佐切は怒っていた。もう本当に、手が付けられない熱さで怒り狂っていた。私なんかより遥かに付き合いが長い筈の先生ですら戸惑ってしまう程に、怒りの炎を燃やし続けている。問題は、どれ程エネルギーを滾らせた憤りも、相手がさらりと受け流してしまうことにあった。
「何度も言う様だが本人達には謝った。次から気を付ける」
「反省の色が無いことが問題なんです・・・!もし士遠殿やさんに何かあったらどうするつもりだったんですか・・・!」
「何かって。何も起きていないぞ」
「結果論じゃないですか・・・!!」
よくもこんなに怒らせておきながらその顔を保てるなと感心してしまう程、画眉丸は落ち着き払った半目で胡坐の上に頬杖をついている。遠慮が皆無なことは二人の絆が強いことの裏返しだろうか。とはいえ、このまま佐切を怒らせ続けるのも私たちの心臓に良くない。私と先生は素早く顔を見合わせ、一度ずつ頷きあった。
「まあまあ佐切。私もも怪我は無かったのだから、それで良しとしないか」
「そうだよ。お互い知らずに場所取りが悪かったってだけの話だよ。ね、お願いだからそんな怖い顔しないで」
歳上からの二重の懇願を受け、佐切の怒りの火が弱まる。私と先生は揃って胸を撫で下ろした。
これは偶然が重なった事故だ。私と桐馬が対話に成功した岩間の裏手で、たまたま画眉丸が鍛錬に励んでいた。氣の調整をしながら放った一撃で、たまたま近くの岩山に大きな亀裂が走った。そしてそれが、たまたま私と先生の頭上で決壊した。お陰で私を庇った先生は土塗れ、私も多少は汚れてしまったけれど、二人揃って怪我は無い。飛んで来た佐切が事情を察し、怒涛の勢いで画眉丸を叱り付け、冒頭へと繋がる。
「でも、私たちの為に怒ってくれてありがとうね」
「さん・・・」
「怒っているのはおヌシだけだ」
「そこ、煽らない。佐切も落ち着いて、よしよし」
佐切と画眉丸。地獄楽の主人公組は、考えていた以上に打ち解け合った間柄の様だ。私は自分の知るイメージと現実のすり合わせをしながら、年上の顔で仲裁をする。
「さて。少し落ち着いて話せそうな雰囲気になったかな」
穏やかな声が、緩やかに話の方向性を変える。隣に座る先生が、柔らかな微笑みで私を見守ってくれていた。
「・・・先生」
「そわそわしてばかりでは何も伝わらないさ。桐馬とも話せたんだ。良い機会だと思って、彼と向き合っても良いんじゃないか」
画眉丸を前に、内心かなり落ち着きを無くしていることは呆気なく看破されていて。でも先生は優しいから、そんな私を否定することなく、燻る背を後押ししてくれる。
だって、心静かにいられる筈が無い。特別中の特別である物語の主人公を前に、オタクの私が大人しく涼しい顔のままでいられる筈が無い。上陸後すぐの邂逅と違って、今なら確かに向き合える。逆に、今しか無いだろう、千載一遇のチャンス。
「・・・あの、画眉丸」
「何だ」
「私の事情は、その・・・聞いてる、んだよね?」
「限定的な未来を知る者。これまで島で起きたことは大抵掌握済らしい、くらいか」
恐る恐るの問いに、淡々とした答えが返ってきた。誤解なく大筋が伝わっていることにひと安心、そして踊ろうとする鼓動を押さえつける。
「その・・・それを踏まえて、私から君に言いたいことがあるでござる」
「ござる?」
「、語尾がおかしくなっているよ。深呼吸」
「はい、先生」
自分でも考えてたよりずっと、画眉丸という存在は特別な位置づけらしい。推しとは少し違う。でも、この物語の根幹を担う、強くぶれない精神の主人公。先生に言われた通り深呼吸を三回繰り返し、いよいよ覚悟を決めて思いの丈を伝えようという、その刹那。私は大事なことに気付き、同門のふたりに申し訳ない顔を向けた。
「先生。佐切も・・・これから私、浅ェ門としては宜しくないことを言います。でも、今話しておきたくて」
