これは私の夢、それはわかる。しかし、状況的には我ながら意味がわからない。

「どうしてこうなった」
「な、なななんっすかさん?!ちょ、まさかオレ変なとこ触ってます?!ねぇ?!」

焦りの境地の様な典坐の声が私の後頭部、そのすぐ傍から聞こえる。私は今、この可愛い年下の兄弟子から、バックハグをされているのだ。いや、嫌ではないよ。推しなのだから嬉しいことには違いない。ただ、この立ち位置に収まるべきはヌルガイが正解の筈なのに、決定的な解釈違いに私は虚無の真っ只中だ。加えて言うなら典坐は私の腹以外には触れまいとかなり気を張ってくれている。大丈夫だよ、私は佐切や杠みたいに大層なものは持ってないから。

「典坐・・・こういう時はね、素数を数えて落ち着くんだよ」
「・・・大丈夫そうっすね。さん通常運転、よし」
「なんだなんだ?ソスウ?って何?センセイ」

君がここに来てくれれば良いのにと願ってやまない声が、随分後ろから聞こえてくる。改めて説明しよう。今私たちは四人縦一列でぎゅっとバックハグで繋がり、おしくらまんじゅう状態にある。先頭から順番に、私・典坐・先生・ヌルガイ。繰り返そう、どうしてこうなった。

「彼女の好きな本に出てくる単語・・・というより台詞、で合っているか?
「さっすが先生!我が先生の理解力は世界一ィ!」
「よくわかんねーけどが楽しそうだからいっか」

先生がヌルガイの疑問に律儀に答えた。いちいち気にしていたらきりが無いような私の発する小ネタを、先生はざっくりでも理解しようとしてくれる。もう何度めかわからない拝む様な心持で、私の口から白い吐息が零れ出た。

「なあなあ、あったまってきた?」
「うん。ほんわかといった具合かな」
「そうっすね!ほんわかじんわり、ぬくいっす!」

寒いからおしくらまんじゅう、それはわかる。私の推し三人が連なってほんわかだのぬくいだのあったかいワードを口にしてるだけで最高の湯たんぽだよ、それも間違いない。でもね、皆大事なことを忘れてないか。

「ねえ待って。私は正直この絶妙にちぐはぐな並びにも物申したいけどさ、それよりこの布陣じゃヌルガイをあっためるひとがいない・・・!」

縦一列じゃ最後尾のヌルガイを誰もバックハグ出来ない・・・!!私の渾身の叫びが、冬景色の中に木霊した。

「え?オレは別に平気だよ、山で寒いの慣れてるから」
「良くない!この状況でそんな淋しいこと言うんじゃありません!典坐、逆行するよ!」
「はいっす!」

回れ右で、いち、に。いち、に。きょとんとした顔をしているヌルガイの背後に回り込み、私は力一杯華奢な背中を抱き締めた。もうひとりくらいいれば余裕も生まれるだろうけど、大人三人子ども一人、ハグで繋がったまま円になるのは正直ギリギリだ。

「ぐぬぬ、流石にムカデ四人で円になるのは厳しい・・・!」
「っあはは、もー、無理すんなよー」
「する!この尊い円の為なら全力で無理する!」

窮屈なくらい知ったことか。くすぐったそうに笑うヌルガイを、私は意地になって抱きしめる。

「いや、これは一層密着度合いが高まって温かいんじゃないか」
「っす!楽しいからそれで正解!ね、さん!・・・さん?」

出来れば気付いて欲しくなかった。腕の中に感じる華奢過ぎる体躯。そして背後から熱く包み込んでくれる体温。推しカプを阻む並びを解釈違いだとか感じておきながら、私は大好きなふたりに挟まれることの尊さでもう限界だった。鼻の奥につんと込み上げるものを、無理やり啜って封じ込める。

「・・・グレイト過ぎんよ。幸せな円環・・・」
「えええ?!泣いてるのか?!」
「大丈夫っすよヌルガイさん、これはさん的には大勝利な笑顔みたいなもんですから」
「そ、そうなのか?」

驚かせてごめんねヌルガイ。でも、私は今この瞬間が幸せで堪らなくて、感情のブレーキが完全に制御を失ってる。落ち着く為の深呼吸すらうまく出来ずにもがく私を見て、先生が苦笑を浮かべたような気配がした。

、ヌルガイが心配している。嬉しいならば笑顔を見せよう」
「ふぁい・・・」
「言えてねーじゃん。もう、は変な奴だなぁ・・・けど、ありがとな」

四人でぎゅうぎゅうにくっついて、おしくらまんじゅうの優しい冬景色。

「オレも今、のお陰であったかいよ」

小さな少女からの純粋なありがとうに、私の涙腺は遂に決壊した。いい年して、子どもみたいに大きな声を上げてわんわんと泣く。そしてそんな私を、三者三様な笑顔が見守ってくれる。

