牡丹(ぼたん)と書いて、ムーダンと読む。それを痛感せざるを得ない程に、目の前の光景は美しいと同時に身の毛がよだつ。

ほんの一瞬で辺り一面を覆い尽くす程増殖した狂い咲き、ひとつひとつが美しい牡丹の花であり、奴の罠だ。その恐ろしい花々の中央で、植物が絡み合う様に奴は成長し、圧倒的な大きさの脅威へと徐々に変貌を遂げていく。
計画段階では鬼尸解が直立するまでに、完成系の丹田―――花弁の中心、胚珠を破壊出来ないものかと考えてもいたのだけれど。今にも地面を割ってしまいそうな揺れ、こちらを寄せ付けない突風の如き圧、そして不気味な轟音を立ててうねり広がる花の津波が、今不用意に近付けば死に直結する惨事になるだろうと物語る。当然のことながらそう容易くは本命を獲らせては貰えない。私は顔を歪めて舌打ちをした。

「変身バンク中は手出し不可ってか」
「・・・ばんくって何?」
「ごめんね、後で教えるからね」

不思議そうに小首を傾げるヌルガイの頭を撫でつつも、奴が少しずつ変化を遂げる今この時こそ攻撃出来ればどんなに良いかと奥歯を噛み締める最中。この場には不釣り合いな程陽気な笑い声が、近くで噴き出した。

「っはは。意味はわかんねーっすけど。さんの口からそういう単語が出ると自分は安心っす。いつものさんって感じで」

いつもの私。そう呼んでくれる声は覇気があって、それでいて優しくて。私という存在を、心の底から肯定してくれる。思わず目と目が合った先で、私の太陽が眩しく咲き綻んだ。

「大丈夫!ここまで上手く進んで来れたんっすから。ここから先も、力を合わせればきっと乗り切れるっすよ!信じてください、さん」
「・・・うん。ありがと、典坐」

鬼尸解した牡丹との正面衝突。これは、私が知る限りの話の中では最も熾烈と呼べる大戦だ。天仙がひとの姿を捨て、破壊と殺戮に特化した最終形態。これまでの最難関な場面に違いなく、それでも私は典坐の言う通り、仲間との連携に賭けることでここまで辿り着いた。大丈夫。きっと勝てる。今尚不穏な突風が吹き付ける中でも、皆が私にそう信じさせてくれる。
私は隣に立つ師を見上げた。整った氣を更に研ぎ澄ます先生の横顔が、心の底から頼もしい。

「全力で援護します。先生は攻撃に集中を」
「心得た」

勿論、天仙を攻略するに当たり鬼尸解後の立ち回りも練ってきた。相克の条件を持つ先生に攻撃を一手に任せ、私たちは補佐に徹する。花の侵入を阻止すべく、素早くしなる蔦から掠り傷ひとつ負ってはならない。

今私の目の前にいる先生は正史と違い、典坐を喪い自分の非力さを呪う復讐者ではないけれど。それでも、恨みの籠もった捨て身の炎で己を焦がす姿が脳裏に焼き付いて離れない。先生の心を曇らせたくない。あんな先生の姿は、絶対に見たくない。そんな私の胸中を知ってか知らずか、不意にその雰囲気が解けて微かな笑みがこちらを向いた。

「昨日とは立場が逆転したな」

瞬間言葉が詰まり、そして私は苦笑する。
先生と私、ふたりだけで挑んだ朱槿戦は、確かに奴の相克である私が鍵を握っていた。鬼尸解には至らなかったけれど、先生が背中を守ってくれるからこそ私は全力で戦えた。今度は私が先生を助ける番だ。改めて自分の責務を噛み締める。

「典坐、ヌルガイ」
「わかってる!」
「心配無用っすよ!」

先生の号令で駆け出したふたりの向かう先に、私の姉弟子がいる。
この作戦におけるもうひとりの要。ただし先生とは違い、事情を説明する暇も無ければ氣の本質を説く時間も無い。

