私は十中八九桐馬に嫌われている。

そもそも彼は弔兵衛以外の誰に対しても心を開かない。そこへ初対面時に気絶した怪しさが上乗せされ、挙句の果てには敬愛する兄を得体の知れない竈神の上で磔にした邪悪の権化、それが桐馬から見た私の全てだ。蛇蝎の如く嫌われ、三代先まで呪われてもまったく不思議じゃあない。
最悪中の最悪、そんな関係性の相手なのだから、顔を合わせるだけでも当然嫌がられるだろうとは想定していた。だから今この瞬間、岩場の狭間で鍛錬に励む最中割り込んできた私に対し、露骨に顔を背けるのも無理も無い。ただ、稽古を放り出してまでこの場を後にしようという徹底ぶりには、流石に声を上げざるを得なかった。

「あっ・・・桐馬、待って」

嫌いで良い、憎んだままで良い。ただ、少しでも話を聞いてほしくて。
追い縋るような私の声とほぼ同じタイミングで、ごつごつとした手が桐馬の首根っこを捕えたかと思えば、次の瞬間には見ているこっちが痛い様なげんこつが振り下ろされた。

「痛っ・・・!何するんだ馬鹿力・・・!」
「女の話もまともに聞かずに逃げんのか、とんだ腑抜け野郎だな」

細身の桐馬と並ぶことで、厳鉄斎の体躯の逞しさが際立つ。呆気なく逃走を防いだ巨大な手が、嫌がる桐馬を強引に私の元へと突き出した。

「ほらよ、伊達女」
「ありがと、厳鉄斎・・・」
「良いってことよ。おいこら、話が終わるまでは戻って来ても稽古付けてやらねぇからな。女の頼みくらい聞いてやれってんだ馬鹿野郎が」
「・・・」

厳鉄斎は有無を言わさぬ勢いで押し切った。相手が豊満な体形とは対極の私だとしても、基本的に女には優しくするのが彼の信条なのかもしれない。何にせよ有難いことだと私は大きな背中を見送り、気合いを入れ直すと共に唯一の弟弟子と向かい合った。
中性的な顔立ちは、髪を雑に切り落とした今も美しさを損なわず。ただ、道場にいた頃のような薄ら笑みではなく、嫌悪感を隠さない苦い表情で私を迎え撃つ。

「・・・仇討ちでもしに来たのか」
「え?」

どこから切り出すべきかと悩む最中、絞り出された声は居心地の悪さで満たされていた。思わず間抜けな顔でぽかんとしてしまう私をよそに、桐馬の眉間に深い皺が刻まれる。

「僕たちの奇襲が無ければ、あいつは死んでなかった。その恨みを晴らしに来たんじゃないのか」

脳裏に過ぎるのは、今はもう遠い大きな背中。そして記憶に刻み込まれた、崖っぷちで味わった腕が千切れる程の重さからの解放。源嗣。救えなかった私の兄弟子。
あの時亜左兄弟の奇襲が無ければ、とは到底思えない。だって、竈神を利用した策を土壇場で立案したのは私だ。仇討ちで恨みを晴らそうだなんて、桐馬に対して考える筈が無い。
例え、直接手を下したのがこの弟弟子だったとしても。何をしたって、源嗣はもう帰って来ないのだから。

「それは・・・」
「それ以上は止せ、桐馬」

この対話にあたり、先生は必要に迫られた時以外は見守ることに徹すると約束してくれた。ただ、私に対してあまり良い感情を抱いていないであろう桐馬に対する“保険”として、傍に控えていたいと。そんな気遣いを香らせながら、先生が半歩前に出て私を庇ってくれる。

「誰のせいでもない。漸くそうして、皆で乗り越えようとしているんだ。負の横槍は入れないで貰いたい」

先生は皆という言葉を強調した。仲間の死を簡単には呑み下せない。それでも、皆で生きて島を出る為に乗り越えようとしている。誰も悪くない。気高い士道のもと散った仲間が、生き残った同志を責める筈が無い。佐切に諭された言葉が、先生の声で今一度優しく塗り重ねられていく。自責の念は消えないけれど、少なくとも今は自分の力不足に嘆いている暇が無い。私はまたしても大きな支えを得たような心持で、桐馬の怪訝な表情を受け止めた。

