依然として、この島の脅威は変わりなく。なのに私は今、心の底からの幸せを噛み締める。

「それでさ、がオレたちを逃がして一人で残ったんだよ」
「・・・!!」

興奮気味に前のめりになるヌルガイと、これでもかと言わんばかりに顔を近付けて話に聞き入るメイ。どっちも規格外に可愛い天使なのに、更に信じられないことに、二人は今私の胡坐を椅子に仲良く半分こ状態だ。

「心配するセンセイにさ、言ったんだ。弟子を信じてくれって」
「・・・!格好イイ・・・!」
「そう!そうなんだよ!とにかく典坐を助けなきゃって、オレもその時は頭の中ごちゃごちゃだったんだけど・・・後から思い返すと、めちゃくちゃ格好良いんだよは・・・!!」

どっこいせと胡坐を組んだ私の右腿にヌルガイが、左腿にはメイがちょこんと座り込んで、しかも私の話で盛り上がっていると来た。信じられない。信じられないくらいに幸せで、こそばゆい。頬が際限なく緩み続ける。

「いやー・・・へへへ、照れるなぁ」
「ちびっこ女児共を相手に何デレデレしてんのよ。つか、重くないの?」
「全然。人生最大のモテ期ってやつ・・・」
「あっそ。幸せそうで何よりだわ」

杠の皮肉めいた言い回しもまるで気にならない程、私は心から満たされていた。

洞窟を中心に散っていた面々が徐々に集まる中で、何と私が寝ている間にメイだけじゃなくヌルガイまで佐切達の本を読んでいたことが発覚した。照れ臭かったのは事実だけど、興奮に目をキラキラと輝かせたヌルガイの抱擁を受けて、悪い気がする筈も無い。
可愛い二人とぴったり寄り添って、白熱するヌルガイとメイの話に相槌を打つ。今こうしている貴重な瞬間もまた、視界の端では佐切と仙汰が帳面に素早く筆を走らせてくれているし、最早言うこと無しだ。

そんな折、私の目の前に置いた砂時計が最後のひと粒を零した。

「・・・よっし。名残惜しいけど、時間だね」

スマホのアラームも電子時計も当然無いこの時代でも、時を区切れるこの発明に感謝である。荷物に忍ばせて正解だった。私はほんの少しの未練に目を瞑り、ぱちんと掌を合わせる。

「おしまい。ヌルガイ、メイ、立てる?ふらつかない様に気を付けてね」
「ハイ、サン」
「こっちの台詞だよ。は足痺れてないか?」
「心配してくれてありがと。私は鍛えてるから、全然へっちゃらなんだなー・・・やっぱり最後にもっかいぎゅってさせて!」

可愛いが過ぎる二人と、この時間を締めくくるあったかいハグ。さあ、私は私のすべきことをしなくちゃ。そうして自ら線引きをした私のことを眺め、杠が小首を傾げた。

「意外。切り替えは早いんだ」
「まぁね。時間は有限、やることは山積みだし」
「ごもっとも」

調査、探索、鍛錬、休息。各々必要なことを終えて、ここへ集まりつつある。束の間でも最高の癒しといくつかの対話を経て、胸の内の整理も出来た気がする。牡丹戦を乗り切るまでは考えもしなかったくらいに、今は心が軽くて、同時に力強い。
先生はすぐ傍にいてくれて、細やかな気遣い一色の表情でこちらを見ていた。

「良いのかい?もう少しくらいであれば・・・」
「いえ。可愛過ぎてキリが無いですし、休憩もしっかり取れました。気合いは十分満タンです」
「・・・君がそう言うのなら」

穏やかな肯定から一拍を置いて、私の頭に一度だけぽんと乗せられた手があまりに温かくて。私は胸の内がほどけそうになる甘やかな思いを、苦笑がちにきゅっと締め直した。
先生はいつだって優しい。弟子を許された身として、例え思い上がりだとしても、典坐と同列に大切にして貰えている今は身に余る光栄だ。

「さて、皆集まる頃合いだな。今後の対策について話がしたい」
「はい、先生」

典坐の命は救えた。仙汰の花化も防げた。ここから先は、今度こそ未知の一歩。それでも私は、先生の笑顔の為ならどんな茨道でも怯まない。
この先に待ち受ける困難へと、向き合う時が来た。