「佐切」

圧倒的にフォロー不足の状況下、重い責任を負わせてしまうことに罪の意識を感じながら振り返った先で。ひゅん、と音を立てて刀の振りを確かめる姉弟子の姿は、あまりにしっかりと自立したものだった。
典坐とヌルガイと合流し、こちらへ向かって歩いて来る真っ直ぐな姿勢は頼もしい。私はこの時点で佐切が氣を掴みかけていたことを知っていた筈なのに。今目の当たりにする彼女の氣は、十分過ぎる質量をもって身体の線に沿い静かに波打ち、揺らぐ。これが佐切の強さであり美しさなのだと、感動に似た思いで鼓動が高鳴った。

「典坐とヌルガイが君の補佐に回る。ここから先は例え掠り傷でも致命傷だ。佐切は私と同じく、奴にとって弱点属性の氣を持つ。私と共に攻撃に専念して欲しい」
「承知しました」
「今回に限り、狙いは花弁の中心―――胚珠。私か佐切、どちらかなら斬れる。息を合わせて少しずつ近付き、勝機を狙おう」
「お任せ下さい」

落ち着いた受け答え、怯えも無ければ滾らせ過ぎることも無い熱量。何の説明も無しに私たちの策を受け入れてくれた、その懐の深さ。器から溢れ零れる様に、感謝の念が水位を増した。

「・・・ありがとう、佐切」
「いいえ、さん」

私を真っ直ぐに見据えるその瞳が、凛とした覇気はそのままにほんのりと和らぐ。

「途轍もない心強さで、今なら存分に腕を振えそうです」

相手は天仙、その完全体。そんな中でも私たちとの共闘を心強いと呼んでくれる、佐切からの信頼が熱く響く。負けられない。口端を上げるだけの笑みを返した頃合いで、風速が若干弱まった。いよいよお出ましだ。私たちは同時に刀を抜く。

陰と陽、ふたつの巨大な花が絡み合うように立つその姿は、美と歪さを煮詰めた妖しさで満ちていた。恐怖は確かにある。でも、飲まれる訳にはいかないと気を張っているからこそ、立ち向かえる。

「行くぞ、佐切」
「はい!」

三人と二人に分かれ、全力で駆け出す。牡丹の質量が物理的に増した分、こちらの間合いも大幅に広がったと言えた。宗教の真似事で立てた金の像も、大層な造りの大門も、私たちを狙い蠢く奴の触手すら足場として利用し、各々が縦横無尽に駆け巡る。
当然、役割分担は忘れない。私は先生の、典坐とヌルガイは佐切の盾だ。鈍足を装った蔓が緩急をつけ、鋭い軌道で先生の背後を狙う。私は注意深くそれを切り払った。

「させるかっ・・・!!」

勝手は許さない。絶対に先生を傷付けさせはしない。木属性の矛が胚珠へ到達するまで、何百回でもその奇襲を防ぎ切って見せる。先生の剣が奴の身体中を的確に切り込み、私が壁となり反撃を防ぐ。佐切たちも同様の陣形を保ちながらじわじわと前進する、その刹那。

《二対ノ盾と矛かァ》

私は自分の耳を疑った。

《良いネェえ、面白イ》

朱槿と画眉丸、牡丹と佐切たち。ふたつの戦闘における鬼尸解の様子を私は知識として知っていた。どちらも巨大な花の形状時は、ここまで滑らかな人語を口にすることは無かった筈。攻撃特化の代償に知性が無いと高を括っていた訳ではなかったけれど、こちらの策を愉快そうに嘲笑う牡丹の口調は、否応なしに動揺を誘う。

《それジャあ、余リ物ハ、退場さセよう》

言葉の意味を探るのはほんの一拍。私の背筋を氷のような冷たさが駆け抜けた。

勢い良く振り向いた先、蓬莱の大門の陰。そこに潜む仙汰と杠の近くで、地面の一部が明確に盛り上がった。まるで、内側から何かが飛び出そうとしているかのように。土の下から、絶望が今にも発芽しようと息づいているかのように。
本体から根を張る様に地面を伝い、遂に顔を出した触手が杠に狙いを定める。それに気付いた仙汰が息を飲み、重力に引かれるが如く彼女を庇おうと身を翻す。一連の流れはほんの数秒に満たない内の出来事で、警告はとても間に合わない。

