直立したまま身体が動かない。指先ひとつ、爪先の角度ひとつ、私の意思が反映されない。人生初の金縛りか。否、よくわからないけど、寝ている間にかかるものだった気がする。暗闇の中私は確かに立っているし、これは嫌な夢だろうか。
だとしたら早く目覚めたい。牡丹戦という大きな節目は切り抜けられたけれど、まだ島からの脱出という大目標には手もかけられていない筈だ。夢の中で銅像になっている場合じゃない。

そうして早く醒めろと繰り返し念じる最中、『彼』は、唐突に私の目の前に現れた。

「っ・・・」

声すら出ない。でも、目を開けることのみ自由を得た私の前で、蝋燭の灯のもと読書に耽る正座の後ろ姿は、間違いなく彼―――天仙のひとり、桂花だ。

忘れもしない、朱槿戦で入った横槍。ある程度まで先を知る私にとっての、未知という名の圧倒的な脅威。そして、あの状況で燃える森を指し示した謎多き存在。
何故、あの場に現れたのか。私の何を知っているのか。気にならないと言えば嘘になる。でも、例え夢の中だろうと、天仙と二人きりになることに危機感を覚えずにいられるほど、私は楽観的じゃない。必死に息を吸った。声を出そうと、そしてこの場から逃れようと、懸命に身を捩る。

「無駄だと思う」

酷く無機質な響きだった。私に背を向けて本に目を落としたまま、桂花は私の足掻きを無意味と切り捨てる。

「例え出ない声を振り絞れたとして、此処には誰も来ない」

やってみなくちゃ、わからない。淡々と現状を語る背中に対し、私はとことん反発する様に息を吸っては声を出そうと抗い続ける。

「・・・人間はやはり理解出来ないな」

うるさい。何とでも言え。私は一秒でも早くこの夢から覚める。自分の為すべきことの為に、現実に戻る。表情すら自由の利かない苦しみが頂点に達する、その時だった。

石の様に固まるばかりだった私の右手を、何かが握る。小さな、子どもの手。見下ろすことも叶わない中漠然とそれを感じた次の瞬間、私は喉元の緊張感が僅かに弛んだことを悟る。

「・・・っ・・・せ」

声を出せるのなら。誰かの名を口に出来るのなら。考えるまでもなく、それは一人に決まっていた。
目の前で桂花が静かに立ち上がる。本は手から離れていた。その身がゆっくりと、私を振り返ろうと傾き始める。今私を支配するのは恐怖か焦りかはわからない。でも、覚醒まであとひと息だと感じる。
お願い、声を出させて。

「せんっ・・せ・・・!」

いつだって私を安心させてくれる、絶対的な存在。絞り出した声で呼び名を辛うじて紡いだその時、私の意識はふわりと浮上し始める。桂花の顔は見えなかった。代わりに、私の耳が遠くからの呼び声を拾う。

・・・・・・!」

私の身は、何か柔らかな緩衝材の上に横たえられていた。漸く自分の意思で瞼を押し上げたその先に、望んだそのひとの姿を見る。私を上から覗き込む表情が安堵に綻び、私まで張り詰めた心が弛むのを感じる。

「良かった・・・気がついたね。酷く魘されていたよ」

無駄なんかじゃなかった。名前を呼べたから、先生に見つけて貰えた。指先だって、もう自由に動かせる。

「・・・先生」

金縛りから解けたことを確かめるように、そっと伸ばした手。先生はすぐに握り返して最大限の安心をくれる。

「此処にいるよ」

優しい声が。温かな手が。そして穏やかな微笑みが、私の為だけに惜しみなく開かれる。なんて贅沢で、満ち足りた目覚めだろう。緊迫した悪夢からの反動で私の全てが弛緩した、次の瞬間。

「シオさん、ごめんちょっと退いて」

先生を押し退けぐいと視界に入り込んできた、大きな丸い黒目が、私に驚きと共に現実を思い起こさせる。

「・・・え」
「焦点は合ってる。意識も問題無し。誰か、水を」
「付知?」

理解が追いつかない。牡丹戦を制したのは間違い無い。でも、あの時点では確かに合流前だった筈の付知が、何故ここに。
多数の疑問符を浮かべ狼狽えるばかりの私の瞼や喉を構わず触診する付知に対し、横から差し出された浅い器。飲み水を用意してくれたその相手に、私はまたしても目を見開くこととなった。