少しずつ、少しずつ笑い声と体温が遠ざかる。
ああ、まだ夢から覚めたくないのに。

その日は起き出すまでに、普段より少しだけ時間がかかった。



* * *



私の名前は。至って普通の主人公がトリップ先にて全知全能チート能力で世界の危機をあっさり救う!な展開を期待している人には、この話は少し毛色が違うと思うので、改めて正直に告白しておきたい。

まず、所謂原作知識持ちのトリップ主を名乗るには、私はあまりに中途半端過ぎる。地獄楽と表題のついた作品、人生の半分程浸かり続けているオタク生活の中でも、トップクラスにのめり込んだ話。残酷で、狂気に満ちて、人間の迷いや愚かしさと、何より愛で繋がれた夫婦の物語。私はこの神作品を単行本で丁寧に読み込んでいる最中に、江戸の街へ飛ばされたのである。つまり、私はこの物語の結末を知らない。化物の巣窟神仙郷で起きる殺戮の只中、彼らが生きて島を脱出する為団結し敵の本拠地へ乗り込もうとする七巻の中盤まで。ここから更に戦いが苛烈さを増していくだろう、運命の分岐点。あの後誰が生き残り、どちらが勝利したのか。ハッピーエンドかバッドエンドか、大事なことは何もわからない状態で、ここへ来てしまった。

更に言うなら、元は凡人でも異世界ではスーパーマン、みたいな奇跡は起きなかった。そりゃあそう。私は文系一筋で腕立て伏せもまともに出来ない、なんならプランクもろくに続かない始末の万年運動不足人間だった。都合よく突然マッチョになれたり、剣の達人になれる筈も無い。

私はこの世界を待ち受ける過酷な未来を知っていても、中途半端なところで知識は途絶えて役には立てない。しかも素人凡人、戦闘能力はほぼゼロ。状況は致命的に最悪。足手纏いになるくらいなら何もしない方がマシですらある。それは私自身が、一番わかってた筈なのに。

「集中」
「・・・っはい!」

ぽこん、と可愛い音がしそうなほどソフトタッチで竹刀が肩に触れる。スパルタだけど接触は優しい、先生はいつもそう。

私なんかに、何か出来るとは到底思えない。それは頭でわかっていた筈なのに。飛ばされてすぐこのひとを見つけた瞬間、私はオタクとして心臓の鼓動を早めると同時に、額を地面に擦り付けて弟子入りを懇願していたのだ。

生活が一変して一年と少しの時間が経過した。今私は、朝の体幹鍛錬に励んでいる。目を閉じて合掌、片足でバランス。大したこと無いと思われるかもしれないけど、毎朝これを左右五分ずつ計十分。最初は二秒でぐらついてたものがちょっとしたことでは微動だにしなくなったのだから、継続は力なりだ。

「先生ー!さんー!朝餉の準備、出来てるっすよー!」
「よし、丁度時間だ。降りて食事にしよう」
「はい、先生」

明るい声が嬉しい知らせをくれて、朝の日課はひとまず終了。さて、これから推しふたりと朝食を囲むという最高のご褒美を堪能して、鍛錬鍛錬、更に鍛錬。先生がご丁寧に手を差し出してくれるものだから、私は大いに照れながらそのエスコートを受け、池の小さな飛び石から降りた。



* * *



私の先生。山田浅ェ門士遠は、物事の教え方に関するスペシャリストだと思う。もし先生が現代で何かのコーチをしていたら、どの種目でもオリンピックのメダルに届くのでは。それくらいの安心感がある。貧弱女でしかなかった私が、山田の門下生に混じって約一年でまともに立ち回れるようになるだなんて、入門当時は誰が信じただろう。体幹鍛錬から段階を経た筋肉増強、竹刀の握り方からその正しい降り降ろし方まで。小さな積み重ねがひとつひとつ適格に作用して、私の身体は日々丁寧に、それでいて素早く作り替えられていった。

先生のすごいところは、その的確な指導力に加えて理解力・受容能力が底なしであること。だって、想像してみて欲しい。いきなり見ず知らずの女が弟子にしてくれと土下座で迫ってきたと思えば、私は貴方を知ってる、山田家の未来に極めて良くないことが起きようとしてる、とにかく何とか回避させたいから力を貸して欲しい、だなんて。普通は不審者扱い、門前払いか奉行所に突き出されて然るべきところを、先生は私の話を最後まで聞いたうえで住み込みの弟子に加えてくれた。信じられない。信じられないくらい、私にとっては救いの神だ。

