別れ際、メイと交わした抱擁は柔らかくて温かかった。私は隣でそわそわと待っていた佐切も逃すことなく、渾身の愛をこめて抱き締める。絶対、また会おうね。耳元で囁いた切なる願いに、年下の姉弟子は目を潤ませながら何度も頷くことで答えてくれた。
杠に仙汰のことをお願いしたら即お断りと返されたけれど、きっと彼女はフォローしてくれる。仙汰とはグータッチを交わし、お節介の内容には触れないながらも意味ありげな笑顔で通じ合った。
そして画眉丸に対して私は、気合いを込めた握手を求めた。

『結さんの為に、絶対生きて』
『・・・おヌシもな』

じんと後を引く様な握力を残して、彼ら―――仙薬奪取班は、静かに闇夜へと消えていった。残された私達、脱出経路確保班は突入合図の狼煙を待つばかりだ。

ここから先は、本当に展開を見通せない。何故、私は中途半端な知識量でこの世界に来てしまったのだろう。幾度も繰り返した自問自答は、しかし今の私にとって悲観一色という訳ではなかった。
結末を知らない私が、あの日先生と出会えたからこそ、今がある。何かひとつでも違っていたら、またひとつ運命が変わっていたかもしれず。衛善さんと源嗣を救えた未来も、逆に典坐と仙汰を喪い嘆く未来も、あったかもしれない。私は今、この世界線で掴んだ命を決して取り溢さない。決意も覚悟も、安定してその時を待っている。


「ん?どしたの、ヌルガイ」

羽織の袖を、小さな手に軽く引っ張られた。視線の高さを合わせる、それだけのことで頬を綻ばせてくれる可愛い子。私は思わず、その黒髪を愛おしく撫でた。

「へへ。いいこと、あった?」
「え?」
「隠してもわかるよ。から何か、こっちも元気を貰える感じのあったかいやつが湯気みたいに・・・」

想定外の方向からの問いかけは、次の瞬間私の動揺より早く、典坐と目を合わせることで別の論点へとすり替わった。

「典坐・・・!」
「それっすよ!ヌルガイさん!それが氣を見るってことじゃあないっすか?!」
「そっか!これか!なんか掴みかけた気がする・・・!ありがとうな!!」
「んんん?私・・・まぁいっか」

湯気とは。無意識に色々駄々漏れてしまっているのだろうかと、私は密かに背筋を伸ばして呼吸を整える。先生のことは振り返らない。確認しなくても、穏やかに笑ってくれているのが、わかる気がする。
そんな折だった。ヌルガイとハイタッチで盛り上がっていた典坐が、軽やかにこちらを振り返った。

さん、こういう時はあれっすよね!ブラボー!おお!ブラボー!」

眩しい笑みを煌めかせて何を言うかと思えば。確実に出所はわかっていないのに、私が日常的に忍ばせた影響で習得し始めた小ネタ。しかも、使い方も何となく合ってる。ほんの一瞬、本土にいた頃に戻ったような錯覚を覚え、私は思わず小さく噴き出した。

「ふっ・・・あはは!やるじゃん、典坐」
「っす!」

すかさず楽しそうな敬礼が返ってくる。当然、ヌルガイには通じない。

「なぁ、どういう意味?の知ってる変わった言葉、オレにも教えてくれよ」
「今のはヌルガイさんを褒めた言葉っすけど。そうっすねー。自分もさんと三年暮らしてようやくわかってきたんで・・・焦らずじっくり行きましょう!」
「えー?もう、何だよそれ。道のりが遠いよ」

戯れ合う楽しさの中に小さな不満を混ぜ込んだヌルガイに対して、典坐の溌剌とした明るさは大木の様に揺るぎない。

「大丈夫っすよ。島を出た後なら、いくらでも時間はありますから」

島を出た後。明日以降の話を、典坐は当然のように口にした。死罪人と浅ェ門という立場の違いも、あるかどうかもわからない仙薬の問題も、そもそも次の朝日を拝めるのかという切実な危うさも。何もかもを取っ払い、この先も共に在れることを信じて疑わない、爽快な表情で笑う。

「・・・うん、そうだな!」

希望と感激に小さく震えそうになる声帯を鼓舞して、ヌルガイが応じる。わしゃわしゃと頭を撫でる典坐に、やめろよと言いながらも心底嬉しそうな笑顔が尊くて。私はただ、目を細めて一秒ごとに時を噛み締めることしか出来ない。

