考え得る限り、相当に悪いカードを引いた自覚があった。亜左弔兵衛。武と調略の天才。頭も切れるし並外れて強い。加えて、未知の展開に対する適応能力の高さは作中一位とも呼べる男だ。下手をすれば朱槿にも匹敵する様な打撃の痛烈さに、私は歯を食い縛る。

・・・!」
「来ちゃ駄目です・・・!!」

振り返る余裕は無かったけれど、必死の訴えで加勢の抜刀を止められたことは氣でわかる。私が持つ限りの知識では、この男に関する重要なことが抜けている。この先兄弟揃って菊花に敗れ、落とされた穴の中で花と混じり氣の才能を開花させ、画眉丸と死闘を繰り広げた末に単身天仙の側へ行く―――全ては、弟の命を守る為に。ただ、この男の未来の道筋はわかっていても、果たして氣の属性が何なのか、私はそれを知らない。
菊花と会敵していない状態の弔兵衛であれば、まだただの人間だろう。それでも、戦闘に関する超人的な勘の良さは生来のものだ。万一にでも相克の可能性がある相手を、先生にぶつける訳にはいかない。考えろ。私は、私の大事なひとを守る為にこの島へ来た筈だ。

「余所“見”は感心しませんね」

背中越しに、落ち着き払った声と鋼のぶつかり合う音が響く。

「あれ?目に関する冗談、拾ってくれないんですね」
「桐馬・・・!」

―――良し。私はひとつ、内心のみで頷く。桐馬は私と同じ土属性。木属性の先生にとっては相性が良い相手だ。加えて、この時点での桐馬であれば先生が押し負けるとも思えない。二重に安心の組み合わせが完成したことだけは、不幸中の幸いと信じたい。

「先生は、そちらをお願いします」
「・・・それが、正しい組合せかい」
「はい」
「・・・わかった」

先生と私で、亜左兄弟と二対二の争いだなんて。想定外にも程がある試練だけれど、こうなってしまった以上は仕方が無い。腹を括れ。典坐とヌルガイが私たちの帰りを待っている。大好きなひとたちを脳裏に思い描き、強く己を鼓舞したその時、拮抗していた斧と太刀の力が弾け、私は素早く飛び退いた。低く重心を構え警戒は解かない。恐らく竈神を殺して奪ったであろう斧を軽々担ぎ、弔兵衛が私をニタニタと笑い見下ろす。

「おいおい、闘り合う気満々かよ。穏やかじゃねぇなぁ。こっちは食糧を奪えりゃあ見逃してやるつもりだったのによぉ」
「・・・そっちから斬りかかってきたんでしょうが」

殺して奪うことに躊躇いの無い輩が何を言う。否、こうして無駄口を利く間すら計算か。とにかく油断は微塵も出来ない相手に対し私が目を細める裏側で、先生と桐馬の刀がぶつかり合う音は響き続ける。

「今更ですが、共闘ではなく排除、で構いませんね?兄さん」
「当然だ。小賢しいことを考える奴らは俺の配下に必要無ぇ」

この先に待つ画眉丸との即座の決裂を思えば、想定内の回答だった。こちらとて、この二人の手足になる気は毛頭無い。しかし、弔兵衛は私の無言の警戒を別の側面から捉え、またしても面白可笑しく嘲笑った。

「俺達の血縁関係に驚くふりくらいしろよ。腹に一物ある割には演技が下手糞な奴だな」

ああ、そうだった。私はあくまで山田家の人間として、この兄弟の関係性に目を見開くべきだった、と。自分の迂闊さへの後悔は数秒で掻き消える。桐馬が入門当初から私を怪しみ、兄であるこの男に全て筒抜けていたというのなら、何を取り繕ったところで無駄な足掻きだ。

「私が今日まで寝首を掻かれずに済んでたのは、実は奇跡だった訳ね・・・」
「あいつは即始末を望んでたぜ。顔が割れてんのは確かに面倒ではあったが、表立って揺すって来る素振りも無し。女を一人斬って不穏分子を潰したところで、下手人捜しで脱獄計画が狂っちまったら元も子もねぇ。俺が止めさせた」

始末という言葉に背筋がぞっとする。このひと月、あの笑顔の裏側で桐馬が私を消すことを目論んでいたとは。私は冷や汗と共に構えた刃の角度を変えた。先生と桐馬の撃ち合う音が徐々に遠ざかっていく。動ける範囲が広まったことは有益でも、相手がこの男では何一つ事態の好転は望めない。

