「・・・すごい」

呆然とした呟きが零れ落ちる。
服ごとずぶ濡れで勇ましく刀を構えるヌルガイの前で、一体の竈神が真っ二つに割れ息絶えた。肌襦袢一枚だった私もまた刀は手放していなかったものの、これは完全に出る幕無しだ。撃退の気配を聞きつけたのか、少し距離を置いた茂みがガサガサと音を立てた。

!問題無いか!」

もうじき日が完全に沈む。森の片隅、ひっそりとした小さな水辺で私とヌルガイが心許ない姿でいるのは、身体の汚れを落とし心身を回復に持って行く為であり。先生と典坐が姿も現さずそれ以上近付いて来ないのは、気遣いであると同時に私たちの腕を信用してくれている証でもあった。

「大丈夫、ヌルガイが綺麗に片づけてくれました!」
「本当っすか?!やりましたねヌルガイさん!」
「へへへ・・・」

照れて髪を掻くヌルガイは褒められたことに嬉しさを隠せない様子で、私もつられて和んでしまう。それは距離を置いたままこちらに気を配る先生も同じ様だった。

「であれば、私たちは待機場所に戻るよ。何かあればすぐに声を上げてくれ」
「はい、先生」
「はい、センセイ」

丸被りした台詞は、彼女もまたこの輪に慣れて来たことの現れだ。私とヌルガイは顔を見合わせるなり、肩を竦めて小さく笑い合った。

「オレ、少しは強くなれてるかな」
「いやいや、少しどころじゃないよ今のは」

浜の洞窟から今に至るまで、私たちは主に私の知る未来について話し、交代で仮眠と食事を摂り、そして森に生息する異形や虫を斬ることでこの島についての知見を深めていた。ヌルガイが我流の剣を先生に矯正されたのは更にその隙間、ほんの数時間のことだ。こんな急成長はどう考えても規格外が過ぎる。

「この短時間でここまで太刀筋が整うなんて・・・わかってはいたけど、脅威の運動神経と飲み込みの早さ。すごい、すごいよ本当・・・」
「へへへ・・・褒め過ぎだよ。センセイの教え方が上手だったからさ」

典坐のいる世界線でも、先生からヌルガイに対する向き合い方は正史と変わらなかった。
時間が限られている中で難解な氣の修行はつけず、剣筋を基礎から正す。立場上、師にはなり得ないので学びたいなら勝手に学べと言いながら、懇切丁寧にひとつひとつの所作を実地訓練で正道に導く。先生の指導力とヌルガイの身体能力が噛み合った結果なのだろう。今こうして短期間で急成長を遂げる少女を前に、私は感慨深い思いに包まれた。

「けど、全然時間が足りてないんだもんな。オレ、もっと頑張るよ」
「・・・うん、一緒に頑張ろう」

こんな小さな身で、褒め言葉に有頂天になることも無く前を見据えるヌルガイは強い子だ。
余裕はほぼ無い中、果たして汗を流すことは必要だろうかと最初こそ疑問に思ったものだけれど。こうして濡らした布で身体を拭くだけでも随分とすっきりするものだし、何より二人で話せたことによって気持ちが少し上向いた。提案してくれた先生に深く感謝し、身綺麗になったその頃合いに。

「なあ、

初めて、ヌルガイが私の名を呼んだ。
典坐が目を覚まして以来、窮地を救ったこともあり比較的心を開いてくれていた様に思う少女からの、初めての呼びかけ。自分でも驚くほどに動揺した私は、必要以上に目を丸くしてしまう。

「ごめん。センセイと典坐がそう呼ぶと良いって教えてくれたけど・・・ダメだったか?」

ああ、私が寝ている間にそんなことを話してくれていたのかと嬉しく思いながらも、変に気を遣わせてしまう自分が嫌になる。
本当なら、何回でも呼んで欲しいのに。推しのひとりに初めて名前を呼ばれたと、小躍りする展開の筈なのに。

「全然ダメじゃないよ。嬉しくて、つい」
「・・・そっか」

私は曖昧に笑って誤魔化した。きっと先生と典坐も、私を元気付けようとヌルガイに名前を促してくれたのだろう。
心の傷は癒えない。でも、それも込みで進もうと決めた。ひとりじゃないと、何より心強い支えを得た。二人の仲間を失った私は、以前の私とまるで同じとは呼べないけれど、後悔を抱えながらも前を向ける。
そっと頭に手を伸ばせば、ヌルガイは大人しくその黒髪を撫でさせてくれた。自然と口元が綻ぶ。私の反応に安堵したのか、ヌルガイは顔を雑に拭くなり、水気を絞ったばかりの服を肩にかけたまま私の隣に膝を抱えた。夕風が私たちの間を優しく抜ける。

「オレ、まだが話してくれたこと、いまいちわかってなくてさ。オレのこと前から知ってて、すげー好きでいてくれてるってのが・・・嬉しいけど、まだしっくり来ない」
「普通はすぐ理解出来ないよ、こんなめちゃくちゃな話」

