道という道を無視して、私は大股で森を進む。途中、掻き分けた背の高い植物が硬い葉を持っていたらしく、手の甲に一筋の朱線が走る。心は何ひとつ動かない。私は構うことなく足元の花を踏みつけて前へ進んだ。

今ここに至るまでの記憶は、ぼんやりと曖昧だった。あの断崖から、どうやって先生に引き上げられたのか。どうやって典坐とヌルガイの元へ帰り着いたのか。道中、先生とまともに言葉を交わせたのかも定かではなかった。ただ、源嗣の身に起きた出来事を先生が口にして、典坐が息を呑んだその時。私の頭の中で、強い指令が下ったのだ。
衛善さんに、会いに行かなければ。為すべきを為せ、そう命じられたのに。私は早くも、取返しのつかない失態を犯した。剣と称号を取り上げられたとしても文句は言えないけれど、今の私には必要な罰だ。私は、私を裁いてくれるだろう兄弟子を求めて、足早に洞穴を抜け出した。

何の声かけもせず離れた私を、先生は一人にはしなかった。擦り減った氣でも感知し易い様、普段より大きな音を立てて私の後を追ってくる。波の音が近付き、森を抜け、岩肌が目立ち景色が変わった頃のことだ。突然、先生が声を上げた。

「・・・、待ってくれ」

私の足は止まらない。むしろ、淡々と前へ進む速度が上がる。

「待つんだ、

ぱしんと音を立てて手首を掴まれ、流れる景色が止まった。潮の満ち引きが、やけに大きく聞こえる。私の進路を塞ぐ様に前に立った先生は、とても複雑な表情でこちらを見ていた。

「先生。私、衛善さんに会わなくちゃ」

乾いて無機質な、抑揚のない音。私は、こんな声だっただろうか。

「折角、免許皆伝を許されたのに。こんなに良い刀、託して貰ったのに。私、何も出来なかったから、怒られに行くんです」
「・・・君は今、冷静さを欠いている」
「そんなこと無いです」
「とにかく・・・今は止そう。戻るんだ」

深く引いては押し寄せる、曇天の海原の様に。先生と私のやり取りは表面上落ち着いている様でいて、不気味でざらついた緊張感に満ちる。黙って後を付いてきた先生が、今になって私を止める理由は何か。視覚以外で先を見通す先生が感じたものが、何なのか。込み上げる胸騒ぎに戦慄すると共に、私は強くその手を振り払い走り出す。

「っ・・・衛善さんに、会うんです」
「駄目だ、・・・!」

浜辺からすぐの洞窟。私が最初の非常事態に躓き、そんな中栄えある免許皆伝を賜り、この名刀・小竜景光写しを頂戴した、はじまりの場所。片腕を失っても尚威厳に満ちた、兄弟子が待つ場所。早く逢いたい。裁かれたいだなんて、罰されたいだなんて嘘だ。厳しくて優しいひと。絶対に迎えに来ると約束した、尊敬する兄弟子であり、山田家の未来の象徴。衛善さんが生きていれば、それだけで私は救われる。だから、早く、早く。

私の足が止まる。洞窟の景色は、半日で一変していた。

「・・・うそ」

そこに横たわっている筈の兄弟子の姿が、無い。地面に散見される、とても人間のものとは思えない大きさの足跡。妙な高さに空けられた大穴は、私が出発した時には無かったもので。そこから差し込む日の光が、辺り一面に飛び散る血痕を煌々と照らす。
私の中で張り詰めたありとあらゆるものが、雪崩の様に決壊した。

「・・・あ、あ、あああああああ!!」

頭を抱えた発狂は、駆け付けた先生の支えを得て尚治まりはしなかった。反響する獣の様な叫びは良からぬものを引き寄せる危険がある。頭では理解出来ても、心がひび割れてどうにもならなかった。