「まったく。敵わんな」
「本当に」

隣に立った大事なひとに、そっと言葉を返す。作戦決行の合図を待つばかりのこの時を、こんなにも穏やかな空気で迎えられることには感謝しか無い。

「典坐は、太陽だから。絶対、欠けちゃいけない存在です」

当然の様に未来を描く典坐の明るさが、眩しくて頼もしい。正史では喪われた命。それでも今この光景を目の当たりにして、やはり彼が死んで良い筈が無いと強く感じる。
典坐だけじゃない。屈託の無い笑顔を見せるヌルガイも。そして、私の隣で優しく二人を見つめる先生も。誰ひとり、欠けちゃいけない。

「典坐も、ヌルガイも、先生も」
「そして、君も」

まるで自然の流れの様に、先生が私の存在を加えてくれる。

「欠ける訳にはいかないな」

ほんの僅かの空白を挟み、見上げた先。全部を受け止めてくれる様な笑顔と通じ合い、私はくすぐったい思いをそのままに小さく笑った。

「・・・嬉しいです」

先生はそれ以上何も言わない代わりに、私の頭にそっと手を置いた。ひと撫でだけで引いていく、数秒にも満たない時間が堪らなく心地良い。

大一番を前に、本当の意味で気は緩められない。大事な優先順位も変えられない。何ひとつ言葉には出来ない。でも、確実に私と先生の間の何かが変わった様な感覚は、今も私の手の甲に残っている。
夢の様な、化かされている様な不安定さを、今という緊張感が良い意味で地に括り付けているのだろう。それで良いと、私は秘かに左の手首に―――袖の下に固く結ばれた贈り物に触れる。

典坐の言う通り、明日が来たら。無事に島から出られたら。その時いくらでも戸惑えば良い。ろくに経験の無い、漫画の中で眺めることしか縁の無かった、願ったひとと思いが通じているかもしれないという奇跡を、私なりに手探りで味わえば良い。きっと私は我に返った途端に、度を越した動揺でポンコツに成り果てるのだろうけれど。
そうして晴れやかな表情で正面を見据えた、その刹那。

音も無く、暗い夜空に一筋の煙が立ち上る。煌き、瞬く間に塵と化した炎の色は、青―――作戦決行の狼煙。私達は各々に息を殺し、氣を極力薄め、一斉に駆け出した。

別の影から飛び出し合流した付知や桐馬にも異変は無さそうだ。厳鉄斎だけは氣のコントロール無しに我先にと大股で駆けているけれど、蓬莱の中へ入ってしまえばきっと隠密も意味を失うだろう。今は勢いを削がないことが大事。其々の間合いに干渉しない距離感を読み合いながら、私たちはもう一段階速度を上げた。

蓬莱の門を潜り抜け、早速厳鉄斎が殴り潰し飛んで来た道士の屍を避ける。ついでに腰元から刃物を拝借し、角を曲がってきたばかりの新手の頭目掛けて投げつけた。串刺しで崩れ落ちた標的に怯むなり、オレも出来た方がいい?なんて萎縮したヌルガイの囁きには、黙ったまま首を横に振る。適材適所だ。皆より多少は氣に馴染みがある分、私は喜んで多めに働けた。
雑兵は素早く斬る。本命と会敵した際は冷静に対処する。速さと正確な判断力が物を言う。私たちの目標は水門からの脱出船の確保、そこに付随する問題解決。私は先生に教わった剣を正しく振るう、それだけだ。

外城には流石に道士以上は闊歩していない様で、各々比較的速やかに獲物を仕留めながら道は順調に開けつつあった。斬る、避ける、抉る。極力消耗を押さえ、静かに、仲間の同行も見守り合いながらの前進は、本命である内城へ滑り込んだその瞬間―――突如として雲行きが怪しくなった。

、離れるな」

先生が私の一歩前に立ち、足を止めた。ほんの一瞬の内に立ち込めた白い靄が、私たちの行く手を阻む。

「えっ・・・あれ?皆、どこ行った?」
「ヌルガイさん、止まって。この霧が妙っすね・・・先生、さん、無事っすか?!」
「ああ、問題ない」

付知達の気配が消えた。私はヌルガイと背中合わせに、更に外側には先生と典坐が刀を構え辺りを警戒した。

、そこにいるよな?」
「いるよ。大丈夫」

不安気なヌルガイの問い掛けに応え、顔を見ようと振り返った、その時だった。私の背に直接触れていた華奢な体重、癖の強い黒髪。その一切が、空間ごとごっそりと削られた様に消え失せ、私は呆然と半歩後ずさった。

