作戦決行は今夜に決まった。皆各々に最終調整を徹底する中、私はひとり洞窟を出た兄弟子の後を密かに追う。
裏手の山道から橙に染まり始めた空を見上げ、腹の底から深く息を吐き出すその背中は、何とも言えない哀愁と静かな達成感が混在したもので。不意に、その丸い背が私の存在を感知して僅かに震える。振り返った眼鏡の奥の瞳が、小さく光った。
「・・・さん」
「お疲れ、仙汰」
額にかいた薄ら汗を拭う、その仕草は普段通り穏やかなものだ。改めて、私は今この瞬間彼が生きていることが嬉しい。
「大丈夫?」
「はは、お恥ずかしいところをお見せしましたね」
「恥ずかしくなんかないよ」
仙汰の言う恥ずかしいこと。それが何時のことを指すのかわからない私ではないし、それを恥だなんて思う筈も無かった。
蓬莱潜入にあたり、特性と効率を鑑みふたつの組み分けをした結果。より危険度の高い仙薬奪取班に加えて欲しいと、この戦闘を好まない優しい兄弟子が名乗りを上げるなんて、誰も想定しなかったことだろう。
目を丸くする面々の戸惑う反応を受けても、仙汰は怯まなかった。この先、蓬莱内部の構造すら多様に変化していく可能性があるのなら尚のこと、分析力で必ず力になると理性的に論じ、そして画眉丸の理解を得るに至ったのだ。
勿論反対意見もあった。特に杠は、仙汰の体格や好戦的でない性格を指摘して、足手纏いは連れて行けないと厳しく告げた。それでも、仙汰の決意は揺らがなかった。
「僕は貴女の行く先を見ていたい、って。格好良かった」
担当の死罪人であること。それを引き合いには出さず、仙汰がそう口にした時の杠の表情が、何だか忘れられない。
内向的で、反対意見に我を押し通すことなんて無縁に見えた仙汰の、強い思い。それが憧れか別の感情か、線引きは本人にしかわからないし、誰も冷やかすことはしなかった。命懸けの作戦だと理解しているからこそ、こんなにも固まった決意には口を出せないと、皆納得したんだと思う。私もそうだ。それに、仙汰は驚くほど氣への理解力が深い。体術面での不利をカバーして余りある活躍をしてくれるだろうと、今の仙汰はそんな期待を持たせてくれるほど心強い存在だ。
大丈夫。きっと、皆大丈夫。そうして私が明るく肩を小突くと、仙汰はずれた眼鏡を直しながら苦笑を浮かべた。
「さんのように、鮮烈な啖呵とはいきませんでしたが」
「うっ・・・それはもう忘れて欲しい・・・」
カウンターを食らった気分で私は顔を青くする。今となってはこのさっぱりした頭も慣れてきたし、決して後悔は無いものの。羅芋と掴み合いの末に島行きの権利をもぎ取ったあの日の出来事を、もはや遠く感じてしまう。我ながら随分と無茶をしたものだ。 でも、私と対峙する仙汰の表情には、揶揄いや軽い気持ちは欠片も見えず。
「忘れることなど、とても。僕はあの断髪を、真の勇猛さと感じているんです」
その言葉の真摯さに、私は目を丸くするしか術を持たなかった。
「目前に迫る未来を変えたい。その為に島へ行こうと、必死に抗っていたからこその激情だったんでしょう」
「・・・それ、は」
「女性の証―――それすら呆気なく手放せる程の熱意。当時はさんの真意に気付く由もありませんでしたが・・・それでも僕は、男女の括りに屈することなく信じた道を貫こうとする貴女の強さに、勇気を貰ったんです」
私はただ、自分の目的の為にがむしゃらだっただけ。なのにこの優しい兄弟子は、そんな私の暴挙を勇猛なんて呼び方で認めてくれる。
「だからきっと・・・今日の僕がああして我を通せたのは、あの日にさんの勇ましさを分けて貰えたからだと。僕はそう思うんです」
誰より頭が良くて、命を奪う処刑人の業なんて似合わない穏やかなひと。好きな絵を心行くまで描いて、笑っていて欲しい。一緒にいるとこちらまで心が丸くなるような、優しい兄弟子。