・・・!」
「嫌っ・・・!!衛善さん!!衛善さんっ・・・!!」

何故。折角助かった筈なのに、どうして。源嗣に続いて衛善さんまで、生存の道に安堵した途端に奈落の底へと突き落とされる。あの悲惨な運命から、分岐出来たと思ったのに。二人とも生き残る道筋が、確かに見えた筈だったのに。

「どうしてっ・・・!衛善さん・・・源嗣・・・!!私、何を間違えたの・・・!!」
「落ち着くんだ、・・・!!」

声を張り上げる私と、それを懸命に宥める先生の隙間に、確かな足跡が混ざり込む。

「先生、さん・・・」

私たちを追って来たのだろう、洞窟の入口でこの惨劇に目を見開くふたりがいる。ヌルガイの支えを借りて立つ典坐と目が合った瞬間、私の中でぶつんと音を立てて大事な糸が千切れた。
島に上陸して以来、私は仲間の死の運命に翻弄され続けている。もし、典坐まで今になって取り上げられたら。途方もない絶望に、心が芯から凍り付く。

「・・・私、知ってた」

先生が息を呑むのがわかったけれど、止められない。

「私の知ってる未来で・・・典坐は、あの時死んでた」
「え・・・?」
・・・!」

突然のことに呆然と立ち竦む典坐も、困惑するばかりのヌルガイも、根底の開示を防ごうとする先生も。私自身ですら、私の崩壊は止められない。もう、限界だった。

「典坐も、衛善さんも、源嗣も、期聖も。皆、この二日目までに命を落とすって、私知ってた。だから、何とかしたくて、助けたくて・・・」

助けたかった。三年間苦楽を共にした、大好きな兄弟子達。何とかしたくて、何とか出来ると自分を信じて。
そして私は今、衛善さんの血痕が無惨に撒き散らされた暴虐の跡地に佇んでいる。

「でも・・・みっともなく空ぶった結果が、これ」

不甲斐なさに吐き気がする。私は、私を信じて愛刀を託してくれた人の期待にさえ、応えることが出来なかった。人の力ではまず形成不可能な大穴から空を睨み上げ、恨みを込めた声で天に叫ぶ。

「ほら!神様も閻魔様も、見てる?!理を捻じ曲げてるのは私!悪いのは私!全部私!代償が必要なら、腕でも命でも取り上げてよ!」
・・・!」
「お願いだからっ・・・私以外の人から、何も奪わないでよ!」

先生は言った。生死を左右する人の領分を越えた力には、何らかの代償を求められる恐れがあると。確かに先のことを知る私が上陸したことで、島での出来事は悉く正史から逸脱した。この島に混乱を招いたのは私なのに。私じゃなく、兄弟子たちがその代償を求められるだなんて、あんまりだ。

「源嗣と衛善さんを返してよ・・・!!皆に酷いことしないで・・・!!何か必要なら私から奪ってよ・・・!!お願い・・・!!このままじゃ・・・!!」

仙汰の優しい笑顔が脳裏に過ぎる。嫌だ。連れて行かないで。涙で視界が滲むと同時に、私は膝から崩れ落ちた。

「・・・仙汰が・・・花になっちゃう」

これまで誰にも明かせなかった、この先の悲劇。初めて口にして尚、神も閻魔も私から何かを取り立てる気配が無い。私はその場に蹲り泣き喚く。先生が隣に膝をつき肩を支えてくれたけれど、今だけは何ひとつ堪えることが出来なかった。

「嫌・・・嫌だ、仙汰・・・源嗣・・・衛善さんっ・・・!!」

もう会えないなんて嫌だ。尊い命がここで散って良い筈が無い。なのに、私は先のことを知りながら何も良い方向へ動かせない。悔しくて、苦しくて、辛くて、悲しい。涙は際限なく溢れ続けた。
その最中、私はすぐ傍まで近付いてきた足音にびくりと肩を震わせ、そして恐る恐る顔を上げる。ヌルガイの助けは借りず、自分の両足で立った典坐が、私を真っ直ぐに見下ろしていた。