* * *



ひとつ。蓬莱の中で仙薬を探すこと。ふたつ。脱出経路を確保すること。これらを最重要任務と据えて、私たちは真摯に話し合った。

私が出せる最後の“先読み”として、追加上陸組として殊現と十禾さん・威鈴、清丸、そして石隠れの忍衆が既に派遣されていることは開示済だった。本筋と違い、殊現の琴線を穿つ決定的なもの―――衛善さんの欠損した屍は浜辺に無いだろうけれど、それでも彼はきっとこの島に蠢く全てを悉く断つ筈だ。山田家の者以外、生きて島を出ることは許さないだろう。
更に、弔兵衛が天仙の側についている。桐馬の命を守る為なら、彼は私たち全員の命を喜んで蓮に差し出す。そして氣が“混じり”始めた弔兵衛なら、どんなに隠密行動を徹底したところで、蓬莱に踏み込んだ瞬間即こちらを見つけるだろう。弟を思う兄の嗅覚はこれ以上無い程研ぎ澄まされている筈だ。それくらいは、私にだってわかる。
従って天仙とも殊現達とも顔を合わせることなく、蓬莱内部で仙薬を入手し密かに島を出る―――そんな楽観的なシナリオは、どう考えても夢のまた夢なのだ。会敵は避けられない。でも、対策を練り氣の学びを深める時間は僅かながら残されている。五行の特性と相性を理解し、少しでも消耗を温存し生きて島を出ることに注力する。今の私たちに残された道はそれしか無かった。

とはいえ“先見の明”が底をつく寸前でも、流血を伴わない原作再現はオタクとして最高に胸が滾った。自分達の属性を確認する為に先生が地面に描いた氣の五芒星。火に典坐が、水に仙汰が、そして土に私が追加されることでその輪は大きくなった。
画眉丸と杠から氣と隠密について学ぶ展開に関しては、想定外の変化が見られたものだけれど。


『ちょっと。しれっと教わる側でラクしようとしないでくれる?』
『・・・』
『わざとらしくきょろきょろしないの。アンタに言ってんのよ、男前のお姉さん』
『いやー・・・先生ならともかく私は無理だって』
『ふむ。一理あるな。と私も教える側で問題無さそうだ』
『ちょ、先生までそんな無茶な・・・!』


先生を前に抵抗は無意味だった。自信は無いながらも私も教える側に周り、拙い引き出しで精一杯に氣の概念を伝える。首の骨を外すだの、死なない程度に心臓を止めるだの、画眉丸の超人技法よりかは優しめに説明が出来たと信じたい。思うに、画眉丸は多分何かを教えることに関してのみ不器用さんだ。突出して出来過ぎるひとは出来ないひとの気持ちがいまひとつ理解出来ない典型で、悪気は一切無い画眉丸と険しい顔で天を仰ぐ皆の間に立つことで多少は私も役立てたように思う。

ともあれ、杠曰く寺子屋のような、画眉丸曰く里での修行のような一幕が目まぐるしく過ぎていく。

「難しいっすね・・・」

各々が身近な輪を作り散らばる中、大の字で倒れ込む典坐の目はやや虚ろだった。私はすかさず隣に屈み込み、その眩しい金髪をよしよしと撫でる。

「いやいや、典坐はかなり筋良いと思うよ」
「そうだよ。オレなんかもっと駄目」
「ヌルガイも駄目じゃないよ。二人共頑張ってるの、わかってるからさ」

学んだ分だけ飛躍的に伸びる者もいれば、いまいちの者もいる。典坐とヌルガイはどちらかといえば、本当に際どいながらも後者寄りだった。二人は本当に一生懸命だし、センスが無い訳では決してない。現に、これまで氣の相生で回復が必要な場面では十分に助けてくれた。でも、それを戦闘に生かすとなると勝手が違うのもまた事実で。牡丹の時はとにかくチームワークで押し切ったようなものだ。この先は個々でも氣を駆使して攻守を固めなくては生き残れない。時間が限られている中、うまく行かず焦る気持ちは私にも理解出来た。しかし、それにしても典坐の表情の苦さはあまり馴染みの無い色をしていて。私は本土にいた頃のようなお姉さんの顔をして、一歩踏み込むことにした。

「どしたの典坐。聞くよ」
「・・・その、格好悪いのは重々承知っすけど」

典坐がごろりと寝転んだ体制から起き上がり、胡坐の上でぐしゃりと頭を抱える。空白を急かさず待つこと数秒、その答えが静かに零れ落ちた。

「・・・なんつーか、自分も仙汰くんみたいに飲み込み早けりゃあなぁって・・・」

その声は、羨望と自嘲に満ちていた。私の知るひたすらに前向きな典坐には、珍しい側面で。思わず目を丸くする私の顔を認めるなり、典坐は自分の発言を悔いるような顔をした。