「ありがとうございます、さん」
「・・・仙汰」
「死の運命を変えてくれた。そして、僕に大事な局面での勇気を分け与えてくれた。さんは僕の恩人です」
「そんな。私、何もしてないよ、ほんと・・・」
私はただの読者で、この物語を好きなオタクのひとりで。先生の力を借りることでここまで来れただけの、運の良い人間に過ぎない。恩人だなんて言葉、私には勿体なさ過ぎる。
でも、もしこんな私でも、仙汰の運命を捻じ曲げることに一役買えたと言うのなら。私がこの先の仙汰に願うことはひとつだけだ。
「仙汰がこれからも長生きして、自分のしたいことを追求し続けてくれたら・・・こんなに、嬉しいことないんだから」
「はは。少し照れますね。でも、ありがとうございます」
「・・・こちらこそだよ。生きてくれてありがと、仙汰」
夕日の色合いが徐々に濃くなっていく。 またひとつ、救えた命の尊さを噛み締めながら、私は優しい兄弟子と小さく笑いあう。
こんな穏やかな夕暮れが、どうか明日以降も続きますように。そう願わずにはいられない、そんな時だった。
「では、少しだけ恩人にお節介を」
思いがけない舵が切られ、私は小首を傾げた。
* * *
太陽は沈みきり月が丸く浮かび、残された時間はほんの僅か。その折、私は先生に連れられ岩肌の目立つ丘を登っていた。
白いカンフー服に浅ェ門の羽織は、ヌルガイの見立て通り悪くない組み合わせだった。衛善さんから譲り受けた大切な刀も、刃毀れひとつ無く万全の状態で私の腰元に収まっている。
この装いで、私はこれから未知の試練に挑むのだ。出来る限りの備えと、努力と、心強い仲間がいて。何より、頼れる師が傍にいてくれる。私を導いてくれた、大切なひと。先生の未来を安寧に繋げる為なら何だって出来ると、これまで何度も私の弱気を奮い立たせてくれた、かけがえの無いひと。
そんな先生に対して、“降ろす荷を忘れてはいないか”聞いてみると良い。仙汰は先刻私にそう告げた。
何のことかは見当もつかないながら、そのままを伝えた時の先生の表情は若干苦いもので。情報の出所は仙汰であることを即座に看破し、そして数秒宙を仰ぐなり、場所を変えようと言った。皆思い思いに散らばり最後の調整をしていることもあり、少し高さを変えれば私たち以外誰の気配も無い。
降ろす荷とは何か。先生にしては珍しい表情だったけれど、一体真相は何なのか。わからないことだらけでも、不安な気持ちは覚えない。だって、相手は先生だ。大局を前に、何かが揺らぐようなことが起こる筈も無い。辿り着いた丘の上で、そう信じてやまない私と向かい合うなり、先生がその手に差し出したもの。
「・・・先生?」
「開けてごらん」
白い薄紙に包まれたそれを手渡され、妙に繊細な封を慎重に開く。
目に飛び込んだものは、月明りに映える美しい織模様。細い糸が幾重にも重なり合って出来た、精巧な組紐。色は、私の羽織の裏地と同じ―――先生が私だけの色だと教えてくれた、鮮やかな山吹色。そこから隣り合うだろう数々の近い色彩が織りなす、溜息が出るほど綺麗な芸術作品が、丸く円を描く様に納まっていた。
「・・・これ」
「隠していた訳ではなかったが・・・確かに、渡す機会を完全に逸していたところだった」
あまりのことに頭が追い付かない。勘がそこまで冴えない私でも、この空気は流石に意識せざるを得ない。
「牡丹を下した後、装束を替える際にな。ずっと持ち歩いていたことを、偶然仙汰に知られた。これが何を示す物か。更には渡す先まで読まれていたとは、彼を甘く見ていたとしか言い様が無いのだが」
「・・・先生」
「君本人は裏地で十分と言っていたんだ。これは完全に、私の独り善がりでしかない」
身体中の血管がドクドクと爆音を立てて、目の前の色が変わってしまいそう。だって、今この時にこんなこと、想定出来る筈も無かった。