「・・・自分は馬鹿なんで。今さんが話してくれたことも、この状況も、正直全然わかってません」

差し込んだ日の光に照らされる金の髪が眩しい。年下の兄弟子は真剣な顔をしたまま、今度は私の正面に片膝をつく。

「けど、仙汰くんが危ないなら、助けに行かねぇと」

ああ、そうだよね。典坐なら、道理も原理も後回しにしてそう言うだろうって、きっと私はわかってた。文字通り眩しい存在に目を細めると、自然とまた新しい涙が零れ落ちる。

「典坐、ごめん。私、もう自分を信じられない・・・」

仲間の危機に駆け付ける。当然のことが、今の私には酷く難しい。難しく、なってしまった。

「衛善さんは、利き腕を失ってこんな場所に置き去りにされて、剣もまともに振れない身体でどんな最期を迎えたかわからない。本当なら、苦しまずに逝けた筈なのに。私のせいで、余計に悲惨な目に遭った」

陸郎太に上半身を圧し潰された即死。その方が良かったのではないかと思えるような地獄になるだなんて、上陸するまでは考えもしなかった。愛刀を手放し、利き腕を無くし、消耗しきった状態で竈神の襲撃を受け、衛善さんはどんな絶望を覚えただろう。

「源嗣だってそう。傷が開いて、辛い中無茶な作戦を押し付けられて。私を庇って轢かれたせいで、崖から落ちた・・・佐切の勇姿を見守りながら、あの森で楽になれた方が、まだ、全然・・・」

彼をあの森で死なせてはいけないと強く願った。でも、満身創痍の状態で戦闘を強いられ、巨大な異形に轢かれ、そして暗闇の底に消える様な悲惨な目に遭うくらいならば。妹弟子の中道を見極め、穏やかにこと切れた正史の運命の方が、余程良かったのではないか。

「全員、助けられたりするんじゃないかって、勘違いしてた。都合良く未来を改変する、主人公になったつもりでいた・・・全部全部、馬鹿な妄想!!私のせいで、ふたりは・・・元の運命より、酷い死に方をしたんだよ・・・!!」

命を助けたかった。なのに私は、二人に余計に惨い運命を押し付けてしまった。どんなことをしても償えない、最悪の失態だ。

「私はこの世の理を曲げてる、それはわかってる」

何の為にここへ来たのか。何の為に、これまでの日々があったのか。涙でぐしゃぐしゃになった酷い顔で、私は思いの丈を吐きだす。

「何に逆らってでも、典坐を助けたかった・・・先生とヌルガイに、悲しい顔させたくなかった」

みっともなく震える肩を支えてくれる、先生の優しさも。唐突過ぎる私の話を真っ直ぐに受け止めてくれる、典坐の真摯さも。そして、何もわからず不安だろうに、一歩引いた場所で見守ろうとしてくれる、ヌルガイの健気さも。全部全部、大好きで。三人揃っているからこその幸せを、諦めたくなくて。典坐を死なせてはいけない。その思いを強く燃やして、今日まで進んできた。

「でも、これ以上私が余計なことをして、更に悪いことが起きたら。私のせいで、仙汰をもっと酷く苦しめるかもしれない・・・」

この世界に私という異物が混ざることでの、恐ろしい改悪の可能性を知った。この先仙汰を助けようとすることで、もし正史より陰惨な最期になってしまったら。それこそ、憧れのひとの腕の中で逝ける、その方が余程極楽と呼べるような残酷な死を齎してしまったら。

「もしも・・・」

もしも。一度助かった典坐が、また死の危機に陥ったら。
もしも。私が知る時点では助かる筈のヌルガイに、災いの影が落ちたら。

もしも。何より大切なこのひとに、何か、あったら。

「お願い、典坐」

私は先生の顔を見ないまま、典坐に一歩這い寄った。

「先生とヌルガイと一緒に身を潜めて」
さん・・・」
、何を・・・」
「三人一緒ならきっと大丈夫。私、どこまで出来るかわからないけど・・・仙汰のことも、後のことも、何とかするから」