うそ。

「っ仙汰・・・!!」

悲鳴の様な私の声が届くよりも、更に速く。一振りの刀が鋭く空を切り裂き、牡丹の触手を容赦無く貫いた。
耳の中でどくどくと激しく血潮が疼く。突き飛ばされた杠も、彼女を庇おうとした仙汰も、無事だ。

「大丈夫っすか?!仙汰くん!そっちのひとも!」
「は、はい・・・!」
「マジで焦ったわ・・・ありがと」

典坐が渾身の威力で投げ放っただろう刀のお陰で、仙汰と杠は間一髪助かった。
でも、一本しか無い刀を手放せば丸腰になってしまうことがわからない浅ェ門はいない。
安堵の息継ぎすら叶わず、心臓が強く締め付けられる。

「っ・・・典坐」

駄目。お願い、これ以上奪わないで。
典坐の背後に迫る尖った蔦も、警戒の手数が足りずに焦る佐切の苦悶も、ニタリと口元を歪める二対の花も。何もかもがスローモーションに見えて、鼓動ばかりが早鐘を打ち目の前の色を変えていく。

その時だった。放った時と同じ速度をもって、典坐の刀が飛来する。

「典坐、受け取れ!」

信じられない素早さでその場に駆け付けた彼女は、典坐が刀を手放した時点で走り出していたのだろうか。

「ありがとうございますっ!ヌルガイさん!」

投げ返された刀を受け取りざま、背後を狙う蔦の根から切り伏せる典坐の腕前は鮮やかで。まるで刀が返ってくることが最初からわかっていたような、ヌルガイのアシストを信じ切っていたような、窮地の中にあっても力強く安定した空気を感じる。

「こっちはオレに任せて!典坐、一人で平気か?!」
「当然っす!そっちも無理は禁物っすよ!」
「おう!」

刀の刃先を向け合い、互いを鼓舞する二人の姿が胸に迫る。肝が冷える程の不安は即座に解消され、典坐とヌルガイの判断の早さと連携レベルの高さを私は漸く思い知った。
私が仙汰を助けるにあたり不安に思っていることを、本来なら死んでいた筈の自分が上乗せの戦力として解決すると、典坐は約束してくれた。まさかこの局面で、こんなにも有言実行を示してくれるだなんて。込み上げる熱さを、下唇を噛み締めることで堪える。

「・・・
「すみません。大丈夫です」

ヌルガイが移動したことにより仙汰の身はより安全になった。杠もまた周囲への警戒を強めている様だし、典坐もひとりで佐切の盾を務めようと意欲に燃えている。私も、立ち止まってはいられない。

「機をみて、次の手に出ます」

私の一言に、先生の顔色が変わった。打倒牡丹にあたり四人で練ってきた戦略の中で、次の一手は先生にしか明かしていない秘策だった。これは真相の共有者を最小限に絞ることに意味がある。かつ、私の実行が最適な一手だ。

「・・・信じて、良いんだな」
「はい。私、負けません」

私を心から憂いてくれる先生の優しさを、無駄にはしない。私は笑って頷いた。
納得はいかないながらも、信を置いてくれた先生と共に走り出す。激しく動く激坂のような蔦を駆け上がりながら、柄を握る手の角度を深める。切り込むのは先生、向こうの攻撃を防ぐのは私。これまで徹底していたその役割分担を、私は突如として放棄した。
うねり広がる奴の花や蔓のひとつひとつを、細かく正確な剣で率先的に斬り潰していく。

《アレ?攻守交代?》

不思議そうな声は二重にぶれて、いつまで経っても馴染めない不気味さが漂う。聞く耳など持たず攻撃に転じ集中する私を、牡丹は無情に嘲笑った。

《でも、君ジャ届かナイ》

斬って。斬って。立ちはだかる何もかもを斬り続けて。ふとした拍子に、私の肩をぞわりとした感覚が走る。
血は出ていなかった。しかし、装束と肌の薄皮が確かに裂け、そこから細かな粒子の侵入を許す。
私の内側から、大輪の花が噴き出した。