「代行の・・・否、今となっては免許皆伝の祝いだな。大一番を前にすまないが、受け取ってくれるだろうか」
先生から私への、新しい贈り物。遂に明言された信じられない展開に、私は暫し呼吸を忘れ手の中のものを凝視した。
信じられない。信じられないくらいに、嬉しくて堪らない。
「・・・こんな質の良い組紐、初めてです」
「うん。特別に誂えて貰ったよ」
嬉しい、のに。私は、この期に及んでもしものことばかり考えて、叶わない世界線を羨んでしまう。
流血沙汰も無い、命の危険も無い、平穏な日々の中で出会えたら良かった。私はもっと女性らしくて、先生の隣に立つに相応しいくらい美人に生まれて来れたら良かった。贈られた素敵な組紐の使い道に困らない、花の様に可憐な女性で在れたなら、どんなに―――。
わかってる。ないものねだりは意味が無いし、皆の命を繋ぐ為に今の私がいる。先生に鍛えて貰った自分自身を、私が否定出来る筈も無い。
それでも、もしもを考えれば考えるほど、麗しい理想とは対極の私の姿に乾いた笑いが込み上げる。
「っはは。もっと豪華な着物が似合う女性なら良かった。こんな素敵な帯締め、江戸中探したってきっと他に無いです。あっ・・・そもそも髪を切り落としてなければ髪紐にも使えたかも。あー・・・もう、本当に駄目ですね私。とびきり上質な贈り物も、女として全然活かせない。豚に真珠ってやつですかね」
「」
付知の分析通り、大事な局面を前に情緒がいつにも増して乱れているのだろうか。叫び出したいほど嬉しい贈り物なのに、勝手にもしもを羨んで、勝手に傷付いて。そんな私の内側で起き始めた崩壊を、先生の声がぴたりと止めた。
「君の手に渡った以上、君の好きにすれば良い。だが、私がこれを誂えた用途は、着飾る為ではないんだ」
先生の指先が、私の掌に乗る組紐の一部をそっと示す。見事な模様に組まれたその端に、私は別の形を見つけた。見覚えのある模様。小さく、細かく、手作業で織られたとは思えない程精巧なその模様の既視感に、時間をかけて辿り着く。
「・・・寺紋?」
神社仏閣にはそれぞれ特有の紋がある。見覚えはあって然るべき、鉄心さんが眠るお寺の紋だった。薄紙の包みにも、よく見れば透かし模様の同じ紋が見て取れる。先生はこの組紐を特別に誂えた物だと言った。つまり、その出所とは。
「誂えて貰ったって・・・え?お寺に、ですか?」
「願掛け用の組紐だよ。君もわかると思うが、職業柄、多少は寺に顔が利くからね。本当に叶えたい願いならば、出来る限り天恵にあやかろうかと」
「願掛けって・・・」
お寺直々の願掛けの組紐だなんて、思っていたより遥かにご利益があるだろう代物を手に私は目を白黒させてしまう。負の坩堝にはまっていたことなんて、衝撃のあまりどこかへ飛んで行ってしまった。
先生の表情がはっきりと弛んだのは、丁度その時のことで。まるで、私が意味の無い自虐から抜け出たことに安堵してくれているような、そんな柔らかな優しさに触れた錯覚を覚えるくらいに、温かな笑みが私ひとりに向けられる。
「の願いが、叶うように」
先生の声。低くて穏やかで、いつだって寄り添ってくれる大好きな声が、私の大願成就を祈ってくれる。
私の願い。それは、山田家の安泰。大切な兄弟子達の命を、これ以上脅かされないこと。
「そして君が困った時は、いつでも私が助けになれるように」
先生の手。温かくて、大きくて、これまで何度も私を導いてくれた、大事な手。私の左肩にそっと触れる、その感触すら嬉しくて尊い、私の道しるべ。
これまでだって、数えきれない程助けられてきたのに。先生は今に至っても、私に救いの手を差し出すことをやめない。
「どんな苦境を前にしても、離れずにいられるように」
先生の左手がほんの一瞬の逡巡の末、私の肩に乗った右腕の裾を捲る。
心臓の鼓動が、確かな一瞬跳ねた。