「その判断にだけは感謝するわ。あんた達二人をどうこうしようとは全く考えてなかったし」
「そいつは良かった。ま、結果的に見逃してはやれなくなった訳だがなぁ・・・!」

空気が熱く波打った。来る。万全の構えで待ち受けて尚、重苦しい一撃が太刀を通して私の脊髄を駆け抜けた。これで氣を知覚するより手前だなんて、信じられない。荒く尖った剣筋、何もかも力尽くで組み伏せる勢いを保ったまま、何度も何度も容赦なく叩き込んで来る。雑な攻め手では必ず生まれる筈の隙が極めて少ない。この先、花の氣と混ざりながら自我を保ち一層強くなる男。蓮―――天仙の長が気に入る筈だ。猛攻に対し私は防戦一方を強いられながら懸命に耐える。その時だ。弔兵衛が私を見る目に、何かを品定めする様な鋭さが生まれた。

「にしても・・・俺らの関係も、この島の異常さも、全部知った上で仲間を地獄に引き入れるたぁ。予想より遥かに人間捨ててんなぁ」
「っ・・・!」

それは、私を囲む優し過ぎる環境において、これまで殆ど縁の無かった冷ややかな言葉。そして同時に、文面そのままに受け止めるならば、至極真っ当な評価だった。瞬時に顔色を無くした私を見据え、弔兵衛の笑みが再び残忍さを増す。

「一発で当たりかよ・・・っは、とんだ三文役者だな、笑えるぜ」

誘導尋問だ。そうとわかっていながら、反論が出来ない。
だって、本当のことだ。私は何もかも知っていながら、山田家の皆をこの窮地へ導いた。先生の助けを得れば未来を変えられると、安易な思い込みで上陸して早二日。想定外のことばかりが起き、首の皮一枚で仲間の死こそ免れてはいるけれど、依然として状況は危機から一歩も脱してはいない。人間を捨てている。それは目の前の男だけじゃない、私にも当て嵌まる表現であると、現実を思い知らされたような心地だった。

「お前がどんな下衆女でも構いやしねぇが、この島の何を知って、何を企んでんのか。この後たっぷり吐かせてやるから楽しみに待っとけ」
「・・・悪いけど、それは言えない」
「そうだよなぁ。タダじゃ難しいのはわかってるぜ。なら、口実を作ってやるよ」

名刀の強靭な刃がギリギリのところで私を守ってくれる。その狭い隙間で、ぎらついた瞳が私を害そうと細められた。

「お前の目の前で、誰を血祭りに上げてやろうか?“シオン”か?“テンザ”か?」

桐馬が全てを報告している以上、弔兵衛の頭の中に上陸者全ての名前や交友関係が刻まれていることは何ら不思議ではなかった。でも、その声が明確な悪意をもって私の慕うふたりの名を発する。血がかっと沸き立つ様な、目の前が赤くなる様な憤り。その衝動を堪え、中道へと軌道修正が効いたのは朱槿戦の名残か。それとも、今この瞬間心の底からこの男を止めなければという使命感が働いた為か。

「・・・力が増しやがったなぁ」

極限まで整えた息を吐き切り、私が弔兵衛を押し返そうという震えが止まった。力の均衡がぴたりと合わさり、体勢は五分に戻って尚、この状況を楽しむ様な愉悦は私を射抜き続ける。

「あんたに、譲れないものがある様に・・・私にだって、命より大切なものがある」
「・・・みてぇだな」

何を捨てても守りたいものがある。互いに志は違っても、似た価値観を持つことは確かに伝わった様だった。
しかしながら今の私は紛れも無い中道、相手はまだ氣の仕組みさえ理解していない。この圧倒的に有利な状況で優勢に押し戻せない理由はふたつ。ひとつ、亜左弔兵衛の人間離れした戦闘の才能。そしてもうひとつは、私を蝕む蓄積された疲労感だった。朱槿との一戦さえ無ければ違っただろう拮抗状態に、私は苦々しい思いを飲み込む。
弔兵衛の膝蹴りが飛んで来たのはそんな時だった。斧と刀で鍔迫り合いをしながら、まして片足で重心を支えながら振り切れる威力ではない、信じ難い身体能力。間一髪急所への直撃を避け咄嗟に大きく退いた私の隙を、この男が見逃す筈も無く。勢いを重ねた猛攻が、津波の様に襲って来た。

