羽織は今朝から脱いで、斜め掛けの荷に押し込めた。激戦が確実に待ち受ける今日、昨夜血を洗い流したばかりのそれを汚したくないという、生きるか死ぬかの修羅場には不釣り合いで細やかな抵抗だった。夜明け前、火の傍で乾いた羽織を表裏反転のままそっと抱き締めて祈った。どうか三日目の今日が、得るものだけで満ちた一日になりますように。

風を切って走る。身体を押し出す様に、地面を足で強く蹴り出す様に、前へ、前へ、ひた走る。
道中で数多くの竈神を切り伏せ、水と食料は少量ずつ定期的に摂取し、計画は可能な限り練った。これまでを思えば、どれだけ備えたところで不測の事態は覚悟しなければならなかったけれど、それでも私は立ち止まれない。衛善さんと源嗣を失った今、一度救えた典坐はどんなことをしても守る。そして今日、仙汰を必ず救う。出来る筈だ。私は今、ひとりじゃない。

霧深く足元はごく細い参道を、氣を読める私が先導、先生が最後尾について四人縦一列に駆け抜ける。複数の足跡を視認し、明確に戦闘中の空気のうねりを感知し、祈るような思いで突き進み辿り着いた蓬莱の門。その向こう側に漸く探し求めた姿を見つけ、私はいち早く刀を抜いた。

――試一刀流・村時雨――

空中からこちらを見下ろす天仙、不空就君・牡丹。宙に足場を作るなんて反則技と併用した氣の雨を、全弾逃さず叩き斬る。爆風に手を翳しながら、私はその場の頭数が正史通りであることを確認した。佐切、仙汰、杠。三人とも苦戦と疲労の影は濃いものの両足で立っているし、木人さんは既に首だけになって尚意識もある。

さん?!」
「士遠殿、典坐君も・・・!!」
「良かった!皆さん無事っすね!」

間に合った。まずはひとつ、最低限の壁を越えられたことで僅かな安堵を覚えながら私は呼吸を整える。四人で盾になる様に佐切たちの前に立ち、注意深く刀を構え直した。

「おや、後続が四人もいたんだね。すごいなぁ、今回の上陸者たちはまるで新種の生き物みたいだ」

牡丹はある程度戦闘で消耗した形跡を残しつつも鬼尸解前だ。興味深そうな微笑みは確かに柔和だけれど、人間を単なる研究材料としか見ていないことを私は知っている。刃を急所に突き付けられたような緊張感と、敗北すれば一体どんな解体のされ方をするかという悪寒が鳩尾をぞわりと刺激した。
相手が天仙である以上、不利は覚悟の上だ。でも、朱槿と一対一で向き合った時とは違った心強さで、私自身の氣が整っていることもはっきりとわかる。すぐ後ろで狼狽える仲間を振り返り、早口に告げた。

「佐切、仙汰も。聞いて」

その間悠長に待ってくれる筈も無く、牡丹が遊ぶ様に振りかぶった手の甲から、空気が割れる様な一閃が放たれた。先生と典坐が相殺の斬撃を放ち、何とかギリギリで持ち堪える。体感では朱槿より威力が大きい様に思うのは、私が牡丹と同属性で利の無い状況だからだろうか。何にしても時間が無い。私は土煙に巻かれるままに、目の前で真剣な顔をして待つ二人へと懇願した。

「佐切は息を整えて諸々温存して。次の一手で力を借りたい」
「承知しました」
「仙汰は交戦しないで。奴から極力距離を置きつつ、目の届く範囲にいて」
「えっ・・・?」

仙汰の眼鏡の奥で、その瞳が困惑に曇る。決して好戦的な性格ではないとしても、説明も無しに自分だけ戦力外通告を受ければ当然の反応だろう。歯がゆさに眉を寄せる私の眼前に、横からひらひらと手を振りながら入り込む影があった。

「はいはーい、男前のおねーさん。私もか弱い女子だから戦いたくないなー?つか、休憩したいんだけどなー?」
「いいよ。但し仙汰から離れないで」
「えー・・・まぁいっか。了解」

猫を被った愛想笑いから、唇を窄める不満顔まで、どこをどう切り取っても自由奔放な杠に思わず苦笑することで、私は良い意味で冷静に引き戻される。時間も無い。余裕も無い。為すべきことは決まり切っていた。