メイ―――それも、小さな少女の姿だ。

「ありがとうございます、メイさん」
「・・・」
「そうですね。皆を呼びに行きましょうか」

彼女から貰い受けた水を私に押し付けるなり、付知は早々に立ち上がりその場を後にする。私の理解など悠長に待ってはくれない。
何これ。どういう状況?慌てて辺りを見渡せば此処は蓬莱の屋内じゃなく洞窟の中で、私は何重にも敷かれた藁の上に丁重に横たえられていた様だし、いつ付知が合流したのか、メイがあの姿に戻っているということは既に木人さんの氣を貰い受けた後ということなのか、私はあれから一体何時間気を失っていたのか。あまりに状況が動きすぎて頭がまるでついて行かない。

「・・・っ先生、私」
、落ち着こう。まずは水を飲んでくれ、順を追って話すから」

すぐさま水を飲み干し、先生の説明を一刻も早く待ち望む私の元に、付知とメイが去って行った方向から物凄い速さでひとつの影が飛び込んで来る。

っ・・・!心配したんだぞ・・・!」
「わ」

ヌルガイに押し倒される形で藁に沈み、目を丸くするばかりの私を見下ろし、先生の表情が優しく綻んだ。

「大丈夫。誰も欠けることなく、夜が明けたよ」



* * *



どうやら私は牡丹を撃破したその時から、一晩どころかかなり長いこと眠りこけていた様だった。蓬莱の内側で長く留まることは得策ではなく、先生達は目覚めない私を抱えたまま移動しようとしたところで付知達と合流し、この洞窟へ辿り着いたらしい。
人口密度が上がった空間で皆に囲まれながら、私は明らかに寝過ぎたことを恥じて頭を掻いた。
今この場にいないのは戦闘訓練中らしい―――画眉丸、桐馬、厳鉄斎、そして付知だけだ。画眉丸は一時失った記憶を取り戻しているだろうし、桐馬は髪を断った後だろう。時間は有限なのに、これはかなりの痛手だ。

「・・・私、随分と寝坊したみたいで」
「当然です・・・!」

声を上げた佐切の目は若干潤んでいて、私はこの歳下の姉弟子にどれ程心配をかけたのかを思い知らされる。

「あんなに血塗れで、消耗し切って・・・もう目を覚まさないんじゃないかと、心配で、心配で・・・」
「ごめんね、佐切」

自らを囮として花化した部分を片っ端から斬り捨てる、我ながらなかなか無茶をした自覚はあった。でも、目覚めた今私の身体はどんな悲惨なミイラ状態かと思いきや、拍子抜けな程にさっぱりとしていて。
先生とヌルガイ、杠、それから典坐も着ているものと同じく、私は寝ている間に中華な装いに様変わりしていた。

「君の着ていた装束は、その・・・」
「まぁ、ずたずたで使い物にならないですよね・・・」

前開きのカンフー着。雌雄同体の天仙のうち誰かの持ち物であるなら、納得の誂えだった。白地に淡く色とりどりな花の刺繍が凝らされて、何だか私には可愛すぎて不釣り合いな気がしなくもないけれど、推し三人と似たような装いでいられることはどうしたって嬉しい。先生は青、ヌルガイは橙。正史と違いこの場で生きている典坐もまた、黒地に赤の龍が走るセットアップだ。

「皆で選んだんだ。が大事にしてる羽織とも多分合うと思う。ちゃんと持ってきてあるから、あとで着てみてくれ」
「ありがと。ヌルガイもよく似合ってる、可愛いね」
「えっ?そ、そうかな、へへ」

上半身だけ起き上がって安静を求められた私にぴたりと寄り添い膝に寝転がったまま、ヌルガイが明るい笑顔を見せた。心底癒されるような思いに頬をだらしなく緩めながらも、私は服の下に意識を向ける。
じんわりとした疲労感はあるけれど、裂傷の痛みが感じられない。あれだけ派手に刻み込んだ筈の傷が、一晩で塞がるなど普通ならありえない。

「傷が塞がってるのは・・・」
「外からの応急処置と、内からは氣で働きかけた」
「ですよね・・・」

先生の声は普段通り落ち着いたものだけれど、元の惨状がどれ程のものだったかは私が一番よくわかっている。一晩でここまで持ち直すには、どれだけの労力が必要だったことだろう。私と相生条件の氣を持った為に貧乏くじを引いてしまった年下の兄弟子に対して、申し訳無さが底なしに湧き出てくる。