「すんません!いじけてもしょうがないっすよね!忘れて下さい!」
「典坐・・・」
「よし、自分でも理解出来ているようだな」

話を聞くなんて格好付けながらうまく言葉を見つけられない私に代わり、いつの間にか隣に立っていた先生が屈み込むことで後を引き継いでくれた。弟子としての時間が長ければ長い程、先生からのお説教の気配はすぐさま察知できるものだ。典坐がぴしりと背を正すまでには数秒もかからなかった。

「生まれ持った資質により、向き不向きがある。差が出るのは当然のことだろう。鍛錬あるのみだ、腐っている暇は無いぞ」
「はいっす・・・!自分、洞窟の周り走ってきます!」
「あっ・・・オレも行く!」

転がるように典坐が走り出せばヌルガイが後を追い、二人の背中はすぐに小さくなった。私と先生は揃って見送るしか術が無いけれど、二人に対する気持ちもきっと同じ筈だ。

「・・・頑張ってますよね、二人とも」
「そうだね。惜しむべくは時間が足りないことだが・・・こればかりは、本人達の覚醒を信じるしか無いな」
「本当に。すぐ出来なくて当たり前なんですけどね・・・むしろ、仙汰の理解速度が特殊というか、ね」

典坐が羨む仙汰は既に教える側に回り、今は桐馬を相手に何かの図解で説明をしているようだ。彼の氣への理解は本当に瞬く間だった。概念や属性をすぐさま帳面に書き起こすなり頭の整理も万全という大躍進に、これまで縁が無かった筈が何故、と先生と私で問いかけた場面を思い起こす。


『士遠さんの所作然り、門下生同士の手合わせでも特定の条件下の優劣然り。そういったものは、あるのかも、とは思っていました。実際にこの島で触れるまでは、本当にぼんやりとした意識でしかありませんでしたが。五行属性と相性、増幅、回復、そして打消し。突き詰めればあらゆる分野に応用出来る力だと思いますし・・・』


仙汰の言葉はすらすらと淀みなかった。そしてその表情が、何かのスイッチが入ったかの様に明るく輝く。


『水の如く自在に流れ、多種多様な組み合わせで可能性が広がるさまは、まるで多彩な絵巻の様・・・!!重ねれば重ねるほど、新たな色が無限に生まれる・・・!!あっ、すみませんひとりで盛り上がってしまって』


熱量のこもった早口は、私もオタクとして覚えがあり過ぎるもので。自分の好きを突き詰めた分野で生き生きと語る仙汰は、眩しかった。桐馬も仮面の笑顔ではなく真剣に教えを請うているように見えるし、実際に仙汰は頭が良いだけではなく教えることにも長けている。牡丹戦で生き残ったからこその才能の開花に、少し胸が熱くなった。

「創造性と結び付けてぐんぐん伸びるあたり、仙汰らしいですよね」
「ああ。加えて元来の研究肌だ。仙汰にとって、氣の概念は吸収し易いものなのだろうな」

先生の一言に頷きながら、私はすぐ後ろで書を読み耽る小さな兄弟子を振り返った。仙汰と同じく研究を得意とする者。しかし付知は既に氣への理解を潔く放り出し、蓬莱内部の構造理解に全力を注ごうとしている。

「付知も伸びしろめっちゃある筈なんだけどなぁ」
「しょうがないよ。見えない・触れないものは糸口も掴めない」
「・・・うん、まぁ、そうだね」

取り付く島もない。私は苦笑と共に肩を竦めるしか無かった。
絵心ひとつで無から有を生み出す仙汰と、目の前のものを切り開き中身に触れて突き詰める付知。二人共頭の回転が早く探求熱心であるけれど、決定的な違いは想像性の豊かさだ。目には見えない氣に関しては、差が歴然となることも無理は無い。とはいえ、この小さな兄弟子にも諦めることで丸腰ではいて欲しくないことも私の本心で。どうしたものかと先生と顔を見合わせたその時、不意に付知の頑なさが和らぐのを感じた。

「けど理解出来れば、医学的に革命が起きるのは間違いない力だってことはわかってる」
「・・・付知」
「正直言えば今すぐにでも本土に持ち帰りたい知識だよ。医学の進歩に活かしたい。この概念を理解できたならどんなに多くの命を救えるだろうって、どうして僕の目には見えないんだろうって、口惜しいよ」