見通しなんてまるで立っていない、まともな言い分にも満たない私の悪あがきを、典坐は見逃してはくれなかった。

「ひとりで何とか出来る状況じゃないんでしょう?だからさんは今泣いてて、仙汰くんのことで悩んでて・・・!」
「だって・・・今になって典坐がもし死んだら、何のためにここまで来たかわかんないよ・・・!」

切実な叫びが大きく反響して、瞬間洞窟の中が静まり返る。仙汰のこと、この島での仙薬探しのこと、天仙のこと、佐切を始めとする他の上陸者達のこと。全てを棚上げにしてでも典坐の命を第一優先にするという、追い詰められた私の掴んだ答えだった。人でなしだと詰られるだろう、私だってそう感じる。それでも、源嗣と衛善さんを立て続けに失った今、もう私に残された道はこれ以外に無い。

「つまり・・・仲間の危機は忘れて、俺はさんに救われた命を大事に、ひっそりこの島のどこかで隠れて脱出の機会を待てと。それなら俺は多少は安全だし、さんも心の均衡を保てる。そういうことっすね?」

典坐の眉が険しく顰められ、そして重い溜息が吐き出された。

さんの決め台詞、借りて良いっすか」
「え?」

ひとつ瞬き、視界を歪めていた涙が流れ落ちる。ぼやけていた輪郭がはっきりと形を取り戻したその瞬間、典坐は私を真正面から見据えてこう言い放った。

「―――だが断る」

それは、痛くない程度の力で頭を小突かれたような。突然わっと驚かされたような。小さくて、でも確かな衝撃をもって、私の時間を止めた。鋭い眼光はほんの一瞬のこと、典坐は短く息を吐くなり、こんな状況にあって普段通りの笑みを私に向けてくれる。

「俺、さんがどういう人か、たった三年の付き合いでもわかってるつもりっす」
「・・・典坐」
「仲間を、簡単に切り捨てられる人じゃない。何かを選ぶ為に大事なものを捨てて、それで悔いなく前を向ける人じゃない、でしょう?」

その笑顔は温かくて、輝きに満ちていて。典坐に肯定された分だけ、血を流す無数の傷口がそっと塞がれていくような、不思議な心地がした。

「真っ直ぐで、面白くて熱くて。いつだって元気をくれるさんを、自分はもう、家族みたいなひとだと思ってます」

真っ直ぐなのは典坐の方。面白いのも熱いのも、元気をくれるのも典坐なのに。私の太陽は今、こんなにも陰った私を力強く照らしてくれる。

「けど、今防御の一手に逃げたら・・・もう、俺の知ってる明るいさんには、二度と会えねぇような気がする。自分は、この直感を信じたいっす。助けたいものも守りたいものも、後悔無く全部拾いに行きましょうよ」

不安はある。後悔も消えない。でも、このひたすらに前向きな温かさに抗う術を、私は知らない。

「それにさん。もし、本当の筋書きなら死んでた筈の俺が生きてるってこたぁ、ですよ。戦力が単純に、ひとり分増えた!さんが仙汰くんを助けるにあたって不安に思ってる分、俺が働けば解決っす!」

底抜けの明るさが。生来の善性が。私の暗く淀んだ負の感情を、呆気なく消し飛ばす。

「へへ。“グレイト”でしょう?あ。使い方これで合ってるっすか?」

私は遂に、込み上げる薄い笑みを取り戻した。

「・・・ずるいよ、典坐」
「推し語録はさん直伝っすから」

辛い過去は無かったことになりはしない。私の後悔も消えない。でも、涙を自分で拭って、鼻を啜って。あらゆる声に耳を塞いで蹲るだけの私には戻らない。話が通じるようになったことに安堵した典坐の表情は、心からの優しさで満ちていた。

