洞窟は山の中腹にあった。出入り口付近には敵影も、ついでに仲間の気配も無いことを確認し、ひとりで膝を抱え込む。吹き抜けた風を冷たく感じた。

「・・・そりゃあ、がっかりするよね」

自嘲の独り言が零れる。深い溜息を閉じ込めておくことも出来ず、私は一層小さく縮こまった。

私は確かにこの島で起きる惨劇を知って、死傷者を減らし皆を助けたい一心で此処まで辿り着いたけれど。先読みの知識もいよいよ打ち止めが迫っていて、この洞窟を出て再度蓬莱に乗り込もうとした後のことはまるでわからない。天仙を束ねる蓮の真の狙いも、唯一の脱出口である海門への詳しい道筋も、ここから更に熾烈を極めるだろう戦局の行方も、何もかも。致命的な欠陥を、私は今しがた遂に自分の口から告白した。

『・・・肝心なこと何もわかってないじゃん』

目に見えてがっくりと項垂れた杠の落胆具合が突き刺さった。彼女の反応は無理もない。蓬莱再突入以降の不明瞭さはずっと先送りにしてきた問題だった筈だ。杠の遠慮の無い言葉でそれを思い知らされただけ。
わかっていたのに。私は半端者だ。島の知識も完全じゃない。もっと言うなら、この世界の住人ですら無い。

でも、そんな半端な私でも、典坐を死の運命から救うことが出来たなら。何度も本を読み返して涙した、あの悲しい出来事を回避させられたなら。先生に、辛い思いをさせずに済むのなら。例え結末を知らない半端者だとしても、じっとしていることなんて出来なかった。先を知りながら黙って見過ごすことなんてどうしたって出来ないくらい、地獄楽という作品に夢中だったから。どんなにみっともなく足掻いてでも諦めきれない、私にとって大切な世界だったから。

結果として残り僅かの情報を開示しきって身軽になった筈の私は、今途方も無い虚しさに支配されていた。推しは確かに生かせたけれど、この後控える大事な局面のことは何ひとつわからない。無力でしか無い。
そうして溜息を膝の間に吐き出すばかりの私の元へ、遠慮なく近付いて来る豪快な足音があった。重い首を持ちあげる。目が合ったのは、隻腕の剣豪だった。

「よぉ。ようやく起きたか、伊達女」
「だて・・・それ私のこと?」
「潔い頭となかなかの面構えだ。顔の傷も粋で良い。ま、女としちゃあ全体的に平ら過ぎるがな」
「・・・はは。知ってる」

民谷巌鉄斎。本で読んだ通りのスケールの大きな男だ。変なあだ名も変わった物の見方も、女に求めるブレない価値基準も、何ひとつ期待を裏切らない。

「そう辛気臭ぇ顔をするんじゃねぇ。お前さんが“見える”っつー先のことが残り少ねぇと奴らから聞いて、俺は胸を撫で下ろしたところだ」
「その心は?」
「決まってんだろうが。先行きなんざ、わからねぇからこそ面白ぇ」

この男は単純明快だ。より強く、より逞しく。己を磨きながら戦いを楽しみ、剣豪として進化し続けることにのみ重きを置いている。その他の面倒は全て瑣末事。厳鉄斎の人となりは何となく理解しつつも、今この瞬間、先のことなどわからない方が良いと豪語する男の存在を有難く感じてしまう。

「・・・こんな状況でも?」
「こんな状況だからこそ、だろうが。俺ぁ天仙共をぶっ倒してこの名を世に轟かせるんだからよ。人間を超越した化物との戦いってのはどれ程血が滾るもんか、先に明かしちまうのは野暮に決まってんだろ」

野暮。確かに、厳鉄斎にしてみれば私の珍妙な特性は野暮でしかないのだろう。あまりに飾らない物言いに、思わず苦笑が込み上げた。気遣いなんかじゃなく、この男は心からそう願っているのがわかる。そうか、野暮か。わかり切っていた展開にうじうじと膝を抱える私自身が、何だか滑稽に思えて来るほどの一刀両断だった。