「仙薬も情報も、全部奪って最後に笑うのは俺達だがなぁ!」
「っ・・・!」
「お前の事情なんざ知ったことかよ!俺は相手が女だろうが餓鬼だろうが、略奪も殺しもするぜ!なぁ、これがお望みの男女平等って奴だろ?」

落ち着け。巻き返せ。正しく氣を循環させて呼吸を乱すな。そうして己に厳命するだけで精一杯の私を、弔兵衛は嘲笑う。

「女を理由に桐馬に呆気なく抜かれて、髪まで落として必死こいて着いてきた、哀れな代行さんよぉ!」

それが、桐馬の目を通して見た私の総括。男女平等を望みながら、叶わない現実に藻掻く哀れな女。憤りは感じない。この兄弟にどう思われようとも構わない。でも今の私は代行では無い。兄弟子に託されたこの刀がある。この島で拝名した、誉高い皆伝名がある。それすら反論の余裕が無い、息を乱せば全てが終わる確信すら感じる不甲斐なさに奥歯を噛み締める。

その刹那。
重い一閃が、私と弔兵衛の拮抗に割って入った。

凄まじい勢いと威力は地を抉り木々を断ち、突風が土煙を巻き起こす。次いで放った第二撃、肌がひりつく様な圧と共に振るわれた比類なき剛剣は、流石の弔兵衛も危機感で一時距離を置く程の脅威に満ちていた。

殿の願う男女平等とは、貴様の言う殺戮とは別物だ」

私を庇う背中は大きく逞しく。その声は太く力強い。

「彼女は誇り高き山田浅ェ門の一人。盗人如きが侮辱することは許さん」

女が剣を握ることへの疑念を捨てられない筈の兄弟子が、私を全面的に肯定し守ってくれる。

「・・・源嗣」

生きていた。依然として気を抜けない状況の中、途方も無い安堵が一音の鼓動となって全身を駆けた。



* * *



源嗣の介入は弔兵衛の勢いを削ぎ、拮抗した戦局を乱すには十分過ぎる威力を伴った。
打撃の重さに特化した剣は身内の私ですら目を見開く覇気に満ち、いくら桐馬からの前情報があろうとも初見の弔兵衛にとっては脅威でしかないだろう。頭が回るのなら猶更だ。竜巻を起こす様な凄まじい太刀筋で地形が変わり、場は乱れ、土煙の中で弔兵衛の気配が明確に遠退く。息を整えるには絶好のチャンスだ。私は源嗣の手を引き木々の間を駆け抜け、ある程度離れた人工物の裏へと身を潜めた。朽ちてはいるが物見台の様なものだろうか。近くの集落が機能していた頃の名残か。どちらにせよ束の間の脱力で汗が噴き出し、私は長く息を吐き出した。

「・・・そう長くは難しいだろうけど、ここなら多分平気。一旦息を落ち着けて、機会を狙おう」
「士遠殿は・・・」
「先生なら、きっと大丈夫」

桐馬との撃ち合いは途中から音が聞こえなくなるほど遠くに感じていた。恐らく弔兵衛は桐馬に加勢することはしない筈だ。源嗣に脅威を感じるならば尚の事、弟の元へは行かせまいと自力で潰しに来るに違いない。厄介過ぎる敵を迎え撃たなければいけない状況に変わりは無かった。でも、今はこんなにも心強い。

「助太刀ありがとう、源嗣」

良かった。あの燃えた森で遺体を見つけられなかった時から感じていた不安が霧の様に離散して、私の心を軽くする。また会えた。またひとり、死の運命から生き延びてくれた。こんなに嬉しいことは無い。
兄弟子の顔色が優れないことを読み取れたのは、屈んで目を合わせたその時だった。疲労とはまた違う、何かに蝕まれた様な仄暗さ。咄嗟に脇腹に手を当てたのは、正史を知る者としての勘でしかなかった。勿論、外れて欲しい勘だ。

「・・・源嗣、これ」

生温い血の匂い。装束にじわりと染み出した、どす黒い赤。運命が高笑いしている様な絶望感に、眩暈がした。

「傷が開いただけだ。気にするな」
「気にするよ・・・!っとにかく脱いで、有り合わせだけど我慢して・・・!」

私は懐に詰め込んでいた包帯を慌てて引っ張り出し、強引に源嗣の装束の上半分を脱がせた。傷口は広く深く、陸郎太の巨大な手を連想するには十分な惨状だった。でも、私の知る正史での致命的な状態ではない。怯むな。大丈夫、典坐の時と同じだ。内臓ごと抉られる様な致命傷とはほど遠い。何度も自分を叱咤し、応急処置を重ねていく。源嗣は大人しくされるがままだったけれど、やがて静かに口を開いた。