「・・・信じて下さい、さん。俺も浅ェ門っす。罪を断つだけじゃない。大事なひとを守る為の剣を、俺は先生から教わりました。皆で守り合って、皆で島を出ましょう」

皆で、守り合う。これまで考えたことの無かった選択肢に、世界がひとつ開ける。大事なひとを守る為の剣。それは、ヌルガイに向けられたものだと勝手に思い込んでいた私にとって、想定外の驚きであり。同時に、深く紐解けば実に典坐らしい、澄み切った晴天の様な考え方だった。

「仙汰くんに迫る危険のことも、さんの事情も、一から教えてください。その・・・自分は一回じゃわかんねぇかもしれないっすけど」

先生は、極力情報を開示しないことで、私をあらゆる災いから守ろうとしてくれた。典坐は逆に、打ち明けることによって皆で守り合う道を示してくれる。私の肩を支え続けている先生は、今どんな顔をしているだろう。私は安易にその顔を見上げられない。どちらが正しいとも、どちらを取るとも、答えに窮する。その時だった。

ぐうう、と。何とも力の抜ける音が響く。

「・・・ごめん」

頭を掻いて恥ずかしがるヌルガイの姿に、喉元の緊張感が解けた。

「良いっすね!元気な腹の虫!あー、俺も腹減ってきたっす・・・」
「・・・一度、戻ろうか。収穫した食糧もある」
「だ、大事な時にごめん・・・でも、ありがと」

勇気を出して、そっと斜め後ろを振り返る。すぐ傍にいてくれた先生が私に向ける表情は、気遣わし気で、穏やかで。

「安心して良い。もう、君の言葉を封じたりしないよ。食事をしながら、皆で話そう」
「・・・はい」

この世界に来て最初にかけられた、私を守る為の枷。それを先生の手でそっと解かれることで、私はどん底からの一歩を踏み出した。



* * *



来た道を引き返す。今度はなるべく歩き易い様、獣道を避けて。
自力で歩く典坐の横で、ヌルガイが心配しつつも時折ちょっかいをかけている。何も無かった頃であれば単純に喜べたであろう微笑ましい光景の筈だった。ああして私を励ましてくれた典坐だって、仲間を立て続けに二人失った痛みを抱えているのだ。無理をしているに決まっている。そして、それを察したヌルガイが精一杯元気付けようとした結果が目の前の戯れだと、よくわかる。ちくりと胸が痛んだ。

「確認するが、身体や気分に何も異変は起きていないかい」
「・・・はい」

私と先生は、二人から少し距離を置いて後ろを歩く。先生は私の理解者であり、最大の協力者であり、そして“先見の明”は最低限しか受け付けないと定めたひとだ。大幅な情報開示をしたことで、私の心身に変調が無いかを確かめてくれる。

「・・・そうか」

私に関して心配することは何も無い。でも、結果的に方針が変わったとはいえ、一方的に先生との約束を破ったのは私だ。すべて、私を守る為に隠そうとしてくれていたのに。先生の声からは今でも、私への気遣いが色濃く感じられるのに。

「・・・先生、私」
「すまなかった」

思いがけない言葉に顔を上げる。先生は苦し気に眉を寄せて私を見下ろしていた。

「先の展開を言葉にすることを封じ、君の心に重い負荷をかけたのは私だ」
「先生、そんな」
「いや、詫びさせて欲しい。私は君を守ることにばかり固執し、これまでの本当の苦悩に寄り添うことをしなかった」

謝らなきゃいけないのは私の方。先生が私に寄り添ってくれなかったことなんて、一度も無い。なのに何故だろう。あまりに真剣な様子を前にして、上手く言葉が出てこない。先生の視線が私から逸れて、前を進む典坐へと移った。どこか羨望を思わせる切ない横顔が、胸に迫る。