この島で起きる惨劇を知っていた。上意である以上避けられない問題ならば、共に戦うことで結果を良くしようとした。その為に無理を言って山田家に入り込み、三年間修行に明け暮れた。よって私はあなたを知っていたし、ずっと好きだった、だなんて、到底すんなりと飲み込める話では無い筈だ。
出会い頭に二つ返事で受け入れてくれた、先生の理解力が凄まじ過ぎるのだ。去し日の邂逅は人生最大の幸運としか呼べない。そうして苦笑を浮かべる私の隣で、ヌルガイが空を見上げる。

「でも、がセンセイに弟子入りしてなかったら・・・今頃典坐は、ここにいなかったかもしれないんだよな」

分岐した今の世界線で、本来起きていた筈の悲劇がヌルガイの口から語られる。私が事情を開示した結果と言えばそうなのだけれど、どうしたって落ち着かない気持ちにはなる。

「典坐は、オレにもう一度生きたいって思わせてくれた大事な奴だから・・・もし、あの時・・・」

もしも、あの時。
膝から崩れ落ちた血塗れの典坐が、あのまま目覚めなかったら。いっとき呼吸を忘れるほどに感じた絶望は、忘れられない。身震いする恐怖は同じだったのだろう、ヌルガイが乾いた声で自嘲した。

「はは。考えるだけで手が震えちゃうよ。が好きになってくれたオレは、どんな顔して典坐を見送ったんだろうな」

私が好きになった、ヌルガイ。正史でこの子と先生が、どんな悲痛な面持ちで典坐の死に向き合ったのか。何度も何度も読み返しては涙した場面がフラッシュバックする。
典坐の正義と自己犠牲の精神は尊いものとわかっていながら、二人を置いて逝ったことだけはどうしても納得がいかなくて。生きる意志をもう一度燃やしてくれた大好きなひと。それを目の前で喪ったヌルガイの涙も、先生の嘆きも、今更再現を許す訳にはいかない。
困ったような苦笑で天を仰ぐ小さな身体を、強く横から抱き寄せた。

「大丈夫」

これ以上運命に翻弄されてたまるものか。一度救えた典坐の命を、決して奪わせはしない。少なくともこの世界線では、ヌルガイにあんな悲しい涙は流させない。先生に、もう二度と弟子を失わせない。鉄心さんの墓前で誓ったことを幾度も刻み直し、大人しくされるがままのヌルガイに頬を擦り付けた。

「そんな未来は私が絶対に来させないよ。典坐は死なせない。先生も、勿論ヌルガイも。三人揃ってこの島から生還させる為に、私がここにいるんだから」
「・・・
「大丈夫。私、三人の笑顔を守る為なら何だって出来るから」

何の為にここまで来たか。もう絶対に失敗出来ないからこそ、私の原動力たる三人の形は崩させまいと強く願う、その刹那。

「・・・どうして三人なんだ?」

腕の中から上がった不思議そうな声に、私は固まった。

は、どうしてそこに自分を入れないんだ?」
「え?いや・・・」

私がオタクで、君たち三人が特別な推しだからで。という独特な理論は通用しない。私の異質ぶりに慣れていないヌルガイには、特に伝わりにくいだろう。
先生の気遣いと優しさによって、私は外から来た読者じゃなく、この世界の登場人物だと思えるようにはなった。山田家の一員だと、浅ェ門の名を冠する者であると、周りの皆が今の私を確かな存在にしてくれた。
でも、やはり先生・典坐・ヌルガイの三人は別格で。私の中で、どんなものも追随を許さない一等星で。典坐生存の道が見え始めて三人揃った今は一層そう感じるからこそ、無意識に作っていた薄い膜を、この無垢な少女に見破られた気がした。

「会ったばかりだけど、センセイとは良い奴だと思うし、典坐がふたりをすげー信用してるのも、はっきりわかるんだ」

ヌルガイが典坐を介して先生との関係性を築くその傍らに、当然のように私の椅子がある。この子の目を通して見た典坐の信頼の向かう先に、先生だけじゃなく私がいる。嬉しいなんて言葉じゃ追いつかないような奇跡を、今大好きな少女の声で聞かされている。こんな厳しい状況下、強くて確かな炎を分けて貰えたような心地がした。

「センセイとが食糧を探しに行った時、三人揃えば絶対大丈夫だから安心してくれって、典坐が言ってた。その三人って、センセイと典坐とのことだろ。一緒に暮らしてた仲間で、家族みたいな関係なんだろ。なのにが一歩引いて自分を別枠にしてるのは何か・・・典坐が可哀想だよ」

何故か今になり、私が代行に就任した夜の祝宴を思い出す。これで三人共浅ェ門だと私以上に喜んで、強くないお酒で酔っ払って。力の限り私を祝ってくれた、優しい記憶。
衛善さんのいなくなった洞窟で、完全に心が折れた私に向けてくれた頼もしい笑顔。私をもう一度立ち上がらせてくれた、唯一無二の太陽。
典坐。大好きな推しのひとり。大好きな、年下の兄弟子。ヌルガイから打ち明けられた彼の本音が、胸に迫る。