「死罪人を斬る為、必要な策だった」
「・・・それって、陸郎太の」
「知っていたか・・・激しい火の手だったからな。あの亡骸は目立っただろう」

私が間に合わなかったあの森で、火の手が上がるまでの出来事を、源嗣は自ら語ってくれた。

「佐切とがらんの画眉丸と、共に戦った。巨体を地に沈め首を落とす。その為にはまず、注意を引く者、隙を狙い力尽くで動きを止める者、そして首を落とす者。三つの役割が必須だったのだ」

三人での共闘。それは、私が願った光景そのものだった。正史では山田家直系の女である佐切が島に残ることを良しとせず、口論の最中現れた陸郎太からの一撃で彼女を庇い、致命傷を負ってしまう。佐切の侍としての在り方、中道を認められたのは、死の間際だった。もっと早くその壁を壊せれば、いくらでも可能性があった筈の未来を、何とか繋ぎ止めたいと。願いが実を結んだ結果が、今目の前の源嗣だと思うと胸が熱くなった。陸郎太の注意を引く、最も危険の伴うその役割を、この兄弟子は自ら引き受けたのだ。

「捨て身で腕に取り付いたところ、存外遠くまで振り飛ばされてしまい、暫く意識を失いこのざまだが・・・引き返した先で見た燃える亡骸の大きさに、妹弟子の強さを感じた」

男女の違いは絶対だと。染み付いた固定観念で眉を顰めていた源嗣は、もういない。佐切の力を正面から認めることで、もう一回り優しく強くなった。この二日で体感した様々な困惑や不安を上塗りして余りある程、私にとって源嗣の変化は大きな意味を伴った。

「衛善殿の弔いは、佐切が確と果たしてくれた。侍として誠の誇りを、見事証明して見せた。拙者はこの島に来て漸く、大事なことを理解出来た様な気がする」

そして、私はもうひとつ自分に出来ることがあると気付く。

「・・・生きてるよ」
「何?」

希望を繋ぐこと。山田家の失えない主柱、衛善さんの生存を伝えること。

「陸郎太と戦って、右腕は無くしたけど・・・でも、衛善さん、生きてるよ」

源嗣の瞳に熱く光るものが宿る瞬間を、私は感慨深い思いで見守った。

「・・・何という吉報だ」

ごつごつとした手で目元を覆う兄弟子の声が震える。私は涙に引きずりこまれそうな己を叱咤して、即席の手当を仕上げた。
一人ずつ、決して無傷とはいかないけれど命を落とさずにここまで来た。状況は変わらず厳しい。でも、仲間の生存は誰にとっても生きる力に繋がる。

「衛善さんに会いに行こう。源嗣の口から、陸郎太のことを報告して、それから・・・佐切のこと、沢山褒めてあげて」
殿」

気ままに暴れる陸郎太の姿から、一度は死を受け入れた衛善さんの生存によって、源嗣の気力が満ちていくのがわかる。あれほど強固だった拘りを捨て、性別に関わり無く佐切の強さを認め、死の運命から分岐した今の源嗣は誰の目にも特別に映るだろう。それはきっと、衛善さんにとっても同じ筈だ。この絶望的な島で、少しでも強く、太く、皆の生きる気力の糸を撚り合わせたい。典坐と先生も連れて、出来ることならば佐切や仙汰たちとも合流して、早く衛善さんに会いに行きたい。

木が倒れる様な音が聞こえたのは丁度その時だった。決して遠くはない。破壊音はこちらに向かい、確実に近付いて来ている。辺り一面更地にしてでも炙り出す気かと、私は気を引き締めた。

「その為にも、この窮地を脱さねばな・・・」
「うん」

装束に腕を通し直した兄弟子の横顔は厳しさに満ちて、ひとまずの窮地はしのげたことに密かに息をつきつつも、本当の意味での安心には程遠いことを私は知っている。所詮は応急処置程度の塞ぎ方で源嗣は傷を負ったまま、私も先生も朱槿戦の疲労は癒えてはいない。この状況で相手取るには、弔兵衛は相当にまずい敵だった。