「じゃあ、何でわざわざ・・・僕と話す理由なんて、無い筈だろう」

今にも立ち去ってしまいそうな弟弟子を引き止めるには、こうするしか無い。私は深く頭を下げた。

「・・・何のつもりだ?」
「ごめんなさい」

声は震わせちゃいけない。出来る限りまっすぐ、この謝罪を届けなくちゃいけない。

「あの森で、お兄さんを酷い目に遭わせたのは私だから」

頭は下げたままでも、桐馬が身を硬くするのが伝わって来る。あの時、未熟な私が咄嗟に思い付いた手はあれしか無かった。兄弟を揃って本来の居場所―――菊花と桃花が待つ外周の森へ戻すには、あんな手しか思い付かなかった。意識を失った弔兵衛の悲惨な姿に立ち尽くす、桐馬の絶望した目を忘れられない。

「私が立てた策で、桐馬をすごく傷付けた。大切なひとが消耗する光景を目にして、どんなに辛い思いをしたのか・・・それは、私にもわかるから」

幸い急所には至らなかったけれど、朱槿からの攻撃を受け膝から崩れ落ちた典坐の姿が。牡丹を倒す為の陽動作戦で、私を庇い花の寄生を受け入れた先生の血に塗れた姿が。今も私の中で、途方も無く辛い記憶として蟠る。自分よりも大切なひとが傷付く光景は、地獄以外の何物でも無い。私は目の前の弟弟子に対して、その痛みを直接味合わせてしまった。
ゆっくりと頭を上げる。桐馬は下唇を噛んで険しい顔をしていた。

「ごめんなさい、桐馬。許して貰えるとは思ってないけど、どうしても謝りたくて」
「・・・何だそれ。ただの自己満足で謝罪を押し付けにきたのか」
「・・・そう。桐馬の言う通り、私の勝手な都合。でも、本当にごめんなさい」

どんなに詰られても文句は言えない。先生は万一に備えて傍に控えると言ってくれたけれど、桐馬になら殴られても構わないとすら思う。私は彼に対してそれだけの酷いことをしてしまったのだから。
許さなくて良い。仲直りなんて出来る間柄じゃない、それもわかってる。でも、どうしても今伝えたかった。言葉を交わせなくなってからでは、後悔しか残らない。二人の兄弟子の喪失があるからこそ、桐馬と弔兵衛の絆を知っているからこそ、今黙って目を逸らすことは出来なかった。

「お前のそういう、捨て身で馬鹿正直なところが大嫌いだ」

その刹那、呆れの色濃い溜息が桐馬の口から零れ出る。私を射抜くその目は、侮蔑と怒りが半々に宿っていた。

「顔を知られてる。それは入門初日にすぐ察せたから始末しようとしたのに、計画の効率を優先した兄さんに止められた」
「・・・うん。そうらしいね」
「何か企てているのは明らかなのに、表立っては消すことも叶わない。だったらせめてボロを出させて内側から追い詰めてやろうとしたのに、どんなに聞き回っても山田の連中はお前を好いている奴ばかりと来た」
「うん・・・え?」

私は桐馬に嫌われている。致し方の無い事実を粛々と受け止めようという覚悟が、明後日の方向からの流れ弾で角度を変えた。
桐馬は酷く苛ついた顔をしていた。けれど、それは私が考えていた理由とは少々違う様で。

「組織内で本心を隠しながらそつなく立ち回る術は僕だって熟知してる。誰に対しても付かず離れず、適正な距離感で敵を作らなければ情報は網羅出来る。その分、ある程度の孤立もあるんだ。よそよそしいとか、貼り付けた能面とか、お高くとまってるとか、一部の層からはそういう陰口を叩かれるものなんだよ・・・別にそれ自体はどうでも良い、そうでもしなきゃ兄さんの役に立てないから」
「と、桐馬・・・何の話・・・?」
「なのにお前は何だ。情けない姿を誰かれ構わず曝け出して、変わり者だと笑い者にされ、しかし根幹の部分では誰からも疎まれていない。女だと侮る連中も突き詰めれば同じことだ。羅芋の奴ですら、お前をコケにして良いのは自分だけなんて歪んだ持論を持ってる」
「・・・ええ、マジか」

俄かには信じ難いけれど、それは私が知って大丈夫な話だろうか。ともあれ桐馬が立腹している原因が思いのほか私のこれまでに蓄積されたものとわかり、私は酷く困惑した。
兄を一時的にでも窮地に追い遣り、この世で最たる絶望を味あわされた。私に対する恨みは底が無い程深く渦巻いたものだろうと覚悟はしていた。でも桐馬が今私に対して憤る理由は、恐らくそこじゃない。