私の思いはあくまで個人的なものだ。幕府の雇われには相応しくないことも重々承知している。でも、本心を語れる機会がこの先来るとも限らない、今ならば。そうして葛藤する私の肩に、そっと大きな手が置かれた。
「安心しなさい。少しの間、目を瞑ろう」
「目・・・!ふふっ・・・ありがとうございます」
「っ・・・目・・・いえ、遠慮は無用です。画眉丸、きちんとさんの話を聞きなさい」
「わかってる」
深くは聞かずに私の思いを汲んでくれる二人の優しさに、最大限の感謝を。そして私は、相変わらず表情の乏しい画眉丸の正面に背を正し、肺まで息を吸い込んで。
「奥さんと君の末永い幸せを祈ってる・・・!!」
ありったけの思いを込めた願いをぶちまけた。熱量がこもりすぎて、辺りの岩間に反響する自分の声が正直相当に恥ずかしい。でも、紛れも無い私の本心だった。画眉丸は瞬間目を丸くした末、何かを計り兼ねる様な表情で私を見据えた。
「・・・おヌシ」
「そ、そりゃあわかってるよ。無罪を勝ち取れる罪人はひとりだってことくらい。私は絶対にヌルガイを助けたいって思ってるけど、杠や厳鉄斎も好きだから死んで欲しくないし、弔兵衛に何かあればきっと桐馬も正気じゃいられない・・・皆、生きて欲しいと思ってる」
御免状は一人分だ。でも、少なくとも今この島で生き残っている罪人たちが決して悪人ではないことを私は知っている。皆生きて欲しい。浅ェ門としては失格でも、この物語の読者としては心の底からそう願う。
ただ、画眉丸に関しては生き残るだけでは足りない。本土に帰還した後、ただひとつの夢を叶える。そこから初めて彼の人生は再び鼓動を刻み始めるのだという、確信がある。
「でも、画眉丸と結さんのことは少し別格で・・・本当に、本っ当に尊いっていうか、その一途さが好きっていうか・・・!あ、好きっていうのは勿論違うからね、君たち夫婦の間には虫一匹入れる筈も無いのは重々承知してるし。私は本当に、画眉丸と結さんの再会を願うひとりで・・・!だから、立場とか道理とか大義とか、色んなことは頭ではわかってるけど、その・・・!」
妻の為に。決して揺らがないその信念に惹かれたことが、私がこの物語に夢中になったきっかけだったように思う。生まれてからこれまで殺人術だけを徹底して教え込まれた孤高の忍が、ひとりの伴侶と出会い温かな感情を知り光射す方へ歩み始める。地獄楽は残酷描写も多いけれど、深い愛の物語だ。出来ることならその原点を、成就させたい。勿論、これは一読者としての一方的な感情に過ぎないこともわかってはいるけれど。そうして歯がゆく眉を顰める私の目の前で。
「礼を言う」
画眉丸が、静かに頭を下げた。
「・・・え」
「おヌシの口から結のことを聞くと、それだけでワシは力が湧いてくる」
結。彼の口から紡がれるその名前は、堪らなく優しい響きがした。でも、残念なことに私は結末も知らない半端な読者だ。果たして結さんという女性は実在するのか。杠の疑問という形で物語中盤に投げ込まれたまさかの問いの答えを、私は画眉丸に示してあげられない。幻術なんかじゃない、きっと彼女は今も君を待ってると言ってあげられたら、どんなに良かったことか。この夫婦の幸福を願っているからこそ、自分の至らなさが辛い。
「・・・画眉丸」
「わかっている。おヌシは正確な未来を知る者ではなく、結の存在証明にはなり得ないということも」
なのに、この小柄な忍は私の欠点を責めない。上陸から三日、氣の扱いに慣れてきたからこそわかる。結さんの実在が不明瞭な今でさえ、画眉丸の氣は強く脈動していると。
「だが、少なくともおヌシが熱く語る程に、本来の流れでもワシは結に逢う為だけに邁進していたのだろう」
「っそれは勿論・・・!最初からずっと、画眉丸の行動原理は一貫してたよ・・・!」
私が本を通して見た画眉丸も、今目の前で語り合う彼も。最愛の妻に再び逢う、その為だけに命を燃やす、強いひとだ。