先生の右手首には、この掌に乗ったものと同じ組紐が、二重の輪となってしっかりと結ばれていた。
「君と私を繋ぐものだ」
感情の波に翻弄され過ぎて、今の気持ちに名前なんて付けられない。言葉が出てこない。
出立前夜、運命の赤い糸の話は先生に出来なかった。氣の糸を辿って私を見つけてくれる、その言葉だけで十分過ぎる程嬉しかったのに。先生の方から、私と揃いの繋がりを用意してくれていただなんて、考え至る筈も無い。
「建前では君にと言いながら、私の願掛けでもある。我ながら、強欲が過ぎるような気がして・・・遂に今日まで渡せなかった。情けないと笑ってくれて構わないよ」
「・・・笑う筈、無いです」
漸く捻り出した声は震えてみっともなかった。でも、先生にこんなことを言わせて良い筈が無い。
先生も典坐も、山田家の皆も罪人達のことも、皆の命を諦められない、強欲なのは私の方。天秤にかけて封じると決めた不釣り合いな恋心すら制御しきれない、情けないのも私の方。
「お・・・」
推し、という言葉が喉元で詰まる。今、この感動を推しとオタクという言葉で誤魔化すことは、どうしても出来なかった。
「先生に・・・選んで貰った色の、裏地に包まれて、先生と・・・お揃いの、特別な組紐で願掛けして・・・もう、こんなの・・・あの、恵まれ過ぎて・・・嬉し過ぎて・・・私、どうしたら、良いのか」
閊えて、縺れて、趣旨が正しく伝わるかもわからない。そんな私の拙過ぎる言葉を、先生はしっかりと受け止めてくれる。
盲目の優しい笑顔が私に向けられている。特別な贈り物と同じものが、今も先生の右手首を円環で包み込んでいる。もう、これ以上はきっと受け止め切れないくらいに、幸せで―――余計なことが溢れ出ないように、私は必死に奥歯を噛み締める。
成すべきを為すと、衛善さんと約束した。源嗣が性別に関係無く、私を認めてくれた。典坐と仙汰の運命を、何とか捻じ曲げた。
今、ここで気を緩めたら。きっと私は、駄目になる。
「・・・大切にします。何よりも」
「それでは困る」
大切なひとから貰った、大切な贈り物だからこそ。私が強く在る為に、何より大切にしたい。感情の大波に耐える為の精一杯の抵抗を、今この時に限って先生はきっぱりと否定した。
思わず瞠目する私を前に、先生の表情が明確に揺らぐ。まるで想定外の言葉が自分の口から零れ落ちたことに、先生自身が驚いているかのようで。焦りも、迷いも、戸惑いも。普段の先生からはあまり結びつかない色ばかりで、私は一層困惑した。
「そんなつもりで渡した物では、ないんだ」
今度はしっかりと両肩を掴まれ、顔と顔の距離が近付く。迷い揺らめくような苦悩を映しつつも、先生の表情は真に迫るもので。私はただ、大好きなひとの見たことのない側面を、目に焼き付けることしか出来なかった。
「・・・約束してくれ、。この先最も大切にすべきは、自分自身にすると」
「え?」
「朱槿の時然り、牡丹の時然り。君はどうにも、肉を切らせて骨を断つ思考に陥りがちだ」
そんなことは無いと、否定の言葉は形にならなかった。
朱槿の顎を殴り飛ばす為、至近距離から頬に刻まれた大きな傷痕。牡丹の油断を誘う為、結果的に先生まで巻き込んだ陽動作戦。
確かに私は危なっかしい策しか打てないけれど、凡人の私が天仙を相手取り活路を切り開く為には必要なことだ。それを封じられれば道が大幅に狭まってしまうと、普段の私なら苦笑しながらも反論が出来ただろう。
なのに、今はそれが酷く難しい。すぐ傍にある先生の息遣いは、あまりに真剣そのものだった。
「己の犠牲を前提にした考え方は、もう止めて欲しい。確かに私は君の腕を頼りにしているが・・・しかし、君自身が生きることもまた優先して考えると、今ここで誓ってくれ」
特別なひとからの懇願にも似たその言葉を、撥ね付けることなんて出来る筈が無い。でも、ここで先生の優しさに甘えることは、私の叶えたい願いに反しはしないかと、どうしたって迷いは残る。