「・・・心底、馬鹿らしくなった。大事な優先順位が決まり切ってるのは僕も同じなのに、僕とは正反対に気持ちを曝け出すことでお前は自然と周りの信用を勝ち得ていたんだ」

自棄になったような、淋しい嘲笑。そこから滲むのは紛れも無くたったひとりへの思いで、私は瞬きも忘れてその表情を直視した。

桐馬が腹を立てたのは、私が敵を作らなかったからじゃない。誰に疎まれ嫌われても、桐馬にとっては風が吹いている程度の些末事だろう。そんなことよりも、きっと―――私が、自分の芯を偽らずに過ごしていたから。何かを為す為に別人格を装うこともなく、推しは推しだと、自分の気持ちの根幹に自由で居続けたから。それは桐馬にとって、どんなに願っても叶わないことだった筈だ。

大好きなお兄ちゃんの背中に縋りつく小さな少年の姿が、目の前の桐馬に重なって見えた。

「桐馬も周りの目を気にせず、もっと堂々と弔兵衛に甘えたかったんだね」

我ながら随分しみじみとした響きが零れ落ちた。
瞬間唖然とした間を挟み、桐馬の顔にカッと憤りの朱が差す。

「・・・!そ、そうは言ってないだろ!本っ当に短絡的な奴だな!だからカッとなって大事な髪まで落とす羽目になったんだろ!?」
「ごめん・・・」

淋しかったんだ。当然だろう、相手はあんなに大好きなお兄ちゃんだ。本当は心ゆくまで甘えて幼少期を過ごしたかっただろうに、厳し過ぎる状況がそれを阻んだ。私は先ほどからは一変して、オタクな読者に戻ったような心持で少年桐馬に寄り添う。目の前で憤慨している声は鎧であると認識してしまった為に、存在感が一気に薄れてしまった。
その時だった。私の隣で沈黙を貫いていた先生が、ふと大きな気付きを得たような声を上げる。

「成程。君の誠意の示し方は、に敬意を払っての行為だったのか」

空白がたっぷりと五秒ほど。誠意とは断髪を指すと等記号で結ばれるまで更に二秒。しかし敬意とは。それは流石に違うでしょうと私が突っ込みを入れるより早く、桐馬の短くなった髪が勢いよく逆立った。

「違っ・・・!」
もあれくらいで留めておけば・・・いや、今となってはその短さもよく似合うと思うが。ああ、すまない、余計な口を挟んだね」
「えっ・・・あ、いえいえ」

決して強い言葉を使うことなく一貫して穏やかなまま、自分で納得し自分で終わる。飄々と構えるいつも通りの先生だ。その日常感が良い意味で桐馬の勢いを削いだ様だった。
落ち着いて話せる機会は次にまた訪れるかわからない。私は縋る様な思いで、半歩前へと踏み出した。

「桐馬。私はすごく恵まれていたと思うよ。先生と会えて、山田家に引き入れて貰えて、稽古も付けて貰えて・・・自分が何を好きでどう生きたいのか、堂々隠さずにいられたことは、本当に運が良かったとしか言えない。先生がいて、典坐がいて、女に厳しい声もあったけど良い兄弟子達に囲まれて、本当に・・・これまでの全部に、感謝してる」

桐馬は道場の皆に私が好かれているなんて言い方をしたけど、多分そうじゃない。私が、良い環境に恵まれただけ。家族を亡くして幼い兄弟ふたりきり、生きる為に野盗の集団に身を置くしか無かった桐馬にしてみれば、同じく何かを隠しながら呑気な顔で先生や皆に甘えていた私は、さぞかし憎らしい存在に見えたと思う。

「桐馬にとって人生の光は弔兵衛だけだったんだよね。だからどんな陰口も耐えて賢く立ち回って、お兄さんを支える影で在り続けた。本当はもっと弟らしく振る舞いたかった筈なのに全部抑え込んだ。凄いことだと思う。愛が無くちゃ絶対に出来ないことだよ」

私が桐馬にどうしても伝えたかったこと。
ひとつは、許して貰える筈も無い謝罪。

「でも、それは弔兵衛も同じだから」

もうひとつは、ここまでを“知る”者として、 真実を伝えることだ。

「もう聞いてると思うけど、今彼は天仙の側にいる。目的は桐馬の生存、弔兵衛はそれ以外何も望んでない」

どんなに彼が弟を思っているか。唯一絶対の存在を生かす、その為にどれ程の覚悟であちら側につくことを決めたのか。
渋い顔で私の話を聞いていた桐馬の顔に、ふと寂しげな影が差した。