「そういう訳だ。余計なことは俺に漏らすなよ伊達女」
「・・・了解」

言いたいことだけ言い切って、雑な足音を鳴らし洞窟の裏側へ去っていく。その気配の主張が強過ぎて、入れ違いにやって来た小柄な影に気付くまでに少々間が空いた。

「ああいう男だよ。命より名声、安寧より一時の激情を重んじる。根本からして普通とは違う・・・ってことも、は知ってたんだっけ」
「まぁね。でも、あの破天荒っぷりも割と真理を突いてるし、私は嫌いじゃないよ。付知もそう思ってるんじゃない?」
「・・・なんか絶妙に頷きたくない質問だけど。まぁ、興味深いとだけ言っておくよ」

浅ェ門達はこの島で罪人と関わる内に少しずつ価値観を塗り替えていく。ただただ強者を求め戦いに身を投じる厳鉄斎は、現実的で合理主義の付知にとってさぞ理解から遠い男だっただろう。でも、島での時間が彼の心に影響を及ぼし始めている。なかなか良いコンビだという正直な感想はひとまず伏せたまま、私は力無く眦を下げた。
変わり者だろうが何だろうが、本で知っていた通りの豪快さに鬱々とした気持ちを軽減して貰えたことは事実なのだ。

「厳鉄斎にああ言って貰えて、少しほっとした」
「そもそも気にすることないと思うけど。の先読みがじきに底をつくこと、くのいち以外は誰もがっかりしてなかったよ」
「んんん・・・まぁ、そうなんだけどさ」

有難いことに付知の言う通りだ。私の告白に対しわかり易く肩を落としたのは杠だけで、他の皆は私を気遣いただの一言も不満を漏らさなかった。きっと本心から現状を受け入れてくれているのだろう、皆の優しさも私は山田家の一員として身をもって知っている。
そう、ただの読者だった頃から大好きだった登場人物たち。同じ目線で研鑽を積み、それぞれの人間性を深掘りすることで、より一層私の中で大切に思えるようになった仲間たち。
特別だからこそ、もっと皆の役に立ちたかった。島に上陸して以降、変則ばかりな挙句中途半端に終わる知識なんかじゃなく。先見の明が、もっと確かで安定した力だったら。皆を安心して最後まで導けるような、心強い私で在れたら良かったのに。わかってはいたことだけれど、人生って奴は本当に―――

「儘ならないこともあるさ」

背後から投げかけられた言葉に思わず瞠目した。人生とは儘ならないもの。まるで私の心を読んだかのような、簡潔で的確な答え。振り返れば、そのひとは腕を組んだまま穏やかな顔をして立っていて。

「・・・先生」
「シオさん」
「ここは風の通りが心地良いな」

私を挟んで付知とは逆側に座り込むその横顔は落ち着いたもの。優しい声も、和やかな雰囲気も、いつも通りの先生。私の中で堂々巡りを繰り返していた暗い思いが、本土にいた頃の日常のような先生の一声で薄まっていくのを直に感じた。

「君は開示出来るものが少ないと嘆いているが、追加上陸の面々や亜左弔兵衛の現状まで知れた。は十分過ぎる程先のことを我々に教えてくれたよ」

それは、打ち止めの告白と共に明かした最後の情報。殊現をはじめとする追加組、石隠れの精鋭達。そして、桐馬を生かす為に天仙の側へついた亜左弔兵衛。恐ろしい予告でしかないその半端さを、先生は有効な判断材料として生かしてくれる。

「不安だと言うなら、何度でも伝えるよ。私が期待しているのはの剣技、君の実力そのものだ。先見の明が消えたとしても、それは何ら揺らがない」

いつだってそう。自分の至らなさでふらつく度に先生の温かさに触れて、私は心の安定を取り戻す。

「・・・ありがとうございます、先生」

小さく笑えば、同じように笑い返してくれる。盲目であることを忘れてしまう程、顔を合わせた意思疎通を丁寧に重ね続けてくれるひと。ひとりで膝を抱え始めた頃とは打って変わって、頬に感じる風を柔らかく感じる。その時になり、逆側からじっとこちらを観察していた付知が口を開いた。

「ちょっと甘やかし過ぎな気もするけど・・・はシオさんと出会えて本当に運が良かったね」
「何、突然。最高に幸運なのは間違いないけど」
の指導役はシオさんじゃなきゃ無理。他の誰かじゃ難題過ぎて務まらないってこと」