「さて、始めようか」
「はい、先生」

朝から夕刻までは、私に充てられた鍛錬の時間。そして眠る前のひとときは、私と先生の“対話”の時間だ。蝋燭を中央に灯した部屋で、正座で向かい合うこの時間のみ、私と先生の関係は師と弟子から、秘密の共有者へと姿を変える。

先見の明―――先生は、私が未来を知ることをそう呼んでいる。これは広まれば悪用される恐れがある為他言無用、ふたりきりのこの時間以外では基本的に口にしない。それが私と先生の最初の約束事だった。同じく居候している年下の兄弟子に隠し事をするのは申し訳なかったけれど、眠りを整える為の瞑想の時間と嘘をついたら、俺は何時でも何処でもすぐ寝れるのが自慢ですから必要無いっすね!と明るく笑ってくれた。

「五行の話の続きをしよう。万物に宿る力。君の言う、氣。私の知覚する、波。これらには属性と相性があるということまでは、君の話から整理出来たね」

森羅万象の根源。あの島では氣と呼ばれ、決定的な勝敗の鍵となる力の流れ。先生は盲目と隣合わせに、それを自然と知覚しながら生きてきたひとだ。私の狙い。それはまず、お役目を受けるより先に、先生に氣をより理解し使い熟して貰うこと。強化、応用、循環、温存方法、私が知る限りの何もかも。誰もが恐れ惑う混沌のただなか、一秒でも早く、長く戦えるようになって貰う。それがあの島で少しでも勝率を上げる為の条件だと、わからない私ではなかった。

「はい」
「そして、我々の中でも一部の者がどの属性を持つかを知るの情報を元に、私なりに仮説を立て考えてみた」

盲を感じさせない手つきで、先生が五芒星を描く。金、水、木、火、土。そしてその先に先生と佐切、付知の名前。私の頭に焼き付いて離れない、あの図式。上陸組と天仙達、誰がどの属性かを示した、島の攻略において何よりの大事。

「他の者との手合わせの結果や相性等を分析考慮してこの図に当て嵌めるのならば・・・恐らくは、土の氣を持つ者ではないかと思う」

心臓へ流れ込む血液が、ばくんと音を立てて大きく波打ったような錯覚を覚えた。先生の手が、五芒星の土に私の名前を刻む。

土。五行相克の対は、水―――朱槿。
典坐を虫の様に嬲り殺す、仇そのもの。痛みを伴う未来の光景が頭の中を焼き焦がす様で、私は唇を噛み締めた。

「順を追って解説しようか」
「先生の見極めなら、間違いないです」
「それは・・・光栄だが」

まともに戦えば勝ち筋は極めて薄いであろう天仙を相手取り、活路を見出す唯一絶対の条件。相克であること。五行に刻まれた、生命力の相性。私があの島で望む最も優先すべきこと―――典坐の生存。それに欠かせない、朱槿の足止め。残念ながら木属性の先生は奴の相剋になれない。戦えはしても決定打は与えられない。でも私に、その可能性がある。運命を、変えられるかもしれない。命を奪っておきながら心底面倒臭そうな仇敵の表情を思い起こし、私は怒りとも喜びとも表現し難い思いに膝の上の拳を握りしめた。

「・・・これが、君にとって良い知らせなのか。悪い知らせなのか。判断に迷うところだ」

その言葉にはっとする。先生は目は見えなくとも、その分ひとの思いを正しく読み取れるひとだ。負の感情―――特に、恨みや憎悪なんて禍々しいものは、出来る限り鎮めておかなきゃいけなかったのに。自分の脇の甘さを痛感しながら、私は精一杯の笑みを浮かべた。

「間違いなく、良い知らせです」

自分の属性を知れたこと、運命の様な巡り合わせに心臓は早鐘を打ち続けてる。先生はそれすら聞こえているかもしれないけれど、それでも私は必死に口角を上げた。

「私の知る最悪は、きっと回避します」
「・・・
「大丈夫です、私、もっともっと頑張ります、だから・・・!」

あなたの心を必ず救う。典坐を喪って、先生が自分を責めるなんて哀しい未来、私が絶対に阻止してみせる。引き攣る頬とマグマを噴き出しそうな熱い胸の内がちぐはぐで、身体の内側が軋みを上げたそのとき。正座のままずいと前に進んだ先生が、私の肩にそっと手を置いた。