「・・・未来が見えるというのは、心の中まで見透かせるほど大層なものなのか」
「わかるよ。未来とかじゃなくて、私、直接斬り合ったから」

ほんの僅か、桐馬の肩が跳ねた。あの時私と弔兵衛がぶつかり合ったことを桐馬は当然知っている。未来を知るという曖昧さより、刃を交えたからこその理解の方が余程信を置けることを、この弟弟子は知っている様だった。



『あんたに、譲れないものがある様に・・・私にだって、命より大切なものがある』

『・・・みてぇだな』



志は交わる気配も無く、悪を極めた笑みは重い斧の圧と共に私を確実に斬ろうとしていた。でも、あの時確かにお互いの中に似たものを感じた。自分の命以上に大事なひとがいる。本で読んだ通りの愛情深さに、一瞬も気は抜けないながらも心の何処かで安堵した、そんな私がいた。

「大事なひとを守る為なら何でもするって覚悟は、びりびり伝わってきた。弔兵衛は桐馬の為なら、例え道を外れたことだろうと何だってするよ。私は半端者だけど、それだけははっきりわかる」

記憶喪失の画眉丸との一騎討ちを経て、捨て身の兄の覚悟を目の当たりにしたことで、桐馬に意識の変化が生じ始めている。自分が如何に兄に守られてきたのか。どうすればその思いに応えることが出来るのか。その葛藤の中で出した答えが厳鉄斎に教えを乞い、長い髪を切り落とした今の姿なのだろう。
だからこそ、そんな今の桐馬に伝えたいことがあった。

「この先どんな戦局になるかはわからないから、申し訳無いけど・・・きっと弔兵衛の方から会いに来るよ。合流出来たら、その時は・・・今度こそ、誰にも遠慮しないでお兄さんとの時間を大切にしてね」

涼しい微笑で賢く立ち回る必要なんて無い。周りなんてもう気にしなくて良い。ただ、心の向くままに一緒にいて欲しい。それが、別たれた兄弟それぞれの愛を“知る”私の、切なる願いだ。
とはいえ、大局が迫る今に相応しい助言とは言えないだろう。桐馬の表情が険しくなった。

「兄さんが天仙側に着いたと言ったのはお前だろ。兄さんの命令次第で僕も敵側に加勢する可能性だってあるんだぞ」
「そうかもね。でも良いよ、大切なひとと離れて心が擦り減っていく姿は、見てるこっちも辛いものがあるから」
「・・・正気じゃないな、お前」
「へへ・・・ごめん、私変わり者だからさぁ」

敵に回っても構わない。ただでさえ不安の多い戦力差でそんな悠長なことは言うべきじゃないとわかっているけれど、こればかりはどうしようも無い。へらりと笑う私に対して、隣に立つ先生は苦言を呈する気配すら無く穏やかに成り行きを見守ってくれている。
そうだ、私は変わり者として有名で、道場の皆は私の持論にいつも付いて行けない顔をしながらも話を聞いてくれる。わかって貰えなくても良い。それでも私は、自分の思いを貫く。そうやって、こちらの世界での三年間を生きて来た。

「私たちにとって敵でも味方でも良い。お互いの為にも、桐馬と弔兵衛はもう離れちゃ駄目だよ。ふたりでひとつは最強なんだから。あと、心のゆくままの推し活は健康にも良いからね」
「・・・何だそれ」
「好きなものは好きって、堂々としてた方が良いって話。誰かを推す気持ちは心身の健康に効く、割と真理だよ」

この物語が好きだからここまで来れた。典坐の命を救いたい。先生を悲しませたくない。その強烈な思いが私をここまで連れて来てくれた。推しを思う気持ちは特別な起爆剤だ。
ただの読者でいた頃は、この兄弟はお互いへの秘めた思いが強過ぎて眩しい、なんて思っていたものだけれど。いざ同じ地に立って同じ目線を得てみれば、兄さん兄さんと連呼するその姿は少々身に覚えがあるような気がして。
先生。典坐。同門兼居候として推しの名前を呼ぶ時の何とも言えない多幸感を思い返す度、何だか桐馬のことが他人のようには思えなくなってしまったのだ。

「弔兵衛は桐馬にとって、唯一無二で永遠の推しでしょ。なら、大好きだって気持ち、隠さず示さなきゃ」

至って真剣に持論を展開する私と、隣で声に出さず微笑む先生の並びがちぐはぐに見えたのだろうか。瞬間真顔で下唇を噛んだように思えた桐馬は、すぐに視線を逸らし呆れたような溜息を吐き出した。