!」

先生の声が遠い。自分の身体から得体の知れないものが飛び出す様は、想像していたよりも遥かに重い嫌悪感を伴った。

「嘘っ・・・さん・・・!」
さん!!」

佐切の悲鳴に近い嘆きと、典坐の緊迫した叫びが、私の窮地を色濃いものへと彩っていく。
体を食い破る様に咲くのに、血は噴き零れない。人間の体組織とは似ても似つかない、侵略の為だけの植物。気味の悪過ぎる衝撃に、少しでも気を抜けば意識ごと持っていかれそうになる。私は力の限り奥歯を噛み締めた。

《っフフフフフ・・・!!君ハどんナ花に、なるノかなァ》
「ならないっつーの・・・!」

私は迷うことなく自分の肩口に刃を突き立てた。
鋭い痛み、焼け付く様な熱さ、心臓の鼓動が身体中に響いて緊急事態を告げる。飛び散る鮮血と共に、私の中から湧き出た花はぽとりと力尽きた。

《咲イタ傍から刈るノ?自分を痛メ付けて?》

痛い。熱い。気持ちが悪い。でも、全て覚悟の上で負った傷だ。肩から血を流し刀を構え直す私に対し、牡丹は心底理解に苦しむといった表情を見せた。

《人間っテ変わってるナぁ》
「何とでもっ・・・言え!」

引き続き振り被った先から、徐々に被弾の数が増えていく。私はその度、咲いたばかりの花を自らの血肉をもって刈り取っていった。

これは作戦の内だ。先生が正史でやってのけた様に、掠り傷で咲いた花を片っ端から切り捨てることで、負傷と引き換えに奴の隙を炙り出す。
本命は先生と佐切だ。私がこうして血を流す度に、牡丹の注意が弱者への愉悦でこちらに寄ってきているのを肌で感じる。
一度咲いた花も素早く刈り取れることをわかっていた私なら。己の体に刃を突き付けることに、覚悟を決める時間のあった私なら。もうこれ以上は一度たりとも失敗出来ない、後の無い私なら。きっと、出来る。痛みを感じる内はまだ感覚が正常である証だ。私は新たに足の表面を切り捨て、情けない呻き声を飲み込んだ。

不意に脳裏を過ぎったのは、いがみの慶雲の最期だった。
人面蝶に刺されたことで、自慢の鎧の下から花に侵食されていった荒法師。彼もまた己から噴き出す花を次々刈り取り、次第に半狂乱になっていった。
正史と異なる死に際は、まさか私の未来を写し取ったものだったのだろうか。否、敵は依然として目の前に居る。まだ、倒れる訳にはいかない。
来るなら来い。そうして気力で牡丹を睨みつけた、次の瞬間。私の視界に、突如として大きな影が立ち塞がった。

すらりとした背中、見知った気配、安心する匂い。私が心から大切に思う、大好きなひと。
目を見開いた時には遅かった。私の身代わりに受けたしなる蔦の一撃は一刀で防ぎ切れるものじゃなく、先生の左腕から花が噴き出す。

「・・・っ先生!!」

先生がそれ以上の侵食を許す筈も無く、間髪入れずに切り込まれた花が地に落ちる。当然のことながら、血の滴りと共に。私はそれを呆然と見つめることしか出来ない。

「先生!!」
「士遠殿っ!」

典坐も佐切も自分たちの攻防で手一杯だ。助けに入れる筈も無い。先生に傷を負わせたくなくて、先生を助けたくて、私が今此処にいるのに。悪夢の様な光景を前に、口許がわなわなと震えだす。

「先生っ・・・先生、血が」

自分のことは最早どうでも良かった。先生の血が流れることに、耐えられない私がいる。
焦りに狼狽える私は、迫り来る横槍に気付けなかった。またも庇われたことで、先生の胴から花が零れて来る。すぐさま、新しい傷と流血が待ち受けていた。
絶望でしかなかった。うまく息が出来ない。こんな筈じゃなかった。こんなつもりで立案した作戦では、なかった筈なのに。それでも、先生は氣を乱すことなく私を諭す。