私がここまで来たのは何の為か。いざという時、私自身を守ることで大事なことを取りこぼしたら、きっと私は正気でいられない。
私を案じてくれる先生の真剣さに応えたい。同時に、自分の優先度を上げることには躊躇してしまう。狭間で頼りなく揺れ動く私の肩を掴む先生の手に、僅か力が入った。
「勝手を承知で言うよ。生きてくれ、―――他でもない、私の為に」
私の心臓、そこから流れ出る血流のひとつが、熱く大きな音を立てたかと思えば、次の瞬間静まり返った。
「私は、を喪う苦痛には耐えられない」
息が出来ないような全身の硬直。かと思えば、次の瞬間には軽やかな血潮が身体中を駆け巡る。
。先生から何度も呼んで貰った、私の名前。そこに喪失は耐えられないと付け加えられた時、こんなにも胸が締め付けられるだなんて、知らなかった。
一番大切なひとにここまでのことを言われてしまった今、もう私には首を横に振る選択肢なんて残ってはいない。は、と乾いた笑いが込み上げるのに、何故か視界は湿度をもってぼやけ始める。
「・・・ずるいです。そんなこと、言われたら」
「それで君を守れるのなら、私はいくらでも狡くなるよ」
狡いなんて表現を使いながらも、先生の真心を痛い程に感じる。それが嬉しいような、こんな状況で喜んでいる自分を叱咤したいような、複雑に絡み合った気持ちが大粒の涙の形をとって私の瞳から溢れ出した。
先生を困らせたくない。でも、どうしてこんなタイミングでそんなことを言うのかと、先生に抗議したい思いも嘘じゃない。自分でも制御出来ない戸惑いで険しくなる私の酷い顔を前に、先生の眉が下がった。
「泣かないでくれ、」
「・・・だって、先生が」
「そうだな、勝手ばかりを言っているね。だが、私はここで退く訳にはいかないんだ。どうかわかって欲しい」
私の両肩を掴んでいた手が、今度はそっと頬を包む。言っていることは強硬な程私の選択肢を奪うものなのに、その手は信じられないほど優しい。流れ落ちた涙を、柔らかく拭われる度。熱をもった頬を、労わるように撫でられる度。私の中から、抵抗の気持ちが抜け落ちていくのを感じる。駄目だ。大好きなひとにこんなことを言われて、これ以上は虚勢を張れない。
お願いだ、と。囁くような懇願を間近の距離に感じ、私は遂に陥落した。
「・・・わかりました」
その時の先生の表情を、私は生涯忘れはしないだろう。
涙混じりの私の答えに、ほんの瞬間驚いたように眉が上がって。凪いだ顔色が穏やかな笑みを象る、特別に優しいその光景を。こうして間近の距離で感じられたことを、一生の宝物にしたいと思う。先生の気持ちを、一心に注がれることの幸せ。果報者なんて言葉じゃ到底足りない、私に齎された奇跡。
「自分のことも、大事にします」
「ありがとう・・・その言葉を信じるよ」
自分の優先順位を上げることは賭けだったけれど、心は決まった。この尊い光景をずっと独り占めしていたいような気がしながらも、生憎私はそこまで余裕ある器は持ち合わせていなくて。先生の手から逃れるように、照れ隠しで強引に目を擦り鼻を啜った。そして今更ながらに、特別な贈り物を身に付けようと思い至る。
上品な薄紙を出来る限り綺麗に畳んで、そしてしっかりと編まれた芸術的な組紐を、先生と同じように手首に巻き付けるつもりが、自力だとどうも上手くいかない。
「・・・う、難しい」
「貸してみなさい」
不器用に苦戦する私から、先生は難無くバトンを受け取ってくれる。明るい色の三重の輪が、私の手首に円を為した。
山吹色。先生が私だけの色と呼んでくれた、嬉しい色。月の光に煌くそれが、私と先生の手首に宿っている。それは本当に光栄で、同時に例えようも無く嬉しい光景で。
「・・・綺麗」