「・・・ヌルガイ?」

今この瞬間まで、背中を預け合って立っていた。小さな身体が、何処にも見当たらない。

「典坐?」

ヌルガイだけじゃない。すぐ傍で警戒を解かなかっただろう、年下の兄弟子の姿も掻き消えている。私の背を、一筋の汗が冷ややかに伝った。

「・・・先生」

数秒前まで、すぐ傍にいた。手を伸ばせば触れ合える距離に、確かに今までいた筈なのに。途方も無い孤独を感じると同時に、ドッと心臓の鼓動が乱れた次の瞬間、私は懸命に己の意識を中道へ引き戻した。
血が滲む程唇を噛み締め、細く鋭く息を吐き出す。如何なる時も冷静さを忘れるな。先生なら、必ずそう言う筈だ。例え一人でも今成すべきことは変わらない。散り散りになったとしても、きっと皆は大丈夫。きっと、先生なら。

「っ・・・!」

背後に感じた氣は、私の知る仲間のどれとも異なる。振り返りざま、私は渾身の力で頼れる刀を引き抜いた―――筈だった。

景色が違う。濃霧に包まれながらも、内城の出入り口であるここは確かに広間の様に開けた空間だった。それが今この瞬間、刀を振り被った私が佇んでいるのは、書物だらけの薄暗く狭い部屋に様変わりしている。刀を向けた先に気配は無い。そして、その氣は再度私の背後に湧き上がった。

「・・・」

生唾を飲み、慎重に振り返る。小さな部屋の入口、そこに佇んでいたのは、本を片手に顔を隠す天仙―――桂花だった。

これまで度々私の進路を脅かした、謎多き天仙。この局面で一対一かと苦い焦りを感じながらも、私がゆっくりと刀を構え直した、その瞬間。
私が感じた違和感を言葉にするのは、難しい。ただ、唐突に桂花が氣の圧を弱めたこと。そして、各段に息がし易くなったこと。明確な変化、その戸惑いに私が眉を顰めると同時に、その手が彼の顔を隠していた本を引き下げる。
白と黒の反転した異色の瞳が、私をじっと見据えていた。咄嗟に息を飲む私に対し、その声は牡丹や朱槿と同じようで異なる、最も凪いだトーンで発せられた。

「一対一なら抵抗無く、顔を晒せる」
「・・・え?」
「やはり君は、僕にとって別枠らしい」

この島に於いて最も脅威の存在が突然何を言い出したのか。何故私に対する圧を解いたのか。何もかも疑問ばかりの私を差し置いて、桂花は静かに本を閉じた。
にこりとも笑わない無表情。しかし正面から向かい合う今この期に及んでも、私への殺意の類は微塵も感じられない。

「こんにちは、

数拍の末、私は唖然と目を見開いた。
。それは元居た場所での私の苗字。この世界に降り立ってからは、一度として口にした覚えのない単語。先生ですら知らない、私の家名。あまりの困惑に半歩後退る私を見据えたまま、彼は静かに口を開いた。

「僕は桂花―――君の創造主だ」



* * *



例えばこれまでにも、頭の中が完全にフリーズする場面は度々あった。
そもそも、突然時代劇と見紛う様な江戸の町に降り立ってしまった時も、そこが地獄楽の世界と理解した時も、私は脳内を真っ白にさせながら、それでもどうにか立ち直り生きる道を模索しようと頭を切り替えて来た。
今はそこに連なる衝撃と呼べるだろう。天仙のひとりと一対一で向き合い、突然のカミングアウトの内容は《僕は君の創造主》と来た。

「そう、ぞう?何・・・?」

意味が、わからない。創造。その単語の意味じゃなく、それを私に告げる理由がわからない。
狼狽えるなと自分に言い聞かせながら、私は必死に警戒の糸を張り巡らせた。窓の無い部屋。出入り口は一箇所、桂花のすぐ後方。彼は私に対して何故か攻撃的な圧を潜めているけれど、このまま通してくれるとは考え辛い。状況はかなりまずい。