「桐馬が奴と結託していることは明確・・・否、最初から組んでいたのだろう」
「本人達も隠す気無さそうだけど、兄弟だって」
「・・・そうか」

ほんの一瞬挟んだ空白は、自らの血を分けた妹を思い浮かべた為か。

「だとしても、敗れる訳にはいかぬ」
「当然」

源嗣の意思は固い。私はそれを心強く受け止めた。
とにかく時を稼ごうと私が先導の形を取り、集落を抜け小さな森を駆ける最中、視界が大きく開けた次の瞬間―――。

「っ源嗣止まって・・・!」

―――脳が発した危険信号で、私たちは疾走から急停止した。
鬱蒼とした木々を抜け、確かに視界は明るく開けていた。但し、地面はほんの二、三歩先で途切れている。ああ、そういう島だった、と。冷静に地理を思い起こす反面、底の見えない深さの崖から落ちれば命が無い焦燥に米神が痛んだ。正面は崖っぷち、背後からはありとあらゆる物をなぎ倒しながら迫る亜左弔兵衛。そして私と源嗣の目は、この絶望的な状況下で更に信じ難いものを映した。

最初の印象は、巨大な白いムカデ。八足、否もっと多いだろうか。暗い崖下から這う様に迫ってくる一体の竈神は、まさしく異形だった。目もあり牙の覗く口もある。だが、こちらに向かいながらも私たちを認識しているかは不明瞭な殺気の無さであり、それでいてあの巨体に轢かれたなら無傷では済まないことも容易く読み取れる。厄介なことこの上無い天災を目前に控えた心地だった。

「・・・挟まれたか」

間近に迫る巨大な異形を前にしても、源嗣の逞しい腕は悠々と剣に添えられ怯む様子が一切無い。この窮地でその心意気が頼もしくも、羨ましくもあり。
そして私は、その瞬間、天啓の閃きを得た。

「・・・源嗣」

誰もが万全ではない今、前後を挟まれ逃げ場も無い状況を打破する為、決して安牌ではないもののただひとつ残された道がある。

「私のこと、信じてくれる?」
「無論だ」

抜刀を制した私に、源嗣は即答の応をくれた。



* * *



崖を這い上がり正面から猛突進してくる巨大な竈神に対し、弔兵衛は正しく警戒を示した様ではあったものの、すぐにその目が捕食対象を見据えていないことを見破った。知性は恐らく薄く、そこら一帯を蹂躙するだけの迷惑極まりない異形。進路から逸れさえすれば問題は無い。そうして舌打ちと共に躱したその身は、流石に竈神そのものに私たちが乗り上げ潜んでいるとは考え至らなかった様だった。

「ぬあああ!!」

白い竈神の巨体に張り付いていた源嗣の剛腕が弔兵衛の胸倉を軽々と掴み上げ、襷代わりにしていた鎖で気味の悪い異形の体毛と奴の身体を括り付ける。虚を突かれたのか目を丸くしたのも束の間、当然弔兵衛の反撃が始まった。

「てめぇ!何しやがる・・・!」
「ぐっ・・・!!」

源嗣と鎖の拘束を受け両腕を抑えられながら、器用の域を超えた柔軟さで足を使い兄弟子の太い首を容赦無く締め上げる。驚異的とも呼べる逆襲だった。
そこで同じく竈神の裏側から飛び出した私と弔兵衛の目が瞬間合ったのは、やはりこの男の頭脳が明晰であり、この奇襲中も私の存在を警戒し続けた証だった。でも、流石にこの状況ではもう遅い。
一瞬で良い。頼むから、気絶して。私は鞘に納めたままの太刀で、防御をとれない弔兵衛の頭を力の限り横殴りにした。ぐわんと奴の頭が揺れ、瞳が歪な軌道で回り、そして白目を剥く。機は熟した。私は殆ど気絶しかけている源嗣の身体を支えながら地面へ転がり落ち、打ち付けた背中の痛みも構うことなく、肺の奥底まで全力で息を吸い込んだ。

「っ・・・ざまあみろ!!亜左弔兵衛!!」

渾身の絶叫が、辺り一面に木霊する。さあ、来い。
想定よりも数秒早く木々を揺らし、標的は私たちの前に飛び出してきた。

「兄さん!兄さん兄さん兄さん!!」

黒髪を乱しながら現れた桐馬の装束は土に汚れ、先生との一騎打ちが劣勢であり、それすら放り投げて駆け付けたであろうことを物語る。そしてその見開かれた目が巨大な竈神とそこに磔にされ気を失った兄の姿を捉え、その瞳から光が消え失せる瞬間を、私は身震いと共に受け止めた。