心の底から、そう思った。こんなに美しくて、更にご利益までしっかりとした贈り物を、私は他に知らない。
先生が私を思って用意してくれた組紐。私の為に心を寄せてくれた証。嬉しい。大局を控えたタイミングではあるけれど、舞い上がりそうな程嬉しくて堪らない。自然と込み上げた、噛み締めるような笑顔をそのままに。私は、盲目の先生と目が合うような不思議な感覚を、はっきりと感じ取った。
「先生、ありがとうございます。本当に、」
言葉が半端に途切れた。
付けたての組紐を月に翳した私の手首が、痛くない程度の力で掴まれて。次の瞬間、先生が祈るように私の手へと顔を寄せる。
確かな一瞬、手の甲に柔らかな熱を感じた。
「・・・」
「すまない。忘れてくれて構わない」
先生はそれ以上何もしなかった。
そっと手を解き、自然な流れで距離を置き、そして踵を返そうとする。
ただ、その刹那垣間見えた表情が、酷く傷付いたような色に見えて。的確な台詞なんて思いつかない。でも、大人の余裕で流すことなんて出来ない。気付けば私は、先生の背中に縋るように飛び付いていた。
「・・・先生」
先生に触れられた手の甲が熱い。背中越しにでも、私の鼓動が筒抜けるんじゃないかってくらい、頭の中は火を噴いたようにこんがらがったまま。こういう時のスキルなんて何ひとつ無い。でも、それでも。このまま何も無かったような顔で皆の元に戻れる筈が無いと、私の心が叫ぶ。
正直、今何でこんな状況になっているのか、自分でも理解は追いつかない。余所見をしてる場合じゃない、現を抜かしている場合でもない。それもよくわかってる。
でも私は、三年一緒に暮らしたこのひとのことを知っている。大好きで、ずっと近くで見ていたからこそ、知っている。軽率な気持ちでああいうことをするひとじゃない、誰より誠実なひとだってことを、よく知っている。
私なんか役不足だって、必要以上に後ろ向きにならないと約束をした。気持ちが一方通行じゃないかもしれないだなんて、青天の霹靂なんてものじゃなく、不安な部分も大きいけれど、それでも構わない。
「先生も、生きるって約束してください」
先生が私を繋ぎ止めてくれたように、私も先生を繋ぎ止める一因になれるなら。今度こそ先行き不明な大局を前に、先生の生きる確率を少しでも上げられるなら。
「思い上がりを許して貰えるなら・・・先生も生きて下さい。私の、為に」
お願い、もう少しだけ奇跡をください。祈るような思いで身体が震え始める、その時だった。
「・・・思い上がりだなんて、淋しいことを言わないでくれ」
先生の優しい声に導かれるように、顔を上げる。振り返ってくれた表情は穏やかで、それでいて熱量のこもった微笑みを象り私を見下ろしていた。
間近の距離で向かい合って、もう一度手を握られる。二組揃いの山吹色が、月明かりに煌めいた。
「この組紐にかけて。君の為に、生きて力を尽くすと誓うよ」
不思議な感覚だった。先生のことが好きで、でも目的の為には封じるしかなくて。私のそんな葛藤も、沈み切れない恋心も、何もかも先生はわかってくれているような、そんな気がする。
全部理解して受け止めた上で、私の手を取ってくれているのなら。この繋いだ掌の熱さも、今も手の甲に残る甘やかな感覚も、思い上がりを否定した柔らかな言葉も。全部、気持ちはひとつだと教えてくれているんじゃないかって。漠然とした感覚なのに、何故か強くそう感じる。
「約束だ」
奇跡みたいな現実を、先生の声が確かなものにしてくれる。手と手を結んだまま特別優しく微笑みかける、その表情が答えをくれた。
私たちは、今何が一番大事かを理解しているから。それ以上は触れ合わず、言葉にもせず。それでも、心はしっかりと繋がれたような心地で、丸い月に見守られながら作戦決行の場へと戻った。
お互いの為に、必ず生きて島を出る。強い決意が静かに燃えて、そして遂に運命の時が訪れた。