を決めた。これで彼の痛みや不安を僅かでも解消できるなら、必要なことだ。

「君はそこで、強くて優しい特別なひとになる。皆から頼りにされて、慕われる。仲間の輪の中心で、笑顔になれる。今は考えられないかもしれないけど、いつかそんな日が絶対に来るから」
「・・・僕なんかに、そんな日が来るとは、とても」
「信じて。私は・・・」

困惑する彼に問いかける、その言葉が一度途切れる。
創られた私だけど、この知識があって良かったと、心の底からそう思う。

「私は・・・“先見の明”があるから。先のことが、わかるんだよ」

名付けてくれたのは出会って間もない頃の先生だ。こんな形で昔の先生に話をすることになるとも、あんな形で別れることになるとも、出会った当初は考える筈も無い。先生の家で典坐と共に暮らした穏やかな時間は戻らない。もう随分と遠くまで旅をしてきた様な気さえする。

「僕なんか、だなんて言わないで。誰より素敵な君を、君自身が否定しないで」

私が必要以上に卑屈になることを、先生は止めてくれた。鉄心さんの喪失を経てのことだったとしても、私はその優しさに救われたから。だから今、私は目の前で自嘲に傷つく彼を支えたい。ほんの少しでも、力になりたい。

「君はいつか、誰かを救えるひとになる。皆から愛されるひとになる。私には、その未来がはっきり見える。だから、自分を責めないで。見えないことは、君にとって足枷にもならないんだから」

私の、大好きなひと。誰よりも、幸せになって欲しいひと。

「信じて。君を待つ未来は、暗闇なんかじゃないよ」

今目の前で戸惑う少年は違う時間軸の先生なのだから、自分の原点と重ねるのは筋違いだと、頭のどこかではわかっていた筈なのに。

「先のことと言われても・・・よくわかりません」
「・・・そう、だよね」
「でも・・・ありがとう」

それでも、彼は顔を上げてくれた。

「こんなに沢山、真っ直ぐに褒めて貰えたことは生まれて初めてだから・・・とても、嬉しいです」

まるで、小さな花がひっそりと咲き綻ぶような笑顔だった。先生に笑っていて欲しい。その為に私は、典坐を始めとする皆の運命を変えようと踏み出した。だからこそ、例え彼が私の知る先生本人ではなくても、笑顔を見せてくれたことが心の底から嬉しい。私の方が救われたような心地で、何とか力になりたいと焦っていた気持ちがそっと解けていく。その刹那。

「・・・え」

ふわりと舞う花びらの色に、目が丸くなる。異変に気付いた時には、もう遅かった。屋根の下とは思えない風と瞬く間に増えた花吹雪によって、私と少年は完全に別たれる。

「・・・これは」
「待って。待って、まだ・・・!」

桂花が気付いたのか。それとも別の要因か。仕組みも何もかもわからないことだらけの転移だけれど、あまりに突然過ぎる。目の前で起きる不可思議な現象に惑う彼に、私はまだ一度の笑顔を引きだすことしか出来ていないのに。
視界が薄れていく。駄目だ、また帰されてしまう。私は必死に息を吸った。

「・・・忘れないで!君は誰より素敵なひとになる・・・!」

彼に希望を残せるのなら、何だって構わない。

「明るい未来が・・・必ず、来るから・・・!」

お願いだから。
笑って、先生。



* * *




「おい・・・おい!」

意識を取り戻した先は、私の部屋ではなかった。屋上から踏み出した時と同じ、暗闇の中に山吹色の一直線が私の左手首から伸びていた。桂花によって強引に帰された訳ではない。私はまだ、先生がくれた組紐を通じて向こう側と繋がったままだ。
ただ、誰かに首根っこを掴まれ、乱暴に揺さぶられている。

「・・・え?」
「ちっ・・・余計な道草食ってんじゃねぇ。考え無しにも程があんだろうが、おい」

苛立たしく舌打ちをするこのひとが誰なのか本当にわからない。短い黒髪の、体格の良い男性。眉尻と頬にかけて二本の並行傷が目立つ。身に纏うのは白装束―――死罪人が斬首の場でこの世に別れを告げる際に着る物だ。何故、誰かも不明なこのひとが私を拘束してここにいるのか。湧いた疑問は、我に返る一瞬で泡の様に消え去った。

「は、離してください・・・!私、先生にもっとしてあげられることが・・・!」
「この阿呆が・・・!」
「いっ・・・た・・・!!」

見事な右腕一本で宙ぶらりんになっていた私は、同じく逞しい左手のげんこつによって黙らされた。目から火花が出る様な一撃。容赦の欠片も無い拳に、相手が誰かもわからないながらも反抗の意思を持って仰ぎ見る。真剣な憤りを宿した黒い瞳が、私を厳しく見下ろしていた。