「いきなりは理解出来なくて当然か。説明する為に君を此処へ呼んだから」
「悠長に雑談してる時間が、あると思う?私はすぐにでも皆を助けに・・・」
「その焦りは意味が無い。今君は、普通の時間とは別の括りに身を置いているから」

あくまで淡々と言葉を紡ぎ続ける桂花は、更に私を困惑させた。
普通の時間とは別の括りって何。精神と時の部屋?断界?突っ込み始めればきりが無い程突拍子も無いことを言われているのに、更に困ったことに私は説明のつかない何かによって抵抗の意志を削がれ始めている。正直なところ、これが一番の問題のようにも思えた。
わざわざ私を、此処へ呼んだ。この島で殺戮を繰り返している天仙のひとりが、暴力じゃなく説明の為に私と向き合おうとしている。その言い分を、まともに信じられる根拠は何処にも無い筈なのに。

「僕は別に君の足止めをしてる訳じゃない。話をする時間を作りたかっただけ。信じるか信じないかは、君次第ではあるけど」

私の胸中、その疑念を呆気なく口にする桂花の表情に波は無かった。眉ひとつ動かさず、情に訴えかける声色も使わず。なのに、何故か私の懐にすんなりと入り込む空気を纏っている。
先生すら知り得ない私の苗字を知っていた。あの時、私に対して燃え盛る森を―――正史での源嗣の行方を指し示した。彼は恐らく、私と何らかの繋がりがある。そう信じてしまうに至る、輪郭のぼやけた材料ばかりが揃っていた。

刀からは手を離さない。でも、今にも斬りかかろうという構えを緩めた私の反応を認め、桂花は四隅の灯を瞬く間に燃やし、小さな部屋の明るさを調節した。
やはり、白黒の反転した瞳は突出して異様だ。でも、何故か恐ろしいとは感じない。

「気を楽に。今僕から危害を加えるつもりはないし、君も今、僕に対して敵意を感じにくくなっている筈だ」
「何、精神操作とか・・・?」

自分で口に出して改めて感じる。本当に精神操作の類なら、敵意の薄まりをわざわざ指摘したりするだろうか。そんな自問自答に私が顔を顰めると同時に、桂花は静かに首を横に振った。

「何も。強いて言うなら摂理かな。血縁ではないけど、君を創ったのは僕だから」

話の内容は全体的に要領を得ない。ただ、嘘を吐いているように感じないのも本当だった。
創ったとは何か。創造主とはどういう意味か。私の疑問が沸いた傍から、彼は本を抱えて歩き出す。私は一定の距離を空けたまま、慎重にその後について歩く。

「数十年前、僕は僕の頭の中から小さな世界を造った」
「・・・は?」

高く聳え立つ本棚を整理しながら、何てことは無いかのように告げる、その内容。俄には信じ難いこの世界の実情に、私は思わず呆然と立ち尽くした。頭の中から、小さな世界を造った、とは。

「君と僕だと生きてる土台が違うから、表現が難しい・・・神とやらになった、と言った方が分かりやすいかな」
「・・・かみ」

参った。地獄楽の結末、天仙の正体、真実を知らない私にとって、これは寝耳に水、青天の霹靂。創造主を名乗る桂花に対し、私の中でまた一枚警戒の膜が剥がれ落ちるのを感じた。

「神。創造。え、つまり・・・天仙は世界を創った神様で、ラスボスは神って展開・・・?」

とんでもなく無茶苦茶な話だ。しかし、これまで数多くの作品を読んできた中で、神的存在が黒幕だったり最後の障壁だったりする展開は、無い訳じゃないと知っている私がいて。

「どっちかっていうと破壊神の方がピンと来るような・・・」
「心外だけど飲み込みは悪くない。まぁ、君の場合は物語への順応性が高いからね」

桂花は相変わらず表情を変えることなく、私のオタク的側面すら理解しているような言葉を発した。
創造主。神。だとしたら、外から来た異物である私に関しても、必要以上のことを知っていても可笑しくはない。この説明し難い警戒の薄まり方も、神に対する人間の摂理と言われてしまえば飲み込める気さえして。小さく謎解きの材料を拾い集めながら、それでも完全な納得には至らない私がいる。

