非常に平凡な人生を送ってきた自覚があった。飛び抜けて何かに秀でることもなくインドアで、自他共に認める漫画オタク。だからこの世界に突然飛んできた時、誇れるスキルもスーパーパワーも何も持たない凡庸な自分を、今更のように虚しく感じた。

でも、何の取柄も無い私を、先生は一から丁寧に鍛えてくれて。立場も血縁的な後ろ盾も持たない女の私を、衛善さんを始めとする山田家の兄弟子たちは受け入れてくれて。人の縁に救われながら、凡人としてコツコツ努力を積み重ねる今の私の生き方は、かつて無く輝いていると。山田家の一員を許された今の私は、間違いなく誇らしいと。変わり始めた人生を、愛おしく思っていたのに。

桂花が作った本の世界からやってきた、創作の人間。今ここに至るまで考えもしなかった事実を突き付けられ、内臓に穴が空いたような心許なさが背筋を駆け抜けた。
彼の思う人間の理解不能な部分を詰め込まれた、創り物。これまでの生きざまは間違いなく本物だと胸を張れる筈が、途端にあらゆることが脆くなる。

私は、。不老不死の修行に明け暮れる天仙のひとりが、気の遠くなる年月の暇つぶしに創った、本の中の人間。







ほんの少しでも力を抜けば意識が落ちかけるところを、寸前で耐える。
あのひとが私を呼ぶ穏やかな声が、聞こえた気がした。

しっかりしなくちゃ。私が私の存在を不安に思うことと、今私がしなくちゃいけないことは別の問題だ。
ありがとう、先生。貴方がいてくれるから、私はどんな時でも私でいられる。自分の出自はこの際二の次で良い。それより今は、確かめるべきことがある。

「・・・ひとつ、聞きたい」
「いいよ」
「私は地獄楽を本で読んでた。私が来て捻じ曲がったこともあるけど、確かに今この島で起きてる出来事だった」

私と私の生まれた世界は彼の創造したもの。そこまでは飲み込むとして、大きな疑問が残る。
私はこの世界を知っていた。大好きになって、貪る様にゆっくりと読み込んで、地獄楽の世界に思いを馳せる、その時間があった。

「そう。ひとつだけ現実の本を忍ばせた。君との架け橋の意味合いもあったけど」
「だとしたらおかしいでしょ」

不気味な程表情を変えない桂花に対し、不安や混乱を抑え込みながら私は懸命に声を張った。

「私がこっちに来て三年・・・どうして今起きてることを、三年も前に本に出来たの」

私が江戸の町で生活した三年の月日は確かに現実だ。典坐も佐切も、出会った当初はまだまだ幼さを残した顔をしていた。なのに、私は三年前の時点で今現在の神仙郷の惨劇を読めていた。
典坐の死、仙汰の花化。島で起きる残酷な事象は、当時は起きていなかった筈だ。いくら彼が創造主とはいえ、三年前の私の近くに現在の出来事を忍ばせることは不可能な筈だ。そうして眉間に皺を寄せる私を見据え、桂花は不意にその目を逸らした。

「僕は蓮の分身ではあるけど、別人でもあるらしい」

蓮。天仙の長、彼らを束ねる者。分身であり別人とは、一体どういう意味なのか。意図を計り兼ねる私の前で、桂花は微かな溜息を漏らす。

「仙道の未来予知。これが数年前から発現したことは、何故か悟られていないんだ」

これまでの虚無の声とは違う、何かを携えた声色。若干寄せられた眉、何か不明瞭なことに思いを馳せるような瞳の細まり。彼の変化を感じると同時に、その単語は私に鮮烈な既視感を齎した。

「・・・未来、予知」
「ああ、君たちの慣れ親しんだ言葉に置き換えようか」

私の鼓動が、ひとつ奇妙な音を立てた。

「―――先見の明。これなら、通じるかな」

耳鳴りの様な、ぞわりと鳥肌が立つような不快感。先見の明。これまで私が頼りにしてきた先の情報、そして島に上陸して以降は気まぐれに振り回された、実に曖昧な力。
私の創造主を名乗る彼からその単語は発せられ、しかし数秒もしない内小さく首を横に振られることで否定された。

「言葉の意味を正しく解するなら、先見の明とは今ある事象を元に未来を予見する力だから、僕や君のそれとは若干違うか。どちらかと言えば、君から得た断片的な情報を頼りに先を見通した彼の方が・・・」