答えを得てニッと口端を上げる、その表情は私に向けられてはいるものの、きっと私を見ていない。遠く離れた里に待つ、最愛を思い描いている。それがわかった瞬間、胸の内を何とも形容し難い熱さが駆け抜けた。
「それだけで今は十分だ。例え世界が捩じ曲がろうとも、ワシの願いには何人たりとも、神ですら手を出せぬ。為すべきことは一片も変わらん」
特別な主人公の、特別な妻への想い。心魅かれた物語の最高に熱い部分に直に触れて、私はオタクとして絶頂の喜びに焼かれるだけじゃなく、自らの氣も強く鼓舞されたことをはっきりと感じ取った。
血が脈打つ。鼓動が響く。先行きの不安で俯いている場合じゃない。皆にとってより良い未来が不透明なら、自力で引き寄せるまでだ。画眉丸が結さんとの未来を諦めないように、私も何もかもを自分で掴み取る。我ながら単純だと思わず笑いが込み上げる程の影響を受け、私は興奮に拳を握りしめた。
「かっ・・・こいいな!!あ、違うよそういう意味じゃない君たち夫婦の間には虫一匹」
「、先程と同じことを繰り返しているぞ」
「すみません、先生」
特有の早口長台詞を上手にカットされ、素早く謝る。さぞ間の抜けた光景だろう。それでも画眉丸は笑うでも呆れるでもなく、真顔のまま興味深そうにこちらを見ていた。
「それが素のおヌシか」
「え?」
「上陸まもなく会った頃とは、随分印象が違う」
担当罪人いがみの慶雲を上陸早々想定外の死因で亡くし、ここからの流れをひたすら頭の中で組み続ける最中に果たした最初の邂逅では、こうして互いに胸中を打ち明け合う余裕なんて無かった。あの時はまだ、二人の兄弟子も生きていて―――不意に込み上げかけた鼻がツンとする思いに、私はそっと蓋をする。
「あー・・・あの時は何というか、ひとりで色んなことを抱えて動いてたから。計算外なことも起きて、でも何とかしなきゃいけないって必死で。いや、今も全然楽観的でいられる訳じゃないけど、その・・・」
皆、生き残る為に必死で前を向いてる。私も前へ進む。そしてこれは、私ひとりじゃ辿り着けなかった境地だから。
「今はもう、ひとりじゃないから」
振り返った先で、先生が小さく笑い返してくれる。心強さと優しいくすぐったさで、またひとつ私の氣が強く迸る。大好きな物語の中で、勿体ないくらい素敵なひとの支えを得て、本物の主人公を前にして話が出来る。私は本当に恵まれたオタクだ。
「・・・《我が推し尊し、生命の波紋疾走》」
「はい?」
多幸感に浸るあまり、突然のことを聞き取れず私は小首を傾げた。あれ。今画眉丸が不釣り合いな小ネタを呟いた気がするけど、興奮のあまり幻聴でも拾ったか。自分の耳を信じられず私がぽかんと口を半開きにすると同時に、佐切の顔色がサッと変わった。
「っ画眉丸・・・!」
「《花泉風月と鳥》第一集三ノ章。鍛錬で疲弊し切って干涸びながら洗濯当番を努めるおヌシが、手助けに現れた士遠の姿を見るなり変わり身の如く気力を盛り返した場面だ」
幻聴じゃない。画眉丸が口にした題名は、年下の姉弟子が執筆中の随筆集だ。何故彼がその表題を、更にはその中身まで詳細に知っているのか。頭がまるでついていかない。視界の端で、佐切が頭を抱えた。
「つまるところおヌシは個で居るより、士遠もしくは典坐の近くに身を置くことで底力を発揮する。文字を追うだけでは理解に苦しんだが、今ならわかる。氣の脈動がまるで違うからな・・・何だ?ワシの顔に何か付いているか?」
間違いない。画眉丸はあの本を読んでいる。
「・・・佐切、まさか」
「すっ・・・すみませんさん・・・!仙汰殿と示し合わせた訳では無かったのですが・・・お互いにお守りのような心持で本を持参し、夜半に心が折れそうになった際、人知れず読み返していたのです。その・・・忍のふたりに即見つかってしまい、呆気なく中身まで暴かれてしまいましたが」