付知の黒目がちの瞳は虚空を見上げた後、少し離れた仙汰に向けられた。

「仙ちゃんが羨ましい」

仙汰を羨み、そんな自分を恥じて走りに飛び出した典坐の背中を思い出す。私は典坐の珍しい一面に戸惑って、上手なことを何ひとつ言ってあげられなかった。でも、今なら別の何かが見えるような気がして。

「その医学愛は付知を裏切らないよ」

私は付知と向かい合う形でその場にしゃがみ込んだ。感情を読み辛い黒い瞳は誤解されがちだけど、慣れてしまえば可愛いものだ。

「努力も勿論だけど、思いの力って偉大だよ。この島に来てから、ますます感じる」
「・・・それは、が未来を変えたい一心で急成長出来たって話?」
「そ。多分、心に一本何かの芯があると、土壇場でも踏ん張れる」

私は知ってる。内臓や骨に喜々として触れる付知の根本に、誰にも負けない医学愛があること。山田家の為に、仲間の命を救う為に、その研究心が燃えていること。
思いの力ひとつで何もかも乗り越えられるとは約束出来ないけど、助けにはなる。それを私はこの島で身をもって知っている。医学の為に、強くなる為に。付知も、典坐も、強い気持ちがこんなに熱く息づいているんだから。

「この先厳しい状況は続くだろうけど、付知には付知だけの医学愛がある。今は難しくても、何かの拍子できっかけを掴めるかも。そしたら付知のことだから、あっという間に私なんか追い越されちゃうかもね」

この島にいる時点で、皆ただの素人じゃない。ただの読者だった私ですら、ここまで来れたんだから。生きてこの島を出ようという熱い気持ちさえあれば、何かのきっかけできっと花開く。典坐にも、さっきそういう風に言ってあげれば良かった。私は自分の至らなさに思わず眉を下げて小さく嗤う。そんな折、付知がこてんと小首を傾げた。

「・・・僕はのそういうところも羨ましいよ」
「え?」
「情緒の振れ幅凄いからいつ下り坂になるかわからないのに、そうやって調子良い時に全力でひとに寄り添っちゃうところ。僕がなら温存一択なのに」
「・・・んん?ほ、褒めてくれてる・・・んだよね・・・?」

ですよね。付知が私を羨ましいだなんて何か変だと思ってた。一から十までその通り、情緒の振れ幅なんて関係無いからね。気力も命も燃やしてなんぼ、オタクの好きの力を舐めてはいかんのだよ。私は眉間に皺を寄せながら大袈裟に怪訝な顔をして見せた。すぐさま、こらこらと優しい手によって皺を伸ばされ、強引でない力にほどかれ目が点になる。

「全力で寄り添える。そこもの長所のひとつだよ」
「シオさんは相変わらずに甘いなぁ」
「問題無いさ」

ただ、自分の気持ちに正直に生きているだけ。ただ、自分が好きな物語を良くしたくてがむしゃらなだけ。なのに先生は、そんな私の一挙一動を褒めて肯定してくれる。

「山あり谷あり。といると日々が目まぐるしいからね、私の人生がより豊かになる気がするくらいだ」
「“目”まぐるしい・・・!」
「ほう。今のも拾うとは流石だな」
「えへへ」

付知の言う通り、先生は私に甘過ぎる。冗談を拾うことでその柔らかな緩みを誤魔化して、私は笑った。

「・・・成程ね」

付知の声は、いつも通り平坦で。

「誰かを羨むこと。自分に足りないものを意識することも、ひとつの勉強として時には必要かもしれないよね」

その目はほんの僅か、穏やかな色を浮かべていた。それもこちらが詮索しようとすれば、すかさず凪いだ暗闇に逆戻りだ。

「ま、僕はひとまず状況整理と作戦立案の方が今のところ役に立てそうだから。あとは土壇場、切り開いて中身に触れれば何とでもなるよ。とりあえず心配ありがと。巌鉄斎の腕の調子看て来る」

引き止める隙も与えず、自分の中で出た答えだけを残して去る。付知らしい話の切り上げ方に、私と先生は顔を見合わせて小さく笑った。

「流石付知。心配いらなかったかもですね」
「どうだろうな。私の“目”には、の励ましがなかなか効いたように“見えた”が・・・」
「っあはは。もう、先生ってば」

先生の冴えた冗談に笑う、爽やかな心地だ。見渡せば皆、それぞれに教え合い話し合い、そこに死罪人と処刑人の垣根は感じられない。
―――すごい。心の奥底から、そう感じる。