そこで、桂花の口は閉ざされた。僅かに点った熱量も、彼自身が感じていた様な些細な疑問も。何もかもまっさらに均し、白黒反転した無感情な瞳が私を捉える。

「いや、どうでも良いんだ。強いて言うならその言い回しが僕は嫌いじゃない。それだけだから。さて、ここからが本題―――蓮が君の存在を感知し始めてる。正しくは、今回の上陸者の中に未知の分子がいるという程度の認識だけど」

私が創作の人間であること。桂花が未来予知の能力を有していること。それとは別ベクトルの問題として、蓮に目を付けられることを危機として認識出来ない私ではなかった。
直接は遭遇せずとも、断片的な本の知識だけでも理解出来る。蓮は天仙の中でも別格の存在だ。彼か彼女か、どちらにせよ最も会敵したくはない相手だと、私は皆にも厳しい認識を共有していた。
私の異端さが仇となり、蓮という脅威の興味関心を引いてしまったということなのか。否、それならそれで私が蓮の注意を引き付けることで、状況を逆手取り出し抜く手は無いものか。ギリギリの精神状態で必死に策を捻り出そうとする私の脳内は―――

「これから君たちは分断され、戦力を削られ、個々が贄になる」

―――その一言で、完全に沈黙した。

「蓮は氣に直接触れれば、君がこの世の理に反する異分子であることを即座に見抜くだろう。君は贄にはされない代わりに、死んだ方がよほど楽な拷問にかけられ、永続的に蓮の研究材料にされる。このまま時が進めば確実な未来だよ。僕にはそれが視えるから」

私が辿り着く惨事。そんなことは、もう途中から殆ど耳に入らなくなっていた。
贄。その悍ましい単語を、烙印の如く皆が背負うことになるだなんて。到底、受け入れられる筈が無い。

「でも、今なら本の中に戻してやれる」
「・・・本の、中?」
「そう。君を逃がせる。これが創造主としての愛着か執着かは判別に困る感情だけど、この際どうでも良い。蓮に君を捕らえろと命令されれば逆らえない。今しか好機は無い」

本の中へ私を戻す。そこに考え至った桂花の思いに寄り添うことは、出来なかった。

「帰らない」

帰れる筈が無い。皆を待つ残酷な運命を知りながら、形はどうあれ私だけこの地獄から上がることなど、出来る筈が無い。

「自分が創作の人間と知って混乱しているのか」
「違う。それは今、どうだって良い」

私の存在。これまでの軌跡。全てが思っていたものと違っていたとしても、私には譲れないものがある。

「皆を生け贄になんてさせない」

何の為に、ここまで来たのか。

「貴方が私の創造主だろうが、私の思いは止められない」

どんな思いで、ここまで来たのか。

脳裏に過ぎるのは、いつだって私を支えてくれた優しい笑顔だ。朱槿と対峙し瞬間気を失った、あの時。例え妄想だとしても、典坐とヌルガイの祝言の夢が私に力をくれた。先生にこの光景を見せてあげたい。私の存在が虚構だとしても、私が心の底からそう感じたことは紛れもない現実だ。

「・・・先生を、あの未来へ連れて行く」

私が先生の笑顔を守る。誰より優しいあのひとを、必ず幸せな未来へ導く。皆の未来がいよいよ脅かされる可能性が迫った今、固い決意は業火の如く燃え上がった。
蓮がどれ程の脅威かは、最早些末事だ。大切なひとを守る。これ以上、誰も奪わせない。その為なら、誰が相手であっても何だって出来る。

「君がどう思おうと、蓮は止められない。贄が無ければ儀式は成立しない」

頭の片隅を、先生との約束が過ぎった。お互いの為に、生きることを優先しようと誓った。大好きなひとから齎された、夢の様な問い掛けだった。途方も無い程幸せだった。
でも、先生の未来には変えられない。ちくりと痛む胸の内に蓋をして、私は桂花を睨みつけた。

「どうしてもこれ以上の犠牲が必要なら・・・私が、全部引き受ける」
「正気の発言とは思えない」
「至って正気だし、創り物の私の氣が蓮の注意を引けるなら好都合でしょ」

私より遥かに精度の高い未来予知。迫り来る破滅。ならばこそ、私の特異さで場を乱せる可能性はゼロじゃない。絶対に、諦めない。手でも足でも好きに千切れば良い。皆を―――先生を逃がす為の時間稼ぎならいくらでも受けて立つ。創作の人間であることがこの為の布石だったというのなら、桂花に感謝したいくらいだ。

「安全な本の中になんて帰らない。大好きなひと達の為なら、死ぬまでここで戦う。例え貴方が私の神様でも、従えない」
「君の中身を設定したのは僕だからわかってはいたけど・・・やはりそうなるか」