「ごめん、仙汰。納得いかないだろうけど、後で必ず説明するから・・・」
「わかりました」

静かな声だった。私を見つめ返す仙汰の瞳は普段通り優しくて、和やかで。

さんを信じます。ご武運を」
「・・・ありがとう」

彼を決して死なせない。その思いが、より強固なものへと編み直された。これまで戦っていた三人を後方へ下げ、私たち四人で前線を築く。

「千客万来、賑やかなのは良いことだけど・・・」

牡丹は音も無く、静かに地へと降り立った。ゆらゆらと彷徨った指先が、不意に私を指しぴたりと止まる。

「変わった氣だね。まずは君から調べてみようかな」

ほんの一瞬の出来事だった。予備動作など一切無く、その腕が蔦の様にうねりを上げ、凄まじい速度で私を捕縛しようと伸び、そして―――

「許すと思ったか」

私に届く手前で、隣から鋭く切り伏せられた。二歩前に踏み出した先生の剣は淀みなく、敵が突如形状を変えたことによる焦りや動揺の類が一切感じられない。ただ、守ってくれた大きな背中に、限り無く中道に近い怒りを垣間見る。私は、幸せな弟子だ。こんな緊迫した状況下、心からそう思ってしまう。

「その手には覚えがある。遅れは取らんぞ」
「ああ、成程。朱槿を鬼尸解手前まで追い詰めたのは君たちか。しかも、君も僕にとって毒・・・っふふ、退屈しないなぁ」

愉快そうに細められる瞳は、その実芯から冷え切っていて。佐切と先生の二人が己の相克であることを悟って尚、窮地すら暇潰しの一環であるかのような退廃的な空気を纏っている。得体の知れなさの度合いならば、まだ憤りを正直に出す朱槿の方がマシだった。でも、退く理由には程遠い。

「今回の人間たちは皆ひと味違うね。久しぶりに楽しい実験が出来そうで嬉しいよ」

まるで踊るように両手を広げてくるりと回り、姿が消えたと思えば頭上に現れたものだから、私たちは二方向に別れ飛び退く。

「典坐、ヌルガイ。作戦通りに」
「っす!」
「おっしゃー!」

先生の声掛けに対し意気揚々と反応が返ってきた。二人してこちらに力強く頷き、奴を引き付けるかの様に一方向へと駆け出す。合流と戦闘開始までは、今のところ想定通りだ。勝負は、ここから。そうして息を細く吐いたその時。



私の肩に置かれた手は、普段通り優しい。私に向けられた笑顔は、普段通り心強い。ほんの数秒、私の為だけに用意された時間で、先生は私の全部を最良の形に整えてくれた。

「行こうか」
「・・・はい!」



* * *



ここに辿り着くまでの丸一日をかけ、私は三人に対し、持ち得る天仙の情報全てを開示していた。氣を操る術に並外れて長けた、仙道を往く者。雌雄同体、陰陽の循環を単独でも可能にする者。だが完全な不死者ではなく、五行に属した弱点も必ず有しており、これから会敵する牡丹は土属性―――先生と佐切、木属性の二人が急所を狙えば滅すことも可能な存在であるということ。

まずは第一形態、ひとの姿で現れる。急所の丹田を先生の刃で破壊することが次の段階へ進む必須条件だ。身のこなし、体術、方術、身体増強、そして欠損再生。全てにおいて人間を凌駕する天仙を追い詰め、弱点を晒させるに至ることは決して容易ではない。でも、一対多数の状況ならば。連携と氣の知識、相性が噛み合えば、或いは。先生と二人、二対一で競った朱槿戦を思い起こし、私たちは四対一の戦術を一日かけて徹底的に練ってきた。

「典坐、足元!」
「了解っす!」

空中で振り被った状態から器用に膝を抱え込んだ典坐の、空いた下方へ私の刀を振り下ろす。奇襲を狙った牡丹の顔にこそ掠りはしなかったが、後退させることには一役買えた様だった。
対牡丹における私たちの真打ちは先生。基本的には私と典坐で前衛を張り隙を誘い、ヌルガイには後方及び不測の事態を警戒して貰う。とはいえ、全身飛び道具の様な天仙を相手にした戦場では、方向感覚すら危うくなる場面も多々想定される。大事なことは冷静であり続けること。臨機応変に四人の配置を入れ替えながら牡丹を追い詰める、その考えを決して失わないこと。

「ヌルガイ」

突如背後を取られた折、誘いに乗って追撃しようとしたヌルガイの肩を掴み引き止める。水属性で氣の練度が低いヌルガイは、先生とは逆に牡丹と最も相性が悪い。

「もう少し下がって」
「あっ・・・ごめん、ありがと」
「大丈夫。落ち着いて行こう」

典坐がすかさず前に出て時間を稼ぐ間に、ヌルガイを後方に戻す。落ち着いて、冷静に。こうして四人で連携を崩さなければ、勝機は必ず訪れる。
―――朱槿戦に割り込んだ桂花の様に、余程のイレギュラーさえ無ければ。瞬間過ぎってしまった考えても仕方のない陰鬱に小さく頭を振る。