ああ、そういうことか。各々ひっそりと自作の本を捲る佐切と仙汰、そしてそれを背後から凝視する画眉丸、ひらりと掠め盗り勝手に読み出す杠の姿まで想像するのは容易かった。ただ、そうした描写だけなら微笑ましくとも、本の中身は私を中心とした本土の日常だ。まさかの展開に私は恥ずかしいやら驚きやらで上手く次の言葉を紡げない。
その時だった。崩壊した岩場の片隅に、いつの間にか近付いて来ていた小さな影に気付く。
「佐切」
あどけない声。桃色の髪に縁取られた愛らしい顔立ち。そしてその小さな両手が大事そうに抱えているのは、件の随筆本だった。呆然と目を見開く私の前で、歩幅の狭い足取りが懸命に佐切の元へ辿り着き、その本を差し出す。
「アリガト。オモシロカッタ」
「・・・こちらこそありがとうございます、メイさん」
「驚いたな。彼女は我々の文字が読めるのかい?」
「読み聞かせです。主に私か、仙汰殿が。メイさん、この本をとても気に入っている様子で・・・」
面白かったとは。気に入っているとは。動揺の境地に立ちながらも私はやはりオタクなので、佐切や仙汰の読み聞かせに聞き入るメイという構図自体には心躍る。この本の主軸が私である以上、どうしたって落ち着かない思いには苛まれるのだけれど。
困惑で目が遠くなる最中、佐切が私に向き直り深呼吸をした。ぴしりと伸びた姿勢、隙の無い正座、これでもかと言わんばかりに佐切の真摯さが滾っていて、私も思わず背を正す。
「さんには完成してからお目通しいただくお約束だったのに。勝手に他の方に見せて、すみませんでした」
「佐切・・・」
「ですが皆・・・さんを知らない者ですら、しばしこの苦境を忘れられる程、この本に記した日常風景に安らいだことも本当で。私も仙汰殿も、きっと生還して完成させたいと・・・心を奮い立たせる為の、力を貰っていました」
真っ直ぐな謝罪と、どこか胸に迫る告白だった。だって、夢か現かも曖昧になる様な悪夢の巣窟で、私の何でもない日々が誰かの心を整えたり、生きて帰るためのよすがになっていただなんて。初めて私を題材にした随筆を書きたいと言われた時には、考えもしなかったことで―――信じられないくらい、光栄なことで。
「お叱りは如何様にも」
「叱る訳無いじゃんか」
潔く頭を下げようとする佐切を、私は半ば抱き着くような形で強引に止めた。
入門してから今まで、同性なことも手伝い私を慕ってくれる年下の姉弟子。私という変わり者の日々を文字に起こして厳しい島に持ち込み、考えもしなかった奇跡をくれた。感謝と好意を最大限に込めてぎゅうと抱き締め、両肩を掴んで腕の長さ分だけ距離を取る。すっかり美女に成長したけれど、驚きに目を丸くした顔は少し幼く見えて、自然と頬が緩んだ。
「もー・・・まさか此処で見ることになると思ってなかったから、照れ臭いのはあるけど。私の毎日がこの島でちょっとでも誰かの役に立てただなんて、嬉しいって気持ちも本当」
「さん」
「今更だけど、こんな大事なことの主役に選んでくれてありがとうね、佐切」
自分を見直す為の材料にしたい。あの日佐切はそう語ってくれた。その為に書き記す随筆の主軸として選ばれたことに当時は戸惑いが勝ったけれど、今なら心の底から光栄に思える。
生還して完成させたい。書き手の佐切がそうやって使命を感じてくれるのならば、私はこの本を読むまでは死ねないと強く思う。
「私は予定通り、出来上がりまで読むのは遠慮するからさ。佐切も仙汰も、ちゃんと生きて完成させなきゃだよ」
「・・・はい!さんも・・・!」
熱意のこもった創作は誰かの心を動かす。オタクとしては身に染みてわかっていた筈のことを、今この島で再確認することになるとは思ってもみなかったけれど。刀を手に戦うだけが命を繋ぐ手段じゃない。何かを為したいという思いもまた、きっと同じだけの力を秘めている。大切なことを刻み直し、私と佐切は笑い合った。その、刹那。
「・・・サン」
「え」