「典坐、また助けてくれて本当にありがとう。でも、相当無理したんじゃないの?こんなに治ってるなんて、どう考えても・・・」
「いやいや何のこれしき・・・って言えたら、格好良く決められたんすけどねぇ」

頭を雑に掻く典坐の表情は明るかった。確かに、特大の重労働をひとりで背負い込んだにしては、疲労の影はあまり読み取れない。

「自分だけじゃなくて、主に先生と佐切さんの力っす。こう、氣を水桶みたいに順番に運んでく感じに・・・あーっ、上手く説明出来ねーっす、先生!」
「私と佐切から典坐を介し、そしてへ。この形で氣を受け渡すことが出来るかは賭けだったが、相生の流れを複数人で生み出し、利用した。の消耗具合からして、一対一より多対一の方が回復効率が良いのではないかと」

パスを受けた先生の解説は的確だった。地面を使って描かれた図もわかり易く、二人がかりで典坐を介して私を治すという図式は妙にしっくりと来た。絵まで描けるとは本当に先生は盲目かと怪しむ杠を佐切が窘めている。先生の氣への理解力と応用加減が成せる技だ。自分自身の身体に起きた奇跡のような出来事に溜息を漏らすしか出来ない私を前に、ほんの僅か先生の表情が曇る。

「すまない。完全な治癒とまでは至らず、顔の傷は残ってしまっているが・・・」
「何言ってるんですか。十分過ぎます」

血が止まっただけでも有難いのに、身体中の傷をくまなく塞いで貰えたことには感謝しか無い。見えない目で私の頬に走った一閃を気に掛けてくれる先生の優しさが沁みた。

「佐切も疲れ切ってた筈でしょ。それに先生だって、酷い怪我だったのに」
「お役に立てたことが嬉しいんです。どうかお気になさらず」
「君に比べれば軽傷だったよ。それに、ヌルガイと・・・仙汰が、私たちを助けてくれた」

その名前に、はっとした。木属性の先生と佐切が消耗した分を補う、水属性の氣。ヌルガイと同様に、慣れない中私を助けてくれたという、心優しい兄弟子。

「うまく行って良かったよ。皆で協力してを治すことが出来て、オレは嬉しかった。お前もそうだよな」

ヌルガイが上機嫌に微笑みながら、後ろを仰ぎ見る。
死の運命を回避した仙汰が、私の傍へおずおずと近付いて来た。

さん」
「・・・仙汰」

浅ェ門の装束、トレードマークの丸眼鏡。私が知っているままの仙汰が、牡丹戦を乗り越えた今目の前にいる。典坐の時と同じ、夢じゃないかと見紛う様な大きな安堵で、思わず胸が詰まった。

「怪我、してない・・・?」
「あの激戦で何も出来ずお恥ずかしい限りですが・・・はい、無事です」
「元気?大丈夫、なんだよね・・・?」

生きてる。仙汰の運命も、明るい方向へ大きく変えることが出来た。信じられないような達成感が感慨深く、目を潤ませる私のもとへ、遠慮の無い一言が浴びせられる。

「心配しなくたって、私を庇って花になんかなってないから」
「杠さん・・・!」

瞬間、身体が硬直した。
憧れのひとを庇って花になる。正史の出来事を、杠本人が堂々口に出来るその理由はひとつしか無い。もう皆、全てを知っている。雷に打たれたような衝撃は束の間、神妙な顔で押し黙る私に対し、先生が申し訳無さそうな顔をした。

「すまない。が目覚めてから話そうかとも思ったのだが・・・」
「どうして謝るんですか。牡丹を倒せたら皆に事情を説明して欲しいって、お願いしたのは私です」

私の秘密、私の罪。それを皆に対してわかり易く説明出来るのは、きっと私自身よりも先生だと感じていたからこそ、事前にお願いしてあったことだ。
勿論、私が別の世界から来た異物であることだけは先生にも明かせていないことだけれど。周りの反応を見るに、先生は私が寝ている間に知る限りの全てを皆に開示してくれたのだろう。衛善さんと源嗣を喪った私の過失も、もう白日の下に晒されている。
来るべき時が来た、それだけだ。

「・・・皆、ごめんなさい。私、全部分かってたのに」
「悪いけどその下りは、おねーさんが寝てる間にぜーんぶ済んでるから」
「・・・え?」

糾弾されることも全て覚悟の上で頭を下げようとした私を、またもや杠のあっけらかんとした声が引き止める。
その下りとは。寝ている間に全て済んだとは、一体。戸惑いに顔を曇らせる私の反応を受けて、仙汰が言い辛そうに口を開いた。