、冷静に」
「っ・・・!」
「中道を保つんだ」

花を刈り取った箇所から血を流す、私と同じ傷を負いながら、先生が中道を保てと言う。その厳しくも滲み出る優しさを隠せない問い掛けに、私は一時恐れと嘆きを棚上げする活力を得た。
ここで心を乱せば全てが無駄になる。こうなった以上、一秒でも早く決着をつけなければならない。上空から襲い来る触手の一撃を、私は素早く切り払った。

「・・・はい、先生」

私たちは再び牡丹の蔦に沿って走り始めた。血がかなり流れている。それでも視界が鮮明なのは持ち直した気力か、それとも正しく巡る氣がそうさせるのか。私は先生の盾となりながらも可能な限り攻撃をこの身に受け続けた。
花が開き、血飛沫と共に千切れ飛んでいく。それは先生も同じだった様で、私たちが通った跡は血痕で惨状を極めた。

《っアハハハハ!!二人ともすゴいスごイ》

愉快そうに笑うその声が、血塗れで刀を振るい続ける私の張り詰めた琴線を揺さぶる。好きなだけ嘲れば良い。もっと、もっと私の惨状に夢中になれ。
大きく跳躍すると、私を迎え入れるように開いた網目状の蔓が、一斉に棘の牙を向く。旋回しながらの剣舞で防ぎ切れる物量ではなく、案の定膝から下に剣山の様な痛みと花の洪水が押し寄せた。例外は無い。片っ端からすべて切り捨てるまでだ。

《何時まデもつカな?》

ニタニタと笑うその声も、優越感に細められたその目も。すべて、血だるまの私を蔑みたいが為にこちらへ集中している。
苦しくて、痛くて、熱くて。そして、この上無い達成感を感じる。

「・・・計画通り、ってやつ」

耐えきれず、我ながら悪い笑みが顔を出した。
危機を察知してももう遅い。典坐のアシストで佐切が奴の脊柱を大きく切り降ろしたことで、その巨体は仰け反る様に弱点を曝け出す。
天仙の生命の根源が詰まっているであろう胚珠。その正面で、胴に乗り上げた先生が静かに刀を構えていた。

静謐の中、幾重にも連なる光の軌道で先生がそれを切り伏せたことを悟る。溢れ返る血飛沫と共に牡丹の身体が崩れ始めたのは、間もなくのことだった。

「・・・これが生命の最果てかぁ」

消えゆく最中の声はぶれておらず、人型の頃を思わせた。自らの最期だというのに、どこか他人事のような、悟り切ったような。それでいてどこか皮肉さの抜けない、静かな遺言だった。

「ありがとう。気が遠くなるような、長い旅だったよ」

私の霞み始めた視界の中で、花びらが舞う様に消えゆく牡丹の口元が言葉にならない三文字を―――蓮の名を刻む。

殺し合いの果てには相応しくないような穏やかさをもって、戦いは終結した。牡丹の崩れ落ちた体がそのまま一面を覆う花畑に溶け込み、やがて静寂が訪れた。
終わった。吐息と共に身体の力が抜け、緩衝を挟むことも出来ず真正面に倒れ込む、その寸前。

・・・!」

飛び降りて来た先生が、一番に抱き留めてくれる。血を流し過ぎて感覚が虚ろになった中でも、胸の奥深くに温かさが灯った。

さん、士遠殿・・・!大変、凄い出血・・・!」
「二人とも大丈夫っすか?!」
「典坐、止血用の薬と包帯をヌルガイに持たせてある」
「すぐ貰って準備します!」
「私も手伝います・・・!」

典坐と佐切が慌ただしく遠ざかっていく気配を感じながら、私はされるがままに先生の腕の中に身を預けた。
先生の心臓の音が聞こえる。私も、自分の鼓動がわかる。私たち、生きてる。それが今、途方も無く嬉しい。