「・・・どの口がそれを言うんだよ」
「え」
「何でもない。理解もしたくない。僕はお前が嫌いだ」
「・・・あー、だよねぇ」

覚悟していた返答が鋭く突き刺さり、苦笑が込み上げる。その直後のことだった。

「けど・・・忠告は、受け止めた」

にこりともせず、眉間に浅く皺を寄せて私を睨む。そんな厳しい表情を浮かべながら付け足されたその呟きに、私は返す言葉を失った。
どう足掻いてもまともに受け止めては貰えないだろう。望み薄にも程がある自己満足の押し付けに対し、唯一の弟弟子が返した反応は、思いのほか冷静で、想定の何十倍もこちらに歩み寄ったものだった。

「あの時の謝罪もいらない。生きる為にどうしようも無かった。それは、お互い同じだろ」
「・・・桐馬」
「話は終わりだな。なら僕は稽古に戻る。兄さんに少しでも追い付く為には、時間が全然足りてないんだ」

桐馬は淡泊にそう言い切り、大股でこの場を去ろうとする。あまりのことに瞬間停止していた思考が戻ってきた。
話がしたい。それは間違いなく私の一方的な願いだったのに、桐馬は嫌いな私に貴重な時間を割いてくれた。

「っ桐馬・・・聞いてくれて、ありがとう」

去り際の背中が歩みを止める。若干こちらを振り向いたその顔は、当然柔らかく微笑んでいる筈も無く。

「・・・最後に勘違いを正すが、別にお前を意識して切った訳じゃないからな」
「わかってるってば」

苦々しい憤り、釘を刺す様にこちらを指さす鋭さ。思わず半笑いになりながら両手を振れば、鼻息も荒く今度こそ遠ざかっていく。
何故だろう。最大限に嫌われていた間柄の筈が、こんな局面において今は少しだけ心が軽い。私は隣で見守ってくれたひとに向き直った。

「・・・私、巧く話せてました?」
「ああ、この上無く。が彼ら兄弟の絆を尊んでいることはよく伝わった」
「へへ・・・」

先生の表現は的確だった。亜左兄弟は推しという訳ではないけれど、兄弟愛尊しという意味で好きな二人組だ。決して楽観視出来ない今も尚、オタクとして片割れに熱い気持ちをぶつけてしまうくらいには、好きなのだ。照れ笑いに頭を掻きながら、どんどん遠去かる弟弟子の背中を見送る。
蓬莱への再突入後、彼らは無事に再会出来るだろうか。弔兵衛と桐馬だけじゃない。皆それぞれに仲間と別たれることなく、水門へ辿り着けるだろうか。
亜左兄弟という原作から好きだったふたりの岐路を目前に、私は見えないこの先への漠然とした不安を噛み締める。
離れ離れになった兄弟も。一人しか無罪を許されない死罪人達も。仙薬の行方も。勿論、私たち浅ェ門も。もうこれ以上、誰も悲しまずに済む結びを、私たちは迎えられるだろうか。

「皆にとって良い結末が来れば良い。心底、そう思います」
「私もだよ」

即答は力強く優しい響きがした。私の言う“皆”がどこまでを指すのか、確認もしないまま無条件に私の願いを肯定してくれる。罪とは時代が決めるもの。そう考えていた先生にも、ヌルガイ達との交流を通して変化が訪れ始めているのだろうか。だとしたら、こんなに嬉しいことは無い。

そうして私が頬を綻ばせた、その刹那。
ぴしりと音を立てて、すぐ傍の岩が割れる音がした。

、伏せろ」
「っ・・・!」

亀裂は広範囲に及ぶ。駆け出して逃げるには間に合わない。言われるがままその場で小さくなると、迷いなく覆い被さる体温によって私の身は守られた。
岩がガラガラと崩れる音、土の匂い。でも、地割れや足元が総崩れになる様な壊滅的な被害は起きていないことを感じる。岩雪崩が起きた訳ではなさそうでひと安心だけれど、一体何事か。頭上から温かな影が遠退き、私は恐る恐る顔を上げた。土煙に汚れた先生がこちらを心配そうに覗く。

「怪我は無いかい?」
「だ、大丈夫です、先生は?!」
「問題無いよ。君が無事で良かった」

無事で良かったは私の台詞なのに。当然の様に身を挺して守ろうとしてくれる先生の優しさが、少し沁みる。

小さな破片が頭上から転がり落ちる、乾いた音がした。

「・・・なんか、すまん」

目を向けた先の崩れた岩の上、土煙塗れの私たちに対して罰の悪そうな顔で頬を掻くのは、小柄な忍だ。

難題がひとつ解けたと思えば、また難題。この物語の主人公との邂逅に、私は思わず生唾を飲んだ。