「折角迎えに来てやったってのに、自分がどんなに危ねぇ橋を渡ろうとしたかわかってねぇ上に、何かもっと出来たかも、だと?考え違いも甚だしいんだよ単細胞」

顔つきは険しく、言葉の選び方も乱暴だ。しかし、その説き方には確かな芯を感じてしまう。
迎えに来たとは。危ない橋とは。疑問と戸惑いに押し黙る私は、深い溜息と共に宙づり状態から地に降ろされた。地といっても足元は依然として暗闇のままだ。文字通り一寸先は闇の状態で私が考え無しに逃げ出す素振りが無いことを確かめた上で、そのひとは眉間の皺をそのままに私の額へ指先を押し付けた。

「いいか。今回は本当に運良く無傷で戻って来れただけだ。正規の道順を無視して狭間に落ちるってのは、気の立った化け物相手に自分の過去も未来も明け渡すのと同義だ。お前の存在丸ごと食い潰されてもおかしくなかった愚行だぞ・・・ったく、先が思いやられるぜ」

正規の道順。狭間。存在を食い潰される。わからないことが多いながら、単語の不穏さと同じく彼の言う様に危機的状況だったことも、感覚的にわかる。やはり私は、予定外の場所に落ちたのだろう。そこで出会ったのが過去の先生だったことは、偶然なのか、私の欲が繋いだ奇跡だったのかは、今となってはわからないことだけれど。

「・・・貴方はどちら様ですか」
「馬鹿に名乗る名は無ぇよ」
「でも・・・迎えに来てくれた、って」

乱暴だけど、私を助けてくれたひとだ。迎えの一言を指摘するとその頬を引き攣らせ、不機嫌に頭を掻く。

「不本意な役回りだがな・・・ろくに足元も見えねぇ中、馬鹿正直に一直線に進んで即足を踏み外した間抜けがいたらしいからな。その回収に来た」
「・・・私、戻れるってことですか?」

恐る恐る、小さな期待を口にした。このひとが誰かはもう問わない。誰であっても構わない。ひとりでは足を踏み外す私を、迎えに来てくれたというならば。やはりこの糸は、向こう側に―――先生のもとに続いているんじゃないかと。

「・・・道はある。足場は、かなり限られてるがな」
「っ・・・!」

願った奇跡に、心が悲鳴を上げた。私は戻れる。もう一度、あちら側に戻れる。私が送り返されてからの時間経過や、皆の状況は不明瞭だけれど、それでも。

「・・・戻らないと」

物語を再度読み返すことで、本来散る筈だった兄弟子たちの命の尊さを実感した。創造主に拒絶された私に果たして何が出来るのか、悩むのも考えるのも今じゃない。戻りたい。叶うのなら、付知の死を回避させたい。一人でも多くの生還の為に、力を尽くしたい。
たとえ、先生との間柄が元通りには戻らなかったとしても。

「折角、あのひとに送り返された平穏を無駄にしようってんだ」

瞬間、息が止まった。あのひと。それが誰を意味するのか、わからない私じゃない。

「せめて、命は粗末にすんな」

重苦しい沈黙を置いて、彼は私に背を向けて歩き出した。このひとは事情を知っている。その上で導いてくれるというのなら、どこまでも付いて行くしかない。その筈なのに、私の足は数歩で止まる。

「・・・」
「おい、離れんな。足場は限られてるって言っただろうが」

頭を過ぎったのは、花吹雪で別たれたばかりの幼い先生のその後だった。一人残して突然消えてしまったことで、心細い思いをさせただろうか。それとも、何かに化かされたと落としどころを見つけてくれるだろうか。そして、あの傷はまだ後を引くのだろうか。痛みに耐える苦悶の表情を思うだけで、胸が締め付けられた。
しかし、私が不安に思ったところでどうしようも無い。辛さを乗り越えてくれると信じるしかない。だって彼は、いつか先生になる少年だ。今はただ、彼らが一刻も早く検校と巡り合い、芸で命を繋ぐ生活に終止符を打てることを祈ることしか出来ない。自問自答という名の葛藤を切り上げ、私は顔を上げる。

「すみません、何でもないです」
「これ以上面倒を増やすなよ、さっさと行くぞ」
「はい」

私は、私の為すべきを為す。名も知らぬ白装束のひとの背を追いかけて、暗闇を往く旅が始まった。