でも、出来ることなら先生を傷つけたくなかった。私があえて負傷の役割を担うことで牡丹の隙を誘発し、そこを先生か佐切が狙う。先生にだけそれを伝えたのは、周りの動揺で奴の油断を引き出すため。そして、先生にだけは安心して攻撃に専念して欲しい意味合いもあったというのに。

「・・・どうして」
「すまない。計画外のことをして、不安な思いをさせたね」

私の身体をこれ以上傷付けまいと、そっと抱き寄せてくれる腕は優しい。重い溜息が先生の苦しい胸中を物語る様で、何故か私の方が鼻の奥につんとしたものを感じ始める。

「例え消耗しても、典坐の相生で君の回復を助けられる。頭では理解出来ていたが・・・それでも、先程の光景が酷く堪えてな」

鬼尸解前、先生が強引に私の視界を手で隠したことを思い起こす。あの時、このひとにどんな顔をさせてしまったのか。私は今になり、自分の浅はかさを思い知る。

「今度こそ文字通り、身を切り血を流す作戦だ。更にが傷を負う局面を前に・・・君ひとりに痛みを課すことは、どうしても出来なかった。私の意地の様なものだよ」

先生がどんなひとか、わかっていた筈なのに。私の為にどんなに心を砕いてくれるか、何度も痛感している筈だったのに。ほんの僅か、先生が私を抱き締める力が増す。

「約束しただろう。ひとりで抱えさせはしないと」

何もかも、二人で分けて進もうと先生は言ってくれた。私の痛みも、傷さえも、一人で負わせてはくれない。困ったような優しい声が耳元に沁みて、私の涙腺を刺激する。張り詰めていた糸が切れたのか、もう込み上げるものを飲み込む気力は残っていなかった。静かに肩を震わせ鼻を啜る私を、先生は一層大事に包み込んでくれる。瞼に滲み始めたものが熱い。

「本当に、よく成し遂げたね」
「っ・・・せん、せ」

言葉が見つからない。ありがとうも、ごめんなさいも、一言ではとても足りない。こんなにも私を思い大切に肩を並べてくれる先生に対して、一体何を返せばいいのか見当もつかない。ただ、私はこの地獄の様な島においても幸せ者で。この世界で先生に巡り逢えた私は、きっとこの世の誰より幸運で。そうしてほろほろと零れ落ちる熱いものをそのままに、私だけに用意された温かな安全地帯に身を委ねる最中。不意に、私は大事なことを思い出す。

「っ・・・仙汰」
「大丈夫!」

殆ど私の声に被さる即答は、年下の兄弟子の声で返ってきた。顔を上げると、滑り込む様に駆け付けた典坐とヌルガイの笑顔が私を安心させてくれる。

「仙汰くん、ちゃんと無事っすよ!ヌルガイさんが守り切りましたから!」
「安心してくれ!かすり傷ひとつ無いぞ!」
「典坐・・・ヌルガイ・・・ありがとう」

ただでさえ酷い顔でしゃくり上げていた中の吉報に、声がみっともなく震える。
怖かった。一度助けられてもまた喪ったらと思うと、怖くて仕方が無かった。でも、私の太陽は小さな少女と一緒に、宣言した通りの成果を上げてくれた。仙汰は無事で、典坐もこうして元気な笑顔を見せてくれる。この島に上陸して以来、初めての曇りなき勝利だった。

「今最も重傷なのは君だ、すぐに止血するから少し休みなさい」
「先生もなかなかっすよ。後は自分たちに任せて二人とも寝てください」
「そうだよ!典坐、急いで血を止めよう。から行くぞ、押さえてくれ」
「あっ・・・私も手伝います!」
「有難ぇっす佐切さん」

人の気配が増えると共に、眠気なのか疲れなのか、意識が徐々に遠のいていく。

「僕も手伝わせてください・・・!」

遠くから聞こえて来た仙汰の声に、心の底から安堵する。ああ、良かった。私は達成感に微笑んだまま、暫しの眠りに落ちた。