「問題無いか」
「はい、先生」
「はい、センセイ!」

私たちは大丈夫。四人揃っていれば、きっと大丈夫。ひと息吸って大地を蹴り込み、典坐と入れ替わりに奴の腕にひと太刀を浴びせた。当然の様に裂けた傷口を瞬時に再生させながらも、私たちを眺める牡丹の表情に若干の変化が現れ始めた。

「へえ、君たち・・・」

それは感心か、驚きか。いずれにせよ、危機感とは程遠い。未だ追い込みが足りないということだ。

「典坐、ついてきて」
「おっす!」

まずは第一撃、私が身を低く屈めた抜刀で奴の喉元を鋭く切り上げる。仰け反る形で避けた牡丹の目を狙い、典坐の第二撃が振り下ろされた。たちまち再生するのだから目的は視覚の妨害ではないし、彼らが眼球など無くともこちらを見通せることもわかっている。ただ、ほんの一瞬の隙を突くことさえ出来れば良い。私が刀を構え直し奴の頭を串刺しにすると同時に、今度は典坐が太腿の筋肉を殴る様に叩き付ける。二人がかりの力技で牡丹の胴を剥き出しに出来た、次の瞬間。

「二人共引け!」
「危ない!」

先生とヌルガイの緊迫した声に反応し、私と典坐は同時に飛び退く。私たちの居た空間に、鋭利な棘だらけの触手が突き刺さった。

「残念。惜しかったね」

牡丹の腕が大きな弧を描き空を掻く。次の瞬間飛んで来たのは氣の遠当てではなく、周囲を取り囲む金の像そのものだった。普通に考えて容易く投げ付けられる質量では無いだろう、どこまでも仙道は反則技ばかりだ。巨大な物体が中央に構える先生目掛けて飛来し、堪らず四散する私たちをひとりずつ仕留める狙いがあったのだろうけれど―――甘い。典坐の素早い斬り込みで像は程良い大きさに砕けた。

さん!使って下さい!」
「ありがと典坐!」

宙で身を翻すと同時に、ヌルガイがこちらに向かって手を伸ばす。身体の小ささからは想像出来ないような力を助走に貰い、私の身体はぶんと勢いをつけて更に飛躍した。

天仙達の様に、氣を踏み台に何も無い場所に浮かぶことは出来ない。でも、物体があるなら話は別だ。典坐が割ってくれたひとつに向けて、先生が対角方面から同質量の破片を剣圧で叩き付ける。重量のある残骸同士がぶつかり合い、際どい均衡が生まれたその一瞬、私は二秒も保たないであろう一度限りの特別な足場を得た。
三次元の常識に囚われない戦法は、この島に上陸する以前から私の根幹にある。今は遠いあの日に、分道場で威鈴と対峙した時と同じだ。踏み込める質量と安定感があるのなら、地面も壁も、浮遊物だって同じこと。中道を保ち、居合の構えは正確に。私は氣を足と刀の二極に分け、渾身の力で宙に浮いた残骸の塊から蹴り飛んだ。
今度こそ逃さない。意表を突いた軌道で懐に飛び込んだ私に対し瞬間目を丸くした牡丹は、しかし瞬きひとつの末に苦笑を浮かべ、振り抜いた刀を呆気なく素手で掴み止めた。

「へえ、結構良い鋼を使ってるんだね。人間のこういう細かい技巧って興味深いよ。僕は嫌いじゃないなぁ」
「っ・・・!」

刃を立て掌に押し込んだところで、天仙にとっては他愛も無い小動物に噛まれた程度の痛手なのだろう。この距離で武器を抑え込まれた時点で普通なら詰みだ。それでも退こうとしない私に呆れた様な顔をして、遂に牡丹は私の鳩尾に重い一撃を直接叩き込んだ。

ほんの一秒にも満たない静寂の末、身体中を抉る様な衝撃波が駆け抜けた。これまで経験したことが無い程大きな耳鳴りがして、後方から私の名前を叫ぶのが誰か判別がつかない。内臓を強引に突き動かされたような不快感、そして強烈な吐き気。
それでも私は、足の踏ん張りを解かなかった。こいつを離さない。
私の役割は、隙を作ることだ。唖然と目を丸くする牡丹の手を刀に食い込ませたまま高く切り上げる。

「先生っ!」

胴が空いた絶好の機会を、このひとは逃さなかった。私の脇を抜ける軌道で、木属性の氣を纏った鋭い斬撃が奴の丹田を斜めに斬り捨てる。激しい血飛沫が上がり、牡丹の口から気泡の様な音と共に鮮血が溢れ、そして敵は完全に沈黙した。

まずは、第一関門クリアだ。なかなかの疲労感だけれど、まだ終わりじゃない。私は目眩を耐えながら懸命に呼吸を繰り返す。内臓を損傷した訳じゃない。正常に氣を巡らせれば問題無く整う筈だ。冷静に。落ち着いて。そう己に厳命する最中、肩を抱かれる温かな感覚にはっとする。