「・・・ひとや世界を創るって、スケールが大き過ぎる。天仙が仙道を極めた存在っていうのはわかってるけど、そんなことって」
「別に。生きとし生けるものは皆僕の空想の産物だから。修行に明け暮れて尚時間は無限に有り余っていたんだし」

手元に閉じた本を開き、パラパラと頁をめくる。その瞬間の桂花の手付きと表情に、ほんの僅かの熱量を認めてしまう。

「ただの暇潰しだけど、僕が創った箱庭だから。眺めている分には割と気に入った世界なんだ」

笑顔からは程遠い。声も変わらず淡々と凪いだまま。しかしそこに私は、佐切と仙汰の姿を重ねてしまった。
創作には作者の思いが込められている。光栄なことに題材として選ばれた製本に力を入れる、ふたりの真剣で熱意に溢れたさまを、私は心から尊敬していて。
僕が創った箱庭。己が創造した世界をそう呼ぶ桂花のことを、スケールは違えどもう単なる敵とは解釈出来なくなりそうな私がいた。

「君が此方に来てからのこと、“本”を通して大体は知ってるよ。もっと早く話そうと思っていたけど、邪魔が多くてね」

そう言って桂花は私に向けて本を広げた。漢文なので即読解できる筈も無い。でも、確かに散見する単語として、私の名前を読み取れる。
信じられない現実が、確かな形を取り始めた。いつも彼の顔を隠していた本に、まさか自分のことが示されていただなんて。奇妙な程の高揚感と、不適切極まりない緊張感の無さが、私を刻一刻と蝕んでいく。

「・・・私の動向がその本に反映されるって、それ四神天地書では」
「知ってはいたけど、この局面でも君は面白いね」
「全然面白そうな顔してないけど・・・え、ちょっと待って。じゃあ、何」

私は遂に、自分から距離を詰める一歩を踏み出した。

「私がこれまで沢山・・・本当に、沢山、沢山、沢山・・・!浴びる様に楽しませて貰った作品の数々も、全部貴方が作った・・・ってこと?!だとしたら確かに神・・・!」

私が如何に目を見開き熱弁しても、桂花はまるで動じない。極めて冷静に、無感情に、小さく小首を傾げただけだった。

「人間は何十億といる。一人一人の設定には凝っていられないし、ある程度生まれたら後は不干渉だから、その先彼らが何を創り出したかまでは把握していないよ」
「・・・ですよね」

まさかの展開は流石に思い込みが過ぎた様で、すーっと音を立てて私は三歩後ずさる。

その刹那。桂花の纏う空気、その氣が静かに脈動を始め、私はまるで金縛りにあったかの如く硬直した。

「・・・主軸に据えたひとりを除いてね」

依然として、桂花は私に対して敵意を発しない。しかし、私の全身は奇妙な恐怖に総毛立った。

「自己以外への惜しみない愛があり、興味関心が幅広くのめり込み易い。他人の為に烈火の如く怒り、身を削る様に嘆き、手放しに喜ぶ」

あくまで無のまま謳う、それはまるで念仏の様で。彼の言う特徴のひとつひとつ、どれも身に覚えがある。

「非合理的で諦めが悪く、己の欲に正直だが大局で迷うことをやめられない。限りある命を燃やし、懸命に生きる」

白黒反転した瞳から、目を逸らせない。全身を疾る血潮はすごい速度で巡るのに、何故か酷い悪寒に苛まれる。

「僕に無いもの。そして理解の及ばない全てを詰め込んで設計した人間―――、それが君だ」

創造主。その言葉が指すのは、この世界と私の世界、もっと多くの世界かもしれないと。それこそ、星の数以上ある命全てが彼の生み出したものであると。宇宙で最も広大なキャンバスを受け入れかけていた私に、無数の違和感がひたひたと近付いて来る。

「・・・世界を創造出来る神様が、なんで、私なんかをそこまで特別視するの」
「僕が創った世界はここじゃない。君の生まれた世界のみを指すんだ」

桂花が手にした本の背を撫でる。私は、自らの呼吸が乱れていく無様さを前に指先ひとつ動かせない。

「君は現実から創作の世界に入り込んだと思っていたのだろうけれど、実際は逆。こちらが、現実の世界だ」

息が、うまく出来ない。

。君は僕が生み出し、細部まで手掛けた本の中の―――創作の人間だよ」

私の頭の中から、あらゆる色が消え去った。