「先生。私、ここから先のことはいよいよわからないですけど、今すごく皆のことが頼もしいです」

強がりじゃなく、絶望の裏返しでもなく、皆が頼もしい。待ち受ける試練は脅威に違いないのに。それでも、今目の前にいる皆なら、と思わずにはいられない。

「私が知ってた未来よりも、典坐と仙汰、浅ェ門が二人も多く此処にいて・・・氣の練度自体に違いはあっても、皆それぞれ自分に出来る精一杯で前を向いてる。最初こそ死罪人と処刑人で思惑は違ったかもしれないけど、今は皆まとまった目的の為に団結してるじゃないですか」

全員で生きて島を出る。佐切の口にした途方も無い願いは、今や皆の思いそのものだ。立場は違っても、軽口を交わし長所を認め合い、時にはいがみ合いながらも空気感は殺伐としない。表立って認めないひとはいるだろうけれど、仲間意識の芽生えを肌で感じるのだ。そして皆それぞれに、帰りたいという願いを糧に氣の習得に励んでいる。掛け値なしに美しい光景だと―――そして、私は皆の願いを成就させたいと。強く、そう感じる。

「生きようとする人間の底力は凄いんだって天仙達に教えてやるんです。今、私もめちゃくちゃ燃えてます」

不安もある。懸念もある。でも、それを上回る熱い気持ちが前を向かせてくれる。不意に感じた視線で顔を向けた先、先生は穏やかな笑顔で腕を組み私を見下ろしていた。

「うん。実に良い顔をしているね。画眉丸と対峙したことが一因かな」
「・・・先生には隠せませんね」

画眉丸。この物語の主人公。私が入り込んだことで多少捩れた時間軸で、それでも彼の根幹は一切揺らがなかった。


『例え世界が捩じ曲がろうとも、ワシの願いには何人たりとも、神ですら手を出せぬ。為すべきことは一片も変わらん』


愛する妻の元へ帰る。どんなことがあろうとも結さんの存在を信じる。私が好きになった物語の核、その最も熱い部分によって、私は多大な影響を受けていた。我ながら単純で、でも今の私にはきっと必要だった邂逅で。それを正しく見抜いてくれる先生に対して、正直な言葉が零れた。

「彼が奥さんに逢いたいって熱意に中てられたと言いますか。私も、負けてられないなって」
「・・・成程」

道理や立場がどんなに厳しく立ちはだかろうと、皆を生かして島を出る。もうこれ以上誰も喪わせない。夢に見た眩しい未来へ、私が先生を連れて行く。どんなことをしてでも、私が先生の笑顔と幸せを守りたい。自己主張の強い、思い上がった願いだと自覚はあった。それでも、願いは願いだと。叶える為には自力で手を伸ばすしかないのだと。画眉丸の言葉を都合の良い起爆剤にして、私は今これまでで一番燃えている。

「―――羨むことも時には必要、か」

微かに掠れた、細やかな声だった。あまり聞いたことのない声色に目を瞬いた次の瞬間には、いつも通りの先生に戻っていた。

「・・・先生?」
「いや、気にしなくて良い。典坐とヌルガイもじきに戻るだろう。全員で突入に向けて編成の話をしなくては」

ほんの僅か、後を引くことのない違和感は波のように静かに引いて、私は先生の言葉にひとつ頷いて見せた。仙薬奪取班と、脱出経路確保班。ここから先は二手に分かれて蓬莱の内部へと突入する必要がある。決行までの時間を含め、詰めるべきことは尽きない。気を引き締めようと細く息を吐き出す、その時だった。

「そうだ、。ひとつ、君の言葉を訂正させて貰おう」
「はい?」
「君の知る本来の未来。そこから増えた浅ェ門の数は、二人ではなく三人だ」

ひとつ瞬く空白の間に、今言われたことを理解した。先生が私を見下ろす笑顔は優しくて、穏やかで。そして、確かな信頼を置いてくれているのを感じる。

「ここからが正念場だ。頼りにしているよ、山田浅ェ門

大事なひとが信じてくれる。それはこんなにも嬉しい誉だと、私はきっとこの世界に来るまで知らずに生きてきたように思う。

「・・・絶対に、期待に応えます」

ありがとう、私の大好きなひと。

「先生の弟子ですから」
「その意気だ」

私の背筋が、またひとつ爽やかな心地で伸びた。