「―――皆で守り合う。私はの一番近くにいながら、何故その考えに思い至らなかったのだろうと、典坐の言葉にはっとさせられたよ」

違うのに。先生がこれまでの日々に何かを悔いる必要なんて、無いのに。私はこんな時に、酷く自分本位な思いに飲まれていく。
先生の歩みが止まり、私の足も自然と止まる。再びこちらを向いた先生の表情の思慮深さに、熱い何かが込み上げた。

「典坐だけでなく、衛善さんに、源嗣。期聖、仙汰まで。五人の仲間の命という途方も無い重圧を、何とかしようと藻掻いていたのだね」

これまで言えなかったこと。言いたかったこと。それを今先生にわかって貰えて、こんなにも安堵しているだなんて。

「辛かったな、。一人で抱え込ませて、本当にすまなかった」
「・・・っ」

先生だって、仲間を失って辛い筈なのに。重かった全ての荷ごと、今心から抱き留めて貰えた様な思いがするだなんて。私は再び目尻に溜まった涙を強引に拭う。何度も、何度も。無様な私に対し、涙を止めようと伸ばされかけた先生の手が途中で止まった。

「今のには、受け止めるのは難しい言葉だろうが・・・先ほどの君の考えを、ひとつ訂正させて欲しい」

私の両肩を掴み、屈み込む様にして視線の高さを近付けてくれる。その優しさに、これまで何度救われてきたかわからない。

「衛善さんと源嗣はこの島で懸命に戦い、それぞれの最善を尽くした。結果がどうあれ、のせいではないよ」

でも、これだけは受け取れない。今回だけはどうしても甘えられない。甘えて良い筈が、無い。私は一際強く目元を拭い、懸命に先生と向き合った。

「・・・先生の優しい気持ちは、よくわかってます。でも、これは私が背負わなきゃいけないことだから」

一度完全に砕けた心は、典坐という私の絶対的な太陽によって、もう一度形を取り戻した。でも、元通りな訳じゃない。何も無かったことにはなり得ない。私が二人の兄弟子を救えなかったことは、覆しようの無い事実なのだから。

「もうこれ以上は、どんなことをしてでも喪えない。それを刻む為にも、私が負うべき戒めなんです。私は私を、許すべきじゃない」

今傍にいる仲間を守ることも、この先危機を迎える仲間を救うことも、もう決して取り零さない。衛善さんと源嗣、二人の喪失を戒めとして自分に課すことで、この誓いをより強固なものにする。辛さも苦痛も、何もかも二人のことを思えば乗り切れる。どんなに、苦しかったか。どんなに、無念だったか。何をしても償いにはならないことは承知の上で、私は自分を許さないと心に決めていた。どんなに先生が優しくても、そこだけは曲げられない。私のせいじゃないだなんて楽な方向には、逃げ込めない。

そうして私が強く拒絶を示した次の瞬間だった。先生の手が私の肩から離れたかと思えば、私の両手を優しく握る。草の葉で浅く切れた傷口を慈しむように親指で撫ぜられ、私は突然のことに目を丸くするしか術を持たない。

「ならばせめて、その重い自責の念を、今この瞬間から私にも分けて欲しい」

向かい合い手と手を取り合って、先生が私に微笑みかける。その笑顔は穏やかさだけじゃなく強い決意に満ちたもので、私は今度こそ返す言葉を失った。

の覚悟は理解した。君がすべて背負うことを己に課すならば、私も同じく背負う。二人で分け合えば、きっと前に進む助けにもなるだろう」

私が私を許せない。その思いを尊重した上で、まさかそんなことを言われるだなんて。困惑という荒波の只中、温かい手が私を繋ぎ止めてくれる。重圧も、後悔も、痛みも。全部二人で分けて前へ進もうと。このひとは口先だけのことを言わないと、私自身がよくわかっている。だからこそ、戸惑いが隠せない。

「ここから先は何ひとつ一人で抱えさせはしないよ。衛善さんと源嗣のことは、共に悔もう。仙汰のことは、共に救おう。もしもこの先、未来改変の代償が君に求められた時は・・・私も共に、応じよう」