愛らしい声が私の名を口にする。思わず引き寄せられるように目を向ければ、緊張なのか戸惑いなのか、画眉丸の後ろに隠れながらもメイがこちらを覗き込んでいて。
「・・・氣、漲ッテル。本ノ通リ、強イ、格好イイ」
片言の本土の言葉。しかし褒め言葉でいっぱいの、途方も無く可愛い声。すっかり心臓を撃ち抜かれたような心地で私は座ったまま後ずさった。可愛い。彼女が天仙と同族ということはわかっていても、この小さな少女から向けられる好意的な眼差しは圧倒的な破壊力を伴った。
「だ、誰か手荒で良いから私を止めて。このままだと幼気な天使にベタベタ触っちゃいそうだから・・・!」
「おヌシからの接触であればむしろ喜ぶと思うが」
画眉丸は起伏の少ない淡々とした口調で信じられないことを告げた。
「おヌシの言葉を借りるなら、これが“推し”という概念なのだろう」
「はぁ?いやいやその理解力は凄いけど、そんな都合の良い展開そう簡単に受け入れられる筈が・・・」
相手はあのメイだ。可愛いの化身だ。ありえない展開に狼狽える私をよそに、佐切の手が私の方を示す。
「メイさん、嫌でなければさんの近くへ。どうですか?」
小さな口許を噤み、考え込むこと数秒。メイの小さな身体がとことこ近付いてくるのを信じられない思いで見つめる私は、完全に硬直状態だったように思う。
「サン、本物。会エテ、嬉シイ」
「っ・・・!」
私の前でぴたりと立ち止まり、異国の言葉を必死に手繰り寄せながら紡ぐ。緊張から力のこもった小さな拳。ほんのりと上気したまあるい頬。とんでもなく可愛いこの娘は、確かに私に対して良い感情を抱いていることだけはわかる。佐切が書き記し仙汰が挿絵を載せた、随筆の私を好いてくれた。そして今、実物の私を前に熱を持ちながらぷるぷると震えている。
「確かに。これはまごう事なく、“推し”に会えた反応に違いない」
「せ、先生までそんなこと・・・」
「君は私の自慢の弟子だ。誰かにとっての輝かしい存在であることに、何ら不思議なことは無いよ」
「う・・・」
先生にそう言われると、どうしたって弱くなる。本で読んで実物の皆に興奮するのは、私の方なのに。それでも、卑屈になる度顔を上げさせてくれる先生がいて。私を中心に選んで本に起こしてくれた佐切と、この物語の主人公としてぶれない夫婦愛を示してくれた画眉丸がいる。
腹を決めろ。私は自分自身にそう厳命し、緊張の面持ちでこちらの反応を待つメイへと手を差し出した。私からは触れない距離で、掌を上に、握手を求めるような形で静止する。
「・・・よろしくね、メイ。さっきはお水、ありがとう」
寝起きに付知の要請で水を差し出してくれたことも、お礼を言えていなかった。すぐ近くで見守ってくれるほど、気にしてくれていたということだろうか。
不意に、桂花と対峙した金縛りの様な夢を思い出す。あの時、私の硬直を解いて声を出す助けになった小さな手は、まさにこの子と重なるような小ささで―――。
しかし、実際に私の差し伸べた手を両手で掴み、歓喜なのか興奮なのか、大きな感情の波に翻弄されるその姿はあまりに可愛らしく、私の頭の中を見事に消し飛ばした。恐る恐る、空いた左手をその柔らかな頭へと伸ばす。大人しく撫でさせてくれた桃色の髪は触り心地も良く、私はだらしのない顔で弛緩した。
「・・・へああ、可愛い」
「はは。溶けてしまいそうだな」
「溶けてます実際・・・ぬ、ぬくい・・・幸せの大渋滞」
口端をきゅっと上げながらご機嫌で私の右手をふにふにと揉み続ける小さな手は、やみつきになりそうな引力を秘めている。朗らかに笑う先生に見守られながら、私はひとときの光栄過ぎる幸せに酔いしれた。
だから、ここから先は殆ど私の耳には入っていない。主人公組の雑談だ。
「というより、を“推し”と認識するのはメイが初めてではあるまい。第三集二ノ章、刀剣鑑定の納品で訪れた隣町の奉公娘も・・・」
「流石の記憶力ですね。まあ、その通りです・・・私もその内のひとりですから」