先生とのご縁を肯定して貰えることは勿論嬉しいけれど、何処か引っ掛かる。無理とは、難題とは。腑に落ちない思いで小首を傾げる私に対して、付知の黒目は正直な答えを述べた。

「有り余った熱量で飛び出して行ったかと思えば、どうでも良いことで変にくよくよ悩んで蹲るし」
「・・・う」
「すごい吸収率で驚くくらい強くなったかと思えば、些細なことで子どもみたいに打たれ弱くなるし」
「・・・返す言葉も無いよ」

面倒過ぎて扱い切れない、つまりそういうことだ。一言一句その通り、心外だと訂正を求めて良い箇所なんてひとつも無い。私の面倒臭さは私自身もよくわかっている。わかっているのだけれど、こうやって真正面から叩き付けられると縮こまってしまう。

「だから、シオさんはにとってある意味唯一の相方だと思う。僕なら、都度都度丁寧に支えられない。落ち込んだり舞い上がったり、の情緒の振れ幅に付き合ってられない。すぐ泣くのも多分無理、放置したくなると思う」
「・・・おっしゃる通りで」

遠慮が無いのは信頼してくれている証。同じ門下でも偏屈者と遠巻きにされることの多い付知が、思ったことを正直にぶつけてくれる。それは喜ばしいことだと理解しながらも、付知の指摘は先生にかかっている負担そのものだということもわかる。我ながら酷い情緒不安定さで、これまでどれだけ先生を振り回してきたことだろう。今この瞬間だって、わかっていた先取りの頭打ちにうじうじと俯き、優しいフォローで心を軽くして貰ったばかりだ。面倒なことこの上ない弟子だ。そうして自身を振り返り改めて反省する、その刹那。

「浮き沈みの無い人間などいないよ」

静かな声が、私の胸中の苦い淀みを取り払う。思わず顔を向けた先で、先生の穏やかな微笑みが私を迎えてくれた。

「私はこれまで、の明るさに幾度も照らされ、その感受性の豊かさに触れるたび温かな気付きを貰ってきた」

その堪らなく優しい声と、私を語るにはあまりに綺麗過ぎる表現の数々に、私は瞬きを繰り返すことしか出来ない。

先生は過去に鉄心さんを亡くしているから。私が過剰な自己否定で俯かないよう、細心の注意を払って明るい方向へ導いてくれる。もう悲しい過ちを繰り返さない様、大事にして貰えているだけ。先生は元々心底優しいひとだから、余計に私は良い思いをしているだけ。それはあの日の墓前を経て、私もわかっている筈なのに。
この局面に於いても面倒な奴だと自他共に再認識した傍から、こんなにも寄り添う姿勢を示してくれる温かさが胸に迫る程嬉しくて。

「沈むことが必要ならとことん付き合うさ。きっと最後には笑顔を“見せて”くれると信じているからね」

―――泣きたくなるほど、大好きで。

胸の内に湧いた気泡の様な甘やかな思いを、私は迷うことなく飲み込んだ。

「っ・・・“見せ”ます!」
「はは。流石だな、キレが良い」
「普通に良い話だったのに。どうしてはシオさんの冗談に乗っちゃうかなぁ」
「へへへ、オタクとして推しの振りは逃せないでしょ」

今じゃない。何の為に私が此処にいるのかを考えろ。自分はオタク、先生は推しであることを強調しながら私は笑って見せた。こちらを見据えていた付知の視線がふらりと逸れる。

「・・・ま、元気そうなら良いけど」

その一言に目が丸くなった。立ち上がり装束の汚れを手で払い、じゃあねの一言も無く去ろうとする。
仲間内でも必要以上の気遣いはしない筈の小柄な兄弟子が、何故私の元へやって来たのか。私の面倒加減を正直に述べながら、それでも先生との師弟関係を全面肯定する遣り方で、彼なりの優しさを表現しようとしていたのだろうか。

「・・・付知」
「そうだ、

思わず呼び止めると同じタイミングで付知がこちらを振り返る。

「期の字に飲ませた物の出所は不問ってことで」
「・・・え」

突如頭を殴られたような衝撃に、瞬間時が止まる。黒目がちの瞳は、感情の読めない暗さで私を凝視していた。

「僕に隠し通せるって本気で思ってた?」

淡々とした言葉から事の重大さが時間差で這い寄り、私の頭の中を白くする。あの毒は、私が腑分けの手伝いで入った付知の蔵で密かに調合した下剤。偽りで別の仲間を害した、言い逃れの出来ない裏切り行為だ。