「兄さん・・・!」

一秒にも満たない刹那、桐馬の目がこちらを向く。敬愛する兄の不名誉な姿が、満身創痍で地に転がる私たちの仕業であることは火を見るより明らかなことだ。桐馬も体力を削られているとはいえ、怒りに身を任せて復讐の刃を振り上げられれば成す術は無い。これは本当に命がけの策だった。
でも、私が同じ状況なら、きっと仇討よりも最愛の救出を優先する。桐馬も例には漏れず殺意と憎しみの視線を残しつつも、目を見張る素早さで竈神と兄の姿を追い、あっという間にその姿は見えなくなった。

作戦は、成功だ。私は目が回りそうな脱力感に苛まれながら、隣に横たわる源嗣に飛びついた。

「源嗣・・・!大丈夫・・・?!」
「・・・大事、無い。それより、奴は」
「狙い通り。あの巨体に括られたまま、桐馬も後を追ったから、ひとまず危機は去ったよ。源嗣の頑丈さが無かったら、まず難しい作戦だったけど・・・」

無茶が祟り、源嗣の傷口はまた開いてしまっただろう。でも、誰もが手負いのこの状況で、恐ろしく伸びしろを残す亜左兄弟との消耗戦は決して賢くは無いという確信があった。勝たなくて構わない、ひとまず離脱が叶えばそれで良い。突如現れた異形の竈神は未知数の恐怖ではあったものの、知性の低さは渡りに船の好条件でもあった。亜左兄弟を外周の森へと返す。それが叶えば恐らく、正史通りに菊花・桃花との会敵へ話が進むだろう。

弔兵衛の頭を横殴りにして気絶させる。その際、刃を抜いたならまた違った致命傷を与えられたかもしれない。でも、私はそれをしなかった。この変わり始めた未来において、山田家の生死に関わること以外は正史の出来事を捻じ曲げたくないという悪あがきであり。同時に、ここまで追い詰められて尚、私があのふたりを憎めない思いの表れでもあった。ただの読者だった頃は、いちファンのひとりとして単純に好きですらあった。互いを唯一絶対の存在と定める兄弟を、素敵だとも思っていた。敵対したことにより、特に桐馬からはこの先一生拭い得ぬ恨みを買ってしまったことは間違いないけれど、この際致し方ない。今は私も源嗣も生きており、亜左兄弟とは物理的に距離が離れた。あとは先生の無事を確認出来れば、それで完璧だ。
もう本当に、体力が底をつきそう。私はくたりと横たわりたい衝動をギリギリで堪えながら、兄弟子に笑いかけた。

「無理させてごめんね。信じてくれて、ありがとう」
「かなり無茶ではあったが、大した奇策だ・・・殿には、驚かされてばかりだな」
「へへ・・・私、変わり者だからさぁ。って、この流れは期聖の突っ込みが無いと少し寂しいね」
「・・・違いない」

期聖は、今何をしてるかな。ふとそんなことを考えてしまうような穏やかな懐古に微睡む、その時。

!源嗣!」

遠くから駆けてくる先生の声が、私の意識を引き戻す。ああ、やっぱり先生は大丈夫だった。

「―――逃げろ!」

疑問を感じる暇さえ無かった。私にはもう、背後に迫る脅威をまともに感知する氣すら、残ってはいなかったのだ。

ここは地獄渦巻く神仙郷。地を均す巨大な竈神が一体だけである保証など何処にも無いと、最初から警戒すべきだったのに。先程と同系統の異形が目と鼻の先まで迫っていたことに気付いた時には、全て手遅れだった。
地面が揺れる。視界が歪む。次いで私の身を襲う筈の衝撃は、大きな何かが緩衝材となり私自身に直撃が入らなかった。何が起きたのか理解がまるで追い付かないまま、私は源嗣と共に大きく跳ね飛ばされ宙を舞う。
ここは断崖。落ちれば命は無い。でも、ここではまだ死ねない。死にたくない。

「・・・っ!!!」

私は、奇跡的に九死に一生を得た。今にも崩れそうな脆い地面のふちを、命からがら片手で掴んだのだ。
右手には断崖を。そして左腕には、だらりと力なく吊り下がる巨体の兄弟子を。状況は限りなく悪い。そんなことはよくわかっていた。