「士遠さん曰く、さんが先を知ることを隠したのは自分だと」

仙汰の言葉を飲み込むのに時間がかかった。
どんなに言葉を尽くしても足りないのは承知の上で詫びようとした私の言葉を、杠が遮ったのは何故か。もう済んだとはつまり、先生が私に代わって失態を引き受けたということだ。私が不甲斐なく意識を失った間に、先生が皆に対し深々と頭を下げる様子が脳裏に思い浮かんでしまう。一瞬で血の気が引いた。

「っ違・・・」
「違わないだろう、。君の言葉を封じたのは私だよ」

状況だけ見るなら確かにその通りだった。でも、その裏側には先生が私を守る為に幾重にも張り巡らせた配慮と優しさがある。現実離れした私の力を隠すことで、あらゆる害から守ろうとしてくれた。その上で私を助けようとずっと隣で協力してくれたひとだ。私に代わって罪を被る必要なんてひとつも無い。

「そ、そうだけど・・・でも先生は、私を守ろうとして!私がもっと上手く立ち回れていたら、衛善さんと源嗣だって今頃・・・!先生は何も悪くない、それだけは本当で・・・!」
さん、誤解です。私たちは誰も士遠殿を責めてはいません」

焦りと動揺で上擦った私の声に被さるように、佐切の冷静な言葉が空気を変える。

「・・・え?」
「勿論、さんのことも。誰も悪くないのだから、責める必要などありません」

誰も悪くない。考えもしなかった寛大な言葉に、心が乱れる。悪くないなんて、そんな筈無い。私がもっと上手く立ち回れば、私がもっと強ければ、もっと賢ければ。きっと二人は助かっていた筈なのに。自己嫌悪で思わず俯く私の頼りない目線を、膝に転がったままのヌルガイがそっと受け止めてくれた。

「ほんとだよ。もう皆全部知ってるけど、誰もセンセイとのこと悪く思ってないし、これ以上謝ることないよ。信じてくれ」
「彼女の言う通りです」

恐る恐る、顔を上げる。佐切はほっとした様な、涙を堪えるような、複雑な顔をして私を真っ直ぐに見据えていた。

さんが目を覚ますまでの間、士遠殿からの話だけではなく、メイさんからもこの島の話を聞きました。私たちの間でも情報を整理し、少しずつ見えてきたこともあるんです。私たちはこの先、誰も失わずに島を出ることを最優先に考えるべきです」

天仙の狙い―――気の遠くなる様な昔から取り組まれ続けている、特別な丹の精製。人間を不老不死に導く、外丹法の研究。命の実験、これまで犠牲になってきた屍の山。ある時を境にひとの心が薄れていった蓮と、放逐されたメイのこれまで。それでも尚謎多きこの島の現状を前にして尚、佐切の全員帰還の意思は強く美しい。

「損失は確かに辛いですが、それはお二人が浅ェ門の誇りと共に剣を振るった結果です。さんや士遠殿が背負う罪などでは断じて無いと・・・衛善殿と源嗣殿なら、きっとそう言う筈です」

あまりに真摯な言葉が、身体の一番奥に突き刺さった。心臓が大きな音を立てたかと思えば、呼吸が乱れて浅くなる。

そんな折、土を踏む音がした。遠くからこちらに近付いて来る足音。先生と同じ考察力で状況を見通しているだろう、黒目がちの瞳が私を見ていた。

「・・・相手は天仙。ひとの理なんてとうの昔に超越した者達が、本土から送り込まれてくる贄を捕えようと用意周到に仕掛けた罠のようなもの。避けようのない災い。この御役目は、つまりそういう類のものなんだよね」
「・・・付知」
「ただの人間がひとりやふたり立ち回ったところで、回避出来る規模の問題じゃなかったと思う。それこそ、シオさんがの秘密を公にしていたとしてもね」

淡々と事実を述べた上で私の罪を否定する。それは無条件に私を庇ってくれるであろう先生じゃなく、現実主義の付知が発するからこそ、私の中で大きな意味を持った。

「衛さんとお源のことは勿論悲しいし、心の底から無念に思うよ」

私より小柄な身で、ぐっと拳を握りしめて。それでも私を見据える仲間の瞳には、恨みの色が混ざり込まない。

「でも、とシオさんのお陰で典くんと仙ちゃん、期の字の命が助かった。それは間違いなく嬉しいことだから。こんなどうしようもない地獄の真っただ中で、仲間の命を三つも救ってくれたこと、ありがとうって言いたい」