、膝をついて目を閉じなさい」

右腕で私の肩を抱き、左手で私の視界を物理的に遮る。先生は妙に頑なだったけれど、今それに歯向かう理由は無い。言われた通りに小さくなると、一層優しく包みこまれる形で心身を支えられ、私は思わず安堵の息を溢しながら口許を緩めてしまう。勿論、これから最終形態に移るだろう奴への警戒だけは解かない。それも読み解いた上で、先生が私を諭す様にそっと囁いた。

「奴は我々が注視している。落ち着いて回復させるんだ」
「・・・はは。注“視”」
「冗談ではなかったのだが・・・」

この局面だからこそ、この日常的なやりとりを必要としていた私がいた様な気がして。小さく笑いながら、一層丁寧に深呼吸を繰り返す。その刹那。

「典坐」
「押忍!」

先生の呼びかけで駆け付けた、年下の兄弟子。典坐は先生と同じように傍に屈みこむなり、私の背中を懸命に摩り始めた。気持ちは嬉しいのだけれど、一体何だろう。

「大丈夫っすか?これで合ってるっすか?」
「お前が動揺で氣を乱してどうする。あと、摩る必要は無い。触れればそれで良い」
「すんません、そうっすよね・・・!」

ぴたりと静止した、その熱い掌から。温かな何かが背を伝って全身に流れ込むのを感じ、思わず瞠目した。流れ込むだけじゃない。私の丹田を経由して、巡る。傷付いた筋肉や細胞が、急速に息を吹き返す。
相生の氣。典坐の属性は火だ、確かに私にとって相性が良い。消耗した箇所すべてに順々に明るい火が灯っていくように、体力が戻っていくのをはっきりと感じる。
でも、こんなにも効率良く回復させられるものだろうか。無意識のヌルガイが先生や佐切に抱き着いた時の効力はほんの僅かだった。先生ならともかく、少なくとも昨日まで氣の概念すら知らなかった筈の典坐が、何故。私の体力が戻ったことを悟ったのか、先生の手による目隠しが外れた。視界はもうぶれていない。

「すごい。目眩、治ったよ。直撃くらったところも、もう痛くない」
「本当っすか?!良かった・・・!」
「ありがとう典坐・・・でも、どうして」
「感謝するなら先生っすよ。夜の見張り番の間ずっと、下手くそな自分に根気強く教えてくれましたから」

思いもよらなかったことを知らされ、目が丸くなる。

「いざって時土属性のさんを回復させられるのは、火属性の自分しかいないって」

おずおずと顔を上げたその先で、先生は少し眉を下げながらも柔らかく微笑んで私を受け止めてくれる。典坐に相生の氣を理解習得させることで私の消耗を補おうだなんて。どこまでこのひとは、思慮深く守ろうとしてくれているのだろう。

「・・・先生」
「礼には及ばないよ。急拵えだったが、少しでも君の助けになれたなら良かった。立てるかい」
「はい」

私の両肩を支えながら立たせてくれる手は途方も無く優しい。この支えに報いる為にも、牡丹を本当の意味で撃破し、仙汰を救う。典坐も守る。為すべきを為せ。衛善さんの声が、心の奥で聞こえた様な気がした。

「まずは第一段階だな。よく頑張ってくれた」
「勝負はここからっすね」

崩れ落ちた牡丹に向けて、注意深く刀を構え続けるヌルガイの肩に手を置いた。ありがとうの意味を込めて頷くと、白い歯を見せた笑顔が返って来る。小さな身体を一歩下がらせ、私が前に出た。続いて、先生と典坐も両隣から進み出て剣を抜く。

さん・・・!」
「佐切」

長らく戦況を見守っていた佐切が駆けてくる。そこに私は待ったをかけた。

「まだ、終わってない」

牡丹の身体から伸びて繋がるくたりとした蕾が、ゆっくりと頭を上げる様に動きを見せたその瞬間、私はそれを細かく切り刻んだ。正史で杠を狙い、庇った仙汰を花に変えた忌むべき塊を、欠片も残さず叩き潰す。

「隙を狙ってるんだろうけど、させないから」

仙汰は遠避けた。そして、奴が鬼尸解に移行するより早く回復も叶った。それでも安堵出来ない状況だからこそ、徹底的に叩く。誰も殺させない。誰も花になんかさせない。今度こそ、誰も欠かさず未来を変える。

隙無く構えを解かない私たちを前に、伏した牡丹の口元から不気味な笑い声が漏れたかと思えば辺り一面に木霊し、地面が揺れ始める。決死の総力戦は、大詰めを迎えた。