「・・・放せ」

それでも私は、掠れた三文字に対して聞こえなかった振りを決め込むしかない。

「大丈夫、源嗣、私、ちゃんと這い上がるから」
「・・・拙者はもう良い。手遅れだ」
「絶対助けるから、変なこと考えないで・・・!!」

私のせいだ。あの質量に跳ね飛ばされて尚私の意識があるのは、間違いなく轢かれた瞬間、源嗣が庇ってくれたからだ。私の計画だけが通るような渡りに船の竈神が、都合よく一体だけ現れる筈が無かったのに。あの場で気を抜くべきじゃなかったのに。ただでさえ手負いの源嗣に、私は何て傷を押し付けてしまったのか。下を見れば取り返しのつかないことになってしまいそうで、私は懸命に上だけを睨み上げながら歯を食いしばった。手遅れという言葉の意味を確かめたくない。私と源嗣の体格差に筋肉と関節が悲鳴を上げているのがわかったけれど、今だけは全てに無視を決め込む。

「衛善さんに、会いに行こうって言ったばっかりじゃんか!源嗣は生きて帰らなきゃいけないんだよ・・・!本土で期聖が待ってる、威鈴を悲しませて良い筈無い・・・!」
「・・・殿は、逞しいな」

協力してくれた期聖に応える為にも、源嗣を道場に返すと誓った。妹思いで優しい源嗣が、遂に男女の違いに囚われない考えを宿してくれた。源嗣の存在は光だ。取り返しのつかない欠損を抱えた衛善さんにとっても、きっとそう。陸郎太の致命傷を逃れて、やっと生きる道筋が整ったのに。ここで死なせちゃいけない。気持ちだけはこんなにも強いのに、私の手は極限を越えて徐々に弱まっていく。

「佐切と殿、この島でふたりの妹弟子と共闘出来たことを誇りに思う」
「・・・やめてよ」
「己の信念のもと剣を振るう道に、男も女も無い。漸く拙者にも理解出来た」
「それ以上余計なこと言ったら、本気でぶん殴ってやるんだから・・・!!」

諦めの色濃い声を、強引な足掻きで遮る。下から聞こえる源嗣の掠れた笑い声は、酷く優しい響きがした。

「はは・・・殿の拳か。懐かしいが、勘弁願いたいな」

ほんの数年前の出来事の筈が、遠い昔の様に思えてしまう。道場の一室で無防備に寝こけた私に、上掛けを差し出してくれた兄弟子の心遣い。あれから何て遠いところまで来てしまったのだろう。思い出が柔らかな色彩であればある程、今私たちを引き裂こうとしているこの状況が憎らしくて、辛くて。何より自分自身が、情けなくて。怒りと哀しみが綯交ぜになった熱さで視界が潤むその時。
崖を掴む私の手は、力強い支えを得た。

「っ!源嗣!」
「先生・・・!」

先生。いつだって私を救ってくれる、すごいひと。私の手を包む温かさが心強くて、頼もしくて。だから私は、度を越した高揚感で全てに目を瞑った。
先生が私を通り越して源嗣を見下ろす表情が、言葉では表現し難い程に辛く苦しい色をしていることも。その手が私の手を繋ぎ留めながら、大きな悲しみに打ち震えていることも。

「ほら、源嗣、先生も来てくれたから!あと少しだから・・・!」

何もかも気が付かないふりをして、源嗣を励まそうと言葉を紡いだ。

「士遠殿」

大丈夫、源嗣の声もしっかりしてる。きっと大丈夫。私は精神が肉体を凌駕するタイプのオタクだから、先生が来てくれれば百人力だ。全部ここから持ち直せる。私はきっと、源嗣を助けられる。

「後のこと、お頼み申し上げる」

私の手は、不意に重さから解き放たれた。真っ白になっていた指先に、どくどくと熱い血のめぐりを感じる。

「・・・え?」

何が起きたのか、理解が追い付かない。目を丸くする私を見下ろす、先生の表情が哀しみに歪んだ。

「・・・

先生、どうして、そんな悲しい顔をしているの。どうして、そんな辛そうな顔をするの。

「・・・源嗣?」

勇気を振り絞り振り返った先には、暗い闇が広がるばかり。兄弟子の姿は何処にも見当たらない。

私の心に、致命的な風穴の開く音がした。