「それに、センセイは全部と分け合いたいって言ってただろ。なのにが変な線引きしてたら・・・オレがセンセイなら、淋しい気持ちになると思う」

私が一歩引いて三人の関係性を尊ぶことが、典坐にとって可哀想だとヌルガイは言う。先生が淋しい思いをするだろうと―――そこで、私はふと我に返った。

「・・・ヌルガイ」
「ごめん。山育ちだから、耳が良いんだ」

先生が私に誓ってくれた一蓮托生に、思わぬ証人がいた。戸惑いに瞬くばかりの私に対し、ヌルガイは揶揄うでもなく真剣そのものな表情で私を見上げ続ける。小さな拳が、私の胸をトンと優しく叩いた。

「けどさ、背中を預け合って戦うなら、二人より三人。三人より四人だろ。センセイだけじゃなくて、オレと典坐も一緒に数えてくれよ。二人より四人で分けた方が良いだろ、絶対に」

綺麗。真っ直ぐな黒い瞳に対し、私は今心からそう感じる。
ヌルガイにしてみれば罪状不明で逆賊の汚名を着せようとする幕府も、魑魅魍魎の蔓延る未知の島も、未来を知ってるなんて奇妙なことを言う私も、同等に理解からかけ離れたものだろうに。それでもこの子は、小さな身体で精一杯に私の背を支えようとしてくれる。もう失敗出来ないからこそ守る為に一歩距離を取ろうとする私を、強引に輪の中へ引き戻そうとしてくれる。

生きるべきひと。典坐の放った言葉の意味が、一層深く染みていく。罪人なんて肩書は相応しくない、強くて優しい子だ。本で読んでいた頃から格段に跳ね上がった解像度が、如何にこの子が素晴らしいかという私の好意そのものを塗り重ねていく。自然と眉が下がり、口元が緩んだ。

「・・・私、変な奴だよ」
「そうか?でも、良い奴だよ。オレは好き」
「・・・はー。この状況で甘やかすのは良くないと思うんだけどなぁ」
「よくわかんねーけど。なぁ、わかった?三人と一人じゃなくて、も一緒じゃなきゃオレは嫌だ。センセイと典坐と、とオレで頑張ろう、四人一緒に島を出よう」

飾らない気質と素直な声が、私の腕の中でぐらぐらと身体を揺らしながら答えを迫る。ただでさえ愛してやまない子からこんなことをされて抗える人間がいるだろうか。

「皆で守り合うんだろ。ならオレは、三人を守って、三人から守られたいよ」

典坐の言葉を借りて、そして先生の思いを繋いで、心の扉を叩き続ける小さな手。疲弊しきった心と身体には効果が絶大過ぎる。私は溜息と共にヌルガイの頭に鼻先を擦り付けた。なかなか良い返答が無いことに痺れを切らしたのか、腕の中で拗ねたような、心細そうな、庇護欲を掻き立てる様な声が立ち昇った。

「オレは余所者だけどさ。修行頑張るから、オレも仲間に入れてくれよ」
「・・・余所者な訳ないじゃんか」

どちらが余所者だという話も、きっとこの子には受け付けて貰えない。
信じられない。不可侵の三角形が、私も入れて角を増やすだなんて。信じられないくらい恐れ多くて、オタクとしてはとんでもないことで。でも、途方も無く嬉しい。

わかってる。本土にいた頃夢に見た楽しいことなんて、この島では何ひとつ無いだろう。待ち受けるのは厳しい試練ばかりだと確信もある。
だからこそキリキリと張り詰めていた私の心は、この小さな女の子によって入念に解きほぐされてしまった。もしかして、先生はそれも見越してふたりで汗を流す時間をくれたのだろうか。きっと聞いてもはぐらかされるだろう、二手も三手も先を読む師を思い苦笑が零れた。

「わかったよ・・・四人一緒。贅沢過ぎる枠組みだし、この先も気は抜けないけど。そこだけは、自分を甘やかす」
「へへ、そう来なくちゃな」

ヌルガイが白い歯を覗かせて、嬉しそうに笑う。この子は周りを穏やかに和ませる何かを発しているのではないだろうか。飛び抜けた清涼感と、同性ゆえに許された距離感の近さが、癖になってしまいそうで困る。

「ありがとうね、ヌルガイ」
「オレもありがとうだよ。のお陰で、今典坐と一緒にいられるんだからさ」

ぴたりと寄り添う、水に濡れて低めの体温が心地良い。どんな困難からも、どんな悲しみからも、この子を守りたいと切に願う。

「・・・オレ、生きるよ。じいちゃん」

それは微か過ぎて囁きにも満たない、心のこもった祈り。
私はその声に気付かなかったふりをして、日の沈んだ空を眺めた。