夕陽が沈んで、いつのまにか月が昇る。部屋が暗くなった時間感覚すら掴めなくなる程に、私は錯乱した様に喚き、泣き叫び、部屋中の物を手当たり次第に投げ散らかした。
一人暮らしの私の部屋。夜遅くこんなに大暴れしても何も起こらない。この世界は、桂花の創った箱庭。私は彼が設定まで細かく練った、創作の人間。
でも今そんなことはどうでも良い。私は、一番大切なひととの繋がりを、失ったのだ。
『』
『例え世界が違っても。生きてくれ―――私の為に』
穏やかな声が今も耳に残っている。金木犀の花吹雪の向こう側に見た愛情深い笑顔が、私の胸をキリキリと締め付ける。
「うっ・・・あ・・・あああ!どうしてぇっ!」
床に寝転がりながら、何度も何度も、拳を様々な箇所に叩き付ける。天井に向かって力の限り泣き叫んでも、一体どうしたことかと駆け付けてくれるひとはいない。
「私だけっ・・・生きろなんて・・・!」
先生の為なら。先生がそう望んでくれるなら。大好きなひとが私の喪失は耐えられないと、そう言ってくれるなら、それは本当に幸せなことだと感じた。だから私は、あの優しいお願いに頷けたのに。
「私っ・・・私は・・・先生がいなきゃ・・・意味、無いのに・・・!」
子どもの癇癪の様に泣き叫んでも、部屋中を荒し尽くしても、何も起こりはしなかった。わかってる。私と先生の生きる世界は、あの時完全に別たれた。あの世界で得た何もかもをリセットされて、私は生まれた世界に戻されてしまった。もう、どうしようもないことくらい、わかっているのに。
「っ・・・先生」
先生の匂い。先生の体温。先生の声。先生の笑顔。全部、全部、消えない。何もかも忘れて生きろだなんて、そんなの無理に決まってる。
「・・・逢いたい」
カーテンの隙間から仄かに入り込んだ、ぼんやりとした月明かり。崩れた漫画の山が目に入る。私はその中から、震える手で地獄楽の一巻を手に取った。電気を付けるなんて習慣はすっかり抜けてしまい、私は窓辺に張り付く様にしてその物語を開く。本の中にあったのは、当然のことながらなんて名前の女は出て来る筈も無い、正史の地獄楽の世界だった。
欠片も期待をしていなかったといえば嘘になる。でも、ズキリと疼く胸の内になんて構っていられない。私は貪る様に本の中へとのめりこむ。元々台詞が頭に入るくらい読み込んだ筈だったのに。三年内側で過ごして、そこから自分が排除された本来の流れを外側から読み耽る行為は、不思議な程鮮烈で、同時に痛みを伴う経験だった。
だって、そこに描かれているのはもう物語の登場人物じゃない。虚構はこちら側、あちら側こそが現実の世界で、そこに生きるのは共に稽古に励んだ兄弟子達だ。
変わり者の私を受け入れ、山田家の一員にしてくれた、家族も同然の仲間だ。一人散る度に、吐き気を催す程の慟哭が荒波を立てて私を襲う。
衛善さん。どんなに凄いひとかを身をもって知っているからこそ、呆気無さ過ぎる死は到底受け入れられなかった。
期聖。私の都合悪い部分に目を瞑って、金を要求する代わりに何度も助けてくれた。自我を失い身体を裂かれる結末はあまりに悲惨過ぎる。
源嗣。本の中でも男女の違いへの拘りは根強かったけれど、佐切の中道を悟りこと切れる表情が優しくて、哀しくて、辛い。
仙汰。憧れのひとを庇った末の、恐らく苦痛とは異なる最期。それでも、共に過ごした時間の温かさを思えば、納得なんて出来る筈が無い。
そして、典坐。
「・・・っ・・・嫌だ」
あの運命が分岐した先を、一度この目にしたからこそ。森の中で二人を逃がし息絶えた、その覚悟を認められない私がいた。
だって、典坐は私の―――皆の太陽だ。前向きで明るくて、いつだって希望を照らす、絶対に欠けてはいけない存在だ。
『そして、君も』
「・・・せん、せ」
ふとした瞬間に脳裏に響くのは、先生の言葉ばかりで。私はその度嗚咽に蹲りながら、なかなか進まない頁に難儀しなければならなかった。同じ屋根の下で共に暮らし、同じ道場で稽古に励んだ月日は三年。積み重なった思い出が、あまりに多過ぎる。
『自慢の弟子を邪険にしてまで得たいものなど、私の人生には何ひとつ無いよ』
『大丈夫、必ず手繰り寄せて君を“見つける”よ』
『約束しただろう。ひとりで抱えさせはしないと』
『私は、を喪う苦痛には耐えられない』
『思い上がりだなんて、淋しいことを言わないでくれ』
私の情緒が不安定に揺らぐ度。未熟な私が躓いて転ぶ度。何度だって手を差し伸べてくれた。私を強く鍛え、励まし、全てを真っ向から肯定してくれたひと。大好きなひと。今この期に及んでも過去形になんて出来ない。先生の笑顔の為なら何だって出来ると思えるほど、私の心を埋め尽くすひと。
絶望的な状況下、私だけを切り離す為に。見たこともない程厳しく突き放しておきながら、非情には徹し切れない優しさが最後の最後で私の瞼に焼き付いた。もう二度と交わることの無い世界線で、私は本の中の先生を眺めることしか出来ないだなんて。
「・・・こんなの、ずるい」
『それで君を守れるのなら、私はいくらでも狡くなるよ』
心が剥がれ落ちる様な独白にさえ、記憶の中の先生が答えてしまう。気を抜く度に大粒の涙が込み上げて、頁を捲る速さはなかなか上がらない。それでも七巻の途中というこれまでの限界を越えて、私は瞼を赤く腫らしたまま一層物語の中へと深く沈んでいった。
辟餌服生の斎。桂花の言っていた儀式とはこれのことだろうか。
結さんと再会する為、蘭戦で人間を捨てた画眉丸。きっと妹の話は本当だっただろう、杠の傷だらけの素顔。
菊花・桃花戦で合流した亜左兄弟の絆。不屈を経て氣を掴んだ付知と厳鉄斎の底力。
そして、朱槿戦で命と引き換えの仇討ちを果たそうとした先生の思い。
典坐の魂がヌルガイを奮い立たせ、先生が命と心を救われる場面では、私の頭の中は感動と戸惑いが綯交ぜになって爆散しそうな惨状だった。
私が無理な介入をしなくても、先生の心はヌルガイによってここで救われていた。
刀には真実が映る。衛善さんの教えの通り、刀身だけに映り込んだ典坐の魂を、きっと先生も氣で感じていたに違いない。美しくて魂が震える、素晴らしい場面だった。正史での典坐の死を受入れ難い私と、ありのままの意義を尊重すべきではないのかという葛藤が蜷を巻きつつも、苦しみながら頁を捲る手は度々の中断を経て尚途切れはしなかった。
十巻の、最後に辿り着くまでは。