桂花は顔色を変えることなくそう呟いた。肯定か、諦めか、それとも別の策を練っているのか。一切を読めないながらも、来るなら来いと私が断固抵抗の意思を強める、その刹那。

「彼女はこう言ってるけど、君はどう思う」

それは、突然のことだった。
明らかに、私以外の誰かに向けられた言葉。ほんの今し方まで感じることの無かった、私のよく知る氣を背後に感じる。
弾かれた様に振り返った先、部屋の角で俯くたったひとりの姿を見た。幻術の類じゃない。間違いなく、私の先生だ。

「っ・・・せん、せ」
「ああ、聞こえないか」

安堵するあまり、様子がおかしいと気付くまでに遅れを取った。膝から崩れ落ちる先生の姿に血の気が引き、私は堪らず桂花への警戒を捨てて傍へとひと息に駆け付ける。

「先生・・・!!」

蹲り険しく顔を歪めるその様は、間違いなく苦痛に満ちたそれだった。流血も無い、外傷も見当たらない。しかしどんなに揺さぶっても呼びかけても、私の声は届かない。こんなにも苦しむ先生の顔は、これまで見たことが無い。
プツリと糸が切れた様な冷え切った心地を感じた次の瞬間、私は敵の喉元へ飛び戻り刃を振り抜いていた。当然、難なく素手で防がれる。しかし、もう創造主への摂理たる敵意の無さとやらは機能していないようだった。

「先生に何をした・・・!」
「命は脅かしていない」
「質問に答えろ!!」

相手が私の神だろうと関係無い。私の先生を害するのなら、誰であれ許さない。答えを引き出すまでは、決して逃さない。鋭い刃を押し込む様に渾身の圧をかけ、奴の掌の皮膚を裂き血を流す。力の拮抗で震える美しい刀身に映る、桂花の落ち着き払った態度は依然として変わらなかった。

「もう終わったよ」

瞬間、終わったという単語にゾッとする恐怖を覚え振り返る。
未だ四つん這いに蹲ったまま。しかし、確かに呼吸を繰り返す姿に覚えたのは大きな安堵だ。私は居ても立っても居られず先生の元へ飛び付いた。

「先生っ・・・先生!」
「・・・

先生の声。先生の氣。大丈夫、今なら声は届く。消耗しながらも、確かに生きてる。自分が創りものであることなど、どうでも良い。先生がこうして生きているなら、何だって構わない。込み上げて溢れ出しそうな熱い激情を、私は先生の肩口に顔を寄せることでどうにか抑え込んだ。

今この瞬間、最優先すべきこと。私はこのひとを連れて、ここを出る。普通の時間とは別の括りと言っていた、桂花の支配する空間から脱する。その為に彼を倒すことが必須の条件だというのなら、どんな手を使ってでも成し遂げる。
出来る。先生と一緒なら、必ず出来る。

「改めて問うよ」

先生の肩を支える様にして立ち上がる、その最中。

「彼女は創作の人間で、今なら僕が安全な本の中へ戻せる。だが、彼女はそれを拒んでいる」

桂花の凪いだ声が、淡々と私の事実を告げる。

「山田浅ェ門士遠。君は、どう思う」

この上無い怒りが火の手を上げた。

「・・・ふざけんな」

先生に問うことじゃない。私の問題だ。それに、どうすべきかは最初からはっきりとしている。

「答えは決まってる。私は御様御用、山田浅ェ門。皆を生かす為に此処へ来た」

私はもう、日々を適当に生きていたじゃない。山田浅ェ門だ。本で読んだ惨劇から運命を変える為に、ここへ来た。大切なひとを悲しませない為に、今の私がいる。元居た場所へ帰ることは無い。私の生きる意味も、理由も、何もかもここにある。

「二度と先生には手を出させない。誰も傷つけさせない。私は、絶対に―――」


誰にも侵されない、私の決意。それは対峙する桂花ではなく、特別なひとによって遮られた。

「典坐と仙太の命を、救ってくれた」
「・・・え」
「もう十分だ、

肩の支えをやんわりと解き、私から一歩距離を取る。その表情はどこか硬い。

「君の役目は終わったんだ」

今、何を言われたのか。頭がついていかない。
だって、先生は私を誰より認めてくれたひと。私を自慢の弟子だと、そう呼んでくれたひとなのに。

「そん、な」
「ここから戦いが一層厳しくなる」
「だったら尚更・・・!」
「弁えろ、

困惑から追い縋る私を拒絶する、厳しい声色。思わず、びくりと肩が震えた。
こんな冷たさを、これまで一度だって向けられたことは無かった。いつだって優しくて、叱る時だってそこには必ず思い遣りがあって。こんな風に突き放された様な怯えを感じることは、どう考えても初めての経験で。確かに私の先生なのに、まるで知らないひとの様で。