許されるなんて思ってない。自分で自分を許しちゃいけないと、私はこれから先もずっと戒め続ける。でも、それでも。今この瞬間皆に囲まれながら、先生以外のひとから誰も悪くないと諭されることが、どうしようもなく心を揺さぶる。罪悪感と、自己嫌悪と、そしてほんの僅かの安堵。綯交ぜになった感情がぐちゃぐちゃなまま込み上げて視界がぼやける。頬を伝う涙を熱く感じた。

「・・・どうせなら全部救えよって、詰らないの?」
「そんな大層なことが出来るほどは万能じゃないでしょ」
「・・・そうだけど」

正直でごもっともな意見に、私はみっともなく鼻を啜りながら答える。私は全然万能なんかじゃない。だからこそ、先生の力を借りてここまで来られた。
ずるずると涙ぐむ私の醜態が緊張感を和らげたのか、皆がそれぞれに顔を見合わせ苦笑し合う空気を感じる。私のすぐ傍で黙っていた仙汰が、意を決したように息を吸う音がした。

「自分が本来ならもう死んでいたとは・・・実感は薄いですが、この島の厳しさは僕も三日で痛感しています。お二人の話を、僕は信じます」

本当なら今頃花になっていた、だなんて。飲み込めなくて当然のことを受け入れ、心優しい兄弟子は私に対して笑いかけてくれる。度々重なった喪失から、今度こそ後が無いと自分を追い込んで。ようやく救えた笑顔の穏やかさを、いつも以上に尊く感じる。

「命を救っていただき、ありがとうございます。さんの思いを無駄にすることなく、僕も生きて島を出るべく全力を挙げます」
「右に同じっす!」

私の太陽が溌剌と挙手をして、眩しく笑う。

「ここからは自分と仙汰くんで二人分の戦力上乗せっすよ。さんの功績っす」
「典坐・・・」

二人喪って、三人を得た。決して足し引きの数字で帳尻を合わすことなんて出来ない、重い問題だけれど。今は失った数を嘆くよりも、皆を生かす為に前を向くべきだということはわかる。少なくとも正史と違い、今は更に二人の浅ェ門がこの場にいる。典坐の言う戦力の上乗せという言葉が、皆の赦しを得た今余計に強く響いた。
少しずつの勇気を貰い、短く息を吐いたそのタイミングで膝の上のヌルガイと目が合う。にっと笑いかけられたことで反射的な笑みが込み上げ、そのはずみに新たな涙がぽたぽたと零れ落ちる。そして、すぐ隣からそっと手拭が差し出された。

「光明が“見えて”きたな」

優しい微笑みから、まるで私の背を撫でるような労わりを感じる。また一歩、こうして明るい方へ進めるのは、間違いなくこのひとが傍にいてくれるからだ。

「・・・ふふっ。はい、“見え”ます」

受け取った手拭の柔らかさで涙を拭いながら、私は冗談に笑う。何気なく頭を撫でられることすら、今はひたすらに心が安らぐ。

「はーい、いちゃいちゃするのは一旦そのへんで止めてよね」
「ゆ、杠さん・・・!」

ぴしりと音を立てて私の時間が止まった。
赤面して引き止めようとする佐切の静止など物ともせず、色気たっぷりのくのいちは仙汰を押しのけ、ついでに膝の上のヌルガイも転がし、先生にはどいてどいてと催促した上で私の隣を陣取る。
今あなた何て言った?

「・・・いちゃ、いちゃ?」
「で、あんたは先のこと知ってる訳でしょ?教えなさいよ!島を出るのに有益な情報、勿論あるんでしょう?」

オタク心と封じた恋心の狭間で激しく動揺していた私は、その現実的な問い掛けにはっと我に返った。

そうだ。呆けている場合じゃない。私にはこの場で白状しなければならない、致命的なことがある。
原作の七巻途中。私の知る限界が、すぐそこまで迫っていること。そう遠くない内に、先見の明はまったく使えない塵も同然となってしまうこと。

「もったいぶらないでよ、ほらぁ」
「そ、それが・・・」

有益な情報への期待に目を輝かせる杠を前に、私は今度こそ怒りを買うことを覚悟し降参の両手を上げた。