“先見の明”は私を裏切ってばかりで、この先頼れる保証なんて無い。それどころか、私が組み込まれたことで、この島の未来は一層の混沌状態に陥るかもしれないのに。こんな不安定な私に対して一蓮托生を誓うことの不利益を、聡明な先生がわからない筈が無い。なのに、このひとの手はこんなにも温かく私を包む。何を差し出すことになったとしても傍にいてくれると、後の無い緊張感で追い込まれた私の心に寄り添ってくれる。

「・・・どうして」

声が、震えた。
先生がそこまで私の人生を背負う義理なんて、無い筈なのに。私は、先生のすべてをかけて貰える程の可能性なんて、持っていないかもしれないのに。

「私がそうしたいと思うからだよ」

到底納得できる答えではない筈が、不思議と身体の隅々まで沁みる。師弟関係でも同門でもなく、先生の感情を理由にされてしまえば、もう私はそれだけで何も言えなくなった。
だって先生は、私を教え導いてくれた一生の恩人で。私にとって欠かせない、何より大切なひとだ。そんなひとから理屈や損得ではなく、気持ちを優先した上で何もかも共に背負いたいのだと言って貰えるだなんて。何て光栄なことだろう。何て尊いひとの傍を、私は許されたのだろう。一度心に空いた風穴は塞がらない。でも、外から温かく包まれることでこれ以上ひび割れることの無い様、強い鎧を纏ったような心地だ。
私の頑なさが緩んだことを、氣を通して感じたのだろう。先生の表情に、穏やかな安堵が浮かんだ。

「我々は山田浅ェ門だ。典坐の言う様に、救えた命の数だけ戦力は上乗せされる。仙汰が花化するまでの猶予は、わかるかい」
「多分、あと一日は・・・」

時差はあれど、今日燃え盛る森で陸郎太が最期を迎えた。彼らは集落で木人さんとメイに出会い休息を得た末に、今夜見張りの仙汰の隙をつき画眉丸が離脱するだろう。佐切達が蓬莱へ向かうのは明日、そして仙汰を待ち受ける過酷な運命もまた、明日に控えている筈だ。尤も、ここまでの乱れた展開を思えば、確かなことなど何一つ無いのだろうけれど。
先生が私の手を握る力が、僅かに強まる。そっと香るような励ましが、後ろ向きな思いを押し流していく。

「四人で良い方法を考えよう、。どんな暗い夜も、いつかは日が昇る。光明は必ず何処かにあるよ。共に信じよう」
「・・・はい、先生」

ふと気付けば、前を行く典坐とヌルガイが立ち止まって私たちを待ってくれていた。行こうかと小さく囁き、先生の手が自然な流れで私から離れる。先を歩き始めた先生の背を、私は急いで追った。典坐達と合流する前に、伝えたいことがある。

「先生。私もひとつだけ、訂正させて下さい」
「・・・何だい」
「私、これまでも一人じゃ無かったです」

大事なことを一人で抱えさせたと、先生は私に必要の無い謝罪の言葉をくれたけれど。私がこの世界に来てから、孤独だったことなんて一度も無い。

「先生が、いつも傍で支えてくれました。例え本当のことは言えなくても・・・それでも、先生が傍にいてくれたから。先生のお陰で、私は此処まで来れたんです」

いつだって先生が傍にいてくれた。何の取柄も経験も無い私を根気強く鍛えて、山田家の一員まで引き上げてくれた。未熟な私の心の揺らぎを察知して、不安な時は心の絡まりを解いて、最後には必ず一緒に笑ってくれた。私には勿体無さ過ぎる程の、世界で一番素敵なひとだ。

大きな手がそっと伸ばされ、私の頭をぽんと撫でる。

「これからも傍に居るさ」

地獄の如き島で後の無い私に齎された、揺るぎない光。これから先どんな困難があっても、私はこの光を決して見失わない。
私は再び歩き出した先生の後について、前で待つ典坐たちに手を振り返した。