「・・・たかが三年の付け焼き刃で、特別な剣才も持たない君が我ら山田家の者達と対等に並べていると、本気で思っているのか」
「・・・先生」
「何の不自由も無く整えられた世界から来た造り物の君と、各々苦労と研鑽を積んだ我々が同列であると―――だとしたら、それは酷い侮辱だ」

造り物。その言葉の鋭利さが、私の心を容赦無く抉った。それだけじゃない。先生が厳しく告げる悉くが、私がここで過ごした年月を真っ向から否定する。
確かにその通りだ。竹刀もろくに握ったことの無かった凡人の私が、たかが三年で由緒ある山田家の皆に並べているだなんて、驕りにも程がある滑稽な思い込みだったのかもしれない。

でも、私は知っている。

「・・・何を、されたんですか」

先生は、理由も無しにこんなことを言うひとじゃない。

「何が、あったんですか」

何も出来なかった私を導き、励まし、見守ってくれた。これまでの先生を、全部覚えてる。温かな言葉も、穏やかな笑顔も、触れ合った手の熱さも。全部全部、本物だった。
あの日、素性の知れない私を受け入れてくれた。先生は優しいひとだ。例え私が創られた人間であったとしても、こんな風に突然背を向けられる筈が無いと、これまでの日々が私に告げる。

「ねえ、先生。ちゃんと話して下さい。こんなこと・・・突然、受け入れられません」

桂花に何をされたのか。先生は何を思って、こんな形で私を突き放すのか。全部知りたい。納得なんて出来ない。出来る筈が無い。

「だって、先生は私にっ・・・」

感情が昂って、言葉はうまく形にならなかった。
左手首、羽織の下に巻かれた組紐へ強く右手で触れる。先生は私にこの贈り物をくれた。言葉に出来ない気持ちが、確かに通じた気がした。あの時手の甲に灯された熱さを、今だって忘れられないのに。

「本の中へ帰りなさい、

先生は遂に私から顔を逸らしてそう言った。

「ここから先、君の様な・・・半端者の出る幕は無い」

頑なな声。厳しい言葉。険しい横顔。これまで縁の無かった、先生からの全身全霊の拒絶。私はまるで迷子の様な心地で、戸惑い狼狽えることしか出来ない。
こんな私を、丸ごと受け止めてくれた。いつも寄り添ってくれた先生の温かさは、嘘なんかじゃなかった。

「こんなの・・・納得、できません」
「・・・
「全部、一緒に背負ってくれるって。先見の明よりも、私の腕を信じてくれるって・・・これからも、そばにいるって・・・言って、くれたじゃないですか」

私の先生。いつだって優しくて、思慮深くて、時折ユーモアもあって、そして温かく包み込んでくれるひと。このひとが笑っていられる未来の為なら何だって出来ると、そう思わせてくれた。私が心の底から慕う、ただひとりの先生。笑い合った日々も、認めて貰えた心の熱さも、確かに本物だった。先生からの言葉の棘に、きっと理由がある筈だと追い縋らずにはいられない。それくらい、確かな師弟の絆がある筈だと。私は、先生とのこれまでの時間を諦められない。

先生が、ほんの僅か震える息を短く吐き出す。その次の瞬間、霞色の氣が更なる拒絶を張ったことを、私は肌で感じることになる。

「ならば私も言わせて貰おう」

もう一度先生はこちらを向いた。盲目の先生と、目と目を合わせて会話が出来ているような感覚を幾度も幸せに感じてきたというのに。今はもう、顔を見合わせてもまるで心が通わない。

「・・・これ以上の犠牲が必要ならば、全て自分が引き受ける。君は先刻、天仙に対してそう口にしたな」

ぎくりと心臓が収縮するのを感じる。何故、そのことを先生が知っているのか。私と桂花の会話を、先生はどこから聞いていたのか。

「約束はどうした」

動揺と負い目から咄嗟に言葉を紡げない私の隙を、先生は追及で許そうとしない。

「自分の命を優先させるという私との約束を・・・君は反故にしようとした」
「っ・・・それは・・・!」

大事な約束だとわかっていた。葛藤も確かにあった。簡単に無かったことにした訳じゃない。でも、私の言い分を先生は受け付けようとしなかった。

「信じていたよ。だが、誓いを一方的に破ったのは君だ」

やめて。信じていた、だなんて。過去形にしないで。先生からの信頼を失ったら、私はどうやって生きていけば良いのか―――。

「―――破門だ」

耳鳴りがした。
この島で直面した困難や慟哭によって空いた、致命的な心の風穴。それを塞いでくれていた瘡蓋が、強引に剥がされた様な喪失感。
噴き出し零れていく、私の中の大事なもの。