「ふ、付知。ごめん、私・・・」
「付知、にはあれしか選択肢が無く・・・」
「合意の上で飲み続けないとああはならないから、此処に来るまでは不思議に思ってたけど。期の字を安全に御役目から降ろす為だったんでしょ。なら、それで良いよ」

道場付きの医師とは別で付知も期聖を診ていた。何も言ってこないということは気付かれていないものと、勝手に都合の良い見当違いをしていた。まさか看破されていただなんて。にも関わらず、この兄弟子は声を上げずにいてくれた。

「ありがとう、付知」
「何が」
「今日まで、黙って見逃してくれたこと」

もし付知が見破った段階で糾弾していたら、きっと私は今此処にいない。それどころか、謀反の罪で今生きていたかもわからない。感謝しか無かった。丸い黒目は相変わらず平坦な温度で私を見据え、そしてこくりと一度だけ頷く。

「帰ったら、また腑分けの手伝いしてよ。それで手打ち」
「・・・うん」

厳鉄斎の去っていった方向へ消える小さな背中は、こちらを振り返らなかった。
突然のカミングアウトに瞬間心臓の鼓動が大暴れしたものだけれど、結果としては丸く納まったと呼べるだろうか。

「・・・期聖に身体張ってもらったのに。作戦失敗してましたね」
「そうでもないさ。を信頼していたからこそ、付知も事態を静観していたのだろう」

看破された上で状況を見守られていただなんて。信頼という言葉は光栄であると同時にほろ苦い。同じように、私の計画を見抜きながら黙って信じてくれた兄弟子の姿が脳裏に浮かんだ為だった。

「・・・衛善さんも、私が何かを隠してこの御役目に志願したこと、気付いてたって言ってました」
「・・・そうか」

あの洞窟で交わした静かな問答を思い返す、それだけで喉元がじんわりと締め付けられる様だった。
ここまでだって薄氷を踏むような危うい道のりだったけれど、そもそも上陸前から私は大事なことを隠し通すことも出来ていなかった様で。衛善さんも、付知も、私がこの御役目に向けて偽りを抱えていることを見抜きながら道を空けてくれた。期聖も、何も聞かずに協力を果たしてくれた。先生だけじゃなく、周りの仲間のこれまでがひとつひとつ噛み合ったからこそ、へこんだり顔を上げたり、私は今計画の只中で生きていられるのだ。

そこで思い浮かんだのは、もうひとり私の偽りを見抜いていた男のことだった。女性のような綺麗な面差しで誰に対しても一線を引いて、無理のある仮病を即見破りながら、獄中の兄の指示とはいえ私に刃を向けずにいてくれた。私がここで目を覚ましてからはまだ顔を合わせていない。あの時、私の策で最愛の兄が遠ざかる光景に呆然と立ち尽くした、絶望の瞳の色を忘れない。仕方のない局面だったとはいえ、酷い仕打ちをした自覚がある。
会いに行って、わかりあえるとは思わない。皆の様に心から赦しを乞えるほど、絆も無い。でも、私は読者として彼ら兄弟の強い結び付きを知っている。まだ話すことが出来るのなら、あの時のことを謝りたい。

「・・・先生」
「桐馬の所かい」

驚いた。このひとは本当に、私の心が透けて見えるのではないだろうか。

「顔に書いてある」

空白を三秒ほど挟み、私は緩く破顔した。私は隠し事にとことん向かない。でも、先生が舵取りに手を添えてくれるのなら安心して前へ進める。冷静な目で付知が太鼓判を押してくれた、私にとって唯一の先生と一緒なら。

「っはは、“お見通し”ですか」
「そうだよ。君のことなら“見通せる”」

私のことなら、なんて。勘違いをしそうになる程優しい言い回しに、早鐘を打ちそうになる鼓動をぐっと堪えて笑い返す。

「話しに行きたいのだろう。万一に備えて、傍に控えていても構わないかい」
「心強いです、ありがとうございます」

再突入まで残された時間は今日一日だけだ。丁寧に生きたい。出来れば、このひとの隣で。私は先生と足並みを揃えて歩き出した。