「わかっているよ。これまで通り、君の助けになる」
「先生・・・」
「まずは落ち着いて、深呼吸。感情の昂りで、余計なことは口に出さないように」

言われて初めて、いつもの呼吸を取り戻す。薄らと汗ばむ程に平常心を無くしていたことに、大きく反省。
そして私は、先生の言う“余計なこと”に苦笑を零した。

「・・・徹底してますね」
「そう決めたのは私だからね」

先生と私の間の取り決めは、おおきく二つ。

一、先見の明については、広まれば悪用される恐れがある為他言無用。

二、未来の事柄について、あくまで絶対に避けるべき、必要なこと以外は極力伝えない。

このひとは、未来を知るなんて途方もないことを口走る私を匿いながら、必要以上の情報を受け付けようとしないのだ。

「この先の道行き、全てわかっては人生の“見”栄えが悪くなる・・・でしたね」
「一言一句、違いない。大したものだな」
「ふふ。オタクの記憶力舐めちゃいけませんよ」

本当は、軽口なんかで流しちゃいけない話だ。それでも、先生は私をどこまでも甘えさせてくれる。

私が未来を開示する。その危険性は内にも外にもあるのではないかと、最初の対話で先生は気に掛けてくれた。悪事に利用しようと企む輩が外。そして、私自身が内に潜む危険だ。本来誰も知り得ぬことを口にすることでのペナルティが、無いとは言い切れない。私自身も考えなかった、この世の理を捻じ曲げることでの対価。それを先生は案じ、どうしても未来を変えたい私との折衷案として、こんなにも居心地の良い暮らしを与えてくれた。

大事なことは何ひとつ具体的に伝えられていない。天仙の脅威も、山田家に死傷者が出ることも、それどころか本土中が花にされる可能性も、何もかも。ただただ、最悪を回避するために強くなりたいという漠然とした私の思いを汲んでくれる。一方的に存在を知られているだけで困惑するだろうに、推しだの何だの包み隠せない私を、受け止めてくれる。
先生は、半端者の私には勿体無さすぎるひとだ。

「お約束通り、道行き案内は最小限に。それでも先生の明るい未来の為に、出来ることを全力でします」
「心得ているよ。私は君の・・・推し、のひとりだったか」

お馴染みの単語の筈が先生の口から発せられただけで、動揺のあまり思わず喉がひゅっと音を立てる。

「私は処刑執行人だ。千両役者のように華々しい存在とはいかないだろうが、君に推される者として恥じない指導で応えたいと思うよ」
「っく・・・!!推しにファンとして認知されてる状況幸せ過ぎて戸惑う・・・!!」
「はは。そう頭を床に擦り付けてばかりいると、額が木目模様になってしまうよ」

推しとしてあまりに完璧が過ぎる回答に私は床へ沈み込んだ。この額にどんな立派な木目が移ったってそれは誇らしい勲章でしょうとも。ゆったりと諭すような笑い方ひとつ、先生は最高に魅力的で、仏の様に優しくて、もうどう考えても私なんかが一日の終わりに独占して良いようなひとじゃない。

「本当なら、私みたいな得体の知れないオタクが先生みたいなひとに拾われて良い筈が無いのに・・・」
「ふむ、理由が必要か」

顎に手を当てて考え込むようなそぶりを数秒。よたよたと顔を上げた私の目の前で、先生は穏やかに微笑んでくれる。

「確かに君は謎多き存在ではあるが・・・これでも、人を見る目は確かなつもりだからね」
「はっ・・・見る、目で二段構え・・・!」
「君は本当に反応が良いな」

盲目にかけた自虐洒落は隙あらば拾うと決めている。先生にひとつでも多く喜んで貰いたいから。
そうして私は、油断した。先生はそこで話を終わらせなかった。

「・・・ともあれ。正面から向かい合い対話すれば、信に値する人間かどうかくらいはわかる。これが君を弟子に受け入れたことに対する、私なりの答えだよ、

瞬間、言葉に詰まった。
誰より感謝してる先生からこんな光栄なことを言われて、嬉しくない筈がない。
でも、少なくとも今の私にとって、正面からまともに受け止められる様な答えでは無かった。包み込まれるような温かさに反して、心臓が内から凍り付くように痛みを発する。

「・・・そこは、一目見れば、じゃないんですね」
「しまった。私としたことが一本取られたな」

咄嗟に、生意気な答えで誤魔化す。先生は笑ってくれて、私も笑顔を返した。



ねえ、先生。私、本当は別の世界から来たんです。未来が見える訳じゃない。あなたは本の中に生きるひと。私は物語に夢中になったただの読者。大事なことを嘘で都合よく隠してる私なんかが、先生からの温かな信頼に値する人間な筈が無い。

先生、騙したりしてごめんなさい。それでも私は、どうしてもあなたの物語を書き換えたいんです。あの夢のように、典坐と一緒に何でもないことで笑いあえる。そんな未来を書き足したいんです。

ずっと燻り続けている罪悪感が、今夜も私の決意を一層強くする。穏やかさを装ったまま、夜は更けていった。