「私は君との師弟関係を、今この瞬間解消する」

私の原点。先生の弟子であること、私の何よりの誇り。
それを先生自身から取り上げられることで目の前が暗くなり、視界が急速に潤むと同時に大粒の涙が零れ落ちる。
ああ、そんなことを言われたら、私がここにいる意味が―――。

ふわりと舞う何かが視界を掠めたのは、その時のことだった。
橙色と黄色の織り交ざる、小さな花びら。ひとひら、ふたひら。瞬く間に増えていく、金木犀の花びら。
部屋の扉は一か所、今も閉ざされたままだ。外から吹き込んで来た訳ではない。

「えっ・・・」

涙に暮れるあまり、それが私を覆う花吹雪だと気付くまでに時間がかかり過ぎた。狭い部屋の中、私だけを円の中に閉じ込める様な花の檻。確かな形で、私と先生を隔てるもの。途端に、この上無い焦りが込み上げた。

「礼を言うよ。一度彼女の心が折れたことで、道が拓けた」

桂花の静かな声が、状況を正確に物語った。
道が拓けた、とは。心が折れた、とは。私はほんの数秒前の己の失態を、今になり痛感した。
先生から破門を言い渡された嘆きによって、確かに思ったのだ。私、ここにいる意味が無い、と。

このまま元の世界に送り返されてしまう―――取り返しのつかない絶望に、心がひび割れる様な悲鳴を上げた。

「だめ、だめ・・・先生、私っ・・・!」

金木犀の花吹雪は刻一刻と厚くなっていく。私が手を伸ばしても、先生には届かない。それでも私は、険しい表情で俯くただひとりに向かって声を上げる。

「まだ、戦います・・・!皆を守りますっ・・・!必ず、役に立ちますから・・・!」

見苦しくても良い、無様でも良い。追い縋らずにはいられなかった。
帰りたくない。終わりにしたくない。こんな形で別れたくない。
涙でぶれる視界の中、徐々に薄れていく先生の姿に、私は遂に膝から崩れ落ちた。蹲り、泣きじゃくり、そして思いを吐露する。

「・・・っ・・・離れたく、ない・・・!」

助けたい。守りたい。力になりたい。これまで培ったひとつひとつを、ゆっくりと剥がされて。
最後に残ったものは、本当に身勝手な思いだった。

「先生っ・・・!私、先生のこと・・・!」


私を呼ぶ、先生の声。温かさの通った、よく知る先生の声。
恐る恐る顔を上げたその先。激しい金木犀の花吹雪の向こう側に、片膝をつき私を見守る大好きなひとの姿を見た。
私のこれまでを否定し拒絶した、見慣れぬ冷たさじゃない。優しく何もかもを肯定してくれた、私の先生がそこにいて。
目と目が合って、心が通う。好きで好きで堪らない、穏やかな笑顔が、私ひとりに向けられて。

「例え世界が違っても。生きてくれ―――私の為に」

次の瞬間、私の視界は無数の金木犀と白い光に包まれた。



* * *



ヒグラシの鳴く声が聞こえる。びくりと肩を揺らして、私は顔を上げた。

中途半端に開いたカーテンの隙間から、薄暗い部屋に夕陽の光が差し込んでいる。雑然とした漫画の山。私の部屋。床に座り込んだまま、ベッドを背もたれに眠っていたらしい。頭がぼんやりする様な倦怠感に、目を擦りながら邪魔な髪を掻き上げた。

―――髪が、長い。

ぎょっとする思いに、目を見開く。
這う様に飛び付いた手鏡に映ったもの。それは、長い髪と汚れの無い顔。無茶をしてばっさりと切って以降、すっかり見慣れた男と見紛うような単髪も、巌鉄斎に伊達と呼ばれた頬の傷も、何も無い。

「・・・うそ」

衛善さんから譲り受けた太刀も、浅ェ門の羽織も無い。草臥れたスウェット一枚の、昔のままの私。

夢オチだと笑い飛ばせる筈が無い。刀の感触も、血の生温さも、何もかも覚えている。
最後に向かい合った先生の笑顔が、今も目に焼き付いて離れないのに。もう、触れ合えない。

「・・・っ・・・あ・・・ああああああああああ!」

あの地獄に皆を残したまま、帰ってきてしまった。

誰にも届かない絶叫が、狭い部屋いっぱいに響いた。